Category: 新しい時代を生きる力

労力は微分し、成果は積分する

基本的な考え方なのだが、労力は分け、成果は積み重ねた方がいい。

労力

ある本を完成させるのに10万字の原稿が必要だとしよう。

大変だ。

しかし、それを5つの章に分ければどうだろうか。2万字×5となった。少し楽になる。

その章だって、いくつかの節で構成されているだろう。たとえば、2000字×10節、みたいな感じで。もう少し楽になった。

それを突き詰めていくと、エディタに書き込む5文字の単語だって一つの進捗となる。

10万字に対して、5文字なんて誤差みたいなもので、0と変わりない。そんな風に感じられる。しかし、万里の長城だって1つの石を積むことから始まったのだ。原稿だって同じである。

時間

ある本を完成させるのに三ヶ月かかるとしよう。

漠然としている。

それを、最初の一ヶ月で1章まで、続く二ヶ月で3章まで、最後の一ヶ月で5章までと計画したらどうなるだろうか。少し明確になった。

その一ヶ月だって、30日ほどで構成されているのだから、1日あたり何時間と考えられるだろう。よりはっきりしてきた。

それを突き詰めていくと、今この瞬間に何をするのか、という話になる。その時間の使い方が全体に連なるのだ。

三ヶ月という時間からすると、10分原稿を書くなんてあってないようなものである。だから、まあいいかと思う。どうせ三ヶ月あるんだからと、持ち時間を過大評価し、実行時間を過小評価してしまう。しかし、どのような作業でも「今」の時間の積み上げによって生まれている。それは普遍的な事実だ。

成果

以上のような考え方は、成果について考える上では、むしろまったく邪魔である。

たとえば、あなたが階段を100段上ってきたとしよう。素晴らしい成果だ。しかし、それを「今」で捉えると、段を1段上ったに過ぎなくなる。ぜんぜんたいしたことがない。

そんなものは評価しようがないし、むしろ否定的な感情が出てくることもありえる。隣に一段飛ばしで階段を登っているような人間がいたとしたらなおさらだろう。たとえその人間が途中で息を上げ、50段で登るのを止めたとしても、である。

グラフを書き、その線の積分で評価すること。そうすれば傾きが小さくても、長い時間軸を取ればそこそこの面積にはなる。ひとりの不完全な人間としては十分な成果と言えるだろう。

ただし、そのためには線がつながっていないといけない。焼き畑アプローチはここが難しい。だから、承認欲求が不要に募るのかもしれない。

さいごに

最初にも述べたが、これは「考え方」の問題である。捉え方と言ってもいい。

私たちが行動を取れるのは、「今」である。だから、行動について考えるときは、ギリギリまで「今」に近づける。「今」何をするのか。それがベースだ。未来志向の計画も、言ってみれば、逆算することで「今」何をするのか(「今」何ができるのか)を見出すアプローチであって、むしろそうなっていなければただの絵空事で終わる。

また、比較の心理として、対象が大きければ大きいほど、それを過剰評価し、逆に「今」を過小評価してしまう。これは適切な行動にはまったくつながらない。「まあ、いいか」と余裕を持ちすぎる楽観思考に傾くか、「あれもやらなければ、これもやらなければ」と実現性を欠いた悲観思考(あるいは理想思考)に傾くかのどちらかだ。

行動については、面や線ではなく、点で捉えた方が良い。もちろん、途中経過として面や線を辿るのはよいだろうが、そこからさらに点に進むことが寛容である。

が、成果の評価には視点の切り替えが必要だ。そこで齷齪(あくせく)するのはよろしくない。でないと、ノイズに振り回され、フィードバックがうまく機能しなくなる。対象によっては、まったく増えていなくても、ただ現状が維持されているだけで意義あるものだってある。そうしたものは点の評価ではまず見えてこない。

  • 「今」何をするのかを考える。
  • 「期間」で何を為したのかを考える。

重要なのは、二つの視点を切り替える、という点だ。アクセルとブレーキのように、両方あって初めて機能する、という点は留意しておきたい。

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背理の思考が縛るもの

花村太郎さんの『思考のための文章読本』には、10個の「思考の方法」が紹介されていて、そのうちの一つに「特異点の思考」があります。極端な状況を設定し、そこから思考を展開していく思考法です。

思考のための文章読本 (ちくま学芸文庫)

そのような思考法の中には「背理の思考」も含まれていて、ようするにそれは背理法なわけですが、この本はそこで留まらず、「背理の思考」を「命令」と結びつけることで論理的倫理が持つ暴力性を解き明かしています。

まっさきに例としてあげられているのは、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』です。

ホッブズは、人の「自然状態」という特異な状況を想定し、そのような状態では人々は必然的に戦争状態(万人の万人に対する闘争)に突入してしまうから、「平和の協定」というものはどうしても必要になってくる、と論理立てて語ったわけですが、ここに「背理」と「命令」を見て取ることができます。

最初に「自然状態」を仮定し、そのまま進んだら破綻することを示して、その「自然状態」を糾弾し、代わりに社会契約の必要性を説いたわけです。背理法と枠組みは同じですね。そしてここには「〜〜になりたくないのなら、××せよ」という命令が裏側に隠されています。

理性だとか論理だとかいうものはこのように、死にたくなかったら(こうせよ)、自由でいたかったら(こうせよ)というように、かなり脅迫的・暴力的な要素を隠し持っていることに気づけば、この背理の思考の西欧的形態の極限を知ったことになる。

ホッブスが用いたような思考の特徴は、極めて特異的な状況を描写することです。それは論理面においてよりも、レトリックとして私たちの心に深く影を落とします。

「万人の万人に対する闘争! そりゃまずい、ぜひとも避けなければ。社会契約を今すぐ結ぼう! 反対する奴は皆殺しだ!」

もちろん社会契約は必要でしょう。しかし、そのレトリックがあまりにも強烈な勢いを持っているがゆえに、「はて、他に可能性はないのだろうか」という熟考を妨げてしまう可能性はあるかもしれません。もしそうならば、それは暴力的と言っていいでしょう。相手の思考を沈黙させるならば、それがどれだけ紳士的に振る舞っていようとも、その行為は暴力的なのです。

ぼくらの身のまわりにも、未来の幸福(目的)のために、現在の苦痛をしのび努力せよ(手段)、とする命令文は満ちみちている。その背後には、もしそうしなかったらこんなマイナスの結果をもたらすのだという背理法の理論がつねにひかえている。

「未来の幸福のために、○○をせよ」

という言説は、もちろん「○○しなければ、幸福にはなれない」という背理の思考が潜んでいます。そしてこれもまた、暴力的なのです。

問題があるのは、個々の「○○する」という行為ではありません。それぞれの行為はたしかにやった方が何かしらのメリットはあるでしょう。だから、その部分については欺瞞ではないのです。危ういのは、「○○しなければ、幸福にはなれない」という脅迫的な思考の方です。

この思考には、幸福に至るための道が一本しか敷かれていません。本当にそんなことがありうるのでしょうか。少なくとも一度そう問うてみるだけの価値はあるでしょう。


背理の思考は、きっぱりとした拒絶を伴います。「Aに至るには、Bしなければいけない」。このような思考には、中間地点やグラデーションといったものが一切存在しません。モノクロの思考です。

「○○」をすれば、たしかに幸福に近づけるのかもしれません。でも、「○○」以外にも可能性はあるでしょう。しかし、どのように柔らかく表現されていても、「未来の幸福のために、○○をせよ」という言説には、その他の可能性を黙殺する思考が含まれています。それは、極めて暴力的で命令的なものなのです。

そして、非常に残念ながらある種のノウハウ本を売り込むためには、この語法が適しているのです。

別にそれぞれのノウハウが悪い(無用)なわけではありません。それがどれだけ薄っぺらく汎用性に欠け、実用性が皆無であっても、100円で回したガチャガチャぐらいの価値はあるでしょう。しかし、そのノウハウを売り出すために使われた「未来の幸福のために、○○をせよ」という宣伝文句は、はっきりと有害です。人の思考を狭い路地に追いやってしまう可能性が潜んでいます。

というわけで、「未来の幸福のために、○○をせよ」に類する言説を見かけたら、「ああ、背理の思考ね」とワンクッション置いて捉えておくのが良さそうです。少なくともそれで、グラデーションは確保できるでしょう。

もしかしたら、これも背理の思考なのかもしれませんが。

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人生と実用的なノウハウ

以下の記事を読みました。

MemoFlowyへと合流したふたつの流れについて(MemoFlowy開発チーム誕生の経緯)| 単純作業に心を込めて

著者の方がいかにして「MemoFlowy」の開発に関わることになったのか、というお話が語られています。

この記事には、教訓や実用的なノウハウはありません。「こうすればアプリを作ることができますよ」とか「こうすればWorkFlowyの共有トピックでプロジェクトを進められますよ」という話がしたいわけではありません。

よくよく考えてみると、「人生」に実用的なノウハウはありません。「人生」を構成するパーツに対して適用できるノウハウはあるにせよ、「人生を生きる」ことそのものについてはないのです。

だって、「あなたの人生」は一回きりのものであり、あなた以外の誰も生きないのですから。他人が提供する「ノウハウ」などあり得るはずがありません。それっぽく見えるものは、それっぽく見えるように仕立てられているだけです。

予想内の予想外?

人生は何が起こるかわかりません。

R-style » 二種類の「何が起こるかわからない」

著者の方は、「よし、こういうブログを書いていれば、いずれアプリ開発に関われる」と思ってブログを書いていたわけではないでしょう。予想外の展開だったはずです。結果から逆算して行動を計画していたわけではないのです。

でも、Webという場所に自分の「価値」となりうるものを置き続けた。それが、結果として「予想外」の出来事を起こした。

でもって、そういうことは容易に起こりえます。この時代では、予想外の出来事が起こりやすくなっているのです。それは、これまでの社会と違い、多様なクラスタと接続できる環境がある、というようなことがポイントで、それは次の時代の足音なわけですが、それについてはいつか書く『僕らの生存戦略』という本でまとめるとしましょう。

それまでは以下の本でもご覧ください。きっとヒントはたくさんあります。

ブログを10年続けて、僕が考えたこと
倉下忠憲 (2015-05-28)
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さて、ここには伝達におけるジレンマがあります。

話をわかりやすくしようとすると、ねじ曲がる恐れがあるのです。

「これこれこういうことをしました。だからこうなりました。さあ、あなたもこうしましょう」

わかりやすいノウハウです。でも、ここには「予想外のこと」が織り込まれていません。

しかし、はたしてそれを織り込むことはできるのでしょうか。

「予想外のことが起こりますよ」

というのは、予想内ではないでしょうか。予想内で予想外のことが起こる? いささかざらついた感触があります。

与えるために与える

同じようなジレンマは「GIVE戦略」にもあります。

あたえる人があたえられる
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GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代 (単行本)
アダム グラント
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「自分は受け取ることを考えず、与えて与えて与えまくっている人が、最終的には多くを受け取ることになる」

たしかにその通りかもしれません。じゃあ、とばかりに「成功するためには、与えて与えて与えまくるんだ」と行動に移せばどうなるでしょうか。結局それは一周回って「受け取るために、与えている」ことになるでしょう。つまりそれは、純粋な「GIVE戦略」ではなく、それを装った「TAKE戦略」なのです。強奪者の理論です。

こういうジレンマはなかなかやっかいです。それに、人生を鋳型にはめて息苦しくしてしまうような効果もあります。なぜならば「こうすれば、こうなる」型の思考に支配されていますし、それはつまり「人生は何が起こるかわかりません」型の思考を拒絶しているからです。

「人生は何が起こるかわかりません」型の思考を拒否するということは、「人生は何が起こるかわかっている」ということであり、カメラを引いていけば、自分を全知全能の存在に置いていることとイコールです。おうまいごっど。傲慢極まりありません。

さいごに

話はごくシンプルなのです。さまざまに異なる人生において、共通的に言えることがあるとしたら、それはもうごくシンプルで限られたことになるでしょう。

Webにいろいろ出していけば、それに価値を認める人が出てきて、そこからつながりが生まれる。そのつながりは、(それまでの)人生に揺さぶりをかけ、そんなことが起こるとはまったく思っていなかったようなことが起こる場所に自分を接続してくれる__可能性がある。

文章にすると長くなりましたが、言ってることはシンプルですね。

ここでは何も保証できませんし、具体的なノウハウも提供できません。それは、個々の事例で(つまり一人ひとりの人生において)異なっているからです。

もう一度言いますが、人生は何が起こるかわかりません。言い換えれば、人生は後からしか理解できません。まずはそこがスタートラインになるでしょう。

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再読『考える生き方』

発売されてから一年と少し経ったので、あらためて読み返してみた。

考える生き方
考える生き方 finalvent

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なにせ私はfinalventさんを(勝手に)近くに感じすぎている。本が発売された当時は、テンションが上がりすぎていて、近視眼的になっていたかもしれない。その懸念もあって、一回目に読み終えたときの書評(※)は客観的な視点を諦めていた。無理なものは、無理である。
【書評】考える生き方(finalvent)

ある程度時間が経ったことで、もう少し落ち着いて本書を読めるかもしれない。そう考えて再び手にとったわけだ。じゃあ、今回はちゃんと読めたのかというと、やっぱり怪しい。自分は読み切れていないのではないか、という懸念は消えない。

でもまあ、改めて思ったこともあるので一度書いておきたい。

商業出版で発売される「本」というのは、(一応)マスに向けてのメディアである。多くの人に読まれるコンテンツ、ということだ。それを考慮すると、「本」には多くの人が望むであろう情報が載せられる。

さて、ビジネス書・自己啓発書で紹介される「人生論」は、基本的に「成功者」のお話である。何かしらの意味で「成し遂げた」人の考え方や過去のお話が開示されていく。一体誰が、成功しなかった人の話など聞きたいだろうか。しかし、本書の著者は「立派な履歴がない」「社会的には失敗者になってしまった」と自ら書いている。

ここで、もちろん否定の声はあがるだろう。finalventさんはアルファブロガーだし、こうやって本だって出版しているじゃないですか、と。私自身も『極東ブログ』は立派な履歴に数えて良い気がする。でも、ふと考えてみる。これって履歴書に書けるのか、と。たぶんダメだろう。仮に書いても痛いやつ扱いされるに違いない。きっと、経営コンサルタントの依頼だって来ない。朝生に呼ばれたりもしない。

その視点からみれば、たしかに「社会的には失敗者」と言えるのかもしれない。おそらく1万人の日本人を集めて__中にはネットなどほとんど使わない人も多いだろう__、finalventさんの話をしても「ふ〜ん」みたいなリアクションが大半だろう。それでも、私のようにfinalventさんの新刊が出たらダッシュで買いに行く読者がいることもたしかなのだ。ここに奇妙なねじれがある。

話を戻そう。

私も「成功者」の話をさんざん読んできた。特にビジネスで業績を上げられた人の話が多い。そういう人は、昔から光り輝く「希望」を持ってことにあたり、さまざまな困難を乗り越え、今に至っている。初志貫徹。実にすばらしい__ように思える。たぶん、脳のアイデンティティ機能のせいだろう。何かが続いている方が、好ましく感じるのだ。

でも、ほんとうにそれでよいのだろうか。それって単なる生存者バイアスじゃないのだろうか。

人間が生きていると、ときどきとんでもないことが起きる。自分の手ではほとんど何もできないような事態だ。それに巻き込まれれば、嵐が過ぎ去るのを待つしかないような事態。そこでは「希望」などあまり役には立たない。というか、嵐が過ぎ去った後の足かせになることすらある。

まったく同じスペックの人でも、嵐に出会うか出会わないかで結果は大きく違ってくるだろう。そのことに、私たちはどのような教訓を見出せばよいのだろうか。

「成功者」のお話は面白いし、役にも立つ。でも、「成功者」はその言葉がもつニュアンスからいって、なれる人は限られている。おそらくこれからの日本では、どんどんその数は減っていくのだろう。そういう社会においては、「社会的には失敗者」としての生き方が、受け身を練習するかのように大切なことになっていくのかもしれない。

自分の人生を見つめてみても、「社会的には失敗者」だなと思う。冗談でも謙遜でもない。同い年で会社員をやっておられる人の方が、はるかに年収は上だろう。いろいろなところに通用する肩書きも持っていない。たまにそのことに虚しさを感じないわけではないが、ごくごく微量である。

私は、20代の前半に形而上学的に一度死んでいるようなものなので、社会的な野心はまったく持ち合わせていない。たまに「仙人みたいですね」と言われるが、むしろゾンビの方が近いだろう。ゾンビは出世など望まない。でも、本当に言葉通りゾンビなのかというと、それも違う。

私は、私なりに自分がやっている活動に意味を見出していて(ゾンビは意味を見いだせない)、それが社会的な成功と無縁でもぜんぜん構わない、というだけである。こう書くといかにも強がりな感じがするが、ほんとうにぜんぜん構わないのだ。あえて拒否はしなけれども、自分から求めるようなこともしない。

ときどき、私は他の人とまったく別のゲームをプレイしているような気すらする。たぶん、それは本当のことなのだろう。そして、その方がうまくいくことも多い。カタンで道伸ばしプレイと、カードゲットプレイでは集める資源が異なる。両者がうまく協力できることも多い。

さいごに

結局、書評みたいな記事にはならなかった。仕方がない。無理なものは、無理である。

それでも20代半ばぐらいの人に、一度は読んでもらいたい本だな〜と改めて確認した。人生というのは、失敗もあるんだよ、と。むしろ、失敗の後からが、人生の始まりなのかもしれないよ、と。

人生は自分自身でしか理解できない部分がある。一生懸命その場その場で考えて生きていくしかないこともある。

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Win-Winについての雑記(2)

Win-Winについての雑記(1)の続き

Win-Winについて考える場合、自分にとって何がWinなのかは、決して無視できません。それについて書きます。

それについて書きましょう。

企業の場合でも

この話は簡単ではありません。

たとえば企業活動で考える場合、一見Winは明確に思えます。

「利益を(1円でも多く)上げること」

同意してくださるでしょうか。

ドラッカーは、きっと鼻で笑うでしょう。

利益は企業活動を続けるために必要なものであり、また自身の活動が適切なのかどうかを測るものだ、とドラッカーは説いています。企業にとって、利益は目的ではないのです。いうなれば、それは手段なのです。

とすれば、一気に話はややこしくなります。

その企業にとってのWinとは何か。

その答えは、その企業自身で見出さなければいけません。それを明確にしていくことが、いわゆる「ビジョン」策定と呼ばれる行為です。

ちなみに、多くの場合(詐欺を生業とするような企業を除けば、ということです)その答えは企業の外側に位置します。他の存在に貢献できてこそ、はじめて社会の意義が認められる、ということです。

個人のWinでは?

さて、あなたにとってのWinとは何でしょうか。

「収入を(1円でも多く)上げること」

同意してくださるでしょうか。

大丈夫です。誰も鼻で笑いません。そういうWinがあっても別によいでしょう。法人と個人には似た部分がたくさんありますが、必ずしも同一の存在ではありません。誰かの役に立たなくても、収入が増えればよい、という考え方は必ずしも否定・拒否・否認されるものではありません。

ただし、他のWinもあってしかるべきです。

もしそのWinが、ゼロサムゲームに属さないものであるならば、Win-Winを考えるのはずっと容易くなります。

メディアがもたらすWin

人の価値観は、摂取した情報や体験から育まれます。

そして、メディアは情報を提供します。その情報の中には、「これがWinですよ」という価値観を促すものも含まれているでしょう。

画一的なメディアのもとでは、皆が同じものをWinだと考えてしまう状況が想定できます。さらに、性質のわるいことにそのWinがゼロサムゲームに属している可能性が高いのです。そうなると、発生するのは奪い合いです。

なぜ、そのようなことになるのか。おそらく、そういう環境のほうが、Winに拘る人が増えるからでしょう。Winでなければ、Loseなのですから、必死にWinを求めるしかありません。だから、いろいろなものを買うわけです。まあ、この辺に立ち入るはやめておきましょう。

ともかく、「これが自分の人生にとってWinだ」と思っているものは、よくよく検分してみればそれほど大事なものではない可能性があります。そういうのは、わりとツラいです。特に、あとあとツラくなってきます。

さいごに

自分にとってのWinがはっきりしていれば、おどろくほど他のことがどうでもよくなります。人生がシンプルになるのです。そうなると、WIn-Winは考えやすくなります。

しかし、自分にとってのWInがはっきりせず、メディアによって埋め込まれたゼロサムゲームのWinに固執してしまうと、WIn-WInを考えるのは非常に難しくなります。

最悪の場合、相手のLoseしか考えないような状況に陥ることもあるでしょう。人間が社会的動物でなければ、そういう立ち回りでも、まあよいのかもしれませんが。

あまり具体的に書くと角が立ちそうなんで、今回はかなり抽象的に書きました。続くかどうかは不明です。

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ギャップ

たとえばの話です。

あなたが何か新しいこと__有料メルマガとでもしておきましょう__を始めたとします。

意気揚々と開始したものの、当初想定していた読者数には届きませんでした。仮に500人をイメージしていたとしたら、実際は50人だった。そんな残念な状況を思い浮かべてください。

そういうときにですね、「今のところ50人しかいないから、10分の1ぐらいの力で運営しておこう」、って考えたらゲームオーバーですよね。少しずつ増えていくどころか、最初の50人すら維持できなくなっていくのではないでしょうか。

50人に向けてでも、全力で向かう。たぶん、それは感覚として「赤字」なんだと思います。でも、それを支払っておかないと、先行きはきっと暗いでしょう。

小売業でも、仕入れと売り上げには「時差」があります。この時差の間をうまくコントロールできないと、売り上げがあっても倒産、なんてことも起こりえます。出費の覚悟と、しっかりとした回収。バランスが大切です。

前に進もうとするとき、そこにはギャップが付きまといます。避けることはできません。

たぶん「強さ」のある種の側面とは、そのギャップに耐えられる力なのでしょう。

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コードアカデミー高等学校の話を聞いて、ぼんやりと

昨日、出演させていただいた『ライフハックLiveshow #80 「2013」』。

そこで、松村太郎さんがお話しされていた「コードアカデミー高等学校」にたいへん興味を覚えました。

現在は設置認可申請中ということですが、この高校は「デジタルで学ぶ」「デジタルを学ぶ」という特徴があるようです。

以下は、「カリキュラム」のページより。

「デジタルで学ぶ」は、皆さんが普段触れているインターネットとパソコン、スマートフォン、タブレットを最大限に活用した学び方を提供します。また「デジタルを学ぶ」は、普通科の通信制高校として「コード教科」(プログラミング学習)を必修とし、ただ使うだけでなく、仕組みを理解し、自由に発想してつくることができるようにします。

この話を聞いて、ぱっと連想したのは村上龍さんの長編小説『希望の国のエグソダス』に出てくる横浜技術訓練センターでした。中学生のグループASUNAROによって作られたこの職業訓練施設は、

コンピュータプログラマー、ウェブデザイナー、CGアーティスト、ノンリニアビデオエディターなどの技術実習の他に、英語などの外国語、コンピュータ言語学、基礎有機化学、数学、基礎生物学、哲学などの講義科目

がある、と書かれています。

もちろん、横浜技術訓練センターは職業訓練施設(中学生向け)であり、コードアカデミー高等学校は高校なので、同じレイヤーにおけるものではありません。

しかし、「既存の学校が提供できていない何かを提供する場所」という点に、共通項のようなものを感じました。

情報化社会で必要なもの

前々から思っているのですが、もし現代というものが情報化社会だとするならば、あるいは工業的産業から情報的産業へと移り変わっているのならば、そこで生活したり働いたりする人には情報に関する知識や技術が必要になってくるでしょう。

で、それって提供されているのかな、という疑問があるわけです。

それがどの時期に、どのような形で提供されるべき、という考えは今のところありません。中学生かもしれませんし、高校生かもしれません。しかし、どこかの時点で、何からの形で提供されていた方が、今の社会では生きやすくなるだろう、という気がします。

私はいまこうして文章を書くことで生活費を稼いでいるわけですが、よくよく思い出してみると、「文章の書き方」を学校で教わった記憶がありません。もしかしたら体験はしているけども、私の稚拙な脳が忘却している可能性もゼロではありませんが、おそらくそういうことではないでしょう。

最初に文章の書き方らしきものに触れたのは、『理科系の作文技術』や『「超」文章法』といった、知的生産系の書物です。そういう本を読むまで、「文章の書き方」という概念が存在していることすら知りませんでした。いわゆる「小説の書き方」みたいなものは知っていたのですが、それは特殊な職業の特殊なスキルというか技術です。

ナレッジワーカー寄りの仕事をしている人なら、何からの文章作成を行うことは多いでしょう。それは体裁を整えるためだけの文章かもしれませんが、誰かに何かを伝えたり、時には説得したりする文章の場合もあるはずです。さらに引いてみれば、現代はソーシャルメディアな社会です。日常的に何かしらの言葉を紡ぐ機会が満ち溢れています。

しかし、「文章の書き方」ってあんまり教わってこないわけです。それって、なんだか変だよね、と思います。

教わってこなかったもの

情報化社会という点で言えば、「本をどう読むのか」も教わりませんし、「ニュースソースとの接し方」も教わりませんでした。メディアが提供するすべての情報が客観的かつ正しく、すべてをフォローしてくれているのならば、そういう技術は必要ありませんが、さすがにそれはパラダイスを夢見すぎでしょう。

社会という点にしぼっても、「年金」「労働基準法」「確定申告」についても実際にその知識が必要になるまでまったくスルーでした。まあ、担当している行政に赴けば、親切に教えてもらえるのですが、それはそれで手間がかかっているだけな気もします。

確定申告って一応国民の義務的なものだと思うのですが、多くの人が会社員だから必要ない知識という風に認定されているのかもしれません。これも何だか不思議な風景です。

パソコンについても、複雑なプログラムを苦もなく組み上げるようなスキルまでは必要なくとも、パソコンって何なのか、コードって何なのか、アルゴリズムって何なのか、あたりぐらいの知識を持っていると、必要以上にそれらを避けるようなことは無くなるような気がします。

どんな形であれ、パソコンやらそれに近い端末を使わないで生活し続けることは、現代では難しいのですから、決して無駄になる知識ではないでしょう。

さいごに

もちろん限られた時間で何でもかんでも教えることはできないわけで、取捨選択は必要でしょうが、「これから生きていく上で、どんなものが必要だろうか」というのを、まるっと考え直してみることも必要かもしれません。

学校にそれを求めるのは筋違い、なのかもしれませんが。

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情報の授業と、知的生産の技術

おぼろげに振り返ってみると、たしか高校時代に「情報」の授業があったような気がする。

科目名として「情報」だったのか、それとも何かしらの授業の一環だったのかは思い出せない。ともかく、生徒ひとりひとりがパソコンの前に座り、先生の指示に従って、ピコピコと操作していた記憶はある。

その授業では、亀に命令して図形を描いていた。ようは簡易版のプログラミングだ。ほかの内容はまったく思い出せないが、亀が歩きながら線を引き、角度を変えてまた線を引いていくシーンだけはよく覚えている。特に自慢というわけではないが、その頃から独学でBASICを触っていたので、パソコン上に図形が描けること自体には驚きはなかった。ただ、日本語の命令でそれができることには、ちょっぴり驚いた。

Googleで「亀 プログラミング 日本語」と検索してみると、どうやらドリトルという教育用に開発されたプログラミング言語のようだ。アルゴリズムに親しむという点では、一定の効果があるのだろう。つい最近見つけた、「アルゴロジック」というWebゲームもなかなか面白い。わりとムキになって考えてしまうし、それを考えること自体がアルゴリズムに親しむことにつながる。

さて、こうした授業の内容は、はたして「情報の授業」と言えるのだろうか。

社会の変化と必要な力の変化

文部科学省の高等学校学習指導要領解説から、「情報」科目についてのPDFがダウンロードできる。


http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2012/01/26/1282000_11.pdf

平成22年1月に作成されたものだ。

ここでは大きく、<各学科に共通する教科「情報」>と<主として専門学科において開設される教科「情報」>の二つに分けられている。後者はイメージしやすい。ようはコンピュータを扱うことがメインの仕事に向けた教育だ。プログラマへの準備、というのがわかりやすい理解だろう。現代では、そういった職種はもっと広がっている。

では、前者は何を指すのか。

第一部・第一章・第一節にある「改訂の経緯」の書き出しを引用してみよう。

21世紀は,新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増す,いわゆる「知識基盤社会」の時代であると言われている。このような知識基盤社会化やグローバル化は,アイディアなど知識そのものや人材をめぐる国際競争を加速させる一方で,異なる文化や文明との共存や国際協力の必要性を増大させている。このような状況において,確かな学力,豊かな心,健やかな体の調和を重視する「生きる力」を育成することがますます重要になっている。

産業の構造が移り変わっていることは確かだ。ものづくりが廃れきってしまうことはないだろうが、ものづくりだけで踏ん張りきれるものでもない。知識基盤社会、知価社会など、呼び方はいくつもあるが、価値を生み出せる情報の重みが増している社会であることは疑いないだろう。

そういう社会では、ドラッカーがいう「知識労働者」の数が増えてくる。あるいは、多くの職業人が知識労働者的側面を持ちうる、と言ってもよい。

もし、今の社会あるいはこれからの社会が、ポスト工業化社会__つまり情報化社会であるならば、そして、その社会で生きていくための力を育成するのが教育の役割だとするならば、「情報を扱う技術」は必須のもの、に限りなく近くなるだろう。

仕事だけではなく

それは「仕事」に限った話ではない。

現代ではスマートフォンの普及に伴って、ソーシャルメディアも広がりを見せている。決定的なツールがどれになるのかは未だに見えないが、生活の中にソーシャルメディアが入り込んでいる人は数多くいるだろう。そのソーシャルメディアでは、「情報」がやりとりされているのだ。

情報を受信するだけでなく、自ら情報を発信することもできる。何かをリツイートするのだって、広い意味では情報発信だし、プロフィールを埋めるのも情報生成だ。

「情報を扱う技術」は、社会的にその必要性を浸透し始めている。日常的に必要なもの(あるいはあったらいいなと思えるもの)になりつつあるのだ

二つの科目

上の指導要綱では、各学科に共通する教科の「情報」を二つの科目に分けている。一つが「社会と情報」、もう一つが「情報の科学」だ。

「社会と情報」については,情報が現代社会に及ぼす影響を理解させるとともに,情報機器等を効果的に活用したコミュニケーション能力や情報の創造力・発信力等を養うなど,情報化の進む社会に積極的に参画することができる能力・態度を育てることに重点を置く。

こちらは、インフォメーション・リテラシーとでも呼ぶべき内容だろう。

言うまでもなく、情報機器に精通している=情報の扱い方に精通している、にはならない。Twitterやらブログやらを眺めていると、コミュニケーション能力にやや難がありそうな人を見かける。そういう人たちの態度は、私の知らないメリットがあるのかもしれないが、だいたいは何かしら損しているような気しかしない。

「情報の科学」については,現代社会の基盤を構成している情報にかかわる知識や技術を科学的な見方・考え方で理解し,習得させるとともに,情報機器等を活用して情報に関する科学的思考力・判断力等を養うなど,社会の情報化の進展に主体的に寄与することができる能力・態度を育てることに重点を置く。

こちらは、どう呼べばいいだろうか。

それを考えるために、「情報の科学的な理解」についての定義を引いてみよう。

情報活用の基礎となる情報手段の特性の理解と,情報を適切に扱ったり,自らの情報活用を評価・改善するための基礎的な理論や方法の理解

ここで、「情報活用」という言葉が出てくる。「情報活用の実践力」の定義はこうだ。

課題や目的に応じて情報手段を適切に活用することを含めて,必要な情報を主体的に収集・判断・表現・処理・創造し,受け手の状況などを踏まえて発信・伝達できる能力

これは何か。

むろん、「知的生産の技術」だ。

おそろしく長い年月を経て、知的生産の技術が高校の授業で取り入れられるようになった、ということだろう。

さいごに

もちろん、これが「現場」でどのような形になっているのかわからない。効果があるのかどうかも分からない。

しかし、「知的生産の技術」が、現代社会で有用な技術であることは確かだ。

アルゴリズムを学ぶのも「情報の授業」であることは間違いない。しかし、それは若干<専門学科>向けの内容である。
※ただしパソコンを使う人はアルゴリズムを理解していると簡易のプログラミングができるので便利ではある。

広く必要なのは、

課題や目的に応じて情報手段を適切に活用することを含めて,必要な情報を主体的に収集・判断・表現・処理・創造し,受け手の状況などを踏まえて発信・伝達できる能力

の方だ。高校生たちは、これを学んで社会に出てくる。では、すでに社会にいる人はこの力をどれぐらい持っているだろうか。

つまり、『今こそ読みたい梅棹忠夫』なのだ。

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じぶんがたり

好きなブログについて(Word Piece)

たいへん嬉しい記事です。

コメント返し的に、ちょこっと書いてみます。

ホームグラウンドについて

もちろん倉下さんはプロの物書きだけど、ホームグラウンドはやっぱりブログR-styleなんじゃないかと思う。

ご指摘の通りです。

「R-styleはプロの物書きがやっているブログ」ではなく、「R-styleというブログをやっているブロガーが物書きになった」、というのが私の中でしっくりくる状況記述です。

つながる場であったり、探求する場であったり、研究する場であったりと、いくつもの役割を持ってはいますが、ホームグラウンドであることは間違いありません。

だからこそ、(他のブログではやっていても)R-styleではやりたくないことっていろいろあります。

視線について

なんといっても、その内容の広さと深さに脱帽します。豊富な読書量と、仕事を通じて若いうちから様々な経験をしてきたであろうことが感じられます。

 (・ω<) てへぺろ

にもかかわらず、文章にそういう人にありがちなクセがぜんぜんない。メジャーなブロガーさんの中には、そのクセ(もっと悪い言い方をすると傲慢さ)がつらくて正直読めないものもあるんだけど、そういうところがみじんも感じられない。

自分の心を透かしてみると、やっぱり傲慢な部分はあると思うのですが、少なくともその自覚がある分、フィルターをかけられる余地があるのかもしれません。

あと、威張れるようなものを持っていないというのが一つのポイントです。威張りようがありませんからね。

スタイルについて

それはプロの物書きにとっては、決して簡単なことじゃないと思うんですよね。だって時間とエネルギーがあるなら、ページビューや売り上げに直結する内容に使った方が収入につながるわけだから。

そりゃそうですよね。そういう文脈において「馬鹿なこと」をやっているな、と自分でも思います。

でも、__若干恥ずかしいですが__そういうやり方を押し通そうとしていることに、矜持みたいなものも感じています。

私たちは、「伝」の流れの中に生きています。遺伝、伝承、伝達、伝染・・・、

AからBへのパス。

私たちひとりひとりは、独立した生命体ではありますが、別の側面からみれば仲介者や中継者でしかないとも言えます。

ある瞬間までは、私たちは受け取ることしかできません。いってしまえばガキです。そして、大人になるにつれ、少しずつ誰かに渡せるようになってきます。

そのとき大切なのは、自分が受けとった「良いもの」を、できるだけ次にパスしていくことではないでしょうか。そして、自分が受けとってしまった「悪いもの」を、できるだけフィルターしていくことではないでしょうか。

そんな風に考えています。

さいごに

自分が影響を受けてきた本やブログを思い返してみると、「こういう風にしたい」「これはやっちゃいけない」という価値観がほんのりと浮かび上がってきます。

たとえ。

たとえその道が、茨の道であっても、バカでグズで愚かと罵られようとも、その道を外れてしまうことは、何か__たぶん、それはなくすと取り返しがつかなくなるもの__を、欠損してしまうような気がします。

ほんの少し昔ならば、それは孤独な旅路だったのでしょう。でも、現代では違います。

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斬新なアイデアと投石器

「せんぱーい」
「ん?」
「ちょっと聞いてくださいよ」
「なんだ、今日は質問じゃないのか」
「ある意味では質問ですし、別の意味では愚痴です!」
「ややこしいな。まあいい、言ってみろ」
「実はですね。この前、とある企業のインターンに行ってきたんですよ。結構有名な大企業だったので、ちょっとテンションあがり気味に」
「よくそんなところのインターン権ゲットできたな。貴様なんぞにコネなどなかろう」
「直接的にはなくても、コネを持っている人を探すことはできます!幸い同じゼミのオタクっぽい男子がその企業の部長さんの息子という噂を聞きつけて、ちょちょいとアプローチしたらばっちりでした!コネにコネをつなぐ、延長コード戦略です」
「……まあ、それも立ち回りの一つか。しかし、よくそんな噂話を手に入れられたな」
「先輩はなんにも知らないんですね。SNSですよ、SNS。シューカツSNSでは、そういう情報が3日間煮込みまくったカレーのように濃厚に飛び交ってますよ」
「あまり関わり合いたくない世界である、ということはよくわかった。それで?」
「えっと、それでですね、その企業のインターンの3日目のカリキュラムに企画会議があったんですよ。しかも、見学ではなく参加させてもらえるというビッグなチャンス。人数が限られているということで、真っ先に挙手したんですよ。やっぱりアピールって大切ですから」
「まあ、それはそうだな。その企画会議で何かあったのか」
「そうなんですよ。企画会議といえば、円卓で繰り広げられる超絶ブレストバトルじゃないですか」
「まず、貴様のその認識を改めるのが先だと思うが、まあいい」
「それで、私はばんばんアイデアを出しちゃったわけですよ。もう、業界を背骨から変えてしまうような斬新なアイデアさんたちを」
「きっと、参加していた社員らは目を見開いて、凍り付いていたんじゃないのか」
「よくわかりましたね。もしかして、監視カメラをハッキング?えっ、それともストーカー?……」
「正常な想像力が働いていれば、シャーロックホームズ検定一級でもわかる。それで、どうなったんだ?」
「結局、私の出した斬新なアイデアさんたちは、ことごとく否定、却下されました」
「罵倒されなかっただけでもありがたいと思うべきだな」
「しかも、その理由がひどいんですよ。前例がないだとか、リスクが計り知れないとか、そんなことばっかり。でも、おかしいですよね。新しいアイデアなんだから、前例がなかったりリスクが計れないのは当たり前じゃないですか。そんなこと言いながら、新しいアイデアを求めて会議するなんて矛盾してます。私、不愉快でした」
「そのセリフは赤いメガネをかけて言わないと魅力値に加算ボーナスが発生しないぞ」
「なんのことですか?」
「純然たる私の趣味の話だ」
「あぁ、アニメ嗜好に彩られたフェティズムをお持ちの先輩の趣味の話ですか」
「貴様!誰が、妄想の暴走者:ファナティック・デイドリーマーだ」
「誰もそんな二つ名付けてませんよ」
「ともかく、貴様は良い体験をしたのだよ。業界が健全に動いている証拠だ」
「健全?あれがですか。ちょっと納得できません」
「大企業には大企業のルールがあり、力があり、制約があるということだ」
「制約?」
「そうだ。もし貴様が提案したアイデアをその企業が採用して、大失敗に終わったとしよう。投資は全てゴミとなり、莫大な借金だけが残る。被害を被るのは誰だ?アイデアを発言した奴か、それとも承認印を押した役員か。もちろんそれで済むはずがない。そこで働く社員すべてに悪影響が出てしまう。最悪リストラもありうるだろう。そんなことにGoサインが出せるのか」
「それは……」
「もし、同じアイデアにチャレンジするのが少人数の、そして生まれたての企業ならばGoサインはずっと出しやすくなる。もちろん失敗はするだろうが、影響は限定的だ」
「でも、それだと大企業は新しいことにチャレンジできず、新興企業だけがイノベーションに取り組むことになりませんか」
「それでいいのさ。大企業は大企業であり続けるために、リスクの小さい施策を打ち出す。リスクを気にしなくていい新興企業がそのニッチに飛び込む。そこでチャンスを掴んだ一握りの経営者が、やがて会社を大きくしていく。古き大企業は没し、新しい大企業が生まれる。そして、同じサイクルが巡る」
「つまり、新陳代謝のような?」
「そうだ。それが機能している限り、その業界の水は濁らない。これは重要なことだ。業界というレイヤーで、大きいのが偉い、小さいのが偉くないと考えるのは愚かなこと極まりない。ヒエラルキーではなく、ポジショニングで捉えるんだ。そこではそれぞれの役割が違う。ダビデが大剣や大槍を振り回しても意味がないし、ゴリアテが投石器を装備したって扱えない」
「じゃあ、あの会議では、私は無難なアイデアを言っておけばよかったということですか?」
「貴様が、その企業にどうしても勤めたいというのならば、そうだろうな。わずかにだけ新しいアイデアをポンポン出せれば、<使える奴>と認知されただろう。ただし……」
「ただし?」
「自分の想像力を押さえ続けて仕事をするというのは、かなりハードだろうがな」
「……たしかに、それはちょっとしんどいかもしれません」
「人は、想像力の翼で空を飛ぶんだ」
「先輩は、妄想力に振り回されちゃってる感ありますけどね」

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Category Allegory 倉下忠憲

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