Category: エッセイ

腰を据えて本を読むこと

昨日発売された村上春樹さんの新刊を買って読んだ。朝10時から夜の11時までという、言葉通り一日仕事だった。なにせ500ページを超える本を二冊である。これはなかなかタフだ。それでも、一面に豊かに実った稲を収穫し終えたような充実感があった。ああ、俺はきょう本を読んだのだな、という確かな手応えがあった。

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ここまで集中して本を読んだのは久々だった。春樹さんの新作は発売日に買ってすぐに読み始めるが、前作の長編『1Q84』は7年前だという。まるで信じられない。でも、私の実感とはまるで関係なく、時間は前に進んでいるのだ。そして、その7年間で私の生活、特に読書生活は大きく変わってしまったのかもしれない。それも、あまり良くない方向に。

それでも嬉しい発見はあった。

デヴィッド・L・ユーリンの『それでも、読書をやめない理由』に、読書家の悲痛な叫びが次のように綴られている。

それでも、読書をやめない理由
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ところが最近では、パソコンの前で数時間過ごしてからでないと本を手に取らなくなった。一段落ほど読むと、すぐに気がそれて心がさまよい始める。すると、わたしは本を置いてメールをチェックし、ネットサーフィンをし、家の中をうろついてからようやく本にもどるのだ。あるいは、そうしたい気持ちを抑え、無理にじっとして本を読むこともあるが、結局いつものパターンに身をまかせてしまう。

似たような感覚はとてもわかる。落ち着いて本を読んでいられない自分に気がつき、そのことに唖然とするのだ。なぜならその場所は、どう考えても私が辿り着きたい場所ではないからだ。

ネットでは事情通の連中があらゆる情報を提供してくる。このような状況では、知識は幻想に取って替わられる。じつに魅力的な幻想に。ネットの世界はこう断言する。スピードこそがわたしたちを事実の解明へ導き、深く考えることより瞬時に反応することのほうが重要で、わずかな時間も無為に過ごしてはいけない、と。

まさにこれだ。本を読もうとしてどうしても落ち着かないのは、自分が見ていない間に有益な情報が生まれているのではないか、自分は他にもっとやることがあるのではないか、という気持ちが消えないからである。その焦りは、たしかに行動を生むかもしれない。賢明とは言えない行動を。

そのことは、『かーそる 2016年11月号』でHibikiさんが「誠実なステップは利己的なストーリー」として書いていることだ。速度ある反応は、ぜんぜんよくないかもしれない。必要なのは、熟慮なのだ。しかし、ネット的な価値観はそれとはまるで逆の方向に進んでいる。速度が善なのだ。

かーそる 2016年11月号
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ユーリンは、本を読むためには「余裕を持って深くのめりこむ姿勢」が大切だと言う。その通りだ。それらは基本的にゆっくりとした行為であり、無為であり、反応とは呼べない何かを引き出すためのものだ。速度と意味に(そして反応的感情に)溢れた情報交流とは、違った場所に身を置くことだ。

興味深いのは、私がそのように考えていてもなお、つまり熟慮に価値を置いてなお、やっぱり読書するときに落ち着かない感覚を得てしまう、ということだ。価値観と脳の機能がマッチしていない。由々しき事態である。

とは言え、昨日は言葉通りいちにち本を読んだ。散歩もしたし、ご飯も食べたし、少しTwitterを覗いたりもしたが、それでもこれまでの散漫な読書とは違った、どっしり腰の据わった読書体験だった。どうやら、まだ私の脳はその能力を喪失したわけではないようだ。水が流れなくなったことで、少々古びてしまってはいるかもしれないが、まだそこに水路はしっかりと残っている。

そしてその水路は、きっと文章を書く上でも機能してくれるはずだ。書くことは読むことであり、読むことは書くことなのだから。

読書は精神の調律であり、そのために他者の精神に同調する必要がある。私たちは、他者の視点から世界を眺めることによって、自分自身を把握し、それを取り戻すことになる。三角測量。

断片的かつ大量なテレパス__それはもはや洗脳だ__が横行する中で、まるで叛逆のように、あるいは神殿で執り行われる密儀のように、ゆっくりとじっくりと本を読むこと。

非常に残念ながら、それを実行するために私は多くの労力を支払った。一日何もしなくても良いように、一週間の半分ほどを使い、前のめりに作業をこなしたのだ。次の日に送ったタスクもある。そのように準備を万全に整えて、ようやく私は「気を散らす」要素から遠ざかることができた。儀式には生け贄が必要なのだ。昔は必要なかったのかもしれないが、少なくとも今は必要なのだ。

でも、それができるとわかったことで、私は暖かい気持ちを抱くことができた。生き別れた弟に再会したような気分だ。まだ、取り返しはつくかもしれない。

メディアに触れることは、精神をそこにアジャストすることである。生活をそこにフィッティングさせることでもある。少なくとも、今を生きる私たちはまだ、その先を選ぶことができる。20年先ならもう不可能になっているだろう。だからこそ、今は選びたいと思う。選択こそが、我々の自由意志を感じさせる骨幹なのだから。

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一周回って、酸いも甘いも噛み分ける

麻雀の覚えたての頃って、相手の手なんか読めないのでガンガンつっぱねるわけですよね。好きな牌を切る。

で、ちょっくら覚えてくると、抑えるようになる。切らないようになる。防御力は高くなる代わりに、攻撃力は落ちる。トレードオフ。

やがてそこを突き抜けると、あたる確率なんてそんなに高くないし、守ってばかりでは勝てないことに思い至って、結局まっすぐ行くようになる。ただし、要所要所は押さえた上での突っぱね。

こういう巡回というか巡礼がある。

行く→守る→行く

でもって、二回目の「行く」は、単純そうに見えてやっぱり奥深い。機微を含み、ぎりぎりまでリスクを追及した「行く」になっている。巡礼効果。

さて、レビュー(評論・批評)。

最初の頃は、たぶん単純に「面白い」「すごく好き」みたいな感想を抱き、それを発露する。「すごーい!君は面白作品を書けるフレンズなんだね!」

でも、慣れてくると抑えるようになる。いくつか作品を知ることで、比較して評価するようになり、また世間的な評価が低いものを高く評価してしまって、自分にマイナスのフィードバックが返ってこないか心配になってしまう。むしろ、ネガティブな批評をすることで、自分をかっこよくみせたくなる気持ちが湧いてくる。

やがてそこを突き抜けると、そもそも一つの作品を完成させることの苦労を知ったり、単純な比較から抜け出して、自分自身の評価軸においてその作品を位置づけられるようになる。機微のあるほめ方ができるようになる。でもって、全体を活性化していくのは、そうした評価の声であることにも気がつく。人の心にガソリンを注げるようになる。呪いの言葉は、誰も幸せにしない。

褒める→けなす→褒める

こういう巡礼がありそうだ。

でもって、世間を見渡してみると、こういう「一周回って最初の場所に帰ってくるけれども、最初とは違う」というものが結構あるような気がする。これは、初心忘るべからず、ということではない。初心のままであれば、最初の行為と何ら変わらなくなってしまう。そうではなく、ポジティブとネガティブの両方を踏まえた上で、どちらを選択するのか、という意志の問題だ。

当たり前だが、これはネガティブを排除せよ、という原理主義的な話ではない。それは一つ目の「褒める」に留まれ、ということであり、非常につまらない結論だ。ポイントは、一周回ることである。けなすこともできる人が、褒める(=新しい価値を与える)こと。それもまた、一つの創造であることは言うまでもない。

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気づきと発見

「気づき」という言葉がある。「気づく」や「気づかされる」からの名詞で、そうして気づくという行為、あるいはそうした行為で得たものを指すのだろう。

きづき【気付き】の意味 – goo国語辞書

それまで見落としていたことや問題点に気づくこと。「小さな―が大発見につながる」「日々の―が成長をもたらす」「生徒の―を促す」

気づきは、多くの場合「気づきを得られた」という使い方がなされる。もちろん、それ以外の用途もあるだろうが、日常的に(特にビジネス系の分野で)耳にする場合は「気づきを得られた」という表現が大半を占めている。

「○○講師さんのお話で、深い気づきを得られました」

概ねこんな感じだろうか。これが一体どういう意味なのかはわからない。ただ、気づきには浅深があることと、それが「得られる」ものであることはわかる。

不思議と上記の表現は、こんな風には口にされない。

「○○講師さんのお話で、大きな発見をしました」

たぶん、この二つの文は違う意味なのだろう。そして、それが一般的に使われる「発見」と「気づき」の違いにもつながってくるはずである。


まず確認しておくと、「発見」と「気づき」は重なっている。それが指す対象がまったく同じことがある。しかし、重なっていない部分もある。そして、こういう場面では発見と言わず、気づきと言った方がニュアンスがフィットするな、と感じるとき、言い換えれば気づきを発見でパラフレーズできない場合、そこには「気づき」の独自の意味が宿っていると考えてよいだろう。

上に引いた辞書では「それまで見落としていたことや問題点に気づくこと」とある。おそらくここがポイントであろう。

発見も気づきも、「これまで目に入っていなかったことが、目に入るようになる」点では同じだ。ただし、気づきの場合「それまで見落としていたこと」が対象なのだ。これはどういうことだろうか。

「それまで見落としていた」ということは、言い換えれば「そこにあったもの」ということになる。そこにあったのだけれども、自分の目がふさがれていて見えていなかった。その目隠しを取ったとき登場するもの。それが気づきである。

はっきり言えば、それはその人の内側にあったものだ。だから「浅い」と「深い」がある。心の奥底__それがどこなのかは知らないが__にあるものを「再発見」したとき、「深い気づき」が得られたという表現になるのだろう。

だから、気づきは、その気づいた当人の価値観の追認である。基本的には「やっぱりそうなんだ」というものになる。

もし地球が真っ平らで、その他の星々が地球の周りを回っているという世界観で生きている人が、いや地球は球で、しかも回っているのは地球の方だ、なんて事実に思い至ったら、それを「深い気づき」とは呼ばないだろう。大発見である。この対比でも、気づきが内側にベクトルを持っていることがわかる。それは「私」に関する話なのだ。


もう一度書くが、「発見」と「気づき」は重なっている。

気づきと呼んでいるものを発見と言い換えることもできるし、その逆もできる。が、どうしても発見に言い換えられない「気づき」というものもある。それは内側にベクトルを持っているものであり、自分の価値観の追認でもある。

で、それは発見ではない、ということだ。

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ジャックポットのタイムラグ

妻がジャックポットを引き当てた。私はそれをじっと眺めていた。

ゲームセンターによくあるメダル落としだ。プッシャーゲームと呼ぶらしい。前後運動を繰り返す厚めの板があり、そこにめがけてジャンジャンバリバリとメダルを投入していく。

フィールド内に落ちたメダルは、往復する板に押されて、あらかじめ存在していた他のメダルを押すことになる。フィールドはメダルで満ち溢れているので、押されたメダルもまた、別のメダルを押す。それがドミノのように連鎖し、一番端のメダルを、サスペンスドラマの殺人シーンのようにえいっと、フィールドから突き落としてしまう。

投入したメダル1枚につき、一枚のメダルが落ちれば御の字だ。機械割りは100%。いくらでも続けられる。

もちろん、そんなことになってはゲームセンター側は困る。実際はメダルが落ちても、それがそのままリターンになることはない。パチンコで言うところの、アタッカーみたいなところに入らないとメダルが返ってこない。うまくアタッカーに入ることもあれば、入らないこともある。これで、じわじわ客側のコインは減っていく。

もちろん、それだけではゲームがつまらなすぎる。客など寄りつかないだろう。撒き餌が必要だ。

たとえばフィールドにメダルではなくボールが落ちていたりする。あるいは、複数枚のメダルが詰め合わせになっていているものもある。通常よりリターンが大きい獲物があるのだ。それらを狙って落とすことは難しいかもしれないが、そちらに向けてメダルを投入し続ければ、じわじわとフィールドの端まで持っていくことができる。時間の(そして持ちメダル枚数の)問題だ。

不確定と確定の微妙かつ絶妙なバランス。

ボールの方は、さらに不確定性が強い。

たとえば、ボール3つを落としたら、ルーレットが回り、獲得枚数が決まる。50枚というしょっぼい当たりもあれば、ジャックポットといって、千枚以上のメダルが当たることもある。ジャックポットとなれば、メダルラッシュである。ちまちました日頃の投入など笑い飛ばせるだけのメダルが投下される。そこには小さいながらも夢があるのだ。

で、妻はその小さな夢を掴まえたわけだ。私はそれをじっと眺めていた。

それは2000枚近い大当たりだったと思う。妻はメダルゲームオタクなので、ジャックポットなど何度も引き当てているだろうが、それでもニコニコとメダルが落ちてくるのを見つめていた。

2000枚は一気にフィールドに投下されるわけではない。じゃじゃじゃじゃじゃ、という感じで、雨が降るようにコインが降ってくるのだ。もちろん、コインの雨が降り注いでいる間は、妻はメダルの投下を中止している。する意味がない。お店の軒下で夕立の雨宿りをするように、二人してコインの雨を眺めていた。

2000枚のジャックポットは、即座に2000枚のリターンには変換されない。

秒間3枚ぐらいでコインが降ってくるので、一分間で180枚ぐらいがフィールドに投下される。それが前後運動する板によって押され、もともとフィールドに存在していた他のメダルを押す。

ジャックポットに当選してからすぐのリターンは、意外なほど少ないものだった。なにせ、元々のフィールドにはそれほどメダルが存在していないのだ。それが押されたところで、落とされるメダルも少ない。が、じわじわと環境が変わってくる。ジャックポット以前のフィールドが全て端に追いやられ、落とされた後は、メダルの層は厚みを持ち出す。なにせ秒間3枚のメダルの雨が降り注いでいるのだ。

そこからは、先ほどとは比べものにならないリターンが返ってくる。フィールドのメダルは積もっているし、それを押すだけのメダルも降ってくる。ぼーっと眺めていても、次々と払い出し口にメダルが貯まっていく。何もしなくてもいいのだ。

それがしばらく続く。払い出し枚数が2000枚から1500枚になり、1000枚になり、500枚になり、やがて100を切る。そして、0へ。ジャックポット終了。メダルの雨は止んだ。

それでも、まだフィールドのメダルは厚みを持っている。ジャックポットの名残があるのだ。だから、妻が再びメダルの投入を始めると、少し大きめのリターンが返ってくる。食後のお楽しみといったところだろうか。

でも、やがてそれも終わる。厚みのあるフィールドも端に追いやられ、それらが落とされれば通常の、つまり機械割り100を下回る状態に戻る。コツコツメダルを投入する世界へと。

もし、私が限定的な観察者であったら、この状況をどのように認識するだろうか。

つまり、妻が投下したメダルと、払い出し口から出てくるメダルしか見えていなかったとしたら……。

実に不思議な気がするのではないだろうか。人間の努力とその結果を見つめるかのように。

だそく

  • リターンには時差がある
  • ジャックポット中は何もしなくてもリターンが得られる
  • ジャックポットはいつかおわる

二つ目が怖い。フィードバックが機能しなくなるということだから。

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運命があろうと、なかろうと

人生の捉え方として、運命論的な方性と、そうでない方向があります。

この世に起きる出来事はすべて決まっている。私たちが何をしてもそれを変えることはできない__それが運命論(Fatalism)です。対して、何も決まってなどいない、私たちの意図や行動でそれらを変えることができる、という考え方もありえるでしょう。何論と呼ぶのかは知りませんが。

このどちら側で人生を捉えているかによって、生きる態度みたいなものもやっぱり変わってくるでしょう。

で、これってどちらが正しいのでしょうか。

いかなる検証を

ごくシンプルに考えれば、どちらが正しいのかを知るすべはありません。出来事が決まっているかどうかは、少なくとも人生を二度以上繰り返さないと判断できないからです。

それが魔法によるものなのか、科学技術によるものなのかは別にして、ある時点から過去に戻り、行動を変えるなりなんなりしても、やっぱり同じ結末だった、ということがわかってはじめて運命論を「確からしい」と受け入れることができます。

が、現在にはそういう技術は(たぶん)ありません。だから判断しようもありません。

これは「運命なんかない」と主張しているわけではありません。どちらが正しいのか(あるいはどちらも正しくないのか)を決められない、というだけの話です。決定不能なのです。

その決定不能を前提に、話を一歩前に進めましょう。私たちはどう振る舞うのが「合理的」なのでしょうか。

世界の期待値

パスカルの賭け」を拝借します。

まず、「運命はある」(世界A)と「運命はない」(世界B)の二つの可能性に絞ります。前者は何をしても決まっていることは変えられませんが、後者は変えられます。

そして、私たちは生きている間にそのどちらが正しいのかを知るすべはない。だとしたら、期待値的に考えてみるのがよいでしょう。

世界Aは、どのようなことをしても意味がありません。何をしても出力は一定。
世界Bは、行動に応じて世界がその振る舞いを変えます。出力は可変。

そうすると、私たちが取るべき行動は「すこしでも良くなるように動く」ことでしょう。

仮にそのような行動を取っても、世界Aでは何も起こりません。アタリの入っていないクジを引いても、アタリが出てくるはずもありません。でも、悪くもなり得ません。何をしても結果は同じなのです。

もちろん世界Bでは、世界に変化が訪れます。少しだけ良い結果が得られるのです。よかったよかった。

もし、「何をしても変わらないのだから、何もしない」態度であればどうなるでしょうか。

世界Aでは、相変わらず何も変わりません。
世界Bでも、何も変わりません。

さいごに

運命があるのかどうかが非決定的であるならば、私たちの合理的な行動は「結果を変えられるように動く」ことです。自分にできることをすることです。

もちろんそれは「必ず結果を変えられる」ことを保証してはくれません。もしかしたら世界Aなのかもしれませんからね。でも、世界Bだったときに、「しまった。あの時、あぁしておけば……」と思うのは避けたいところです。

もしかしたら、そういう後悔から心を守るために「運命」が見出されたのかもしれないな、なんて今思いました。

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昔はVAIOを愛用していたわけですが

ソニーが「VAIO」PC事業を売却するというニュース(参照)を読んで、自分のパソコン遍歴をなんとなく思い出していた。

ライフログが残っていないので、確定的なことは言えないが、最初に触ったパソコンはPC98シリーズだったように思う。もしかしたら9801じゃなくて、9821だったかもしれない。記憶は泡のように儚くおぼろげだ。

それを買ったのが(もちろん、買ってもらったのだ)何歳だったのかもはっきりしない。中学生のころはワープロを触っていたし、高校生のころはパソコンに慣れていたのでその間だろうと推測はできる。OSはMS-DOSだった。記憶媒体はフローピーディスク(小さい方だ)。

今みたいに頻繁に買い換えられる値段でもなかったので、長らくそのPCを使っていた。OSはWindows 3.1になり、やがてそれが95になった。もちろん、少しずつ無理が出てくる。パソコンのスペックがOSに追いつかないのだ。

結局、ノートパソコンを新しく買うことにした。時代はモバイルだったのだ。機種はVAIOを選択した。理由ははっきりしている。格好良かったのだ。その頃のVIAOは本当にクールなデザインをしていた。

少なくとも、その頃の自分にとっては。

つい先日、そのノート型のVAIOと「再会」して__知り合いに譲渡していたの__、あまりのゴツさに唖然としてしまった。一体、どこにクールさを感じていたのだろうか。それに重い。よくまあ、あんなものを持ち歩いていたなぁと感心する。その頃は若かったのだろう。

ともかくそのVAIOはずいぶん使い込んだ。コンビニで店長をするようになって、仕事でパソコンを使うようになったのも大きい(おぉ、Excelよ!)。最終的にHDDがクラッシュし、先の知り合いに譲渡することになった。自分でHDDを交換して使う、という。新しい人生を歩めるなら、それもまたパソコンにとってはよいのかもしれない。

結局私は、デスクトップのパソコンと、中古のノートパソコンを購入した。なにせノートパソコンがないと仕事にならないのだ。いろいろ考えた上で、前者はVAIOのタワー型、後者はPowerBook G4になった。

その頃、私の中ではVAIOはあこがれの存在だったのだ。パソコン買うならやっぱりVAIOでしょう、と少なからず確信していたような気もする。他のメーカー品に比べると、少々お高く付くとしても、「どうせ長く使うものだから」という天下の切り札が発動する。

ではなぜ、ノートパソコンはMacだったのか。

これもひとえに格好良かったからに尽きる。正確に言うと、格好良さそうだったのだ。iPodを愛用していたことで、気になっていた部分もある。でも、きっと村上春樹さんがMacを使っていたからとか、そういうミーハーな部分が少なからず機能していただろう。多くのきっかけなんて、だいたいそんなものだ。

そこから数年経って、私の部屋からVAIOは姿を消した。もはや一台もない。それに比べて、Macbook Airは2台目。Macのノートシリーズで言えば3台目にあたる。もはや愛用していると言っても差し支えないだろう。

どうしてこうなったのだろうか。

たとえば、今この文章を書いているMacBook Airが不幸な事故でお亡くなりになったら、私は即座にAppleStoreに駆け込み、新しいMacBook Airを物色するだろう。その他のメーカーのノートパソコンは検討にすら上がらない。私が悩むとすれば、11か13という選択だけである。それぐらい、私の中にはこの機種が浸透しているのだ。

あるいは別の方向から、これを説明できるかもしれない。

ようは「パソコンの機種」なんかで悩みたくないのだ。時間はあまりにも限られている。

昔は、電気屋を巡るのが好きだった。ちょっとでも安いパーツを求めて、大阪の日本橋を歩き回っていた。今は、そんな気力はどこを探しても見つからない。何が違うのかよくわからないラインナップの中から、自分に合った一機種を選ぶ?そんな情報収集している暇があれば、作業を前に進めたい。

少なくとも、今のMacBookはそのフレームで悩むようなことはない。私は持ち運び重視なので、ProではなくAir確定だし、11か13かは、わりとその時の気分で決めている。両方使ってみて、両方良さがあることに気がついたのだ。取り回しの良さでは11だが、バッテリーの持ちを考えると13である。どっちもいい。

もしかしたら、真剣に検討すれば、MacBook Airよりも適切な機種があるのかもしれないが、それをわざわざ見つけようとは思わない。それに、あれだ。どうせOSがWindowsなのだ。それが致命的に耐えられない。もはや、それはスペックの問題ですらない。MacOSの文化に慣れすぎて、冗談抜きでWindowsOSの操作がたまに分からないことがあるのだ。

「プレビュー」「クイックルック」「AppleScript」「よくうごくEvernote」……

上記とお別れするのも辛い。もしかしたら、最新のWindowsには似たものが搭載されているのかもしれないが、それを試してみる勇気もない。悪く言えば、惰性で使い続けているといってもいい。ただ、十分に満足していることは確かだ。フォントも綺麗だし。

おそらく、「私がMacBook AIrを愛用している理由」を並べてみたところで、それが完全な説明になっているかというと、いささか怪しいだろう。いろいろな要因が重なっているし、大部分が惰性かもしれないのだ。

が、それはそれとしてハードウェアとソフトウェアの両方において、「良い感じ」を受けていることは確かだ。

もし、VAIOにMacOSがのっていたら……そんな夢想をしないわけではない。

でもきっと、私が初めて出会ったiPodに強い感銘を受けた瞬間に、もう種は蒔かれていたのだろう。iPod以降の私は、ソニーの音楽ガジェットに一切興味が無くなってしまったのだから。

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嬉しい感想のアナロジー 〜たとえばコンビニで〜

本を書いていると、読者さんから感想をいただけることがあります。

「あの本、面白かったです」や「とてもわかりやすかった」などの感想はとてもありがたく、モチベーションも夏の気温ぐらい上昇します。

とりわけ嬉しいのが「倉下さんの本は全部買っています」という感想。

こういう感想は「ヒツゼツニツクシガタイ」わけですが、無理矢理それをやってみましょう。

たとえばコンビニで

たとえば、あなたがコンビニの店長だとしましょう。店舗運営を任されている、小さくても一国一城のあるじです。

立地は、住宅立地とでもしておきましょうか。店長たるあなたは、さまざまな苦労を抱え込みながら、売り上げアップの工夫を日々積み重ねています。

当然のようにそのコンビニは365日24時間営業で、いつでもウェルカムにお客さんを受け入れています。

「倉下さんの本は全部買っています」

という感想は、そのコンビニに365日毎日買い物に来てくれるお客さんがいる、というのと同じぐらい嬉しい、というのではありません。それでは弱すぎます。

住宅に面したそのコンビニよりも、より内側に__つまり、より住宅に近いところにコンビニが新しくできたとしましょう。店舗も広く、当然のように設備は新品です。3日間の開店セールは大好評で、駐車場は四六時中満杯でした。

「これは、うちの店の売り上げは厳しいことになるかな」

なんて考えているときに、365日買い物に来てくれているお客さんが、

「家からはあの店の方が近いけど、やっぱりこの店だわ」

と言って、同じように365日買い物に来てくれる。

そんな状況を想像してみてください。

できましたでしょうか?

これと同じぐらい嬉しいのです。

そこにあるもの

一つには、その他のお店には無い何かの価値を認めてもらっているという感覚があります。その感覚は、アイデンティティにとって肥沃な肥料となり得るでしょう。

それに加えて、「信頼」や「信任」といった言葉も連想されます。

365日そのコンビニに買い物に行って、本当に満足できるのかどうかはわかりません。新人がミスするかもしれませんし、客足の見込み違いで商品が全然ない場合だってありえます。そういうのを差し引いても「平均点」として、この店なら間違いないだろうと思って頂けるのは一種の「信頼」と呼べるかもしれません。

それと同じように、私の書いている本が、ある人にとって「全て役に立つ」「全部面白い」「オール星5つ」なんてことはあり得ないでしょう。それでも、全部買っていただけているのは、ある種の期待値__平均すれば星4つぐらいは付けられるだろう__を持って頂いているのでしょう。ありがたいことです。

私も、「この人の本なら必ず買う」という作家さんがいます。そういう作家さんの新作情報を耳にするとワクワクしてきます。自分でも、そういうワクワク感を提供できていればいいなあ、なんて思う今日この頃です。

本の楽しみ

こうして考えてみると、本の楽しみには3つの段階があることが見えてきます。

  1. 本を買う前の楽しみ
  2. 本を読んでいるときの楽しみ
  3. 本を読み終えた後の楽しみ

1は、先ほども書いたワクワク感。2は、本の本質。3は、読了後の余韻に加えて、他の人の「あの本、面白かったね」と語り合う楽しみです。

「コンテンツ」というと2ばかりを注目しがちですが、その他の「楽しみ」も総合的にデザインしていくことが大切なのかもしれません。

さいごに

と、考え始めてみたら、まったく違う場所に着地してしまいました。

とりあえず、「ありがとうございます。またのご来店をお待ちしております」と言いたかっただけのエントリーでした。

期待値を下げないように、あるいはそれを増加させられるように、本日も原稿書きでございます。

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棚の向こうに、見える人

先日、グランドフロント大阪にある紀伊國屋書店に行ってきました。
2013-0502 紀伊國屋書店 グランフロント大阪店に行ってきました

「新品」の書店に足を運ぶのは、独特の楽しさがあります。

それは、出来たばかりの書店と、初めて訪れた書店の、二粒の楽しさのおかげでしょう。この二つは、微妙に位相が異なっています。

それはさておき。

まずは、何も考えずに店内をぶらっと巡ります。

児童書の充実っぷりに驚かされながら、趣味・実用・教養・科学・ビジネス・小説と棚をチェックして回りました。

棚をチェック?

そう、チェックです。「新品」の書店に足を運ぶとき、「買いたい本」を探す意欲は私の中でそれほど高くはありません。もちろん、面白そうな本を見かけたら、その他の書店と同じようにレジに持って行くわけですが、それは副次的なイベントです。むしろ、どういう棚が作られているのか、に興味の矛先は向いています。

  • 他の書店にないジャンルの棚はあるか
  • どの棚に力を入れ、どの棚がそれなりなのか
  • どんな本が揃えられているのか(あるいは置かれていないのか)
  • どんな風に本が陳列されているのか

といった興味です。

その興味は、お店の「棚作りのレベル」を確認しようという意図につながっています。ようは、「よく行く書店」なのかそうでないのかを見極めたいのです。

やはり、足を運ぶのであれば、良い本との出会いが期待できる書店を選びたいと思うのは自然なことでしょう。読書生活において、優良な書店は大切なパートナーなのです。書店の見極めは、読書生活において重要な要素を占めています。

『ハイブリッド読書術』でも、書店を見分けるポイントをいくつか紹介してありますが、この本は読書初心者向けなので、踏み込んだ要素は割愛しました。たとえば、ある程度本を読んでいないと判断できない棚の良さ、といったものがあります。

「ほう、この本をわざわざ置いてあるのか」「なるほど、あえてあの本は外してあるんだな」といったことです。「へぇ、ここにそれを置きますか」という驚きなどもあるでしょう。

書店はメディアである

という言葉もありますが、ある程度読書量が増えてくると、その棚を作った人のメッセージが見えてくることがあります。

もちろん、そのメッセージはNull、つまり空っぽであることもあります。つまり、単に本を棚に差し込んだだけ、という切ないメッセージです。これはまあ、忙しい書店員さんにしてみれば、致し方ないのかもしれません。しかし、時々ハッとさせられるような棚に遭遇することもあります。

このジャンルに興味がある人に、こんな本を読んで欲しい。

そういう意図が伝わってくる棚です。言い換えれば、その本棚の前に立つ「読者」がきっちりとイメージされている棚です。

一応小売業の経験者として言わせてもらえば、そういう棚を作るのは結構な手間ですし、なんといっても楽しい作業です。本を読むのがあまり好きではない、という人にはそんな棚は作れません。

そんな興味深い棚は、私たち__読書好きの書店員と購入者__に、それぞれ一方通行の相互確認をもたらしてくれるのかもしれません。棚の向こうに、人が見えるのです。

さいごに

『スペンド・シフト』という本では、消費は「企業に対する消費者の投票」として捉えられています。

すると、そういう棚が存続していくように願うのならば、できるだけそうした棚が存在する書店で、一冊でも二冊でも本を買うことが必要なのでしょう。あるいは、そういう消費が増えるように、お店の情報をシェアするのもよいかもしれません。

それは、

「安く売ってやったら、おまえら買うんだろう」

とか

「とりあえず置いておけば、売れるだろう」

という歪んだ思想への静かな反旗、と表現するのは少々大げさですが、評価軸を一つに限定させないようにする上では重要なことかと思います。

▼こんな一冊も:

ソーシャル時代のハイブリッド読書術
ソーシャル時代のハイブリッド読書術 倉下 忠憲

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スペンド・シフト ― <希望>をもたらす消費 ―
スペンド・シフト ― <希望>をもたらす消費 ― ジョン・ガーズマ マイケル・ダントニオ 有賀 裕子(あるが ゆうこ)

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ノーパソコンライフのショートトリップ

先週の週末、愛機MacBookAirが昇天しました。

急に再起動がかかり、その後Appleのロゴマーク以降にまったく進みません。自分ができる範囲の手は尽くしましたが、リカバーはかなわず、結局ジーニアスバーから修理センターへの流れに落ち着きました。

現状、我が家にはパソコンと呼べるものが愛機しかないので、修理から戻ってくるまでの5日間ほどはパソコンなしの生活を送らなければいけません。

ここで、「実は、故障したのウソです〜、エイプリルフールでした!」と書けたらいいんですが、まったくもって真実です。毎年エイプリルフールには他愛ないエントリーをアップしているのですが、今年は気力みたいなものがまったく湧き上がってきません。だいたい画像を加工するのもPhotoshopなりPixcematerなりがないと大変面倒なのです。

一応頭の中では、「R-styleは、今年度からアルティメットR-Styleに名称変更します」とか「RSSの配信をやめます」とか「Evernote知的生産アンバサダーに選ばれました」とか「私の著作が全てKindleで発売されます」とかいろいろ考えていたのですが、どうにも書く気力がありません。

ちなみに、このエントリーの原稿はiPad+Bluetoothキーボードの環境で、標準のメモアプリを使って書いています。さすがにiPhoneでぽちぽちタイプするよりは遥かに高速に打鍵できますが、さりとて「むっちゃ快適やん」とまではいきません。「作業できなくもないかな」ぐらいの状態です。

ブログとメルマガの更新は最低限のレベルで進められるでしょうが、AppleScriptの作成やら、家計簿管理やら、iTunesのプレイリストの作成やら、epubファイルの生成なんかは若干厳しいものがあります。

まあ、せっかくなんでパソコンのない暮らしを旅行気分のように味わってみたいかと思います。

ここ5日間の更新は、全てiPadから行われるでしょうから、入力(原稿データ作成)端末の違いによって、文体なり書くテーマなりがどう変わるのか(あるいは変わらないのか)というのを観察してみるのも面白そうですね。

こうしてブロガーは「転んでもただでは起きない」習慣を身につけていくのでしょう。日常の生活を目を見開いて見渡せば、更新のネタなんて、本当にたくさん見つかる、ということです。それが面白いかどうかは横に置いておくとして。

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書きたいことを探す旅・書くことを選ぶ鍵

ついに明日が新刊の発売日です。

ソーシャル時代のハイブリッド読書術
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もしかしたら早い書店さんでは今日辺りに並んでいるかもしれません。お見かけになった方は@rashita2までお知らせいただけるとありがたいです。

次なる一歩は?

さて、この本でとうとう7冊目。拙著を並べている家の本棚も、少しずつボリューム感が出てきました。これだけ書いてきたんだから達成感みたいなものがあるかというと、むしろまったく逆です。あれも書きたい、これも書きたいという気分が増すばかりです。

しかし、現実にその全てを書くことなどできないでしょう。企画案として出版社に通らないものは、KDPを使えば「書きたいこと」を「本」に変えることはできます。しかし、どう考えたところで時間が足りません。「あれ」や「これ」やと書いているうちに、「それ」や「どれ」やを書く時間が失われてしまうのです。

今まで好き勝手に書き散らかしてきましたが、そろそろ方向性について地盤を固めた方がいいかもしれないな、ということを感じています。それは本だけではなく、メルマガやこのブログに関しても同様です。

セルフマネジメントの延長線上にコンテンツマネジメントというのも位置づけるタイミングがやってきたのかもしれません。あるいは、単にそれは物書きの職務の一つなのかもしれません。

書かないことはすぐにわかる

これまでは、「こういうことは書かない」というタブーめいたものは持っていました。でも、それだけでは足りないのかもしれません。「こういうことを積極的に(あるいは優先的に)書いていこう」という指針がないと、うまく選択できないような気がしています。なにしろ、書きたいことがA4のマインドマップに収まり切らなくなっているのです。

このBlogも基本的にはテーマを持たず、その時の自分の関心事に合わせて記事を書いています。一日一記事という縛りの中で、最近は「何を書こうか」と考えることも増えました。「このテーマはR-style向きだ(あるいは向きではない)」ということは判断できるのですが、R-style向きなテーマの中から何を優先するのかはまた別の問題です。そして、それはなかなか難しい問題なのです。

発想の二段階

発想には、発散過程と収束過程の二段階があります。

マインドマップでこれから書きたいことを広げていくのは発散過程です。そこで出てくる数が少ないうちは、発散だけで済みました。チェックリストのように上から順番に片付けていけば良いだけです。しかし、数が増え、また時間の制約が目に付くようになってくると、選択を加える必要がでてきます。つまり収束過程です。

で、収束過程を進める場合、何かしらの基準が必要になります。

それは、時間なのかもしれませんし、予算なのかもしれませんし、潜在的可能性なのかもしれませんし、失敗率の低さなのかもしれません。どのような基準であれ、その基準が鍵になります。10人の優れた部下、1人の愚かな上司。ボトルネックはどちらでしょうか。

見えない動機

おそらくですが、自分なりの基準を見つけるには「自分が書きたいことは何なのか」という問いに真摯に向き合う必要があるのだと思います。もちろんそれは「物書き」として、ということです。

この問いを少し変形すれば「自分が書くことを通して伝えたいものは何なのか」になるかもしれません。

しかし、この問いに答えるのはなかなか難しいものがあります。一見してすぐ答えられるような気もするのですが、その答えが正確なものなのかは微妙なところです。人間の「心理」なんてものは、内部観察においてすら明確につかみ取れるものではありません。

99人の賛成者に囲まれている時に、自分も「賛成」の札を上げる。自分の心の中では明確な理由があったとしても、その”明確な理由”が本当に自分の行動の動機であったのかは判然としません。99人の賛成者がいなければ、もしかしたら別の行動を取っていたことも考えられます。

通奏テーマの発見

こういう時には、やっぱり記録が役に立ちます。

一日や二日ではなく、数年というタームでの自分の足跡を見返すと、やはり何かしらの傾向があります。時々ぶれているにはせよ、全体としての方向性はどこかの地点を向いているはずです。あるいはぐるぐると同じ所を回っているかもしれません。それだって一つの基準にはなりえます。

片方に自分が書いてきたもの、もう片方に自分が書こうとしているもの。その両者を眺めてみると、なんとなく次の二つの要素が浮かび上がってきました。

一つは、「いかにして”よりよく”生きるのか」ということ。
もう一つは、「個人をエンパワーメントする」ということ。

この二つは関係している部分もありますし、そうでない部分もあります。

”よりよく”の「よく」は、良くであり、好くであり、善くであり、能くであり、克くでもあります。

エンパワーメントは響きが格好いいので使いましたが、つまりは個人が個人として生きていけるようになるということ。現代に視点をおけば、「個人が生き延びられるようにする」と言い換えられるかもしれません。

基本的にこの二つの要素が私の通奏のテーマな気がします。これ以外の要素は、この下位に従属するか、あるいは「その他」のカテゴリーに分類されるものです。

さいごに

なんとなく基準めいたものが見えてきました。これでもまだ漠然としていますが、何も無いよりはマシでしょう。

おそらくこれらを基準にして、書く本とかメルマガのコンテンツとかBlogのエントリーとかを収束させていくことになるかと思います。

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