Category: 僕らの、生存戦略

バッターボックスのたとえ

バッターボックスに立つことの重要性がよく説かれます。もちろん比喩としてのバッターボックスです。

単に空想しているだけだったり、「明日から俺、本気だしちゃうもんね〜」と飲み会で盛り上がっているだけでは変化など訪れようもありません。実際に行動してみることが大切です。

その通りでしょう。

では、バッターバックスに立ちさえすれば良いのでしょうか。それで場数を踏んだことになるのでしょうか。

思考実験をしてみましょう。

まず、バッターボックスに立つ。ピッチャーが球を投げる。あなたは上の空でそれを見ていない。パターン1です。

パターン2は、バットは振らないもののピッチャーの球はじっくり見ています。

パターン3は、バットは振りますが、ただ振っているだけでピッチャーの球は気にしていません。

パターン4は、ピッチャーの球を見ながら、それに当てようとしてバットを振り続けます。

この4つ、全部同じと言えるでしょうか。仮に違うなら、バッターとして成長するのはどのパターンでしょうか。

1は論外でしょう。空想しているのと変わりありません。

2は、おそらく目は良くなります。評論家には向いているかもしれません。

3は、筋力はつきそうです。でも、ヒットが生まれる可能性は小さいでしょう。

4こそが、いわゆる「バッターボックスに立つこと」で含意される行為です。しかるべき場所に立ち、しかるべき挑戦を受け、たとえうまくいかなくても、うまくいくように注意を傾け、実践する。そこまでやって人ははじめて総合的な上達を得ます。

バットを振ることと、当てようとしてバットを振ることには違いがあります。時間が経てば経つほど大きくなる違いです。

だからそう、ブログを500記事書けば文章がうまくなる、なんてことは荒っぽすぎる意見なのです。

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自分のペースで進む

「自分のペースで進もう」というかけ声がある。よく考えると不思議な言葉だ。

だって、人は自分のペースでしか進めないはずではないか。いや、自分が進むそのペースを「自分のペース」と呼ぶのだ。

自分が5のペースで進んでいたとする。
そのとき、隣の人が6のペースで進んでいたとしよう。
それを見て、ちょっと試しに6のペースに変えた。
そうしたら、問題なく6のペースで進めることがわかった。

さて、「自分のペース」は、5なのか、それとも6なのか。あるいはそれ以上? それ以下?

継続的

たいてい上記の言葉は、「焦らないで、自分のペースで進みましょう」という具合に使われる。焦ったペース≠自分のペース、というわけだ。

それが否定ぎみに扱われるのは、継続性・持続性がないからだろう。そもそも「ペース」という概念自体、平均的なものを含んでる。要素が一つしかないものの平均は、平均なのかもしれないが、そのもののデータと変わりがない。ある程度数が揃って、意味が出てくるのだ。ペースという考え方も、一回きりの現象についてではなく、もう少し長いスパンを見据えたものだと言えるだろう。

だから、「自分のペース」は、継続可能なペースということになる。あるいは、自分が継続可能だと思うペース。ここにやっかいなトリックがある。

思っていること

自分が継続可能だと思うペースは、本当に継続可能なペースとイコールであるかの保証はどこにもない。自分がそう勘違いしているだけの可能性がある。

もっと早く進めるのかもしれないし、もっと遅く進まないといけないのかもしれない。6のペースでずっと進んでいたら、3年後ぐらいに急に無理がやってくる、ということもありうるのだ。そのときはじめて、6は自分のペースではなかったことが明らかとなる。つまり、帰納的にしかわからないのだ。

ここは結構大切なところである。

帰納的な推論なので、データが多ければ多いほど、その精度は上がっていく。5年のスパンで捉えれば、3年目で無理がやってくるペースは無理だとわかる。それが1年ではわからない。10年も蓄積すれば、そうとうな精度になっているだろう。が、しかし、それは推論でしかない。主人に肥え太らされたニワトリが、今日もご飯をたっぷりもらえると勘違いしているところに、バッサリ首を落とされる日がやってくる。

つまりは、こうだ。

人生を重ねていくうちに、自分のペースについてのデータはいろいろ集まってくる。そしてそれは蓄積すれば、本当の(これが何を意味するかはさておき)ペースに近似していくだろう。でも、それは近似でしかない。

人は年を重ねて変わっていく。バイオリズムにも波がある。どれだけ自分についてわかったつもりになっても、それは帰納的推論の域を出ない。何かまだぜんぜんわかっていないことがあるかもしれないのだ。

その点についての警戒だけは、ゆめゆめ忘れないようにしたい。

さいごに

以上のような話を一周ぐるっと回った上で、やっぱり結論は、

「自分のペースで進もう」

ということになる。いや、そもそも人は自分のペースでしか進めないのだ。つまり、こう言い換えよう。

「自分のペースがどのくらいなのか把握するようにつとめよう」

大切なことだ。思い込みはたくさんあるし、入ってくる情報はそれをさらに惑わせる。案外、見失いやすいものなのかもしれない。

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棒を買う

15歳だかの誕生日の朝に起こされて、王様に挨拶に行ったら、魔王を倒せと命じられて雀の涙ほどの軍資金を渡される。なぜ自分が?という疑問も、「そなたは勇者なんだから」という無茶苦茶な理由で押し切られる。でも、不思議と「そうか、自分は勇者なんだから、仕方がない」という気もしてくる。人生なんて基本的に受動的なものでしかない。そこから何を選び取るのかが人の意志なのだ。

最終的に成し遂げなければならないのは魔王の討伐である。実際は世界に平和をもたらすことが最終的な目的であり、魔王の討伐はそのための目標でしかないのだが、どう考えても「すいません立ち退き料払うんで、帰ってもらっていいですか」という説得に応じてくれそうもないので、選択肢としては魔王をやっつけるしかないだろう。

だとすれば、魔王を打倒するだけの力と装備が必要だ。キラキラと輝き、全力の一撃を受け止めてくれる伝説の剣。おそらくその剣を持ってしか、魔王の討伐は達成できない。

勇者(と呼ばれた青年)は、「最終的な理想」をありありとイメージする。そんなことが本に書いてあったからだ。すべての物事は二度作られる。そこに向かって進んでいこうと、強く決意する。モチベーションは重要だ。

しかし、しかしである。

旅立ちの街にいる勇者が、まっさきにとるべき行動は、「棒を買うこと」なのだ。伝説の剣とは比べようもない≪ひのきの棒≫を5G支払って買うことなのだ。唖然とする格差ではないか。みっともなく、かっこ悪いではないか。でも、どうしようもない。それしか選択肢がないのだ。

もちろん、少し違った選択もあるかもしれない。素手で倒せるだけの敵と戦い続け、必死にお金を貯めてもいい。なんなら街の中で商売の真似事をすることだってできる。それで、高価な剣が買えるだけの貯金をしてもいいだろう。すごく時間がかかるだろうけれども。

しかし、仮に剣を手にしたところで、ろくな敵と戦っていない勇者(と呼ばれた青年)にはそれが扱えないだろう。筋力もおぼつかないはずだ。

そうした問題も、サプリメントとジムでの筋トレで補ったとする。気の長い話だし、たぶんその間に世界は滅びてしまっているだろうが、なぜだか魔王が酔狂な性格をしていて、勇者が来るまで暢気に待ってくれていたとしよう。どうせ彼らは長い寿命を持っているので、そうして待つのも遊びの一種みたいなものだ。

だとしても、だ。

そこまで勇者(と呼ばれた青年)に有利な環境が整っていたとしても、彼が伝説の剣を手にすることはない。その剣は、強敵がうろうろと徘徊するダンジョンの奥深くに眠っているからだ。その剣は、自ら冒険したものしか手にすることができない。街の中には売っていないし、ヤフオクで入手することもできない。

そして、その剣こそが魔王を打倒する剣なのだ。

雀の涙の軍資金でひのきの棒を買い、それで倒せるだけの敵を倒してレベルアップと軍資金集めを進める。そうして徐々に高価な武器を手にしながら、戦闘経験を積んでいく。もしかしたら仲間も集まるかもしれない。そうやって世界を旅し、見たこともない風景を転々としながら、どこか誰も知らないダンジョンの奥底で、宝箱と遭遇する。その宝箱にはもしかしたら≪ギフト≫と銘打たれているかもしれない。でも、それは関係ないのだ。その人が求め、歩き続けてきたからこそ手にできたものなのだ。

伝説の剣を求めているのにも関わらず、棒を買う。
伝説の剣を求めているがゆえに、棒を買う。

たぶん、一番難しいのはその選択なのだろう。ゲームだと簡単なのだが。

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共通する因子

ふむ。何か、何か共通する因子があるずだぞ(ぶつぶつ)。

あそこまで似たような失敗が起きているのを偶然と片付けるわけにはいかない。何かしら体系だった説明ができるはずだ(ぶつぶつ)。

となれば、発言をすべてデータベースに入れて、構造解析だな(ぶつぶつ)

4時間後、

ディスプレイに二つのメッセージが表示された。

他人のことなんて気にするな。自分のやりたいことをやればいい

顧客のことなんて気にするな。企業の稼ぎたいことをやればいい

あっ、

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「特別な宝くじ売り場」の変転

宝くじ売り場があるとしますよね。全国各地に。

でもって、宝くじの当たりが十分にランダムだったとします。

とすると、当選くじが出る売り場は、均一にはなりません。すべての売り場で1回ずつ当たりが出る、ということはなく当たるところがあり、当たらないところがありと、偏りが生まれます。

このことはサイコロを6回振ってみればわかるでしょう。1〜6までの目が一つずつ出ましたか? もちろん出るときもありますね。組み合わせを計算すれば___え〜〜と、誰か計算してください__、たま〜〜〜〜にあることはありますが、大半は出ない目があり、重複する目があるパターンでしょう。もちろん、サイコロを振る回数をどんどん増やしていけば、やがては「平均してどこの目も同じくらいは出ている」状況にはなるでしょうが、6回の試行ではバラついて当然なのです。

さてさて、宝くじ売り場の話に戻りましょう。

当選くじが均一に出ないということは、まったく当たりが出ない売り場があり、複数回出る売り場がある、ということです。それが自然なこと(よくあること)なのは先ほどサイコロで確認しました。

ここで、キラりと目の光る人間が出てきます。

「ほら! この売り場! 他よりも非常に当たりが出やすいですよ。データとしてもはっきり出ています!」

なるほど。ウソはついていません。たしかに事実として当たりの回数は他の売り場よりも多いのです。でも、それは自然なことなのでした。この目を光らせた人の賢いところ(あるいはずるいところ)は、あたかもそれが特別なことのように騒ぎ立てたことです。

で、その騒ぎ立てが功を奏したとしましょう。となると、その売り場で買う人が増えます。殺到します。

さて、ややこしいことになりました。その売り場の確率を計算する上での母数が圧倒的に増えたのです。当然、それは当たりが出る回数を増やすことも意味します。「ほんとうだ。あの人の言うとおりだった」。かくして予言は成就します。

言うまでもありませんが、ここに至るまで、どの売り場でも当選くじが出る確率は動いていません。動いているのは確率以外の要素だけです。

ここで、その特別な売り場に注目してみましょう。

ランダムなばらつきによって、その売り場だけに注目すれば、当選確率は非常に高いものでした。モデル化して言えば、他の売り場がほとんどゼロ、あっても100人中3人ぐらいだったものが、その売り場では100人中7人くらいになっているのです。かなり特別な存在のように思えます。

そして、その売り場に怒濤に人が集まるのでした。結果的に、当選者の数は7人から14人、14人から21人と増えていくでしょう。が、それは当選した人の数だけを見ています。そうなっていない人、つまりハズれてしまった人はどうでしょうか。もちろん、それもたくさん増えています。すると、どうなるか。最終的には確率通りに落ち着くのです。

おわかりでしょうか。

ランダムな偏りのせいで、最初は「特別な売り場」だったものが、そこに人が殺到することによって「ごく普通の売り場」へと変わってしまうのです。まあ、変わってしまうというか、最初の「特別な売り場」扱いがそもそも虚構というか幻想だったわけですが。

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不都合な話についての断章

たとえば、たとえばですよ。

あなたを騙そうとしている人がいるとします。

ええ、単なる想像というか思考実験なので、「私みたいな善良な市民を騙そうとする人なんていない」と思っておられても、ここは我慢して仮説にお付き合いください。とりあえず、そういう人がいたとします。

ではですね、何かのきっかけで、あなたがその人になったと想像してください。ええ、騙す方の人になっちゃったわけです。不快かもしれませんので、そういうシミュレーションだと思って頂ければよいでしょう。思考実験の中にあるシミュレーション。一種のゲームみたいなものです。

で、仮にそのような状況になったとして、あなたは騙そうとしている人にどのような態度を取りますか。つっけんどん? 攻撃的? それとも優しい?

必要なのはなんでしょうか。長期的な信頼? それとも短期間でもいいから鵜呑みにさせる情報?

もっとも効率的にやり遂げるには、どのようなスタンスで臨みますか。


「ほら、このノウハウはたしかに再現性があります。こうして成功している人がいるんですから。それにものすごく人気なんです。もうこの業界にいる人ならみんな知ってますよ」


ちゃんとした薬と、まがいものの薬があったとしましょう。

片方は成果を確認するために数々の実験を行い、きちんと認可も下りている薬です。その分コストもかかっているのですが、なるべく多くの人の手に渡るように価格を目一杯上げることはできません。当然、粗利みたいなものは小さくなります。

一方まがいももの薬は、成分も適当で、当然試験なんかもせず、どうなろうとしったこっちゃないので高い値段をふっかけられます。それはもう目一杯の粗利が稼げるわけです。粉ものなんて目じゃありません。結果的に、バンバン広告が打てますし、有名人に宣伝をお願いできたりもします。それによって実際は効果がないことをうやむやにしちゃうわけです。

で、それがまた新たなる売上げにつながるのです。


実力がないのに、すごい人に見られたい場合の二択。

(1)とにかく現場に赴き、実践と研鑽を重ね、やがては実力を身につけることを目指す
(2)とにかくでかいことを言いまくり、自分がすごい人だと吹聴し、そう思わせる情報を発信し続ける


「効果が出るまで、続けなかったのが悪いんじゃないですかね。だって、このノウハウは再現性があるんです。成功できないのは、あなたが悪いんですよ。ノウハウのせいにしないでください」


諦めない限り、夢は続いていく。

でも、人生はどこかで終わる。


「年利10%で、元本完全保証」
「この株は間違いなく上がります」
「これであなたも今日から人気者」

ほんと?


「知らなきゃ損。時代に置いていかれます」

勝手に追い越してください。


「あなたの人生を取り戻そう!」

取り戻すその主体は、誰なんでしょうか。


「願えば叶う」+「願わなかったことも叶う」+「願っても叶わない」+「願わなかったことは叶わない」=人生


ねえねえ、それって、本当に必要ですか?

優しい顔の人、近くにいませんか?

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あまりにも遠くにあったもの

最初それは手の届かないものだった。
あまりにも遠く、あまりにも高い位置にあった。

手を伸ばすことなんて馬鹿げた行為であるかのように。
まともに競争するのが愚かしいことであるかのように。

あの人たちはずっとずっと高見にいた。
少なくともそういう風に見えた。

彼らもそれを否定しなかった。
特殊であること、変わっていること、
一回性のものであることを否定しなかった。

なんといっても、それは彼ら自身だったのだ。
コピーできると考えること自体が誤っている。

だから僕たちは試行錯誤するしかなかった。
何か新しいものを生み出す必要があった。

それが斬新さなのかニッチさなのかはわからない。
ともかく、自分なりのポジションを見つけるために、
いろいろな手探りを続けた。

そうして気がついたのだ。
それこそがまさに「自分らしさ」の探求であり、
自分が貢献できることを探すことであったことに。

つまり、結局は彼らも同じだったのだ。

それぞれが高い山に登っている。
でも、それはそれぞれの山だ。

彼ら同士だってお互いの山を交換できない。
僕ら同士がそうであるように。

いつまでたっても、距離は変わらない。
ただ、他の山がある、というに過ぎない。


昔から、あこがれはあった。

でも、差があまりにも大きく感じられて、
比較することは虚しかった。
蟻が恐竜の大きさに嫉妬したりしないように。

なぜだか今はその距離が縮んでいる。
あたかも手を伸ばせば届くかのように語られている。

その距離は安易な比較を生み、
止まることを知らない嫉妬を生む。

「なんで、あいつばかりが」
「どうしておれは」

その感情は、再現性の保証のもとでいっそう強化される。

特殊ではないこと。
普通であること。
誰にでもできること。

そう言われれば言われるほど、飛び抜けている存在がうとましく感じられる。
飛び抜けられない自身の存在が劣って感じられる。

だってそれは「誰にでもできること」なはずなのだ。

努力が足りないのか?
投資が足りないのか?
自信が足りないのか?

そのようにして、すべての結果は自己の責任として返ってくる。救いはどこにもない。

頑張りなさい。
もっと頑張りなさい。
もっともっと頑張りなさい。

まるで魔法の力を持つ呪文のように、「頑張れ」がささやかれる。
言う方は、なんの頑張りもなくその言葉を吐けるというのに。


たぶん、ほとんどのものは見せかけだ。

一つひとつの存在は、特殊であり、変わっていて、
一回性の中に閉じている。
そこには再現性など見出しようがない。

ただただ「再現性」があって欲しい、という欲望があるだけだ。
その欲望には値段がつく。
そして、市場が生まれる。

だからといって何ができるわけでもない。

自分は自分の山を登るしかない。

ときに他の人を励ましながら。
ときに他の人に励まされながら。

閉じてはいても、つながっている。
上下にも左右にもつながっている。

そんな不思議なものが、そこにあると信じながら。

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労力は微分し、成果は積分する

基本的な考え方なのだが、労力は分け、成果は積み重ねた方がいい。

労力

ある本を完成させるのに10万字の原稿が必要だとしよう。

大変だ。

しかし、それを5つの章に分ければどうだろうか。2万字×5となった。少し楽になる。

その章だって、いくつかの節で構成されているだろう。たとえば、2000字×10節、みたいな感じで。もう少し楽になった。

それを突き詰めていくと、エディタに書き込む5文字の単語だって一つの進捗となる。

10万字に対して、5文字なんて誤差みたいなもので、0と変わりない。そんな風に感じられる。しかし、万里の長城だって1つの石を積むことから始まったのだ。原稿だって同じである。

時間

ある本を完成させるのに三ヶ月かかるとしよう。

漠然としている。

それを、最初の一ヶ月で1章まで、続く二ヶ月で3章まで、最後の一ヶ月で5章までと計画したらどうなるだろうか。少し明確になった。

その一ヶ月だって、30日ほどで構成されているのだから、1日あたり何時間と考えられるだろう。よりはっきりしてきた。

それを突き詰めていくと、今この瞬間に何をするのか、という話になる。その時間の使い方が全体に連なるのだ。

三ヶ月という時間からすると、10分原稿を書くなんてあってないようなものである。だから、まあいいかと思う。どうせ三ヶ月あるんだからと、持ち時間を過大評価し、実行時間を過小評価してしまう。しかし、どのような作業でも「今」の時間の積み上げによって生まれている。それは普遍的な事実だ。

成果

以上のような考え方は、成果について考える上では、むしろまったく邪魔である。

たとえば、あなたが階段を100段上ってきたとしよう。素晴らしい成果だ。しかし、それを「今」で捉えると、段を1段上ったに過ぎなくなる。ぜんぜんたいしたことがない。

そんなものは評価しようがないし、むしろ否定的な感情が出てくることもありえる。隣に一段飛ばしで階段を登っているような人間がいたとしたらなおさらだろう。たとえその人間が途中で息を上げ、50段で登るのを止めたとしても、である。

グラフを書き、その線の積分で評価すること。そうすれば傾きが小さくても、長い時間軸を取ればそこそこの面積にはなる。ひとりの不完全な人間としては十分な成果と言えるだろう。

ただし、そのためには線がつながっていないといけない。焼き畑アプローチはここが難しい。だから、承認欲求が不要に募るのかもしれない。

さいごに

最初にも述べたが、これは「考え方」の問題である。捉え方と言ってもいい。

私たちが行動を取れるのは、「今」である。だから、行動について考えるときは、ギリギリまで「今」に近づける。「今」何をするのか。それがベースだ。未来志向の計画も、言ってみれば、逆算することで「今」何をするのか(「今」何ができるのか)を見出すアプローチであって、むしろそうなっていなければただの絵空事で終わる。

また、比較の心理として、対象が大きければ大きいほど、それを過剰評価し、逆に「今」を過小評価してしまう。これは適切な行動にはまったくつながらない。「まあ、いいか」と余裕を持ちすぎる楽観思考に傾くか、「あれもやらなければ、これもやらなければ」と実現性を欠いた悲観思考(あるいは理想思考)に傾くかのどちらかだ。

行動については、面や線ではなく、点で捉えた方が良い。もちろん、途中経過として面や線を辿るのはよいだろうが、そこからさらに点に進むことが寛容である。

が、成果の評価には視点の切り替えが必要だ。そこで齷齪(あくせく)するのはよろしくない。でないと、ノイズに振り回され、フィードバックがうまく機能しなくなる。対象によっては、まったく増えていなくても、ただ現状が維持されているだけで意義あるものだってある。そうしたものは点の評価ではまず見えてこない。

  • 「今」何をするのかを考える。
  • 「期間」で何を為したのかを考える。

重要なのは、二つの視点を切り替える、という点だ。アクセルとブレーキのように、両方あって初めて機能する、という点は留意しておきたい。

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地位の高さとフィードバック

「ピーターの法則」をご存じでしょうか。ウィキペディアにはこうあります。

  • 能力主義の階層社会では、人間は能力の極限まで出世する。したがって、有能な平(ひら)構成員は、無能な中間管理職になる。
  • 時が経つにつれて、人間はみな出世していく。無能な平構成員は、そのまま平構成員の地位に落ち着く。また、有能な平構成員は無能な中間管理職の地位に落ち着く。その結果、各階層は、無能な人間で埋め尽くされる。
  • その組織の仕事は、まだ出世の余地のある人間によって遂行される。

これだけ読むと、ちょっと何を言っているのかわかりませんね。

極めて簡単に考えれば、能力を持った人は、その人が無能になるレベルまで昇進する、ということでしょう。


Aさんという平社員がいるとして、その人が「デキる」としましょう。それをめざとく見つけた課長は彼を平社員の中のリーダーに指名します。そのリーダーでも有能さを示したAさんは係長補佐に、やがて係長にとステップアップしていきます。

彼のその「サクセスストーリー」が止まるのはどこでしょうか。「デキる」人だと見なされなくなったところです。たとえば、課長にはなったもののたいした成績が残せなければ、そこから出世することはありません。逆にそこで「デキる」と見なされる成績を残すなら、さらに彼には昇進のチャンスがあります。

つまり、ある役職でめざましい結果を残せる能力を持つ人は昇進してしまい、そこ留まり続けるのはあまりたいしたことのない人ばかり、と状況が生まれるわけです。

そこから、たいがいの上司は上司として無能、みたいな話が出てきます。できる上司はさっさと階段を登ってしまうわけで、まだそこにいるということは、推して知るべし、ということですね。

現実に組織を見回してみると、これはまあ、ある程度は頷ける話なのですが、ちょっと気になることもあります。

成長への手がかり

たしかに「ピーターの法則」が示すような問題はあるにしても、階層的組織社会には別の問題もありそうです。簡単に言えば、「偉くなると、フィードバックが減る」というものです。

階層的組織の末端にいる場合、自分の同僚及び、上司にあたる人間はわんさかいます。しかし、ステップを一つ登るたび、その数は減っていきます。となると、どうなるか。自分の間違いを指摘してくれる人間が減っていくのです。

人間の行動の適正化(あるいは学習)には、フィードバックが必要です。間違ったことをしていても、それが間違ったことであると認識できない限り、それが正されることはありません。その意味で、出世の階段を登っていくことは、山登りしていくとやがて酸素が薄くなっていくのと同様に、フィードバック不足につながります。

ときどき、店長的な立場の人が、スタッフの意欲を盛り上げるのではなく、むしろ盛り下げるような言動を繰り返すのを見かけることがあるのですが、きっとフィードバックをもらえていないのでしょう。そして、その言動こそがフィードバックを遮断していることにも気がついていないのかもしれません。

単純に考えて、コンビニの店長なんかは、アルバイトのスタッフに対して、正社員の店長ということで、力関係が強く非対称です。仮に店長が誤った言い方、間違った指示の出し方をしていても、アルバイトはそれをぐっと飲み込むでしょう。そうなってしまったら、そこでお終いです。その店長が、「店長力」を向上させることはほとんどありません(別の業務なら話は別ですが)。

さいごに

広義の「コミュニケーション」が重要です。

それによって、その人の成長が決まります。別段すべての人に好かれる必要はありませんが、ある程度の人たちには信頼される、あるいは「少なくとも話をする価値はある」と思われなければ前には進めません。

ほら、あなたの周りにも「コイツには、言ってもムダだな」と思う人がいるでしょう。もしそれが自分だったらと想像してみてください。ゾッとしてきますね。

「偉くなると、フィードバックが減る」

この力学は意識しておいて損はないでしょう。

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二分法が生む疎外

何かを二分する。

善と悪、光と闇、理性と感情。

わかりやすい。0と1で構造化された世界。純粋な世界。

そこでは態度を表明しなければいけない。0なのか、1なのか。

何かを二分する世界では、狭間であることが許されない。逸脱も同様だ。「0でもあり、1でもある」といった態度や、「0でも、1でもない」という態度は、存在できないのだ。

だったらそう、編み目を細かくすればいい。二分をさらに二分して、四分するのだ。その操作を繰り返せば、いかにもさまざまなものが許容できるようになるように見える。狭間を受け入れられるように思える。

しかし、実際はそうではない。結局そこでは、0なのか1なのかを表明しなければいけない。単にその選択肢が増えているに過ぎないのだ。突き詰めれば、「0でもあり、1でもある」や「0でも、1でもない」という態度は拒絶されている。

仮にそうした態度を持たざるを得ない主体がいれば、どこまでいっても戸惑いにつきまとわれるだろう。「自分はいったい、どこに位置すればいいのだろうか」と。

そのとき、二分法で世界を分ける主体はきっとこう思うはずだ。「彼らは私たちとは違う」。そのようにして、再び世界は二分される。

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