Category: BlogArts

ふつーのブロガーさんにこそ訊いてみたいアンケート

「そうだ、アンケートをとろう」

と突然思い立ちました。ブロガーさん向けのアンケートです。

ネットで成功しているのは〈やめない人たち〉である

そもそもとして、いしたにさんの『ネットで成功しているのは〈やめない人たち〉である』というすげー面白い本があって、その本はその本でフムフムと頷けるのですが、「じゃあ、成功していない__他人から成功しているとは特に思われていない__人ってどうなんだろう」という疑問と、2010年と現在を比べたときにブロガーの裾野というのがギュンっと広がっている点を合わせて考えると、改めて今アンケートを採る意義みたいなものも見出せるんじゃないかな、なんてことを考えていました。

あと、自分が「かーそる」という電子マガジンを作っていた中で、「なんで人はこうして文章を書いているんだろう」という疑問がしみじみと湧いてきたこともあります。なにせメンバーのブロガーさんは、PVや知名度という点では、どう見ても「成功している」とは言い難いですが、それでも定期であれ不定期であれ記事を書き続けていて、しかもそのことに満足を感じておられるようなのです。これはちょっと改めて探求してみる価値がありそうじゃないですか。

というわけで、Googleスプレッドシート経由のアンケートです。以下のリンクか、このページの末に直接貼り付けてあるフォームから記入できます。

ブロガーさんに訊きたい!

ぜひぜひ普通の(あるいは自分は普通だと思っている)ブロガーさんにご回答いただければと思います。もちろん、普通じゃない自覚がある方のご参加もお待ちしております。

ただし、ただしですよ!

入力していただいた回答は、オープンにします。ええ、オープンにしますよ。

アンケート入力後に「前の回答を表示」というリンクが表示されるので、それをクリックすれば、こんな感じのページに飛びます。

screenshot

この「すべての回答を表示」をクリックすれば、回答を集計しているスプレッドシートも閲覧できます。ええ、その点だけはくれぐれもお忘れなくご回答いただければと思います。

アンケートの募集期間はとりあえず、1月いっぱいとしておきます。状況によっては延長するかもしれませんが、まずはそのくらいを目安にしておきましょう。

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記事広告はブログの未来なのか

まずは出発点の模索です。

「良いコンテンツを出す人に、きちんと利益が還元されて欲しい」

どうでしょうか。概ね同意されるでしょうか。

だとすれば、記事広告の仕組みはたいへん良いものに思えます。それを一つのブログの未来と位置づけたくもなってきます。

でも、少し立ち止まって考えてみましょう。なぜなら、アドセンスだって仕組みだけみたらたいへん良いものだからです。

ちょっとした変化

最近は、アドセンスで一儲けするのも難しくなっているらしく、さらにPV至上主義のトリガーとしても批判されている仕組みではありますが、根本的な原理はとても素晴らしいものです。

ウェブの出発点は、書き手が書き、それを読み手が読む、というものでした。どこにでもある、ごくありふれた風景です。アドセンスはここに数滴の変化を加えました。劇薬の変化です。

書き手が書き、広告が表示され、読み手が読む。すると、書き手に利益が発生する可能性が生まれる。しかも、読み手は一銭も支払う必要はない。なんというパラダイスでしょうか。一見したところ、誰も損していません。しかし、すべての楽園がそうであるように、それは「一見」でしかありません。

アドセンスが当たり前になると、広告を表示させるために書く、という書き手が増えてきました。それも爆発的に増えてきました。さらに、その書き手はメッセージを伝えたいわけでも、日常を綴りたいわけでもなく、単に表示されて欲しい、クリックされて欲しいと願っているだけです。良い悪いではなく、もともと存在していた系の中では異質な存在なのです。

その中でも、特に異質な存在は、あえて煽る文章を書いたり、嘘でも気にせずに(むしろ得意げに)情報を流したりといったことを平然と行います。書き手が読み手に文章をおくることが主要な動機ではないのですから、そうなるのは必然でもあるでしょう。釈迦と詐欺師に倫理を説くのは無駄なのです。

もちろん功績はきちんと評価すべきでしょう。アドセンスによって、良き書き手に利益が生まれ、またその動機付けによって新しい書き手がウェブに参画した面はあると思います。しかし、それ以上に、異質な存在が一つの系になだれ込んできたことで、相対的にその功績は小さくなっています。

評価の指標

結局それは、アドセンスが「広告」であり、その効果をPVという指標を使って測定しているからこそ起こることなのでしょう。あらゆる指標(評価軸)は、その系の中に発生する行動を傾向付けます。

面白いのは、ウェブという新しいメディアの発展においてPVが盛んに喧伝される構図は、大手の新聞が発行部数を(水増ししてまでも)誇る点とまったく変わっていない点です。それが広告料に影響するからなのでしょう。逆に言えば、広告に依存したメディアは、使う媒体が何であれ、似たような構図に落ち着いてしまう、ということなのかもしれません。

注目したいのは、この点です。つまり、記事広告なるものが促進されたとして、それはこの構図から抜け出るものになるのかどうか、という点です。変わらないのであれば、歴史が繰り返されるだけでしょう。

Win-Win-Win

シンプルな状況から考えてみましょう。

何かに秀でたブロガーがいたとします。そうですね、たとえば情報カードだとしましょう。その情報カードに卓越したブロガーが、どこかのメーカーから「情報カードの新商品に関して、記事広告を書いてもらえませんか」と依頼されたとします。それは新商品のレビューなのかもしれませんし、何かの面白企画(「情報カードでパラパラ漫画を作ってみた!」)なのかもしれません。どちらにせよ、そのコンテンツは面白いものに仕上がるでしょう。
※あるいは仕上がらないのかもしれませんが、話がややこしくなるので、ここではその記事のクオリティは十分に高いと想定しておきます。

そうすれば、メーカーはプロモーションになり、読み手は面白い記事が楽しめ、書き手はそれで利益が得られる。うん、これは素晴らしい関係です。ここまではまったく問題ありません。

では、これを縦と横に拡大していけばどうなるでしょうか。縦とは、そのブロガーが一年に何個そうした記事広告を書くのか、という話で、横とは、そうしたブロガーがどれだけ増えるのか、という話です。

75%ぐらいのアウトプット

仮に、年間を通して少なくない依頼がそのブロガーにやって来たとします。それらすべてについて彼は興味を持たないかもしれません。完全に興味が0の案件は断るでしょうが、「これなら書けるかも」と思ったものは書くかもしれません。そうした記事は、せいぜい70%か80%程度の面白さとなってしまうでしょう。中にはいかにも苦しい感じの記事もあるかもしれません。

もちろん、書き手が収益を得るために、そうした苦しい感じの記事を出すこと自体はぜんぜん悪いことではありません。読み手も、多少事情を察して、ああなるほどね、とスルーする心の広さは持っておきたいところです。

しかし、何かを書けば、別の何かを書く時間が失われます。もし、彼が記事広告に関与していなければ、生まれていたはずのいくつかの(そう少なくはない)100%の記事が書かれなくなってしまうのです。

ここでそのブロガーを、書くことを通して生計を立てたいと望んでいる主体だと想定するならば、そのようなトレードオフは当然と言えるでしょう。仕事としてものを書くことは、自分の書きたいことだけを書くこととイコールにはなりません。依頼者がいてこその仕事です。

しかし、そのブロガーを、情報社会における市民として捉えた場合、その記事の偏り方はあまり望ましいとは言えません。たしかに、メーカーも、読み手も、書き手もそれぞれWinではありますが、それとは違ったWinの構図もありえるはずです。そしてそれがこれまでのマスメディアが提供できなかったWinであるはずです。

マッチング

今度は、そうしたブロガーの数が増えてきた場合を考えてみましょう。

まず問題となるのは、企業やメーカーがそうしたブロガーをどのようにして見つけるのか、という点です。数が少なければ、一つひとつ読み込んでいったり、周りの評価を確認する作業もとれるでしょうが、数が多くなれば対応できません。となると、わかりやすい指標で決定される場面が増えてくるはずです。それこそ、フォロワー数やPV数で。

もちろん、その道はこれまで歩んできた道であり、新しい構図にはまずならないでしょう。

同様の問題として、そうした広告の効果をどのように図るのか、という点もあります。とても真摯で優れた書き手なのだけれども、一日のアクセス数が50しかない、というブロガーの記事広告をどのように評価するか、もっと言えばそのブロガーに依頼がいくのかのかどうか。
※優れた書き手ならアクセス数を持っているはず、というのは単なる幻想です。

いかないならば、結局は同じ話をぐるっと一周回すだけです。

さいごに

記事広告は、限定的に見れば素晴らしいものです。しかし、限定的に見ればアドセンスや他のバナー広告だって素晴らしいものです。

それがあまりにも素晴らしすぎたため、それまでとは違った動機付けを生みだした、という点は忘れないようにしたいところです。記事広告でも同じことが起こらないとも言えませんし、単にPRをつけたくないから、という理由で記事広告がもてはやされるなら、今よりもひどい状況が待っていることすらありえます。

結局のところ、広告は、商業主体が金銭の提供主です。でもって、そこでは測定できる「効果」がないといけません。お金をドブに捨てるような行為は、商業主体ではまったく不合理だからです。その効果の測定が、単純な指標・これまでの指標で行われている限り、これまでの構図がかわることはないでしょう。

とは言え、です。

「良いコンテンツを出す人に、きちんと利益が還元されて欲しい」

と思う裏側で、「でも、自分はお金を払うつもりはない」という気持ちがあるならば、結局は広告に頼るしかない、というのも一つの真実です。

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解放装置としてのブログ、あるいは「自分のメディア」について

一昔前、ブログは解放装置だった。

社会にはさまざまなしがらみがあり、個人の個性的な活動はそこでは行えなかった。ブログはそこに扉を開いた。さまざまな発信を行い、ときにはもう一つのペルソナ(=アストラル・アバター)と共に、ウェブ上に一つの居を構えることができた。

平たく言えば、そこは(社会に比較すれば)自由だった。やりたいことが、やりたいようにできたのだ。

もちろん、いくつかの禁則はあっただろう。公共の福祉を害することは褒められる行為ではなかったし、誰かの人格を攻撃する人間は、多少面白がられたとしても、話題の先端に上がることはなかった。ひらたく言えば、無視された。そんなことよりも、面白いものが他にいくらでもあったのだ。

状況は、変わりつつある。

現在のブログには、さまざまな「してはいけない」が存在している。もっと言えば「した方がいい」「すべきだ」すらある。驚きだ。

一時期は解放装置であったものが、人を束縛する装置と化している。本来__というよりも、その出発地点では、「してはいけない」や「した方がいい」から一番遠い場所にあったものが、あっというまにそれに近接し、寄り添うようになってしまった。どこでこんなことになってしまったのだろうか。


ブログは、一つのパブリッシュ・メディアであり、ブロガーはその編集長である。彼は、自分のメディアに関して最大の裁量を持つし、それを発揮しなければいけない。

CanCamの編集長が、JJの編集長に、「どうやって雑誌作ったらいいですか?」と尋ねるだろうか。あるいは、Smartの編集長が、現代思想の編集長に編集方針をコピペさせてもらうだろうか。

雑誌は、それぞれに編集方針を持つ。それが異なるからこそ、読者は雑誌を選べるのだ。他の雑誌の編集方針をコピーしていたら、まったく同じような雑誌が生まれるだけで、読者は困惑するだろう。最終的には一番人気の雑誌が、さらに人気を集めるだけかもしれない。富は、富へと集中する。

わざわざ、「自分のメディア」を「他にあるメディア」に近接させたい、もっと言えば模倣したいと願う気持ちはどこからやってきたのだろうか。

奇しくも先ほど「ウェブ上に一つの居を構えることができた」と書いた。それは自分の位置づけであり、言い換えれば自分の居場所作りでもある。そこにトラップが潜んでいたのだろう。

社会にはいろいろなしがらみがあると書いた。そのしがらみは、当然「してはいけない」や「した方がいい」という暗黙の、ときに声高な要請として表出する。

ウェブ上の人口が少なかったとき、そこは広い草原のようなもので、人々は遊牧民でいることができた。共同体のルールはあるにせよ、その範囲と影響力は非常に限定的だった。しかし、人が集まり、狩猟から農耕に移行すると、村という固定的な共同体が生まれた。社会の誕生だ。

つまり、ブログはその人口の増加と共に、社会化してしまったのだ。社会化したものの先には、しがらみが待っている。ウェブ上に一つの居を構える効果があることを考慮すれば、これは当然の帰結だったと言えるだろう。

もちろん、上記はまったくの幻想である。言い換えれば、ある種の幻想がもたらす帰結、ということだ。ウェブ上に「人口密集地」なるものは存在しないのだから、当然だろう。

すでにあるクラスタ、すでにあるブログ群に飛び込もうとするとき、そこには社会化の力学が発生する。一昔前のブログが、社会からの離脱(離反)だったのに対して、今のブログは、一つの社会から飛び出て、別の社会に飛び込む行為となっている。あるいは、そうした幻想が主流になっている。

つまりそれは、「自分のメディア」を確立する動きではなく、むしろそれを「私たちのメディア」の下位階層に位置づけようとする試みなのだ。雑誌の比喩を再び用いれば、それは新しいメディアを作ることではなく、新しい「〜〜Walker」を作ることに似ている。そこでは「してはいけない」や「した方がいい」は統一されていた方が望ましいだろう。編集方針のコピペは有用である。


一つの視点として、「お金稼ぎを目的としているから、金太郎飴みたいになる」と見ることもできるだろうが、もしそれが本当ならば、MicrosoftとAppleは似たような会社になっていないといけない。どちらもお金稼ぎを目的(ないしは目標)とした企業である。しかし、どう考えても二つの企業は似ていない。

つまり、お金稼ぎが目的であるかどうかは差異を生むかどうかの主要な条件ではないことになる。そうではなく、「自分のメディア」をどのように位置づけているのかが、差異を発現させる鍵を握るのだろう。

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三角の指標

指標って大切なんですよね。

どこをどんな風に評価して、どんなフィードバックを返すか。それによって、人の行動は大きく変わってきます。そういのはコンビニ店長をしているときに、切実に感じていました。

で、PVで影響力の大きさを測り、PVの大きさのみによって金銭的なフィードバックの多寡を決定するならば、人の行動もそれに最適化したものになってきます。これはもう仕方がありません。

PVを得るためにわざと過激なこと、人の感情を逆撫ですること、ツッコミどころがあることを書く。PVのみを指標とするなら、それも「正義」なのです。SEOをハッキングして、その記事の集合知的な評価とは別にランキングの上位に食い込ませることもまた同じ。PVのみを指標とするならば、このような行為はわらわらと湧いてきます。ゾンビのようにです。あるいは哲学的ゾンビのように。

でもだからといってPVなんでどうでもよい、という話にはなりません。多くの人に読まれることは大切ですし、多くの人に読まれていることはたしかに価値の一つではあります。だからこそ、先ほどから書いているように「PVのみ」という視点となるわけです。

指標が一つしかなければ、それを達成するためのあらゆる行為が「正当化」されてしまいます。そして、歪んだものが生じてしまう。そのとき、ターゲットにした指標を糾弾し、別のものにすげ替えても話は変わらないのです。独裁制の王様が死に、別の王様が椅子に座っただけ。

本当に必要なのは、そうではない制度をそこに持ち込むことです。具体的には、複数の指標を持つこと。たぶん、3つくらいあれば良さそうな予感があります。

A、B、Cの指標を目指す。すると、「Aを達成するためには○○な方法が良いが、その場合Bが棄損されてしまう。これはダメだ」といった行動の抑制が生まれ始めます。バランスというやつです。このBやCに、社会的調和の要素を入れると、それは「マナー」や「モラル」として機能するのでしょう。そうです。マナーやモラルは、何かに制限を掛けるためのハードルではなく、目指すべき一つの指標なのです。その指標が内在化されているとき、マナーやモラルはバランスをもたらすものとして機能します(だから、他人に突きつけるものではありません)。

結局のところ、PVで測れるものには限りがあります。もっと言えば、目に見える数字でわかること全般にも限りがあります。だから、それだけを指標にしていては危ないことになるだろうなと思い、『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』を書きました。これは、新しい指標を導入するための第一歩の書だと思います。

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とは言え、一つの指標で測っていた方が楽なことは間違いありません。「Aを得るためだったら、何をしてもいい」という考え方がいかに≪自由≫に満ちあふれているように感じられるか考えてみてください。「Aを達成するためには○○な方法が良いが、その場合Bが棄損されてしまう。これはダメだ」はあまりにも迂遠です。面倒です。

そして僕たちは、ありとあらゆるものを「一つの指標」で測ろうとしはじめます。「それって何かの役に立つんですか?」という疑問は象徴的でしょう。

だからこれは、ブログ記事(ウェブ記事)だけの問題ではありません。もっと根源的な、私たちの価値の測り方の問題なのです。「効率化され過ぎた資本主義」も、「市民が参加しない民主主義」も、根源では同じ問題を共有しています。「一つの指標」だけで測ったら、それらは簡単に正当化されます。でもそれが「正しい」かどうかは長期的に見てみないとなんとも言えません。何かをめちゃくちゃに壊してしまっている可能性すらあります。

三つの指標の綱引き。

それはなかなか面倒なことではあります。でも、ピンと張った面が生まれるのはそういう力の拮抗からでしょう。

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ネイティブ広告を書くことはないにせよ

以下の記事を読みました。なんと動画とスライドまでついています。

ネイティブ広告はメディアの未来への脅威ではないかという気がしてきた | Lifehacking.jp

「ネイティブ広告」とは、短く言うなら「サイトの表示や体験と親和的な広告」のことで、いわれてみないと広告と気づかないくらいに馴染んでいることがその特徴となっています。

今までネイティブ広告の「ネイティブさ」がいまいちわかっていなかったのですが、「表示」と「体験」という二つの切り口はしっくりきました。

たとえば、R-styleで何かの記事広告を書くとしましょう。それが、サイドバーに表示されるバナー広告などではなく、1つの記事として投下されるならば、「表示」の側面ではそれはネイティブ広告です。しかし、その記事が、

は〜〜〜い。みなさんこんにちは。本を2000冊以上も読んできたRashitaです。

今日私がオススメする最高のビジネス書は、これ!

みたいな文章から始まっていたら、「体験」の方はまったくネイティブではありません。むしろ最高の異物感です。

そのサイトのコンテンツ(R-styleで言えば1つの記事)の体裁をとりつつ、その内容も__言い換えればコンテンツに触れたときに得られる体験も__他の記事群と同じであれば、それは「ネイティブ広告」と言えるのでしょう。その視点を採れば、「記事広告だけれどもネイティブ広告ではない」、というものは十分ありそうです。つまり「ああ、これって広告だな」という感じで書かれている記事広告がそれです。

そこまでは理解したとして、じゃあ次は、「なぜそのような記事が書かれる必要があるのか」という疑問が生じます。だって、いつもの記事と同じ表示であり、同じ体験を提供する記事であるなら、いつもの記事でいいではないですか。でも、現実にはネイティブ広告なるものの道が模索され、すでにいくつも書かれているわけです。なぜか。

メディアの食い扶持を稼ぐため

基本的にはこれでしょう。お金を得るためには、そういう記事を書く必要があるのです。なぜか。それは、一般的には通常のWeb広告__バナー広告など__の広告効果が低くなっているからなのだと考えられます。もし、これまでのやり方で効果を上げられているならば、無理して新しい方法を模索する必要はないわけで、新しい概念の提出は既存の方法の行き詰まりを指し示します。

さあ、ここで大きな問題がやってきますね。

「通常のバナー広告はクリックされないから、ネイティブ広告にする」

なぜ?

単純に考えれば、そうすればクリックされやすくなるから、でしょう。

もちろんぜんぜん別の切り口もありえます。単純な広告を出すのではなく、そのライターさんによる独自の魅力の切り出しをしてもらうため、というのがそれです。非常に美しい話で、むしろあるべき姿と言えるでしょう。

でも、実体はどうなのでしょうか。

堀さんの記事から、スライドの画像を1枚拝借させて頂きます。

screenshot

堀さんは「ステマと言われないように、ちゃんと表示しようね!」と書かれています。全力で頷けます。しかし、こんな事例もあるのではないでしょうか。

「ステマと言われないように、広告の定義を変えようね!」

多くは語りません。でも、シンプルに言ってこれは欺瞞でしょう。広告表示をつけなくても文句を言われないような仕組みを作っているのと同じです。まあ、それは広告主にとってはありがたく感じられるのかもしれませんが__私はむしろ逆だと思いますが、そうとも言えないのでしょう。なにせ、こういう話もありますので__、情報(広告)の受け手にとってみれば、迷惑なことこの上ありません。ページの読み込み途中で表示位置を変えてくるバナー広告ぐらいうっとうしい存在です。

ここでふと考えます。ひとりのブロガーとして考えます。

たいていのブロガーは、基本的に記事広告のオファーなどやってこないでしょう。はじめたばかりの人ならばなおさらです。だから、基本的にそういうブロガーさんに上記のようなお話は(書き手としては)関係ありません。でも、ある程度続けていれば、中には人気が出てくる人もいるわけで、はじめてそのタイミングで上記のような「心配り」が必要になってきます。

でも、案外、そういう話は「ブロガー本」では大きく語られません。なぜならば、そういう本の大半が初心者向け(入門者向け)だからです。必要のない情報は書かない。重要な姿勢です。その意味で、中級者向けのブロガー本はもっとあってもいいのかもしれないな、と思いました。

もう一つ。もう一度堀さんのスライドを拝借します。

screenshot

たぶん堀さんはこのような関係性の明示について一定の「指針」をお持ちでしょう。私も探り探りではありますが、たとえば献本頂いた本の書評を書くときは、「献本ありがとうございました」と書くようにはしています。他にも、すでに歴戦のブロガーさんは__読者に対して誠実であろうとしている限りにおいて__何かしらの運営指針を(明示されないにせよ)お持ちなんだと思います。

でも、それは明示されないからこそ他者からは見えにくく、学ぶ機会も少なくなってしまいます。

だったら、そういうのをすりあわせて「ブロガー憲章」でも作ったらどうかな、と思った次第です。別にそれをトップダウン的なルールにする必要もありませんし、またウェブメディア全体を牽引する存在でなくてもいいのです。「こういうことを心がけているブロガーがいるよ」というのが示せればそれで十分ではないかと。

まあ、「ブロガー憲章」はあまりにもキャッチーすぎますが、何かしら学べるものがあればいいかなと思う今日この頃です。

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とりあえず、Mediumのアカウントを作ってみては?

本格的に使い始めてしばらくたったMedium。

倉下 忠憲 – Medium

View profile at Medium.com

ある程度なら、「うん、これでいいじゃないか」と思えるようにはなりました。

Twitter的であり、ブログ的でもある。とりあえずは、そういうところから話を始めてみましょう。

他のサービスとの比較

Mediumは、Tumblr的であり、note的であり、Twitter的なサービスです。が、どれが最も近いのかというと、これがTwitterなんです。

一見、骨格としてはnoteに、コンテンツ的にはTumblrに似ているように見えます。が、使ってみるとわかりますが、コンテンツの生成時に大きな違いがあります。Tumblrもnoteも、エントリーの投下前にそのタイプを選ばなければいけません。

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Mediumはただ一つの投稿タイプがあるだけです。そして、それがすべてを網羅しています。

違いがあるのは、どのような駆動で記事が生まれるのかという点で、「自分から記事を発起する」(通常の記事)と、「他人の記事に発起される」(レスポンス)の選択肢があります。ようするに、ツイートと引用RT(あるいはリプライ)なわけです。

その意味で、コンテンツ生成の力学からみると、近似するのはTwitterなのです。

記事エレメント

しかしながら、投下できる一つひとつの記事は、つぶやき(tweet)ではなくストーリー(story)です。

そんなものは、所詮呼び方にすぎません。しかし、やはり実際的な違いはあります。MediumはTwitterのような短い投稿も可能ですが、140字以上の、もっと言えば数千字のエントリーすら可能です。エントリー中に画像を入れたり、文字を強調したり、動画を埋め込んだりもできます。その意味で、ここはまったくブログです。

そして、Mediumの運営が、それをstoryと読んでいるということは、「何かを語りなさい」と呼びかけていることでもあります。

この辺は、日本語と英語の違いもあるのでしょう。文字圧縮率の高い日本語は140字でショートショートを書くことすら可能ですが、英語だとどう考えても十分ではありません。その意味で、Mediumを使ったときの開放感というものは、英語圏の人の方がより強く感じられるでしょう。

が、日本語圏でも、ツイートに収まりきらない話題を展開するときには、独特の心地よさがあります。「ああ、そうだ。これをやりたかったんだ」というような。

バズるか?

記事流通のメカニズムはどうでしょうか。

これは現状あまりたいしたことがありません。私の投稿でも、アクセスが多かったのはTwitterで反応があったものだけです。Mediumの中だけの、SNS的なバズりやスパイラルなどは、今のところは期待できないでしょう__日本語記事では、ということですが。

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現状、Mediumの上部メニューにある「話題」のトピックはすべて英語で、記事も英語です。よって、この偉大なる動線からの流入は期待できません(英語で記事が書けるなら話は別です)。

今後、ここにローカライズが入るのかどうかはわかりませんが、まあ、期待は薄いでしょう。だから、アクセス数については、あまり気にしないことです。というか、そこを気にするなら、Mediumをやっている場合はありません。はてなブログで頑張りましょう。

ほとんどありえないと思いますが、もしMediumが巨大なプラットフォームとなり、利用者が爆発的に増えたのならば、バズり現象も起こるでしょうが、今のところはそういう話は頭の廃棄区画に追いやっておくのがよいかと思います。

書き手と読み手との「場」

その分、Mediumは、「書きたい人が書き、読みたい人がそれを読む」という関係性が維持されています。

この感覚はさまざまなWebサービスの黎明期に存在していて、Twitterなんかも(まだ幾分は)その雰囲気を残しているのですが、コンテンツが広告効果のエンジニアリングを受けていないのです。

広告効果の単純なエンジニアリングの影響を受けるとどうなるかは、ここでは言及しませんが、個人的にはそうなりすぎない方が良いと考えています。で、Mediumは、まさにそういうコンテンツの受け皿になっているのです。

また、構造的にバズりにくいのと、バズらせてもサイドバーにいろいろ貼り付けたりできないので、最近ウェブで「活躍」されているような、「炎上辞さず」みたいな人が近寄って来にくい、というのも「場」の雰囲気形成に役立っているように感じられます。

少なくとも、現状のMediumでは、一つひとつの記事は、別の何かのための手段ではなく、「読んでもらう」ためのコンテンツです。それ以上でも、それ以下でもありません。

そういう場は、案外少なくなりつつあります。

さいごに

実は、Mediumを「うん、これでいいじゃないか」と思ったのは、自分がちょくちょくMediumのページをチェックしていることに気がついたからです。

書き手として見れば、Mediumの機能は(足りない部分はあるにせよ)十分なレベルになっています。が、それだけでは「プラットフォーム」は成立しません。受け手(この場合は読み手)がいてこその「場」です。で、徐々に自分が「読み手」になっていることに気がついたのです。それも、結構心地よくそれを体験しています。

だったら、まあ、これでいいでしょう。

ただし、Mediumとの付き合い方はいろいろあります。他のブログとの兼ね合いもあります。その辺については、またぼちぼち書いていきましょう。

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トラックバックとMedium

たとえば自分が何か記事を書いたとして。

しばらくしたら、トラックバックが送られてくることがある。
※少なくとも昔は結構あった。

自分の書いた記事を読んだ人が、何かしら関係あることを書いたのだ。そして、それを通知してきているのだ。

トラックバックにより、私はその記事の存在を知ることができる。自分の記事が言及されたり、インスパイア元になったことを知る。これはアウトプッターにとってはたいへん嬉しいことだ。単純に面白い記事を読める喜びもある。

さらに、そうした記事へのリンクが自動的に自分の記事に追加される(埋め込まれると言ってもいい)。自分の記事のコンテキストが豊かになったのだ。

とりあえずは、そう。良いことだらけである。スパムの標的になるまでは、ということだが。

同じレイヤーで語る

「自分の考えがあるならば、自分でブログを書いたらいいんじゃないですか」

と、ときどき思う。

この社会は個人が主張を持つことを禁じていないし、それをPublishするためのツールは無料で開放されている。誤解を生むような断片的なつぶやきではなく、ひとまとまりの文章を、自分の文責で展開すればいい。特に、他人のブログ記事に対して思うところがあるならば、余計にそうだ。

トラックバック経由でやってくる「反論」や「意見」は、もちろんどこかのブログからである。つまり構図はこうだ。

ブログ VS ブログ

極めてわかりやすい。対等ですらある。一つのブログがあり、それに言及する別のブログがある。両者はそれぞれ「自分のブログ」という領域において発言している。それをお互いが見ている。対話が可能な条件がそこにはある。

一方ソーシャルブックマークにおけるコメントはどうだろうか。

あるブログへのコメントは、そのソーシャルブックマークサービスのレイヤーに載っている。ソーシャルブックマークサービスは、コンテンツに対するメタコンテンツなので、いわばレイヤーが一つ上である。つまり、先ほどのような平面な構図にはならない。

    ソーシャルブックマークサービス
ブログ

最悪、一方的に批判され、一方的に嘲笑され、一方的に誤解されて終わってしまう。反論とそれに対する反論が同じレイヤー上で展開することもない。

別にソーシャルブックマークサービスが悪いという話をしたいわけではない。単に、議論を行うためのツールではない、という役割分担を確認しただけだ。

そこでMediumは

Mediumには、ハイライト、コメント、ハート(recommend)、レスポンスがある。それぞれに機微があるのだが、その解説については今回は割愛する。

ともかくこれらのリアクションを行えるのはMediumユーザーである。つまりアカウントがあり、その人も(おそらくは)何かしらの発信をしている。だとすれば、自分の記事にハイライトをつけた人がどんな人なのかを私は確認しに行けるし、他の人が私の記事を読んだ場合でも同様だ。つまり、構図は常にこうなる。

Mediumユーザー VS Mediumユーザー

さらに今のところ、スパムが飛んでくることもない。その点は、すこぶる素晴らしい。

また、リアクションはすべて公開されているので、Facebook的な「仲間たちのたまり場」的雰囲気を帯びることも少ない。

総じて言えば、これは一つの理想的な形ではないだろうか、という気がしてくる。

さいごに

Googleのアドセンスとさまざまなアフィリエイトよって生まれた新しい「指標」が、ブログの未来という線路の切り替えスイッチを押してしまったことはもはや明白である。さらにソーシャルブックマークサービスによるアクセス数の増加に対する最適化が、そのアクセルを目一杯に踏み込んでしまった。パクりブログや、役に立たないキュレーションメディアの存在はそこから発生した枝葉のようなものである。根源はもっともっと深いところにあるのだ。

Mediumが目指しているのは、どうやらそれとは違った未来らしい。

だからそう、Mediumの価値は、これまでとは違う指標で評価する必要があるだろう。あるいはそれは、昔ながらの指標かもしれない。

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MediumのPublicationsについて

次の記事を読みました。

Mediumはブログの未来である | Lifehacking.jp

これを読みながら、「ブログとMediumとPublicationsとストックとフローと編集」の関係について書きたいななんて思ったんですが、どう考えても完全長編になりそうなので、まずは土台から固めていくことにします。Publicationsについての確認です。

ちなみに、以下の記事。

みたいもん!からシン・みたいもんへ、メインブログをココログからMediumに移転

サブタイトルが「ブログの未来形はMediumってことでいいんじゃないかと思った」となっていて、「ブログの未来」と「ブログの未来形」という言葉遣いの違いについても目配せしておきたいな、という所存ではあります。

ともあれ、基本的な部分から。

Publications

Publicationsは、Mediumの一つひとつの記事をまとめる機能です。

たとえば、次のPublicationは、Evernoteの使い方に関する記事をまとめたもの。

R-style » Medium Publicationで「Evernote Life」をスタート

面白いのは、編集者・ライターを複数人指定できる点です。つまり、雑誌みたいなことが簡単にできるわけですね。

でも、だからといって必ずしも複数人で運営する必要はありません。

シン・みたいもん

上のPublicationは、ひとりで管理されています。でもって、一つのブログっぽくなっています。最初これを見たとき、「あぁ〜、そういうことか〜」と思ったのですが、どういうことかはちゃんと書かれているので、そちらを参照のこと。
みたいもん!からシン・みたいもんへ、メインブログをココログからMediumに移転

この「シン・みたいもん」を見かけた次の瞬間には、私はもう行動を起こしていました。

Re:style – Medium

まず頭に思い浮かんだのは「シン・R-style」ですが、さすがにそれはダサすぎるので、R-styleをもじったタイトルを付けてみました。今のところ、メインブログを移行するところまでは踏み切れていません。よって、独自ドメインの設定もなし。試運転中といったところでしょうか。でも、感触みたいなものは得られつつあります。

そのあたりのお話を、作り方を確認しながら押さえていきましょう。

Publications作りのポイント

右上のメニューから「Publications」へ。

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「New publication」から作成メニューに飛べます。

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設定については、次の記事が参考になります。

MediumのPublicationsのデザインは数少ないグラフィック要素の精査が超大事だった

とりあえず適当に作成しても、後から「Publication Settings」で編集できますのでご安心を。

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押さえておきたいポイント

個人的に重要だと思うのがタグの設定と、トップページのデザインです。

Navigationでタグを設定すると、それがメニュー画面にタブ的に表示されます。一般的なブログで言うところの、「カテゴリ」として機能してくれるのです。

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※左がメニュー表示名、右が記事につけるタグ名(日本語タグは入力後に,を入れると確定されます)

何か記事を書いたとき、公開のタイミングで5つまでのタグを設定できるのですが、その際Publicationで設定しておいたタグを指定すると、自動的にその記事がカテゴリ設定されるのです。流れを確認すると、こうなります。

普通に記事を書く→公開の際にPublicationで設定したタグを指定→公開→Publicationに入れる→カテゴリ設定された状態で記事がPublicationに入る

もちろん、タグの指定は後からでもできますので、先にカテゴリを作ってから、記事にタグを付けて回るというやり方でもOKです。

これで単に流れるだけであった記事に「カテゴリ」という一つ上の情報単位が生まれます。まあ、普通のブログならば当たり前のことですが、Medium上ではこれは結構重要なのです。

たとえば、Twitterで流れてきた単発の記事にアクセスしたとします。

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もし、その記事がどこかのPublicationに属しているならば、上部にメニューが表示されます。これがデカい。ちなみに、一つの記事はどこか一つのPublicationにしか所属できません。Evernoteのノートブックのようなものです。この仕様も、こうしたメニュー表示を考えればもっともなことでしょう。

ともかく、記事がPublicationに入っていると、別の記事への動線が生まれることになります。これがわざわざPublicationを作る一つのポイントです。

ページデザイン

もう一つは、Publicationの設定メニューにある「Homepage」。ようはトップページのデザインなんですが、これが微妙なバランスで自由度が設定されています。なんでもかんでも気ままに設定できるわけではないが、細かい調整は楽にできる。そういうバランスです。

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で、重要なのが、その下にある記事の配置です。ここでは記事コラムを追加できるのですが、

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※+マークでコラムの追加。

それが4つのタイプから選べます。

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時系列、人気、自薦、特定のタグ(つまりカテゴリ)。これらから選択しコラムを配置できます。もちろん複数のコラムを配置することが可能です。

こうしたことはWordPressならもっと自由にデザインできるのですが、その分、結構込み入った知識が必要になります。で、それはなかなか素人さんには手が届かないわけです。MediumのPublicatisonsでは、そうした知識なしに、ある程度裁量のある記事の配置が可能になります。でもって、それが腕の見せ所となります。

一番最初に見せたいカテゴリ(タグ)を持ってきてもいいでしょう。自分の厳選記事を並べることもできます。フローを重視して、最新記事を持ってくる手もあります。つまり、記事レベルではなく、もう一つ上の「編集」が行えるわけです。こうしたことは、ある程度ブログ・システムに関する知識がなければ手に負え得ないものでした。それが開放された、ということです。

さいごに

ここまで書いてきて、なんとなく自分の言いたいことが見えてきました。

おそらく、コアとなるのは「一つ上の編集」のところでしょう。それがおそらくネクストステップに関わってくるのではないか、という予感があるわけです。でもってそれはフローとストックをどのように扱うのかという話とイコールでもあります。

非常にまとまりのない話ですが、まとまった話については、また頭がまとまってから書いてみるとしましょう。

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「なぜブログを書くのか」という問い

「なぜブログを書くのか」

という質問にぶつかったとき、ついつい「そこにブログがあるからだ」とか「その理由を知るために書いているんです」みたいな気取ったことを言いたくなる。なぜか。簡単には取り出せない気がするからだ。

ふと思いついた言葉を心から取り出して提出してしまうと、どうにも言い表せていない気がしてしまう。だから、空白のシンボルみたいなものを代わりに提出してしまうわけだ。

でもまあ、このタイミングでもう一度それについて考えてみてもいい。そんな気がしている。

で、結論から言ってしまうと、それは単純化できないし、それをしたら歪むということだ。

ブログを書く動機

ブログを書く動機は、ブロガーそれぞれで違う。だから、結果として出てくるブログも違ってくる。

もしブログを書く動機が同じであれば、目指す結果も似たようなものとなり、そこに向かう最適化された手法もまた同じになる。だから、どのブログも似たり寄ったりになる。一時期から爆発的に増えた、ある種のブログ群に拭いきれない金太郎飴感が漂うのはそのためだ。動機を外的に「与える」と、おおむねそのような結果になる。

もし金太郎飴感が漂うことにメリットがあるならば、それは合理的な判断だと言えるだろう。しかし、そうでないのなら、何か危うい道を歩んでいることになる。

しかし、である。

どんな人であれ、最初の一歩は必要だろう。そういうときに、外的に与えられる動機というのも、それほど悪くはない気がする。少なくとも、きっかけ作りにはなってくれる。

複数の指標

自分のことを振り返ろう。

「なんのためにブログを書いているのか」

そこは物書きらしくかっこよく「読者のためです」と言い切りたい。でも、正直に答えれば、私は私の書きたいことを、私の書きたいように書いている。それは揺るぎない事実である。だからといって読者を無視しているかというとそういうわけではない。できるだけ読みやすいように推敲しているし、誤字脱字も減らすように努めている。

もっと言えば、「役に立たないこと」よりは「役に立つこと」を書こうとしているし、またステマみたいなものには近寄らないようにしている。それは、一種の矜恃であり、それは他者を巻き込んだ自己満足とも言える。つまり、ここには複数の指標が混ざり合っている。

私のため、読者のため、社会のため……。

「なんのため」は、単一の要素ではない。さらに言えば、それは単純に還元できるものでもない。複数の要素があり、それらが相互作用を起こして、私の動機付けを生み出している。だから、簡単な言葉では言い表せないのだ。時間がないからと、何か代表的なものを口にすれば、どうしてもそこで歪みが生まれてしまう。

断片と私

「すべては断片でもあり、全体でもある」

情報の扱い方について私が言及した言葉だが、これは認識すべてに及ぶ。

「私」は、私を構成する複数の断片からできている。「分人」の説明を持ってきてもいいし、自分が持つ複数のペルソナを持ってきてもいい。どちらにせよ、私は単一の存在ではない。

でもって、その「私」は、社会を構成する断片でもある。「私」は他者と交流し、他者と相互作用を起こし、全体に影響を与えうる。

どのポイントであっても、それは「私」である。パーソナル&パブリック。それらすべてを含む総体が「私」なのだ。

さいごに

私は私のために記事を書いている。でも、その視点には読者(他者)の意識が混ざり込んでくる。たったこれだけのことで、R-styleにはステマの記事は載らなくなるし、好きな声優さんの話で盛り上がることもなくなる。

だからといってここには「自己犠牲」なるものは一つも含まれていない。そもそもとして私は私のために記事を書いているのだから。単に、指標が複数ある、というだけの話である。

おそらく、ブログをスタートさせたばかりのときは、指標は一つなんだと思う。「お金が欲しい」「モテたい」「自慢したい」「俺の話を聞け〜〜〜」……。でも、続けていくうちに、そこに新しい指標が入ってくる。おそらく、その新しい指標は、前の指標とぶつかることがあるに違いない。片方を伸ばそうとすれば、もう片方を伸ばせなくなるのだ。

そこで、もんもんとした日々が続く。どうすればいいのか。この方向性でいいのだろうか。そうやって考えていくうちに、指標と指標が融合する。それぞれが断片となり、新しい全体の下に位置づけられる。それらは相互作用しながらも、自分の中では一つの指標として機能するようになる。そして、続けるほどにその指標は複雑化していく。

そのような、3D空間での綱引きみたいなことを経て出てくる記事には、やっぱり「個性」としか呼びようのないものが宿ってくるだろう。もちろん、それはある種の「重さ」でもあるからして、良いかどうかはまた別に考える必要があるだろうけれども。

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ブログと知的生産、知的生産とブログ

「夏の知的生産とブログ祭り」では、ブログについてもお話しました。

わいわい盛り上がりましたが、結果としては「三人とも違うよね」という着地点になったので、今回は少し違った切り口で考えてみることにしましょう。

ブログと知的生産

「ブログにとって知的生産とは何か?」

ブログは、ツールとして見た場合、ウェブ上でのパブリッシング活動を支援するための道具として捉えられます。基本的には個人ユースが想定されますが、もちろん組織が運用することもできるでしょう。

その視点においては、ブログは単なる道具なので、「どう使うのが正しい」という規定はありえません。日記を書いたり、論考を書いたり、何か物を売ったり、誰かを怒らせてPVを稼いだりと、さまざまなことがそのツール上で実現できます。それはそれですばらしいことでしょう。

しかし、いろいろな使い方をしてもよい、ということは、どう使うかによって使用者の性質が露呈してしまうということでもあります。

「こう使わなければならない」という規定があるならば、その規定通りに使うかどうかが問題にされ、そこでは器用さや習熟度、あるいはルールへの従順心などが影響してくるだけです。しかし、「こう使わなければならない」がないのならば、どのように使うのかは、直接その人の性根みたいなものを映し出すことになります。包丁は魚を捌くためにも使えるわけですが、強盗を行うときにも使えるわけです。ここには、ある種の怖さが潜んでいます。

それを踏まえた上で、「ブログにとって知的生産とは何か?」という問いに戻るならば、まずブログを運営するとして、その中でいかに価値を増やしていくのかを探る人のための視点、ということになります。速く走りたいならトレーニングが必要だよね、というのと同じで、ブログの一つひとつの記事に価値を(あるいは価値の素材となるものを)添付したいと願うなら、知的生産の技術について学び、実践するのがいいよね、ということです。

知的生産とブログ

では、「知的生産にとってブログとは何か?」はどうでしょうか。

知的生産とは、

知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ

という行為です。でもって、注目するのは「ひとにわかるかたちで提出すること」の部分です。

「ひとにわかるかたちで提出すること」は、他の人が読めるように文章を整えて、というニュアンスもありますが、それに加えて「他人の人が読める環境にそれを出す」というニュアンスもあります。「提出」という言葉を重く受け止めればそうなるでしょう。つまり、広い意味でのPublisingが意識されているわけです。

となると、知的生活として、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがらを醸成していっても、それが「知的生産」として完結させようとするならば、それを提出できる「場」が必要なのです。あるいは「メディア」と言い換えてもよいでしょう。

2000年以前の世界で、個人の知的生産者がその「メディア」を持つのは大変な苦労でした。資格や功績やコネクションが必要であったり、あるいは作れても非常に小さい範囲にしか提出できない環境だったのです。しかし、今では世界中(少なくとも日本中)に向けて、「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出すること」ができるようになっています。その一端を担うのがブログです。

つまり、まず知的生産(あるいは知的生活)を行うとして、それを他の誰かに届けるための場の選択肢としてブログが存在することになります。

異なる視点と共通点

上記の二つは、どこかで重なる部分はあるにせよ、スタートラインが違っています。

まずブログがあるのか、それともまず知的生産(知的生活)があるのか。この違いに注意しておくと、話を切り分けやすくなるかもしれません。

とは言え、共通点もあります。

「まずブログ」の場合でも、知的生産の技術は大いにその活動に役立ってくれるでしょう。それらは苔の生えた古くさい技術ではなく、現代にまで続き、そして洗練が重ねられているモダンな技術です。その技術は、情報化社会において価値を生み出す手助けをしてくれるでしょう。

一方「まず知的生産(知的生活)」の場合でも、ブログを持つこと__ウェブ上にメディアを持つこと__の意義は少なくありません。自分の頭の中で発酵していたものが、ブログというメディアを通して、他人へと渡り、結果的にそれが社会への参画とつながっていきます。自分の知的生産の結果で、他の人とつながれた、という人は多いでしょう。それが、「ひとにわかるかたちで提出すること」の大きな意義の一つです。

そのようにして、知的生産とブログは合流していくわけです。

さいごに

今回は、

「ブログにとって知的生産とは何か?」
「知的生産にとってブログとは何か?」

と、問いの形を変形して、それぞれの視点で考えてみました。それによって差異が少し明らかになったのではないでしょうか。

もう一つ、これと関係して「なぜブログを書くのか?」という大きな疑問もあります。それはまた回を改めて書いてみるとします。

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