Category: 僕らの、生存戦略

二つ+αの贈言

「いいか、若造。うまく立ち回りたいなら、この二つだけ覚えていればいい。〈先行者利益〉と〈レッドオーシャン〉だ。あと、〈賭場は胴元が勝つようにできている〉と〈ゴールドラッシュで儲けたければジーンズを売れ〉も大切だな。そういえば、これは知ってるか。〈人の行く裏に道あり花の山〉と〈損をして得を取れ〉だ。
 難しいことはどこにもねえよ。偉い学者さんの証明なんて必要ねえ。市場原理ってやつは学者の頭の中じゃなく、現実の俺たちの行動に存在しているからな。日常をよ〜く観察して、じっくり考えればそれで十分だ。なぜ、そんな風になっているのか、ってな。〈ただより高いものはない〉とも言うな。幸いおれらの思考ってやつはただなのさ。その価値プライスレス、なんてな。
 どうだ。やるべきことははっきりしているだろう。いや、やってはいけないことは、と言うべきか。何にせよ、頑張れよ。頭と体の使いどころだぜ。
 最後に一つ忠告を送っといてやろう。〈一寸先は闇〉だ。鬼が出てくるか、絶世の美女が出てくるか。そんなことはお天道様だって知らねーんだぜ」

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アリとキリギリス

大きなものごを一瞬で成し遂げることはできない。
小さな行為をコツコツと積み重ねていくしかない。

積小為大。万里の道も一歩から。

それはまあ、その通りでしょう。この文章ですら、言葉を一つひとつ重ねることで、キーボードのボタンを一つひとつ叩くことで生まれています。「一気にすべて」なんて、基本的には絵空事に過ぎません。

でもじゃあ、コツコツやっていればそれで万事が為せるのか、というとやはりそれは難しいでしょう。特に、コツコツ、真面目にやっている場合はそうです。

コツコツとは、大局の夢想に溺れず、目の前の道を一歩一歩進んでいこう、という一つの指針です。現実的で、実際的な指針ではあります。ただしその指針は、道が接続する場所については何も触れていません。想定と違う場所につながる道もあるでしょうし、あるいは、途中で分岐点が発生することだってありそうです。これが問題なのです。

コツコツ進むことばかりに心注してしまい、道の選択ができなければ、辿り着きたくなかった場所に辿り着いてしまうかもしれません。あるいは、「かつて、違う選択をしていれば、こんな場所ではなかったはずなのに」という後悔を抱え込むこともありそうです。

「真面目に」という言葉には、「すでに存在している基準に沿う」という含みがあります。誰かのルールに準拠するのです。そしてそれは過去に生まれたルールでもあります。今の私の状況にはそぐわない可能性があるのです。しかし、「真面目に」のスタンスでは、そのことについて疑義を挟むことができません。ただ一つの道を、ただ目の前にある道を、黙々と進んでいくだけなのです。

もちろんそれで成し遂げられることもあるでしょう。丁寧に整えられた環境で、再現性・効率性が重視されるような舞台(たとえば資格試験)であれば、真面目にやることは圧倒的な力を持ちます。そこにコツコツやる指針が合わされば強力無比です。しかし、それが通じる舞台は限られています。「丁寧に整えられた環境」で戦えるのは子ども時代までで、一部の人はそれすらも叶わない状況に身を置かされます。基本的に人生はその状態がデフォルトなのです。

だからこそ、道を疑い、道を選ぶことが必要です。ほんとうにどうしようもなければ、道を作ることすら視野に入れなければいけません。そのために、遊び心は欠かせないのです。真面目にやることでは、それは為せません。創造性は常に(一番広い意味での)「遊び」にかかっているのです。

コツコツ、真面目に、ではなく、コツコツ、遊びで。

ときに笑い、ときにズルをし、ときにちゃぶ台をひっくりかえして、ときにソウゾウする。競争し、偶然に身を投じ、模倣し、逸脱する。

ということを、コツコツとやっていく。そういうことだって、可能なはずです。

アリかキリギリスではなく、
アリとキリギリス。

そういう指針と姿勢を持ちたいものです。

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のろいビジネス

特異なスキル、あるいは限定的な境遇に恵まれた人だけが成し遂げられることを、「誰でもできる」成功法として騒ぎ立てること。それは人の心に影を落とす。「誰でもできる」はずのことができない自分に、自尊心を持つ人などいるだろうか。そうして傷ついた自尊心は、さらなる出費を許容する。呪いビジネスだ。

呪いビジネスの収益源は、希望と絶望の相転移から生じるエネルギーだ。彼らはそのためにかりそめの力を与える。代償に口をつぐんで、限定的にしか機能しない力を与える。それだけで、人の心は希望に膨らむ。夢を見る。そして、現実を直視し、絶望へと堕ちる。

堕ちた人間は発言力を無くし、認識から疎外されるのだから、そこにできあがるのは成功者バイアスで溢れかえる世界だ。非常にビジネスしやすいだろう。そのようにして、呪いは循環していく。やがて、致命的なまでに誰かを蝕むまでは。

救いがあるようにみえるとき、希望がそこに灯るように思えるとき、それらが巨大であり、かつ簡単に手にできそうなものであればあるほど、そこに潜むのは欺瞞でしかない。そのような条理を覆すものをなんと呼ぶか。魔法である。そして、魔法には代償が必要なのだ。

銀の弾丸を求める気持ちは、経済的損失を呼び込むだけではない。この世界に銀の弾丸があり、しかも自分はそれを持っていないと感じる認識は、心に歪みを生じさせてしまう。ほんとうは、そんなものは存在していないのだ。誰も持っていない。ただ、たまたま突き刺さった銀の槍の破片を、誰かが「銀の弾丸だ」と騒ぎ立てているに過ぎない。それが呪いを呼ぶとも知らずに。

あるいは、知っていてやっているのかもしれない。

誰であっても、自分なりの努力を積み重ねることはできる。その範囲で手にできる成果もまたあるだろう。それは一つの真実と言える。

一方、人生に起こる出来事は、影響を与える変数が多すぎる。一ヶ月後の天気でさえ正確な予測は難しい。地震ならなおさらそうだ。だったら、地殻変動と人間の感情と、思惑と、経済と、その他あらゆることが関係する人生を予測し、なおかつ制御することは可能だろうか。魔法ならば、可能だろう。つまりは、そういうことである。

一方では、自分ができることがあり、それをやっていくしかない人生というものがある。もう一方では、どうしてもままならない人生というものがある。その両方は、もしかしたら難しいかもしれないが、なんとか折り合いがつけられるものである。あるいは、ままならないからこそ、自分ができることを自分なりに精一杯やるしかない、と前向きに止揚することもできる。

たぶんこれも、真ん中の歩き方ではあるのだろう。

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バッターボックスのたとえ

バッターボックスに立つことの重要性がよく説かれます。もちろん比喩としてのバッターボックスです。

単に空想しているだけだったり、「明日から俺、本気だしちゃうもんね〜」と飲み会で盛り上がっているだけでは変化など訪れようもありません。実際に行動してみることが大切です。

その通りでしょう。

では、バッターバックスに立ちさえすれば良いのでしょうか。それで場数を踏んだことになるのでしょうか。

思考実験をしてみましょう。

まず、バッターボックスに立つ。ピッチャーが球を投げる。あなたは上の空でそれを見ていない。パターン1です。

パターン2は、バットは振らないもののピッチャーの球はじっくり見ています。

パターン3は、バットは振りますが、ただ振っているだけでピッチャーの球は気にしていません。

パターン4は、ピッチャーの球を見ながら、それに当てようとしてバットを振り続けます。

この4つ、全部同じと言えるでしょうか。仮に違うなら、バッターとして成長するのはどのパターンでしょうか。

1は論外でしょう。空想しているのと変わりありません。

2は、おそらく目は良くなります。評論家には向いているかもしれません。

3は、筋力はつきそうです。でも、ヒットが生まれる可能性は小さいでしょう。

4こそが、いわゆる「バッターボックスに立つこと」で含意される行為です。しかるべき場所に立ち、しかるべき挑戦を受け、たとえうまくいかなくても、うまくいくように注意を傾け、実践する。そこまでやって人ははじめて総合的な上達を得ます。

バットを振ることと、当てようとしてバットを振ることには違いがあります。時間が経てば経つほど大きくなる違いです。

だからそう、ブログを500記事書けば文章がうまくなる、なんてことは荒っぽすぎる意見なのです。

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自分のペースで進む

「自分のペースで進もう」というかけ声がある。よく考えると不思議な言葉だ。

だって、人は自分のペースでしか進めないはずではないか。いや、自分が進むそのペースを「自分のペース」と呼ぶのだ。

自分が5のペースで進んでいたとする。
そのとき、隣の人が6のペースで進んでいたとしよう。
それを見て、ちょっと試しに6のペースに変えた。
そうしたら、問題なく6のペースで進めることがわかった。

さて、「自分のペース」は、5なのか、それとも6なのか。あるいはそれ以上? それ以下?

継続的

たいてい上記の言葉は、「焦らないで、自分のペースで進みましょう」という具合に使われる。焦ったペース≠自分のペース、というわけだ。

それが否定ぎみに扱われるのは、継続性・持続性がないからだろう。そもそも「ペース」という概念自体、平均的なものを含んでる。要素が一つしかないものの平均は、平均なのかもしれないが、そのもののデータと変わりがない。ある程度数が揃って、意味が出てくるのだ。ペースという考え方も、一回きりの現象についてではなく、もう少し長いスパンを見据えたものだと言えるだろう。

だから、「自分のペース」は、継続可能なペースということになる。あるいは、自分が継続可能だと思うペース。ここにやっかいなトリックがある。

思っていること

自分が継続可能だと思うペースは、本当に継続可能なペースとイコールであるかの保証はどこにもない。自分がそう勘違いしているだけの可能性がある。

もっと早く進めるのかもしれないし、もっと遅く進まないといけないのかもしれない。6のペースでずっと進んでいたら、3年後ぐらいに急に無理がやってくる、ということもありうるのだ。そのときはじめて、6は自分のペースではなかったことが明らかとなる。つまり、帰納的にしかわからないのだ。

ここは結構大切なところである。

帰納的な推論なので、データが多ければ多いほど、その精度は上がっていく。5年のスパンで捉えれば、3年目で無理がやってくるペースは無理だとわかる。それが1年ではわからない。10年も蓄積すれば、そうとうな精度になっているだろう。が、しかし、それは推論でしかない。主人に肥え太らされたニワトリが、今日もご飯をたっぷりもらえると勘違いしているところに、バッサリ首を落とされる日がやってくる。

つまりは、こうだ。

人生を重ねていくうちに、自分のペースについてのデータはいろいろ集まってくる。そしてそれは蓄積すれば、本当の(これが何を意味するかはさておき)ペースに近似していくだろう。でも、それは近似でしかない。

人は年を重ねて変わっていく。バイオリズムにも波がある。どれだけ自分についてわかったつもりになっても、それは帰納的推論の域を出ない。何かまだぜんぜんわかっていないことがあるかもしれないのだ。

その点についての警戒だけは、ゆめゆめ忘れないようにしたい。

さいごに

以上のような話を一周ぐるっと回った上で、やっぱり結論は、

「自分のペースで進もう」

ということになる。いや、そもそも人は自分のペースでしか進めないのだ。つまり、こう言い換えよう。

「自分のペースがどのくらいなのか把握するようにつとめよう」

大切なことだ。思い込みはたくさんあるし、入ってくる情報はそれをさらに惑わせる。案外、見失いやすいものなのかもしれない。

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棒を買う

15歳だかの誕生日の朝に起こされて、王様に挨拶に行ったら、魔王を倒せと命じられて雀の涙ほどの軍資金を渡される。なぜ自分が?という疑問も、「そなたは勇者なんだから」という無茶苦茶な理由で押し切られる。でも、不思議と「そうか、自分は勇者なんだから、仕方がない」という気もしてくる。人生なんて基本的に受動的なものでしかない。そこから何を選び取るのかが人の意志なのだ。

最終的に成し遂げなければならないのは魔王の討伐である。実際は世界に平和をもたらすことが最終的な目的であり、魔王の討伐はそのための目標でしかないのだが、どう考えても「すいません立ち退き料払うんで、帰ってもらっていいですか」という説得に応じてくれそうもないので、選択肢としては魔王をやっつけるしかないだろう。

だとすれば、魔王を打倒するだけの力と装備が必要だ。キラキラと輝き、全力の一撃を受け止めてくれる伝説の剣。おそらくその剣を持ってしか、魔王の討伐は達成できない。

勇者(と呼ばれた青年)は、「最終的な理想」をありありとイメージする。そんなことが本に書いてあったからだ。すべての物事は二度作られる。そこに向かって進んでいこうと、強く決意する。モチベーションは重要だ。

しかし、しかしである。

旅立ちの街にいる勇者が、まっさきにとるべき行動は、「棒を買うこと」なのだ。伝説の剣とは比べようもない≪ひのきの棒≫を5G支払って買うことなのだ。唖然とする格差ではないか。みっともなく、かっこ悪いではないか。でも、どうしようもない。それしか選択肢がないのだ。

もちろん、少し違った選択もあるかもしれない。素手で倒せるだけの敵と戦い続け、必死にお金を貯めてもいい。なんなら街の中で商売の真似事をすることだってできる。それで、高価な剣が買えるだけの貯金をしてもいいだろう。すごく時間がかかるだろうけれども。

しかし、仮に剣を手にしたところで、ろくな敵と戦っていない勇者(と呼ばれた青年)にはそれが扱えないだろう。筋力もおぼつかないはずだ。

そうした問題も、サプリメントとジムでの筋トレで補ったとする。気の長い話だし、たぶんその間に世界は滅びてしまっているだろうが、なぜだか魔王が酔狂な性格をしていて、勇者が来るまで暢気に待ってくれていたとしよう。どうせ彼らは長い寿命を持っているので、そうして待つのも遊びの一種みたいなものだ。

だとしても、だ。

そこまで勇者(と呼ばれた青年)に有利な環境が整っていたとしても、彼が伝説の剣を手にすることはない。その剣は、強敵がうろうろと徘徊するダンジョンの奥深くに眠っているからだ。その剣は、自ら冒険したものしか手にすることができない。街の中には売っていないし、ヤフオクで入手することもできない。

そして、その剣こそが魔王を打倒する剣なのだ。

雀の涙の軍資金でひのきの棒を買い、それで倒せるだけの敵を倒してレベルアップと軍資金集めを進める。そうして徐々に高価な武器を手にしながら、戦闘経験を積んでいく。もしかしたら仲間も集まるかもしれない。そうやって世界を旅し、見たこともない風景を転々としながら、どこか誰も知らないダンジョンの奥底で、宝箱と遭遇する。その宝箱にはもしかしたら≪ギフト≫と銘打たれているかもしれない。でも、それは関係ないのだ。その人が求め、歩き続けてきたからこそ手にできたものなのだ。

伝説の剣を求めているのにも関わらず、棒を買う。
伝説の剣を求めているがゆえに、棒を買う。

たぶん、一番難しいのはその選択なのだろう。ゲームだと簡単なのだが。

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共通する因子

ふむ。何か、何か共通する因子があるずだぞ(ぶつぶつ)。

あそこまで似たような失敗が起きているのを偶然と片付けるわけにはいかない。何かしら体系だった説明ができるはずだ(ぶつぶつ)。

となれば、発言をすべてデータベースに入れて、構造解析だな(ぶつぶつ)

4時間後、

ディスプレイに二つのメッセージが表示された。

他人のことなんて気にするな。自分のやりたいことをやればいい

顧客のことなんて気にするな。企業の稼ぎたいことをやればいい

あっ、

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「特別な宝くじ売り場」の変転

宝くじ売り場があるとしますよね。全国各地に。

でもって、宝くじの当たりが十分にランダムだったとします。

とすると、当選くじが出る売り場は、均一にはなりません。すべての売り場で1回ずつ当たりが出る、ということはなく当たるところがあり、当たらないところがありと、偏りが生まれます。

このことはサイコロを6回振ってみればわかるでしょう。1〜6までの目が一つずつ出ましたか? もちろん出るときもありますね。組み合わせを計算すれば___え〜〜と、誰か計算してください__、たま〜〜〜〜にあることはありますが、大半は出ない目があり、重複する目があるパターンでしょう。もちろん、サイコロを振る回数をどんどん増やしていけば、やがては「平均してどこの目も同じくらいは出ている」状況にはなるでしょうが、6回の試行ではバラついて当然なのです。

さてさて、宝くじ売り場の話に戻りましょう。

当選くじが均一に出ないということは、まったく当たりが出ない売り場があり、複数回出る売り場がある、ということです。それが自然なこと(よくあること)なのは先ほどサイコロで確認しました。

ここで、キラりと目の光る人間が出てきます。

「ほら! この売り場! 他よりも非常に当たりが出やすいですよ。データとしてもはっきり出ています!」

なるほど。ウソはついていません。たしかに事実として当たりの回数は他の売り場よりも多いのです。でも、それは自然なことなのでした。この目を光らせた人の賢いところ(あるいはずるいところ)は、あたかもそれが特別なことのように騒ぎ立てたことです。

で、その騒ぎ立てが功を奏したとしましょう。となると、その売り場で買う人が増えます。殺到します。

さて、ややこしいことになりました。その売り場の確率を計算する上での母数が圧倒的に増えたのです。当然、それは当たりが出る回数を増やすことも意味します。「ほんとうだ。あの人の言うとおりだった」。かくして予言は成就します。

言うまでもありませんが、ここに至るまで、どの売り場でも当選くじが出る確率は動いていません。動いているのは確率以外の要素だけです。

ここで、その特別な売り場に注目してみましょう。

ランダムなばらつきによって、その売り場だけに注目すれば、当選確率は非常に高いものでした。モデル化して言えば、他の売り場がほとんどゼロ、あっても100人中3人ぐらいだったものが、その売り場では100人中7人くらいになっているのです。かなり特別な存在のように思えます。

そして、その売り場に怒濤に人が集まるのでした。結果的に、当選者の数は7人から14人、14人から21人と増えていくでしょう。が、それは当選した人の数だけを見ています。そうなっていない人、つまりハズれてしまった人はどうでしょうか。もちろん、それもたくさん増えています。すると、どうなるか。最終的には確率通りに落ち着くのです。

おわかりでしょうか。

ランダムな偏りのせいで、最初は「特別な売り場」だったものが、そこに人が殺到することによって「ごく普通の売り場」へと変わってしまうのです。まあ、変わってしまうというか、最初の「特別な売り場」扱いがそもそも虚構というか幻想だったわけですが。

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不都合な話についての断章

たとえば、たとえばですよ。

あなたを騙そうとしている人がいるとします。

ええ、単なる想像というか思考実験なので、「私みたいな善良な市民を騙そうとする人なんていない」と思っておられても、ここは我慢して仮説にお付き合いください。とりあえず、そういう人がいたとします。

ではですね、何かのきっかけで、あなたがその人になったと想像してください。ええ、騙す方の人になっちゃったわけです。不快かもしれませんので、そういうシミュレーションだと思って頂ければよいでしょう。思考実験の中にあるシミュレーション。一種のゲームみたいなものです。

で、仮にそのような状況になったとして、あなたは騙そうとしている人にどのような態度を取りますか。つっけんどん? 攻撃的? それとも優しい?

必要なのはなんでしょうか。長期的な信頼? それとも短期間でもいいから鵜呑みにさせる情報?

もっとも効率的にやり遂げるには、どのようなスタンスで臨みますか。


「ほら、このノウハウはたしかに再現性があります。こうして成功している人がいるんですから。それにものすごく人気なんです。もうこの業界にいる人ならみんな知ってますよ」


ちゃんとした薬と、まがいものの薬があったとしましょう。

片方は成果を確認するために数々の実験を行い、きちんと認可も下りている薬です。その分コストもかかっているのですが、なるべく多くの人の手に渡るように価格を目一杯上げることはできません。当然、粗利みたいなものは小さくなります。

一方まがいももの薬は、成分も適当で、当然試験なんかもせず、どうなろうとしったこっちゃないので高い値段をふっかけられます。それはもう目一杯の粗利が稼げるわけです。粉ものなんて目じゃありません。結果的に、バンバン広告が打てますし、有名人に宣伝をお願いできたりもします。それによって実際は効果がないことをうやむやにしちゃうわけです。

で、それがまた新たなる売上げにつながるのです。


実力がないのに、すごい人に見られたい場合の二択。

(1)とにかく現場に赴き、実践と研鑽を重ね、やがては実力を身につけることを目指す
(2)とにかくでかいことを言いまくり、自分がすごい人だと吹聴し、そう思わせる情報を発信し続ける


「効果が出るまで、続けなかったのが悪いんじゃないですかね。だって、このノウハウは再現性があるんです。成功できないのは、あなたが悪いんですよ。ノウハウのせいにしないでください」


諦めない限り、夢は続いていく。

でも、人生はどこかで終わる。


「年利10%で、元本完全保証」
「この株は間違いなく上がります」
「これであなたも今日から人気者」

ほんと?


「知らなきゃ損。時代に置いていかれます」

勝手に追い越してください。


「あなたの人生を取り戻そう!」

取り戻すその主体は、誰なんでしょうか。


「願えば叶う」+「願わなかったことも叶う」+「願っても叶わない」+「願わなかったことは叶わない」=人生


ねえねえ、それって、本当に必要ですか?

優しい顔の人、近くにいませんか?

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あまりにも遠くにあったもの

最初それは手の届かないものだった。
あまりにも遠く、あまりにも高い位置にあった。

手を伸ばすことなんて馬鹿げた行為であるかのように。
まともに競争するのが愚かしいことであるかのように。

あの人たちはずっとずっと高見にいた。
少なくともそういう風に見えた。

彼らもそれを否定しなかった。
特殊であること、変わっていること、
一回性のものであることを否定しなかった。

なんといっても、それは彼ら自身だったのだ。
コピーできると考えること自体が誤っている。

だから僕たちは試行錯誤するしかなかった。
何か新しいものを生み出す必要があった。

それが斬新さなのかニッチさなのかはわからない。
ともかく、自分なりのポジションを見つけるために、
いろいろな手探りを続けた。

そうして気がついたのだ。
それこそがまさに「自分らしさ」の探求であり、
自分が貢献できることを探すことであったことに。

つまり、結局は彼らも同じだったのだ。

それぞれが高い山に登っている。
でも、それはそれぞれの山だ。

彼ら同士だってお互いの山を交換できない。
僕ら同士がそうであるように。

いつまでたっても、距離は変わらない。
ただ、他の山がある、というに過ぎない。


昔から、あこがれはあった。

でも、差があまりにも大きく感じられて、
比較することは虚しかった。
蟻が恐竜の大きさに嫉妬したりしないように。

なぜだか今はその距離が縮んでいる。
あたかも手を伸ばせば届くかのように語られている。

その距離は安易な比較を生み、
止まることを知らない嫉妬を生む。

「なんで、あいつばかりが」
「どうしておれは」

その感情は、再現性の保証のもとでいっそう強化される。

特殊ではないこと。
普通であること。
誰にでもできること。

そう言われれば言われるほど、飛び抜けている存在がうとましく感じられる。
飛び抜けられない自身の存在が劣って感じられる。

だってそれは「誰にでもできること」なはずなのだ。

努力が足りないのか?
投資が足りないのか?
自信が足りないのか?

そのようにして、すべての結果は自己の責任として返ってくる。救いはどこにもない。

頑張りなさい。
もっと頑張りなさい。
もっともっと頑張りなさい。

まるで魔法の力を持つ呪文のように、「頑張れ」がささやかれる。
言う方は、なんの頑張りもなくその言葉を吐けるというのに。


たぶん、ほとんどのものは見せかけだ。

一つひとつの存在は、特殊であり、変わっていて、
一回性の中に閉じている。
そこには再現性など見出しようがない。

ただただ「再現性」があって欲しい、という欲望があるだけだ。
その欲望には値段がつく。
そして、市場が生まれる。

だからといって何ができるわけでもない。

自分は自分の山を登るしかない。

ときに他の人を励ましながら。
ときに他の人に励まされながら。

閉じてはいても、つながっている。
上下にも左右にもつながっている。

そんな不思議なものが、そこにあると信じながら。

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