Category: 文章力

しかるべき書き方を見つけるための練習

僕たちは、文章の書き方は知っている。


僕たちは、新しいことを言おうとするとき、それを表現するにふさわしい新しい文章を書こうとする。

僕たちは、文章の書き方は知っているが、そうした新しい文章の書き方は知らない。
なぜなら、その文章は未だかつて誰にも書かれたことがないからだ。

僕たちは自転車に乗る。
でも、すぐに運転できるようにはならない。
ぎくしゃくとハンドルをキープしたり、ときどきひどく転けたりしながら、自転車の扱い方を学んでいく。
運転しながら(運転しようとしながら)、その技術を学んでいく。

文書の書き方も、同じだ。
文章は書きながら、書き方を覚える。

新しい文章の書き方も、同じだ。
新しい文章の書き方は、書きながら覚えていく。
たった一度だけしか使えない、書き方を。


完成に向かって文章を書いているとき、何度も書き直すことがある。
細かい表現だけではなく、大きな構成をいじったりもする。

書き直すことは、何度も何度も発生する。

それは、そう、自転車で転けるようなものなのだ。

その執筆は、実践であり練習でもある。しかるべき書き方を見つけ出すための練習。

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文章の魅力と文章力と、その他の何か

以下の記事を読みました。

雑記ブロガーに対する究極の2択 – 東屋書店

文章の書き方が上達したためだろうか?

それとも、

君の考えがうまく表現できるようになったためだろうか?

著者は、この二つが別の軸にあるのではないかと仮説を立てながら話を進めていきます。面白いですね。

さて、ここでちょいとした遊びをやってみましょう。

「上手な文章の書き方」

これを2パターンに分けてみます。

「上手な、文章の書き方」
「上手な文章、の書き方」

はてさて、これって同じでしょうか。それとも違いがあるでしょうか。

「文章」の魅力を構成するもの

「文章力」を構成するものはいろいろあります。たとえば語彙、たとえば文法、たとえば比喩。あるいは視点の管理や、話題を提示する順番なども文章力に含めてよいでしょう。

では、「文章」の魅力は、文章力によってのみ構成されるでしょうか。もちろん、そんなことはありません。どんなテーマをどのように扱うのか、書き手はそれをどのように捉えているのか。そういったものも「文章」の魅力になります。ありますよね、「へ〜、そんな風に考えてるんだ」と思えるような文章が。

つまり、「文章力」と呼びうるものもいろいろあり、その統合が「文章」の魅力を作るのですが、それは魅力全体の一部でしかない、ということです。

むしろ、人を惹きつける魅力は「文章力」以外の部分が多くを占めるかもしれません。だったら、「文章力」なんて気にしなくていい__と言い切れるでしょうか。

うまい文章

言うまでもなく、「文章のうまさ」は、文法の正しさとは関係ありません。むしろそれは、「どれだけ読ませるのか」に関わっています。「読ませる文章」=「うまい文章」なわけです。文章というのは読んでもらうためのメディアなのだから当然でしょう。

「この文章は漢字密度の具合がちょうど良いですな」

などと眺めて鑑賞されても、メディア機能としてみれば何の役にも立ちません。読んでもらえてはじめてコンテンツを相手に渡すことができます。だから、有無を言わせずぐいぐい読ませてしまう文章がやっぱり「うまい」わけです。

さてこれは、

「上手な、文章の書き方」
「上手な文章、の書き方」

のどちらでしょうか。

下支えとしての文章力

「文章」の魅力が、「文章力」以外に多く存在しているとしても、文章力は軽んじることができません。

最初の二択に戻ります。二つ目の選択肢はこうでした。

「君の考えがうまく表現できるようになったためだろうか?」

この疑問では見過ごされていますが、実は「君の考え」がヴァージョンアップしたという可能性もあります。より人を惹きつける視点を持てるようになった、ということです。もちろん、そういうこともありますよね。

ではその視点が、より繊細で複雑なものであったらどうでしょうか。より細やかな配慮で、機微がとても重要な意味を持つものであったらどうでしょうか。その表現を下支えするための「文章力」は必要ないでしょうか。

私はそうは思いません。小説家が技法を磨くのは、別に技法を競っているわけではなく、自分が表現したいものを精緻に表現するためにそれらが必要だからでしょう。

だから、少なくとも、「自分の気持ちを伝えるのに文章の書き方は関係ないようです」とは言えません。ある時点では言えるかもしれませんが、「自分の気持ち」が複雑になってきたとき(あるいは機微を含むようになってきたとき)、限界がやってきます。

もちろん、「自分の気持ち」を「自分が表現できるだけのレベル」にわざわざ落として表現することもできるでしょう。それをレベルアップと呼べるかどうかは私にはわかりませんが。

さいごに

なんにせよ、漠然と「うまくなろう」と考えるよりは、「うまいというのは、一体どういう状態を指すのだろうか」と考えた方が、適切なアプローチは見つかりやすいでしょう。進むべき方向みたいなものは見えやすくなりそうです。

ちなみに私は常々文章がうまくなりたいと願って(あるいは切望して)いますが、それは「一度読み始めたら止まらず」「読者の心の奥底に届き、それを1mmでも揺さぶるような」文章が書けるようになることです。無謀かもしれませんが、まあ、物書きなんてみんなそんなものかもしれません。

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もしわたしたちがゾウであったら

以下の記事を読みました。

ブロガーズフェスティバルでの紫原(家入)明子さんのことばから文章と音楽について考えてみる | やよこぶろぐ

音楽だというとわかりにくくても、リズムがあるのは理解しやすいと思う。リズムがないなら、「、」も「。」も必要ない。文章には息の吸うところが重要で、そこも音楽と似ている。もし、人間全体の平均的な肺活量が、今の倍あるなら、文章ももっと長くなっていたかもしれない。

面白い視点です。

もしわたしたちがゾウであったら
いったいどんな文章を書いていただろうか。

もしわたちたちがネズミであったら
いったいどんな歌を歌っただろうか。

ブログで長文は読まれないという。あれは嘘だ。

正確には、長文を読ませるためにはそれなりのスキルが必要、というだけである。どれだけ長かろうが、続きが気になる文章はついつい読んでしまう。だから、長い文章だってぜんぜん構わないのだ。

しかしながら、別の意味での長文はちょっとしんどい。こういうやつだ。

ある晴れた日の朝、僕は勢いよくベットから飛び上がり、右手で目覚まし時計を止めながら左手で焼き上がったばかりのトースターを掴みつつ、窓の外を流れるシリカゲルのような雲を親の敵のように、あるいはこれから半年は逢えなくなってしまう長距離恋愛の恋人のように眺めていた記憶を思い出していた。

こういう長文はやめた方がよい。文芸的特殊効果を狙っているのでない限りは避けた方が賢明だ。

人間の脳には認知的な制約がある。そんなにたくさんのことを一度に処理できない。4000字の文章は、たとえば200字ぐらいの塊ごとで、読んでいける。決して4000字すべてを一気に処理するわけではない。同じように、上のような文章も、ある程度は細かく区切って文にした方がよい。

それは人間が持つ平均的な生物学的制約を考慮したもので、かなり一般的なルールと言えるだろう。

文章にはリズムがあります。

ちなみに、この文章は二回ほど転調していますね。たぶんトリッキーな印象を受けられたと思います。そうした印象を受けるということが、私たちが「文」を断片的に処理しているのではなく、全体性で受け取っている証拠です。リズムは断片ではないのです。

ある文が読みやすいのか、読みにくいのか。それは前後の文章によって決まります。あるいは文章が持つ全体性にも影響を受けます。だから、何度も読み返してリズムを整える必要があるわけですが、リズムが良ければそれで良いかというと、たぶんそうではありません。

たとえば、適当にリズムマシンを鳴らせば、ノリの良いビートが刻まれることでしょう。でも、それが心に残ることはありません。リズムが良いのは、前提条件のようなもので、それだけでは何も心に刻まないのです。

そこには何かうねりのようなものが必要です。そして、そのうねりのようなものが読者をぐいぐいと引き込んでいくのです。渦巻きが、近づく人々を飲み込むように。

人間は機械的に文章を処理してはいません。「読んで」いるのです。

でもって、私たちは多様な個性を持つ生命体ですが、それと同時に生物学的制約を共に持つ存在でもあります。そこには、ある種の共通項があるのです。

綺麗なメロディーは心に響きます。でも、心に刻まれるのはもっとドロドロした得体の知れない沼から引っ張り出したものです。その沼は個々人がヒミツの森の奥に隠しているものですが、その沼の底は、いろいろな沼とつながっているのです。だからこそ、誰かの言葉が、別の誰かの心に届くことがありうるのです。

もしわたしたちがゾウであったら
いったいどんな文章を書いていただろうか。

もしわたちたちがネズミであったら
いったいどんな歌を歌っただろうか。

でも、わたしたちは人間なのだ。

さとりからはほど遠く、
制約多き人間なのだ。

▼こんな一冊も:

ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書)
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文章力ワーク ~ Lesson 1 ~

一年前に書いた文章を引っ張り出し、それを書き直してみましょう。

  • 読みにくい部分を書き直してみましょう
  • 長くしてみましょう(短くしてみましょう)
  • 対象読者を変えてみましょう
  • 冒頭の一文を書き換えてみましょう
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WorkFlowyを使った「閃きメモ執筆法」

立花隆さんの『「知」のソフトウェア』に、「閃きメモ」というものが登場します。

「知」のソフトウェア (講談社現代新書)
「知」のソフトウェア (講談社現代新書) 立花 隆

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立花氏は、執筆の前にコンテ(概略、アウトラインのようなもの)は一切作らず、最初に書き出した一行から流れに沿って文章を紡いでいくそうです。その時、執筆の補助になるのが「閃きメモ」です。

さて、とはいうものの、まるで何もなしで書くというのは、私の場合、普通ではない。普通は簡単なメモを事前に作る。メモには二つの目的がある。一つは手持ちの材料の心覚え。もう一つは、閃きの心覚えである。前者は事前に作り、後者は随時書きとめる。

私も、この手法はよく使います。

実際例は、以下の記事でも紹介しました。

アウトライナー嫌いだった僕が、今ではそれを愛用しているワケ(上)(R-style)

この「閃きメモ」を使った執筆法をデジタルで行う場合、WorkFlowyならやりやすいんじゃないか、というのが本稿のテーマです。

閃きメモ執筆法

まず、何かトピックを作り、そこにフォーカスを移動させます。

screenshot

そして、つらつらと「手持ちの材料」を書き込んでいきます。材料一つにつき、一項目です。

screenshot

一通り「手持ちの材料」を書き終えたら、本文の執筆に入ります。トップのノードに移動して、shift + return。つまり、noteに本文を書いていきます。

screenshot

ある程度書いていくと、「あっ、そうだ。あの情報を入れておこう」と閃くことがあります。そうしたときは、本文(つまりnote内)ではなく、アウトラインの項目として追加しておきます。

screenshot

こうして、メモ(アウトラインの項目)を見つつ、本文(note)を書き進めていくのです。

消せるし、残る

一見回りくどいやり方ですが__全部noteに書いていけばいいじゃないか__こうすることのメリットが実はあります。

それは、使い終えた「手持ちの材料」をCompleteすることで、視界から消すことができるのです。

※使用済みのメモを消したところ
screenshot

使用済みの「手持ちの材料」を次々と消していき、無くなったら文章は終了に向かう。わかりやすい構図です。もちろん、CompleteをHiddenではなく、Visibleにすれば、消した材料を拾い出すことも可能です。

通常のテキストエディタだと、この切り替えがなかなかできません。常に表示しておくか、あるいは消去してしまうかの二択なのです。WorkFlowy(を代表とするいくつかのアウトライナー)では、「視界から消すけど、実は残っている」が簡単に実現できるのです。

そして、これが「閃きメモ」の管理方法としては実に最適です。

使い終わった「手持ちの材料」や「閃き」は、それ以降の執筆には必要ありません。だから消しておきたい。しかし、今回は使わないでおこうとジャッジメントした情報は、扱いが難しくなります。見えなくしたいけど完全には消したくない。そういう気持ち__「後になって使うかもしれない」という損失回避の心理__が湧いてくるのです。

また、情報のアーカイブとしてみたとき、「本文」と「閃きメモ」が同一の枠内に保存されている状況の方が自然でしょう。「本文」だけが残り、「閃きメモ」はゴミ箱にある、では情報の関連性は消失してしまいます。しかしながら、「本文」の中に「閃きメモ」が残っているのも不自然なものです。

あるけど、見えない。この状態が良いわけです。

さいごに

この執筆法は__非コンテ派にとっては__なかなか強力なのですが、一つだけ問題があります。それは、マウスのストレートなワンクリックで、項目をCompleteできない点です。

現状は、

カーソルを行頭の●に合わせる→メニューが表示される→Completeを押す

という手順が必要です。タスク管理ソフトのチェックボックスにチェックを入れる感覚よりは、半テンポぐらい遅れてしまうのです。たくさんの「手持ち材料」を消していきたいときには、この操作感は若干引っかかります(もちろん、WorkFlowyに落ち度がないことは言うまでもありません)。

その点にさえ引っかからなければ、なかなか使い勝手のよい手法です。ぜひ__非コンテ派の人は__試してみてください。

個人的には、こうした「閃きメモ」の管理が手軽にできるエディタがあれば、物書きとしてのエディタと言えるんじゃないかな、と思う今日この頃でもあります。

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春樹さんへの質問、文章を書くということ

村上春樹さんが質問サイトをオープンされていると聞いて、小躍りしているところです。

なにせ、これまではそんなコーナーがある知ったときには、すでに閉鎖されてしまっているという「ぐぬぬ」感に苛まれていました。なので、以下の本とか、以下の本とか、以下の本とか、以下の本とかをボロボロになるまで読み返していたものです。

「そうだ、村上さんに聞いてみよう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける282の大疑問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? (Asahi original (66号))
「そうだ、村上さんに聞いてみよう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける282の大疑問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? (Asahi original (66号)) 村上 春樹

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「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?
「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? 村上 春樹 安西 水丸

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「ひとつ、村上さんでやってみるか」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける490の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? (Asahi Original)
「ひとつ、村上さんでやってみるか」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける490の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? (Asahi Original) 村上 春樹 安西 水丸

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少年カフカ
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ようやく今回はリアルタイムで臨めるということで、早速当日に質問のメールを送ってみたのですが、よくよく考えてみるとそれほど質問・相談したいことがありません。なぜかというと、第一に私は基本的に人に質問する性質ではない上に、第二に上記の本を読みすぎていて、すでに知っていることが多すぎるからです。

なので、すごく無難な質問をして、ごく当たり前のように無難にスルーされました。「ぐぬぬ」再来。まあ、特に悔しいという気持ちもありませんが、何かトリッキーな質問を思いついたら再チャレンジしたいと思います。

さて、早速Q&Aが公開されているわけですが、その内に以下のようなものがありました。

文章を書くのが苦手です 村上さんにおりいって質問・相談したいこと(村上さんのところ)

大学院生さんが、春樹さんに「文章読本」的な考えを質問していて、出てきた答えが以下です。

文章を書くというのは、女の人を口説くのと一緒で、ある程度は練習でうまくなりますが、基本的にはもって生まれたもので決まります。まあ、とにかくがんばってください。

まあ、そりゃそうなお話です。たとえば、これを次のように言い換えてみたらどうでしょうか。

文章を書くというのは、短距離走と一緒で、ある程度は練習でうまくなりますが、基本的にはもって生まれたもので決まります。まあ、とにかくがんばってください。

そりゃ、そうですよね。

基礎的な訓練や、具合の悪いフォームの矯正などで、ある程度早く走れるようにはなれるでしょう。でも、だからといって全ての人が短距離走選手になれるわけではありません。同じような訓練を積んでも差というのは、当たり前のように生じてくるものです。人間には個体差があるのですから、不思議な話ではありません。

文章を書くことだって、スキルの一つなんですから同じことでしょう。

もう一つは、「文章を書く」というのがある種の表現であり、ある種の翻訳である、ということです。表現である以上、伝えるべきことが頭の中に無ければ前には進めません。でもって、伝えるべきものを見つける訓練はできますが、何を伝えるべきものだと思うのかは、やっぱり当人依存なわけです。ものすごくよく見える虫眼鏡を持っていても、月の上では四つ葉のクローバーは絶対に見つけられません。こればかりはどうしようもない問題です。
※だからこそ、文章を書く行為にパーソナルな意味があるわけですが。

で、「翻訳」というのは、ようするに思念・思索・イメージ・概念はイコール言葉ではないので、それを言葉に直すときに一種の翻訳的な要素が入り込む、ということです。それは技術で(ある程度)補えるものですが、いわゆる「センス」と呼ばれるものも無視はできません。たとえば、言葉のリズム感だとか。

総じて見ると、やっぱり「もって生まれたもの」的な要素__技術という言葉には含められないもの__はどうしても出てきます。

でもって、別に文章がうまく書けなくてもいいじゃないか、という開き直りも出てきます。ある人は歌い、別の人は踊る。文章を書くのが苦手ならば、なんとかそれを乗り切って、何か得意なことに注力してリカバーする。そういうのも考え方としてありではないでしょうか。

「基本的にはもって生まれたもので決まります」という考え方は、「人は全ての可能性に向けて開かれています」という考え方に比べれば、いささか狭苦しい印象を覚えますが、やはり制約こそが力を発揮する鍵である点は留意したいところです。

▼この記事も:

才能についての雑感

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大きなお城と宮殿 あるいは読書メモの効用

『数学文章作法 推敲篇』にこんな一文がありました。

文章は大きな構造物ですから、通読して文章全体の現状を把握することがとても大切です。

ぱっと連想したのは、「大きなお城」と「記憶の宮殿」の二つ。

私が本を書いているとき、頭の中にお城ができていく感覚があります。できていく、というか作っているのは私なんですが、感覚として大きくて(たぶん)立派なお城が概念のメタファーとして立ち上がっていきます。これについては、あとでもう少し考えましょう。

「記憶の宮殿」については、以下の記事をご覧ください。

記憶力を底上げする「記憶の宮殿」の作り方

文章という大きな構造物、記憶の宮殿、これになにかあと一つ要素を加えたら、おいしいカレーができそうな気がするのですが、今のところノーアイデア。

では、「大きなお城」のお話に戻りましょう。

組み立てる

構造物のたとえとして、建物で考えてみます。

小さな建物を作るのと、大きな建物を作るのは、似ている部分はあるにせよやっぱり違いがあります。最近のコンビニは工場で作った部品を現場で組み立てて、はい完成! みたいな工法もあるようですが、もちろんそれはコンビニが小さな建物だからです。10階以上のビルを同じようには作れないでしょう。

逆に、犬小屋みたいなものは、そのまま買ってくることができます。あるいは切った木材に適当に釘を打っても、(見た目はともかく)機能する犬小屋を作ることは可能でしょう。

140字のツイートを生み出すことと10万字の文章を書き上げること。

含まれている作業に共通点はありますが、140字のツイートを1000回繰り返したからと言って、それが構造物としてしっかりとした文章になるわけではありません。

材料と設計図

さて、建物を建てるためには何が必要でしょうか。

まずは、材料です。

材料は木を切り出して木材に仕上げたり、出来合いの木材を買ってきたりもできます。あるいは、あらかじめ完成したパーツ(机・テーブルなど)をそのまま設置することもできるでしょう。別の家で使っていた柱を切り取って持ってくることすら可能です。

ともかく、材料がなければ始まりません。

では、材料があれば万事OKかというと、微妙なところです。おそらく設計図が必要でしょう。

小さな犬小屋ですら、「おおよそこんな形になるであろう」というイメージがないと組み立てることができません。大きな構造物であれば、耐震を考慮した緻密な設計図が必要でしょう。

では、緻密な設計図があれば万事OKかというと、これまた微妙なところです。

設計図は書いたものの、それに必要な材料が綺麗に揃うとは限りません。ときには、目の前にある材料を制約条件にして設計図をあらためる必要もあるでしょう。どうしても材料が少なければ、10階建てではなく、8階建てに変更する。そういう現実的な対応が必要です。

文章の素材

構造物としての文章に話を戻します。

文章は何からできているかというと、文です。その文は単語と文法からできているわけですが、話を簡略化するために、それについては考えないでおきましょう。

文が組み合わさって文章になる。

では、その文はどこから出てくるのかというと、もちろん私たちの頭の中です。思考の宮殿みたいなところにトコトコ出向いていって、宝物庫から使えそうな木材をゾロゾロと運び出してくるのでしょう。あるいは、他の人の宮殿に行って何かを借り受ける(引用する)こともできそうです。ただ、あんまりその数が多くなると、テセウスの船問題にぶつかるので注意が必要です。

文章をすばやく組み立てていくためには、宝物庫にある木材は、切り出したままの状態であるより、ある程度使える形に整形されていた方が良いことが推測できます。しかし、細かく整形しすぎるのも考えもの。一度割り箸サイズに分割してしまえば、大きな柱としては使えません。扱いやすい適度なサイズというのがあるのでしょう。

これはインプットの話をしています。

何かしら本を読み、感銘を受ける。それはそれで素晴らしいことですし、きっとその後のアウトプットにも何かしら影響を与えます。ただ、構造物を組み立てることを考えると、何かしらの形でその「感銘」を切り出しておいた方が良いのかもしれません。それがつまり、読書メモの効用、ということです。

さいごに

配置についても書こうかと思いましたが、字数のリミットがやってきてしまいました。

たぶん、この話はアウトラインにも関係してくると想像します。

▼こんな一冊も:

数学文章作法 推敲編 (ちくま学芸文庫)
数学文章作法 推敲編 (ちくま学芸文庫) 結城 浩

筑摩書房 2014-12-12
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両方から引っ張る

机の上に乗っている一本の糸を思い描いてください。

その右端をつまんで引っ張ります。もちろん、糸は引っ張られて流れていきます。きっと蛇のような感じになっているでしょう。

もう一度、机の上の糸を思い描いてください。

今度は、その左端を持って引っ張ります。同じように、糸は引っ張られていきます。ダラダラと引っ張られていきます。

では、両端を持って引っ張ればどうなるでしょうか。

糸はその場所で、ピンと張るはずです。

書くこと、読まれること

文章は、誰かに伝えるために書きます。誰かに伝えたいから、文章を書くのです。究極的には、それは業のようなものです。病のようなものです。書かざるを得ないようなものを心に抱え込んでいるから、それを書いてしまうわけです。

でも、だからこそ文章は(あるいは表現は)力を持ちます。

それが欠落した文章は、どうしようもなく空っぽです。

だからといって、書きたいことを書きたいまま書いたところで、読まれません。読まれるために書いているのに読まれないとは皮肉なものです。

読まれるように意識して書かなければなりません。誤字脱字を直すのもその一環です。頭をひねって魅力的なタイトルを考えるのも同様です。冒頭部分に読者を惹き付ける工夫を凝らすのもそのためです。

読者を惹き付けるテクニックは、文章が対外的であればあるほど必要になります。

しかし、読まれるからという理由で書き始めると何かが歪み始めます。特に、書きたいとは思わないものを、書き始めるとその歪みは大きくなります。

書きたいことを、読まれるように書く。

———–両方から引っ張る———–

文章で表すれば、なんとも簡単なことのように思えてきます。

さいごに

もちろん、引っ張りすぎた糸は切れてしまうことを、忘れないでおきましょう。

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つまったら、主語を変えてみる

どうも、「文章は流れで書く」派のRashitaです。こんにちは。

ふだんプロットみたいなものは全然作らないので、下の記事は面白く読めました。

作文の風景、レポートの風景(Word Piece)

内容は今のままでいい。ただ「He said there was a big fire in 1950(彼=おじいちゃんは、1950年に大きな火事があったと言った)」という部分を、「According to grandpa, there was a big fire in 1950(おじいちゃんによると、1950年に大きな火事があった)」に変えなさい。

ちょっと、やってみましょう。

おじいちゃんは、1950年に大きな火事があったと言った。その話をするときのおじいちゃんは、どこか懐かしそうで、それでいて逃げられないような苦しみを抱えているようでもあった。助けられなかった初恋の少女を思い出すみたいに。

おじいちゃんによると、1950年に大きな火事があった。その火事は山を焼き尽くし、村の周辺まで迫ってきたそうだ。村中の男手が駆り出され、老人や子どもたちは隣の町へと避難した。幸い人的被害は一件もなかったが、丸坊主になった山には、たくさんの動物の死体__もちろんウェルダンだ__が転がっていたらしい。

一文から「自然」に導かれるままに、文章をでっちあげました。全然違いますね。一つの文章をわずかに変えただけで、「自然」に続く文章は変わってくるのです。

ようするにこれは、文章の「視点」の問題なんですが、日本語だとそれがわかりにくいかもしれません。英語だと、明確に主語が変わり、それに伴って文章の構造(と見た目)も変わっています。でも、日本語だとわりと同じにみえますね。

ともかく文章を書く上で、「視点」と主語はとても大切です。

立花隆さんも『「知」のソフトウェア』の中でこんなことを書いています。

それでもうまくいかないときは、文章の構造を変えてみる。具体的には、主語を変えてみる。主語を変えれば文章全体が変わらざるをえない。主語を変えたとたん、いままで呻吟していたことがウソのように文章が流れ出すということがよくある。

「文章は流れで書く」派の方は、<うまく文章が流れなくなったら主語を変えてみる作戦>をぜひ覚えておきましょう。きっと役に立ちます。

▼こんな一冊も:

「知」のソフトウェア (講談社現代新書)
「知」のソフトウェア (講談社現代新書) 立花 隆

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パラグラフ、トピック・センテンス、あるいは文というパーツ

『理科系の作文技術』という本がある。わかりやすい文章を書くための技術をまとめた良書だ。その本に「パラグラフ」という章がある。第四章だ。

理科系の作文技術 (中公新書 (624))
理科系の作文技術 (中公新書 (624)) 木下 是雄

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パラグラフとは、日本語で段落のこと。原稿用紙では、一文字分字下げされた冒頭から、次の改行までのひとまとまりが段落である。

Webでも原稿用紙と同じスタイルを用いているページもあるし、改行の代わりに空白行を入れる(その代わりに冒頭の字下げはしない)スタイルを使っているページもある。ちなみに、HTMLでよく使われる<P>タグは、Paragraphの頭文字を取っていて、その前後には強制的に改行が入る。つまり、意識していなくても、ウェブで文章を書いていればパラグラフはよく利用しているのだ。

パラグラフのルール

パラグラフは、ふつう複数の文で構成される。そして、そこには一定のルールがある、と『理科系の作文技術』では述べられている。

  1. パラグラフは、全体としてある一つのトピック(小主題)についてある一つのこと(考え)を言う
  2. パラフラグには、そのトピックを一口で言い表す文(トピック・センテンス)が含まれる
  3. パラグラフに含まれるその他の文は、トピック・センテンスを支援するか
  4. 他のパラグラフとのつながりを示すもののどちらかでなければならない

いささかややこしいだろうか。

ようするに、何か言いたいことがあり、それを表す一文がある。その一文を補強・展開していった文のひとかたまりがパラグラフになる、ということだ。

文がこういう形になっていれば、少なくとも読む方は理解しやすい。逆に言えば、この構造から外れてしまうと、読みにくさが出てきてしまう。

もちろん、これは説明文などの領域における話であり、文芸では通用しないことは注意されたい。

一つの例

パラグラムに含まれるトピック・センテンスとその他の文(展開部と呼ぶ)の関係性がどのようなものであるかを例示した一文を引いてみよう。

水泳は経験を積まないとこわい。私の家の近所には泳ぐのにいい場所がいろいろある。私は泳ぎは大好きだがまだ余りうまくない。私がよく行く池はとても深いので足が底にとどかない。深すぎるので心配になることがある。

どうだろうか。なんだかつかみづらい文章だったのではないだろうか。一つ一つの文の意味は汲み取れる。でも、全体として何が言いたいのかがわからない。たとえるなら、どこにもピントが合っていない写真をみているかのような感じ。

こうした印象は、文と文の接続が悪いせいで起きているわけではない。なるべくスムーズになるように文章を並び替えてみても、きっと印象は変わらないだろう。

水泳は経験を積まないとこわい。私は泳ぎは大好きだがまだ余りうまくない。私の家の近所には泳ぐのにいい場所がいろいろある。私がよく行く池はとても深いので足が底にとどかない。深すぎるので心配になることがある。

なにか言いたいことがあるのはわかるが、それがどれなのかがわからない。

もしかしたら、書き手の中でトピック・センテンスは「水泳は経験を積まないとこわい」なのかもしれない。しかし、その他の文がそれをうまく補強する形に機能していないので、読み手の印象としてはっきりそれが伝わってこないのだ。

上の文章は「水泳は経験を積まないとこわい」をトピック・センテンスとして書き換えることが可能だ。そのリライトの方法が本稿のテーマではないので、ここでは割愛する。興味がある方は文章を自分なりに書き換えて(自由に追記して)それを行ってみるとよいだろう。あるいは、「私がよく行く池が深すぎて心配になる」をトピック・センテンスにすることもできる。そのパターンでやってみてもよい。

その段落のトピックは?

ここからが本題である。

上で示したように、文章の書き換えは技術で対応できる。わかりやすく書くための技術だ。しかし、そのパラグラフで著者が何を言いたいのかは、著者にしかわからない。これは技術以前の話である。トピック・センテンスが何なのかは、書いている本人しかわからないのだ。
※だから、他の人の文章を手直しするのは非常な慎重さを要求される。

パラグラフ、あるいはトピック・センテンスの考え方は、ここが肝である。つまり、パラグラフを意識して文章を書くと、必然的に「ここで私が言いたいことは何なのだろうか」を問うことになる。その問いが文章を研ぐのだ。不要な文章が削られ、事例の強度不足が補われ、つなぎの関節部分が補強される。そうやって、読むに耐えうるパラグラフができあがっていく。

そして、それはフラクタルに拡張していく。

一冊の本は、複数の章から構成される。一つの章は、複数の節から。一つの節は、複数の項から。一つの項は、複数の段落から。一つの段落は、複数の文から。一つの文は、複数の単語から。

本を書くという行為には、再帰的なプロセスが含まれている。そして、それらを貫く一本の軸は「ここで私が言いたいことは何なのだろうか」という問いによって見出される。答えがあらかじめあるわけではない。常に問い続けることによって、見出されるのがその答えなのだ。

脱線的補足

パラグラフの考え方は、文をパラグラフ(が持つメッセージ)に従属させることだ。当然、そのパラグラフは項に従属し、項は節に……と、続いていく。最終的な視点では、本という全体像は、文という小さなパーツで構成されていることになる。だから、パラグラフ主義(とあえて呼ぼう)と、一つの文をパーツとして扱えるアウトライナーとは非常に相性が良い。

ふつうに文章を書いていると、ついつい文を固定化された「流れ」の一部として捉えてしまう。すると、削りにくいし、並び替えの発想も出てこない。アウトライナーでは、はじめからそれが操作可能な対象として扱われる。そのツールが持つアフォーダンス(と呼んでおこう)が持つ意義は大きい。

もし一度もアウトライナーを使ったことがない方は、ためしにそれで文章を書いてみるとよいだろう。一文一項スタイルにして作文すると、あたらしい感覚が得られるかもしれない。

さいごに

残念ながら、当ブログはパラグラフ主義では書かれていない。読みやすさで文を切ることは多々あるし、印象づけるために、一文だけのパラグラフ(本来御法度)もよく使う。

それでも、「ここで私が言いたいことは何なのだろうか」の問いは常に発している。だから、「読みにくくてしかたがない」ということにはなっていないはずだ(希望的観測)。

もちろん、2000字を超える文章なんて読んでられないよ、という方については、こちらからの処方箋はないので別のブログを読んでいただくしかない。

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