Category: 情報摂取の作法

a margine

インプット過多 – Medium

で、こういう「考え事」が久々な気がして、なんでだろうって考えてみると、ずっと「のきばトーク」聞いてたからだ!と。

僕が心配していることの大半がここに集約されています。でもって、それはショウペンハウエルが毒舌を持って警鐘を鳴らしたこととも重なるでしょう。

僕たちの思想・思索というのは、インプットから始まります。着想は、知覚刺激がトリガーになりますし、そもそも何の知識も持たなければ、どのような思索も進みようがありません。情報を摂取することは、思考のもっとも基本的な第一歩なのです。

でも、そればかり、というのは弊害があります。

インプット過多とは、裏返せばアウトプット過小ということです。それは体重の増加が、過剰栄養と運動不足の両方によってもたらされるのと同じことです。

インプットにもアウトプットにも時間がかかり、インプットに時間を割けば割くほど、アウトプットに向けられる時間は減少します。頭を使う時間が減るのです。それは情報の咀嚼率を低下させ、「自分の人生」という一つの社会への適応率も下げてしまいます。

ここまでは、単純な算数の話です。でも、本質は別のところにあります。

先日、ヘッドフォンを忘れてしまい、何も聞かずに歩いて通勤していると、頭の中に色々な考えが湧いては消え、湧いては消え。そういえば、よくこうやって考え事しながら通勤してたよな、と。

僕はあるとき、周りの人から「ちょっと顔太ってきたよね」と言われて、イヤイヤながら体重計に乗ったところ、「思っていた以上に」体重が増えていることに気がつきました。

なんとなく体重が増えているのは感じていたのです。でもそれは誤差のようなものだろうと思っていました。たとえば60kgが61kgになっているような、そんなイメージです。しかし、体重計が指し示した数字はとても誤差と呼べるものではありませんでした。明確に私は太っていたのです。

つまり、どういうことでしょうか。

僕は、自分が(それほどまでに)太っていることをまったく自覚していなかったのです。たまたま他者の視線という外部情報があり、体重計という客観測定装置があったからこそ気がつけましたが、そうしたものがなければ、僕はずっとそれに気がつかずに過ごしていたでしょう。

情報摂取についても同じことがいえます。いや、もっとタチが悪いかもしれません。

上記の記事ではたまたまヘッドフォンを忘れたという「ハプニング」によって、インプット過多への気づきがありました。逆に言えば、そうしたハプニングが起こらなければまったく気がつかなかった可能性があるのです。

それはつまり、今これをお読みになっているあなたの身にも同じことが起きているかもしれない、ということです。どうですか。ちょっと怖くなってきませんか。

だから僕たちは、防波堤として時間と機会を設けるべきでしょう。考えるための時間を持つ、考えるための機会を持つ、ということです。それはたとえば、近所をふらふら散歩することかもしれません。あるいは、ノートにじっくり向き合うことかもしれません。はたまた、ほとんど何の利益も生まないのに、こうして文章を書くことかもしれません。

ともかく、そうしたことをやっている間は、私はインプットの嵐から遠ざかることができ、自分の心の声に耳を澄ますことができます。地下室の扉を開き、そこに懐中電灯の光を投げ込むことができます。

運動していない人が、とりあえずジムと契約して、カレンダーに予定を放り込むのと、ちょっとばかり似ているでしょう。そこでどんな運動を行うかはわかりませんし、ジムからの帰りにジョッキのビールを空けるかもしれませんが、少なくともそのジム内にいるときは、栄養摂取からは遠ざかり、運動負荷に向かうことが期待できます。

インプットというものを、仮にプラスに見立てたとき、余白と呼べるような時間や機会を持つこと。頭の中を出せる場所を持つこと。それが案外大切です。

最後にもう一度書きます。インプット過多になっていても、自分だけではまず気がつきません。そのことは__情報化社会な現代では__、モーセに頼んで十一戒目に刻んでもらったほうがいいくらいです。

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そのうち考えるのをやめる脳

そのうちカーズは考えるのをやめた

たとえば、あなたが究極生命体だとして、それでも宇宙空間に放り出されて身動きが取れなくなれば、やがて考えるのをやめてしまうだろう。

宇宙の大半は物質が無く、非存在の闇で覆われている。その中にあっては、人間はまさに点でしかない。そしてその点には、ほとんど何の情報も降り注がないのだ。

だから、考えるのをやめてしまう。

brain in tube

試験管の中の脳みそ、というイメージがあるが、もしそれが単純に閉じた系であるならばすぐに考えるのをやめてしまうだろう。結局のところそれは、宇宙空間と大差ないからだ。

それが人間の体からやってくる感覚神経の電流なのか、それとも擬似的に生成されたアルゴリズム的電流なのかはともかくとして、何かしらの刺激が脳にやってこないと、脳は考えることをしない。

思考とインプット

以上のような極端な思考実験は、1つのことを示している。

「考えるには、インプットが必要」

当たり前のことを言っている気もするが、ひっくり返せばどうだろうか。

「人は、インプットなしでは考えることができない」

これは、「人間は主体的に考えられる存在である」ことをいくらかは否定している。もし人間が主体的に考えられるのならば、試験管の脳でも考えられるはずだ。でも、本当にそうだろうか。

もちろん、この思考実験を実際の実験として行うことはできない。第一に、倫理的な難しさがある。第二に、測定がほぼ不可能だ。刺激を与えない脳の状態を(特に内的な動作を)、刺激を与えないで観測するのはS級のトリックが必要だろう。よって、これは原理と呼べるものではないし、それに昇華することもない。

だからそう、あくまで「念頭に置いておく」たぐいのものである。

身の回りの情報

とは言え、これは運命論ではないし、決定論でもない。

「考える」という行為が、インプットによって発生するにしても、そこで何を考えるのか、どのように考えるのかまでは拘束されていない。インプットが行うのは、導火線に火をつけることだけで、ニューロン(シナプス)のどこに火がつくのかは、それこそ脳次第だろう。

あくまで、インプットに触発される形で、思考はスタートするということだ。

だからそう。たとえば、これまで一週間でテレビを20時間見ていた人が、それをまったく見なくなったら、単純に蓄えられる知識が変質するだけではなく、「何を考える」のかも変わってくるはずだ。

その他、対象は何だっていい。情報が多すぎるからとそれを遮断していくような試みは良いとして、それを徹底的に削っていった先に待っている思考は、それまでの思考と同じではないかもしれない。それについては、真剣に検討した方がよいのかもしれない。

もちろん、日常的に摂取する情報、コミュニケーションをとる人、たまに触れる映画や演劇といったものすべてが、この話に関わってくる。そうしたメディアが、何を話題にし、どんな手つきで語り始め、どのような視線で世界を切り取るのか。それがそのまま、自分の「思考」にもフィードバックされていく。そういう可能性がある。

さいごに

主体的に考える。

これは、見た目以上に難しいことだ。「本当の意味」では、私たちは主体的に考えることなどできないのかもしれない。

それでも、インプットについて気を遣うことはできる。その気遣いを主体性の発露として捉えることもできるだろう。

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鈍行列車の読書体験

『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』を読み終えました。

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この本、とても分厚いので、自力で悠々と立ちます。雄々しく屹立します。

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さすがにこの本は「持ち歩いて、隙間時間に読む」みたいなことはできません。椅子に座り、ゆっくり腰を落ち着けて読むことを迫ってきます。そうです。制約とは対象からの要求なのです。


本書で対談する二人は、引き出しも広く、知識も豊かで、ユーモアに溢れています。連想に導かれ、話がスーパーボールのようにあちこちにジャンプします。当然、読み手もそれに導かれ、縦横無尽に思索のツボを押されまくるわけです。不思議ですね。物理世界では「ゆっくり腰を落ち着けて読むこと」を要求する本が、一方その中身では読者をあちらこちらに引き回すのですから。

ともかく本書はずっと__正確には買った日を除いてずっと__家で読んでいました。椅子に座り、机を前にして読んでいました。私の中ではずいぶん珍しい読書体験です。たいていは本をカバンに忍ばせ、すきあれば読書に浸る、というのが私の読書の日常です。


非日常の読書には、非日常の読書術が適しているのではないか。そんなことをふと思いました。そこで、情報カードの出番です。

私は普段、読書中にはペンを持って直接書き込むか、そうでなければドッグイヤーをして、後から参照できる状態にしておきます。が、そのやり方は本書にはそぐわないような気がしました。特にペンでの書き込みは、本格的にやりはじめると、2本分ぐらいペンのインクを補充しなければならないのではないかと思ったほどです。というか、書き込むスペースがきっと本の余白では足りなくなるでしょう。

なので、普段なら本に直接書き込むようなものを情報カードに書き込むことにしました。日常ならこんなまどろっこしいことはやっていられません。というか、そもそも目の前に机がないことが大半なのでやろうと思っても無理なのです。でも、この本は違いました。だいたい、そそくさと読んで何か得るものがある本ではありません。たまにはゆっくりと、いささか遅すぎるくらいに読んでみるのもよいでしょう。鈍行列車の読書体験。

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面白いのは、これによって新しい読書の節目が生まれたことです。30分だけ読むとか、一章分だけ読むといった節目とは別に「情報カードが1枚分埋まったら、そこまでとする」という節目が生まれました。なかなか面白い節目です。

さらさらと読んでいくようなところ、つまり書き留めるようなものが少ないところはバシバシページが進みます。また、考えることが多く含まれているようなところはすぐにカードが埋まり、見開き2ページほどでそれまでとなってしまうこともあります。この二つは、時間も分量も違いますが、「脳を動かしている具合」は同程度かもしれません。

そうした量が可視化できるかもしれないな、と発見できたのはこの新しい読書術のおかげです。


もちろん、通常の読書にまでこのやり方を広げることはできません。この本そのものが制約を持っていたので、その制約に合わせた読み方を持ち出した、というだけです。

あと、こうして書き付けたカードはそれだけではほとんど何の意味も持たないので、一項目ごとを再チェックして、必要なものは新たに情報カードの転記する必要があるでしょう。面倒ですね。

でも、それはそれで楽しいものがあるわけです。

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情報の静寂(しじま)

以下の記事を読みました。

毎朝10分間の座禅を21日間続けてみて分かってきたこと | シゴタノ!

座禅についての紹介記事なのですが、こんな文章があります。

しばらく「ブーーーーーーーーーーーーーーーーーー」という音が鳴り続けます。

瞑想中はこの「音」に集中するのですが、この「音」は突然途切れます。

“騒音”が一瞬にしてなくなるので、直後に静寂が訪れます。この落差により「無」の状態に遷移しやすくなる、というのが本書の基本的な考え方です。

音がずーっと流れていて、それが突然止まる。すると「無音」が感じられますね。で、それをトリガーとして心を無の領域に持っていく、そんな感じでしょうか。

いきなり無音の状態におかれても、心(というか注意)はいろいろな方向に向いてしまいます。しかし、「ブーーーーーーーーーーーーーーーーーー」という音を流し続け、そこに注意を集めた上で、ふとその音を止めてしまうことで、注意の矢印の先を空っぽにできるわけです。

面白い仕組みですね。

私はこれを読んで、情報のインプットで何かしら近いことが言えないだろうかと考えました。そして、まさにそうして考えたこと自体が、一つの実例とも言えそうです。

たとえば読書中

本を読みます。本を読んでいる間は、ぐっとその世界に入ります。著者の語り口に耳を傾け、著者が組み上げた世界や論理に身を浸すのです。矢印はたった一つの方向を向いています。

で、たとえば、段落が終わったり、節が終わったり、章が終わったり、本が終わったりするとしましょう。矢印の先っぽは消えます。しかし、私の注意はまだそこに向いています。だから、思索の方向はほとんど一点を向いています。

本を読んでいるとき、ページをめくる手を止めて、何かしらを考えることがあります。

たいていそれは本の内容に関することで、せいぜい本の内容から連想した何かでしょう。そのような情報の静寂で考えているとき、意識は削り立ての鉛筆のように尖っています。言い換えれば、良い感じに集中しています。少なくとも、「今日の晩ご飯は肉じゃがにしようかな」とか「速報ニュースって本当にくだらないよな」とか「トゥエンティーフォーの続きみなきゃ」といったことは入り込んでいません。

私たちが日常的に生活しているとき、脳はきっといろいろなことを同時多発的に考えています。「じゃあ、これから○○について考えてみましょうね」と年上のお姉さんに言われたところで、すぐさま集中するのは難しいでしょう。

しかし、本を読んで意識が集中していた直後なら、思索の集中もさほど難しいことではありません。脳のスペックが有効に発揮されます。

唯一の問題は、何について考えるのかを自分ではコントロールできないことくらいでしょう。

本日の実際例、Web記事で

私はまず、冒頭にかげた記事を読み、それをEvernoteのWebクリッパーで保存しながら、「情報のインプットでも同じようなことは言えないだろうか。」というコメントを書き込みました。そして、それについて考えました。その結果が、この記事です。

92冊目「アテンション―注目で人を動かす7つの新戦略」ベン・パー、ひらくPCバッグのマーケティング話はほぼ全部ここに書いてありますな:[mi]みたいもん!

を読んで、もう一度『アテンション』を読み直しながら、ひらくPCバッグのマーケティングがどう対応していたのかをチェックしてみよう、と思いました。すでに本を読みながら考えていたことですが、中の人が語っているのですから、もう一度仔細に検討する価値はありそうです。

Mediumと個人ブログとの違いを読み解く1つの図 | Lifehacking.jp

を読んで、「じゃあ、どのようなコンテンツを自分のブログ以外に投下するべきなのだろうか」と考え、その後、Mediumとnoteのトップページにアクセスし、さらに3分くらい頭をひねりました。私はR-style以外にもnoteに記事を投下していますが、やはりそこには内容の性質に違いがあります。それをこの記事で提示された図を使って、どう説明できるだろうか、と考えました。

「マラソンは35キロをすぎてから」と瀬古さんはいった: 鷹の爪団の吉田くんはなぜいつもおこったような顔をしているのか

を読んで、「◯◯をすぎてから」と言えないような対象は何かないだろうかと考えました。案外なかなか難しいものです。あと、記事で紹介されているエピソードは私も聞いたことがあるので、きっと村上春樹さんの話だろうな、という推測も立てました。

【連載】森博嗣 道なき未知〈第7回〉それぞれに違う道 | BEST TIMES(ベストタイムズ)

を読んで、同じように見えるけどやっぱり違いはあることと、違うように見えるけどやっぱり同じところはある、ということについて考えました。前者は個々人の尊厳を、後者は公益や社会における共感を支えるのでしょう。どちらも大切なことです。あるいは、「皆違っている、という点について同じ」という言い方もできるのかもしれません。

今朝、私が「読んだ」記事は以上です。見出しに「触れた」記事はもう少しありますが、頭から終わりまで文章を読み、その後の静寂に浸った記事はこれだけです。これは別に私が忙しいからではなく、単に記事を読むたびにいろいろ考えているので、「記事を読む時間」が限られているからにすぎません。

さいごに

二者択一しかなく、「たくさん記事は読めるけど、静寂はなくなる」か「読める記事は減るけど、静寂は確保できる」ならば、私は後者を選択します。だって、それが読むことの面白さの一つなのですから。

でもってできれば、そうした静寂を発生させられるだけの力(あるいは印象)を持つ記事に触れたいところです。それ以外はまあ、暇つぶしというかおしゃべりにすぎません。それはそれで楽しいですが、そればかりだと逆に退屈します。

情報の静寂。

情報と静寂。

この記事を読んだ後に、それが訪れていればよいのですが。

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キュレーションに関するメモ書き

キュレーターが行うから、キュレーション。

キュレーター(ウィキペディア)

キュレーター(英語: curator)とは英語由来の外来語である。英語の元の意味では、博物館(美術館含む)、図書館、公文書館のような資料蓄積型文化施設において、施設の収集する資料に関する鑑定や研究を行い、学術的専門知識をもって業務の管理監督を行う専門職、管理職を指す。

学術的専門知識をもって業務の管理監督を行う


たとえば、博物館に行ったとする。

そこで、自分が想像するとおりの展示物が、想像する通りに並べられていたとしよう。

それにどれだけの価値があるだろうか。


たとえば、ニュースアプリを見ていたとする。

そこで、自分が読みたいであろう記事が、そうした記事だけが並んでいたとしよう。

そこにどれだけの価値があるだろうか。

もちろん、価値はある。ニュースを探し回らなくて済むわけだから。

では、それ以外の価値は?


ツールは使いよう。

自分の文脈を飛び越えるような情報との接点を持っていない限り、自分の文脈は豊かにはならない。

そのためには、ノイズを受け入れる必要がある。


最適化は素晴らしい。最適化は英知の結晶だ。

でも、大きな変化を乗り越えるのは、過剰な最適化ではない。

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キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)
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逆キュレ

逆キュレ、という考え方を持っています。逆キュレーション。

ごく簡単に言えば、「この人が言及しているから、読まなくていいな」という判断です。それは記事かもしれませんし、本かもしれません。何かしらの製品ということもあるでしょう。

ともかく、「あの人のオススメだから、逆に遠ざかる」という選択をするわけです。

もちろん、自分とは真逆の価値観を持っている人が逆キュレーションのターゲットになります。人に限らず、何かしらのサービスでもかまいません。そういうとこから流れてくる情報は、そもそも中身を確認しないし、別のソースから流れてきた場合でも見ないわけです。タイトルだけでスルーしてしまう。

「これ、公文式でやったやつだ」

というのと似た感じで、「これ、あの人がツイートしていたやつだ」とスルーするわけです。

それによって有効な情報を見逃していることもあるでしょうが、とにもかくにも情報が多すぎる時代では、「もしかして、ちょっと少ないかも」ぐらいのバランスがちょうど良い、ということも充分ありえます。

ただ、これは単純な作業ではなく、別のキュレーター(正キュレーター)がその情報を流していたら、「やっぱり、読んでみるか」と変わることもあります。公式に当てはめてポンっ、という感じではない、ということです。

もともとキュレーションというのは一つのツールなわけで、読むために使うこともできるでしょうが、読まない力をアップさせるためにも使えるような、そんな気がします。

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「読みにくさ」の効用と注意の量

先日紹介したマルコム・グラッドウェルの『逆転!』に、ちょっとびっくりするようなことが書いてありました。

逆転! 強敵や逆境に勝てる秘密
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CRTというテストがあるようです。学力とか知能をはかるための簡単なテストです。

「バットとボールの値段は合わせて1ドル10セント。バットの値段はボールより1ドル高い。ボールの値段はいくら? 」

こんな感じの問題。

答えはわかりますよね。

「読みにくさ」の効用

10セント__と答えは人は、トラップに引っかかっています。でも、心配しないでください。初見でぱぱっと答えようとすると、間違えやすい問題なのです。そういう風に設計されているのです。

しかし、グラッドウェルは、こう述べます。

CRTはけっこう難しいが、実は正解率を簡単に上げる方法がある。ハードルをちょっとだけ高くするのだ。

ハードルをちょっとだけ高くする?

「バットとボールの値段は合わせて1ドル10セント。バットの値段はボールより1ドル高い。ボールの値段はいくら? 」

たとえば、こんな感じ(CSSがうまく効いていることを祈ります)。

このように問題文を読みにくくすると、トラップに引っかからない人が増えた。そんな実験結果があったようです。

この実験結果は、私の頭にサドン・インパクトを与えました。

読みにくい問題文を「読む」ためには、解答者はじっくり文章に取り組む必要があります。その結果、注意深さが増し、一つ一つの単語の意味、言葉同士の関係性を慎重に扱うようになったのです。だから、トラップが回避できた。

そんな状況なのでしょう。

読みやすさと信頼

文章に接するとき、人は「読む」ことと「理解する」ことを同一に捉えています。でも、それは同じではありません。

読んでいても、理解していないことは結構あるのです。CRTの問題文は、意図的に理解を迂回させる構造になっていますが、そうした意図が介在しない場合でも、読むと理解の乖離はよく発生します。

一文を読んで、最初に私が理解した意味が、その文の意味とイコールであるとは限らないのです。本来はじっくりと吟味が必要です。

しかし、読みやすい文章であれば、人はすたすたと歩いてしまいます。

「この単語の意味は何だろうか?」といったことを懸念することはありません。誤解していても気がつくことはきっと少ないでしょう。

カーネマンの『ファスト&スロー』という本に、ある意味で上とまったく逆のお話が登場します。

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) ダニエル・カーネマン 村井章子

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ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) ダニエル・カーネマン 村井章子

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簡単に言えば、認知負担が低い文章の方が信頼してもらいやすい、そんな人間の心理傾向があるようなのです。

カーネマンは、フォントをボールドにしたり、文字と背景色のコントラスト高めたり、色を使うなら緑・黄・水色ではなく、明るい青や赤を使用することをお勧めしています(ちなみに、本書上下巻の表紙カバーが青と赤であるのは、もちろん意図的でしょう)。あるいは、こんなこともカーネマンは述べます。

自分を信頼できる知的な人物だと考えてもらいたいなら、簡単な言葉で間に合うときに難解な言葉を使ってはいけない。

簡単な言葉を使うと、文章はスラスラ読めます。グラッドウェルのお話と関連づければ、そうなった方が、疑問を抱かれにくいということです。注意が発生しにくく、不注意が起こりやすいのです。だから、多少怪しい部分があっても、なんとなく内容が信頼されてしまう。理解した気になってしまう。CRTの問題のトラップは、その辺りにあるのでしょう。

これは結構怖い話でもあります。

もちろん全ての文章、全ての読み手に通じる話ではありませんが、そういう傾向があるとしたら、書く方も読む方も一定の慎重さが必要になることがわかります。しかし、スラスラ読める文章はその慎重さから距離を置かせる文章なので、問題はなかなか厄介です。

ここで書き手として持ち上がる疑問が一つあります。

読者にしっかり考えて欲しいときは、「読みにくい」文章を書くべきなのでしょうか。

注意の量を増やす

もちろん、違うでしょう。

そうしたこともテクニックの一つではあるのでしょうが、逆に言えばテクニックの一つでしかありません。他にも選択肢があるはずです。

たとえば、わざわざ読みにくい文章にしなくても、先生が「この問題は、間違える人が非常に多いので注意して答えてくださいね」と言えば、同じような慎重さを持って問題に取り組むはずです。

ようは注意の量なのです。

バットとボールの問題は簡単な引き算のように感じられます。だから、細かいことを考えずに引いてしまう。注意が足りないのです。

「読みにくい」文章にしなくても、注意の量を上げる何かがあれば、読者にしっかり考えてもらうことはできそうです。

実際に考えられる方法としては、……まあ自分で考えてみてください。

さいごに

そう考えてみると「寓話」というのは、面白い働きを持っていますね。

直接的なメッセージではないので、自分の身に置き換えるためにはワンクッションが必要になります。たんにお説教をするよりも、「考え」を刺激する力があるのかもしれません。

ほかにも、いろいろな手法があるのでしょう。

▼直線的な理解を拒むかもしれない一冊

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「10万字インプット・5000字アウトプット」について考えてみた

けっこう速い球が投げられました。

ソーシャル疲れに対する処方箋としての「10万字インプット・5000字アウトプット」(みたいもん)

うまく打ち返せるかわかりませんが、バントぐらいは挑戦してみましょう。

ちなみに、私もソーシャル疲れなるものは感じたことがありません。

広義の書き手

でも、ソーシャルメディアでの言葉や振る舞いが、自分の生活とつながっているような生活を送っているような人も広義の「書き手」と考えた方が、どうもすんなり腹落ちするんです。

これは、堅苦しく表せば、「高度情報化社会で生活する市民」と言っていいと思います。ソーシャルメディア・シチズン。

日本はインフラ的に高度情報化されつつありますが、市民はまだそれにどっぷりとは浸かりきっていません。でも、やがて人口比は使っている人の方が多くなっていくでしょう。つまり、未来の話です。

情報化社会の市民

しつこく繰り返しますが、10万字インプットというのは、本を10万字読めってことじゃありません。ブログを読むでも、facebookを見るでも、twitterを見るでもいいんです。

5000字アウトプットも、原稿を書けとか記事書けとかいうことでもありません。だれかへのコメントとか、レスとかメッセとかを含めてもいいんです。

問題は、バランスなんです。

「10万文字インプット・5000字アウトプット」は3つの要素があります。

  • 大量にインプットすること
  • そこそこ書くこと
  • インプットとアウトプットの比をインプット多めに保つこと

引用記事の繰り返しになりますが、大量に読めばそれでOKというわけでもなく、ブログ記事を書きまくればよいわけでもありません。インプットとアウトプットをきちんと行い、そのバランスを取ることが肝要だ、という話です。

なぜなのでしょうか。

高度情報化社会において、情報が必須なのは言うまでもありません。生産の材料となる情報、何かのジャッジメントを支える情報、魂の息抜きの情報……、さまざまなものが情報の形で提供されます。

梅棹忠夫さんは、産業史を、農業の時代、工業の時代、精神産業の時代と3つに分け、それぞれを、内胚葉産業、中胚葉産業、外胚葉産業に対応させました。各時代において消費のメインストリームは異なります。内胚葉産業時代は栄養を満たす食物、中胚葉産業時代は便利な工業製品、そして外胚葉産業時代では、心を満たす情報が主役になります。

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で、現代は、外胚葉産業の時代へと足を踏み入れているのです。だから、情報を取り入れることは、食物を摂取するぐらい大切なことです。

では、書くことはなぜ必要なのか。

言葉として表す

鷲田清一さんの『パラレルな知性』に以下のような一節があります。

パラレルな知性 (犀の教室)
パラレルな知性 (犀の教室) 鷲田清一

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思考というものがわたしたちのうちにまずあって、それからそれが言葉にされるのではない。逆に、たいていの思考というものは、なにかよくわからないままぼそっと口にすることで、あるいは文字に書き起こすなかで、おずおず形をとってくる。言葉には思考をまとめるはたらきがあるのだ。

言葉として表すということは、何かしらの形にする、という作用があります。だからこそ、精神的に疲れるわけですが、出してみてスッキリすることは珍しくありません。

インプットしっぱなしだと、__あまり品はよくありませんが__便秘のような状態になってしまうのかもしれません。これは何が疲れるのかというと、ようするに「自分が何を・どう考えているのか、自分でわかっていない」という状態が続くからなのです。その状態は不安定なので、人に影響されやすくもなります。これはあまりよろしくない。

だから、何かしら自分自身の口で(あるいは手で)言葉を生み出すことをする。そうすることで、思考がまとまりをみせはじめ、それが積み重なることで「自分の考え」(あるいは軸)と呼べるような何かが生まれてくるのです。

あえて言うまでもありませんが、どこからのコピペを大量生産して「ほらほら、もう5000字ですよ」とやっても意味はないでしょう。何であれ5000字のアウトプットあればOK、という話ではないのです。それを出していく過程の中に、何かしらが存在しているのです。

拙著『ソーシャル時代のハイブリッド読書術』にて、私は以下のようなエピソードを紹介しました。

ソーシャル時代のハイブリッド読書術
ソーシャル時代のハイブリッド読書術 倉下 忠憲

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Facebookで何かを書き込むと、他の人からのコメントをもらえる場合があります。そのコメントに対して、私もコメントを返すことができるのですが、どうにもうまく言葉にまとまらないとき、つい「いいね!」ボタンをクリックして済ませてしまいます。それだけで、自分はそのコメントを読みました、そして好感を持ちましたということを伝えられるので非常に便利です。しかし、私の頭に浮かんだ「もやもや」は言葉にされることなく、消え去ってしまいます。

実際、それは本当の意味では消え去ってはいないのです。私の中では「まあ、いいか」と認識外に置かれただけです。それはきっと、澱のように蓄積されていくのでしょう。

ちなみに『ソーシャル時代のハイブリッド読書術』は、情報化社会における情報摂取作法その1的な位置づけの本ですのでご興味ある方はぜひ。

ともあれ、いいね!を押したり、RTしたり、Yoと送信したりしているだけでは、5000字のアウトプット効果は生まれません。シェアさせていただきます、も微妙なところです。たとえジョークであっても、自分の言葉を発しようとしてみること。それが必要です。

さいごに

インプット不足、アウトプット不足、その両方があり得るでしょう。

私なんかは毎日のように(というか実際毎日)文章を書いていますので、心配するとすればインプット不足になります。それぞれ自分の環境を振り返ってみるとよいかもしれません。

食事をとったら排泄する。情報をインプットしたら、アウトプットする。わりとナチュラルな話なので気負いは必要ないと思います。逆に言えば、日常生活にそれをしっかり組み込めるのが理想ですね。

最後に、引用記事と同じように「読もうと思って読めていない本」を晒しておきます。

贈与論 (ちくま学芸文庫)
贈与論 (ちくま学芸文庫) マルセル モース Marcel Mauss

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これが物理学だ! マサチューセッツ工科大学「感動」講義
これが物理学だ! マサチューセッツ工科大学「感動」講義 ウォルター ルーウィン 東江 一紀

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美味しさの脳科学:においが味わいを決めている
美味しさの脳科学:においが味わいを決めている ゴードン・M・シェファード 小松淳子

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遠藤雅伸のゲームデザイン講義実況中継
遠藤雅伸のゲームデザイン講義実況中継 株式会社モバイル&ゲームスタジオ

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Evernoteのユーザー数が一億人を突破、そして高度情報化社会市民としての知的生産

5月13日に、Evernoteのユーザー数が一億人を超えた、というニュースを耳にした。

1億人の Evernote ユーザに感謝をこめて(Evernote日本語版ブログ)

本日は嬉しいお知らせがあります。Evernote のユーザ数が累計で 1 億人を超えました!

愛用しているサービスが大きくなっていくのは、もちろん好ましい。しかし、感慨みたいなものは特に浮かんでこない。妙な言い方になるが、なるべくしてなった、という感触が強いのだ。まるで、ドミノが倒れていくのを眺めているかのように。

以前どこかで書いたが、私はEvernoteが「あたりまえ」に使われるツールになると考えている。「Word,Excel,Evernote」ってな具合に。もう少し表現を変えれば、文章作成、表計算(※)、そして情報管理の3種は必須のツールになるであろうという予測だ。
※さらにExcelはVBAというプログラミングに道が通じている点も大きい。

で、今のところ情報管理ツールのポジションに収まっているのがEvernoteというわけである。今後、代替するツールが登場して、そのポジションを奪い去っていく可能性はあるが、ある程度まで浸透してしまえば__MS-DOSがあの時代揺るぎないポジションを築いたように__Evernoteがどっしりとその椅子に座り続けることだろう。

なぜ情報管理ツールなるものが必要なのだろうか。

別にOSだってファイルシステムがあるではないか。

梅棹忠夫は、『情報の家政学』に収められた「情報時代の教養」の中で以下のように語っている。

それからひじょうにだいじなのは、情報の保存ではなくて、とりだしのシステムなんです。つまり、ある特定の情報が必要なときに、すっととりだせるようにのこしておくことなんです。必要な情報が必要なときにでてこなけば、紙に書いた情報というのは死んでいるわけです。

ここでは__書かれた時代が時代だけに__「紙に書いた情報」となっているが、私たちが持つ情報全てに敷衍できる話だろう。MacのSpotlightは「とりだしのシステム」としては確かに優れている。ただし、それで全てうまくいくわけでもない。短いメモやウェブページについては、取り扱いが難しい。そもそも、そんなものをファイルとして保存したくないのだ。

Evernoteであれば、なんやかんやをとりあえず放り込んでおくことができる。細かいことは(そうしたければ)後から考えればいいのだ。そうして放り込んでおいて、あとから検索で「すっと」とりだす。これが情報システムおいて肝要なのだ。

3つのシフト

少しだけ大きな話をしよう。3つのシフトの話だ。

1.

現代は、工業から情報産業へとシフトしていると言う。さまざまな意味合いにおいて、情報を扱わないような仕事はほとんどないだろう。そんな社会で働く人は、(程度の差はあれ)誰しもが「知識労働者」の側面を持っている。つまり、知的生産を行うわけだ。そこでは、情報を扱う技術が必要とされる。

2.

どう定義するのかは難しいのだが、日本は高度情報化社会に向かっている。ということは、私たちは高度情報化社会に住む市民に少しずつなりつつあるわけだ。だとすれば、そうした市民としての素養が必要になってくるだろう。

梅棹は『知的生産の技術』で次のように述べている。

社会には、大量の情報があふれている。社会はまた、すべての人間が情報の生産者であることを期待し、それを前提としてくみたてられてゆく。ひとびとは、情報をえて、整理し、かんがえ、結論をだし、他の個人にそれを伝達し、行動する。それは、程度の差こそあれ、みんながやらなければならないことだ。今日においては、家庭の主婦さえもが、日常の生活のなかで、知的生産をたえずおこなわなければならないのである。それでなければ、家庭の経営も、子どもの教育もできないのである。

できれば短く「情報リテラシー」という言葉でまとめたくなるのだが、そうするとこれを読んだ人が「情報リテラシーとは何か?それはどのようなものであるべきか?」をスルーしてしまう可能性が出てきてしまう。それは本意ではない。なんといっても、本当の意味での高度情報化社会はまだ訪れていないのだ。その社会に必要なことは、これから私たちが考えていかなければならない。

梅棹は知的生産を「積極的な社会参加のしかた」としてとらえよう、と提言された。私もそれに同意したい。

3.

高度情報化には、必ずデジタル化が伴う。避けては通れない。

だから、情報を扱う技術には、デジタルの情報を扱う技術が必要になってくる。

さいごに

  • 知的生産において「記録」は非常に重要な存在だ。
  • Evernoteは記録を扱えるツールだ。
  • 現代は情報化し、デジタル化している。
  • 社会は、市民の知的生産を求める。
  • Evernoteはデジタル情報を扱えるツールだ。

こうして、ドミノは倒れ続けていく。

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『熟慮』するということ

偉大なる書は読まれるため、そしてさらに逆からや逆さまに読まれるように作られているのだ!
――トレイリアの文書管理人、エトヴァード

Magic The Gatheringに『熟慮』 というカードがあります。冒頭に引いたのは、そのフレーバーテキスト。

screenshot

個人的に、この小回りの効くカードが大好きです。強すぎず、弱すぎず。非常に優れたカードデザインです。普通に使うとキャントリップの効果しかないので、何じゃそりゃなんですが、3マナで墓地から唱えられるので、カード1枚分のドロー効果が見込めます。

乱暴に言えば5マナ2ドローのカードと同じなのですが、2マナと3マナで分割して支払えること、インスタントで使えること、この二つによって、序盤の潤滑油として機能してくれます。おそらく、使ってみて初めて、その使い勝手の良さに気がつくタイプのカードかもしれません。

それはさておき。

この『熟慮』というカードの英名は『Think Twice』と言います。

つまり、深く考えることは、二度考えることなのです。

たとえば

私たちは、何かを考えます。あるいは何かを思いつきます。

そのあと、自然な思考の流れで行われることは、その思いつきが、正しいらしいか確かめることでしょう。検証です。しかし、たいていの場合、それは「正しい」証拠を集めることで行われます。

たとえば、(あくまでたとえばですよ)「私は文章がうまいに違いない」と思いついたとします。その後、頭に思い浮かぶのは、自分が文章がうまいことを支持してくれる記憶たちです。「ブログに多くのPVが」「文章が上手いと言ってもらえた」「たくさん文章書いてるし」……

こうしたことを想起し、ほくほくした気持ち__「やっぱり、私は文章がうまいんだ」__になるわけです。特に不自然なことではないでしょう。よくありそうな話です。

でも、これはまだ一度目の思考でしかありません。

熟慮はここから始まるのです。「いや、まてよ」という言葉と共に。

プログラミングでのたとえ

あなたがプログラミングをやってみたとしましょう。

1〜31の値を入力すると、その日の運勢を教えてくれるアプリです。

コードを書き終えたあなたは、テストに入ります。1を入力し、「大吉」が返ってくる。2を入力し、「吉」が返ってくる。3を入力し、「凶」が返ってくる。……31を入力し、「大吉」が返ってくる。無事、動作が確認できました。

いや、まてよ。

もし、31よりも大きい数字を間違って入力してしまったどうなるだろうか。あるいは0やマイナスの数字では。それに、数字じゃなくてAとかBとかの文字だったらどうなるのか。

それらを確認して、はじめてこのプログラミングをテストしたことになります。当初自分が想定した以外の入力にも対応できるなら、システムとしての強度は高いと言えるでしょう。

反証を探る

「私は文章がうまいに違いない」を支持してくれる記憶をひととおり思い出したら、次はその反証になりそうな記憶を思い出さなければいけません。

いや、まてよ。

「もっとPVが多いブログがあるじゃないか」「文章が下手だと面と向かっていう人は少ないかもしれない」「下手の横好きという言葉もあるな」

こうしたことを思い出すのは、いささか苦痛かもしれません。なにせ当初の自分の考え(ないしはアイデア)が否定されるのかもしれないのです。『熟慮』だって、一回目にカードを引くとき(2マナ)より、二回目にカードを引くとき(3マナ)の方が、コストが高くつきます。

しかし、ここを経ないと、より確からしい考えにはたどり着けません。

また、プログラミングの例であげたように、想定したフレームの「外側」に関して想いを馳せる必要があります。

時間をおいて、複数の視点から

私たちが何かを思いついたその瞬間は、一方向からスポットライトを当てているようなものです。光が当たっている場所だけが目に入るので、それが世界の全てであるような気がします。しかし、それは限定的であり、物事の一側面でしかありません。

人間の短期記憶の限界から考えれば、一瞬のうちにありとあらゆる方向からスポットライトを当てるのはほとんど不可能と言えるでしょう。同時にいろいろやろうとしてもうまくいきません。

だからこそ、二度(あるいはそれ以上)考えるのです。時間をおいて、視点を変えて。

これは個人の思考に限ったことではありません。科学だって他の人に検証されて、理論は確からしさを持ちます。批判に晒されず、閉じた世界に置き去りにされた理論は、正しいのか間違っているのかすら検証できません。取り扱い不可能なのです。

さいごに

ごく簡単に言ってしまえば、自分の考えを自分で批判すること。それが熟慮への最初の一歩です。

あまり疑り深くなってしまうのも問題ありそうですが、「いや、まてよ」という言葉は、いつでもポケットから出せるようにしておくとよいかと思います。

いま上の文章を読んで、「うん、そうだよな」と思った人は、ポケットを探ってみてください。

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