Category: 哲学・思想

違う言葉の感覚

よく似ている言葉ってありますよね。でも、それが意味するところには微妙に違いがあります。

問題と課題について(ver.石井)_”困った事柄””解くべき事柄”: 石井力重の活動報告

面白いことに、私たちはその意味を辞書的に理解していなくても、使う場面は滅多に間違えません。

クイズ番組での出題が「さて、課題です」とはなりませんし、部下へのアドバイスが「このプロジェクトは、潤滑なコミュニケーションの宿題を抱えている」ともなりません。感覚的に、言葉の意味を把握しているのです。

あるいは、言葉は文脈に置かれたときに、その意味性を発揮する、なんて言い方もできるかもしれませんね。つまり、単独だとわからないけども、連ねるとその単独の意味が立ってくる、というようなことです。

問1:「問題」と「課題」の違いについて自由に検討しなさい。

 


問2:「夢」と「目標」と「欲望」の違いについて自由に検討しなさい。

 


問3:「意志」と「意欲」の違いについて自由に検討しなさい。

 


問4: 個人は社会の上でしか生存できないことを前提として、「自由に生きること」について自由に検討しなさい。

 


▼その他の出題:

R-style » ヒーローの動機付け
R-style » 成功者の本

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隔絶された個と、ゆるやかなその連帯[今日の情報カードより]

Scannable

集団に違和感を感じる個は、その個を保つために集団から離脱する。そうしないと、集団に飲み込まれ、個が融解してしまうからだ。集団も異物を排するようにその離脱を受け入れ、結果両者は対峙する。離脱こそが、その個が個で在り続けられる手段なのだ。

類似の個が複数出現することもある。特に集団が大きければ大きいほどありえる。

しかしながら、それらの個同士が固く結びつくことはありえない。なぜなら、最初にあった違和感はそれぞれの個に属するからだ。離脱はその表明であった。固い結びつきは、その表明を弱めてしまう。それは個そのものを薄めることと変わりない。それが受け入れられなかったからこその離脱であった。

いくらかの共通性によってゆるやかな連帯が生じることはあるかもしれないが、原理的に考えればそれ以上にはなりえない。
※なるべきかどうかについては、また別の問題である。

ただし、これとはまったく違った形もある。つまり、集団Aから集団Bに移行することを初めから意図した離脱だ。

それは個に属した違和感に基づくのではなく、何かしらの価値基準による判断によって有利な集団を見定め、自分が不利な集団に属していることを理解した上で、その構造に変化を与えるものとして行われる。

その中で、一時的にこの主体が個としての振る舞いをみせることもあるが、最終的な目的地はまったく異なる。その個は、隔絶に耐えられないし、耐える意義もない。いずれにせよ、どこかの時点で別の集団に属するか、あるいは似た振る舞いを行う別の主体と固い結びつきを作る。

二つの振る舞いは、短期的なスパンでは似ているように見える。違いが見えてくるのは、時間が経ってからである。

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人類の保存欲求[今日の情報カードより]

Scannable

人類は言葉を作り”意味”を保存した。文字を作り、その言葉を保存した。

たいまつで火を保存し、農耕で食物を保存した。貨幣によって労働価値を保存し、信用でそれに裏書きした。

巨大なコンピュータがさまざまなデータを保存し、その速度と容量は増え続けている。

もはや保存は一般的・日常的な行為だ。

この欲求は、おそらくとどまることはない。記憶・意識・人格といったものにまでその手は伸びるだろう。ただし、掴めるかどうかまではわからない。ただし、もし掴めたならば、これまでと同じようにそれで社会は大きく変わるだろう。

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変化多き時代におけるアプローチ

最近、読んだ三冊の本があります。

人を助けるすんごい仕組み――ボランティア経験のない僕が、日本最大級の支援組織をどうつくったのか
人を助けるすんごい仕組み――ボランティア経験のない僕が、日本最大級の支援組織をどうつくったのか 西條 剛央

ダイヤモンド社 2012-02-17
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「超」入門 失敗の本質 日本軍と現代日本に共通する23の組織的ジレンマ
「超」入門 失敗の本質 日本軍と現代日本に共通する23の組織的ジレンマ 鈴木 博毅

ダイヤモンド社 2012-04-06
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プラグマティズムの作法 ~閉塞感を打ち破る思考の習慣 (生きる技術! 叢書)
プラグマティズムの作法 ~閉塞感を打ち破る思考の習慣 (生きる技術! 叢書) 藤井 聡

技術評論社 2012-04-18
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扱っているテーマは異なっているものの、この三冊にはある種の共通点が感じられました。

それは、「前例主義」に陥らないことの大切さです。

それぞれの書評については、次のリンクをどうぞ。
【書評】『人を助けるすんごい仕組み』(西條剛央)
【書評】『「超」入門 失敗の本質』(鈴木博毅)
【書評】『プラグマティズムの作法』(藤井聡)

構造構成主義

『人を助けるすんごい仕組み』には、次のような文章が出てきます。

要するに、考えればいいポイントは2つしかない。それは『状況』と『目的』なんです。いまはどういう状況で、何を目的にしているか。今回の場合は、目的は『被災者支援』ですけれども、こおの2つを見定めることで、『方法』の有効性が決まってくるんです。

「方法の有効性は、状況と目的に応じて決まる」

ごく当たり前の事柄に感じられますが、実際これが無視されている事例は多くあります。

状況や目的を無視して、方法だけ「持ってくる」というやり方はうまくいくはずがありません。

ダブル・ループ学習

『「超」入門 失敗の本質』では、

「同じ指標ばかり追いかけると敗北する」

という言葉が出てきます。

この対策として、ダブル・ループ学習が紹介されています。これは「一定期間ごとで方法を見直そう」という風に簡単に表現できるかもしれません。方法を見直すというのは、状況を再確認し、目的を再設定しよう、ということです。

プラグマティズムの作法

『プラグマティズムの作法』で紹介されている「プラグマティズムの作法」は、次の二つです。

作法一 「何事に取り組むにしても、その取り組みには一体どういう目的があるのかをいつも見失わないようにする」
作法二 「その目的が、お天道様に対して恥ずかしくないものなのかどうかを、常に問い続けるようにする」

これも上の二つとほとんど同じことを意味していますね。

これまでの手段に固執せず、目的に応じて取り組み(あるいは取り組み方)を変化させる、ということでしょう。

前例主義からの脱却

これらの要素は、

「ある手段の有効性は、状況と目的に応じて決まるのだから、まずそれを確認しないと、有効性ある手段は手に入れられない」

とざっくりまとめられるでしょう。

手段にだけ注目することは適切な結果を導き出しません。状況を見極め、目的を見定める。そこから手段を選んだり、見つけたり、新しく作り出していく。そういうアプローチが推奨(あるいは提唱)されています。

これは、「前例主義」の否定と言ってよいかもしれません。つまり日本の病理からの脱却です。

4つの環境

状況と目的について、少し考えてみましょう。それぞれの「変化」には次の4つの組み合わせが考えられます。

  • 状況も目的も変化している。
  • 状況が変化して、目的はそのまま。
  • 状況はそのままで、目的が変化している。
  • 状況も目的もそのまま

このうちの4つめは「安定期間」と呼べるでしょう。鎖国していた日本、みたいな状況です。

この安定期間では、前例主義・慣例主義が非常に有効です。状況も目的も変化していないのであれば、一つ前に成功した手法は、次でもきっと成功します。この環境下の中では前例主義が最適解なのです。

が、環境には違うバリエーションもあります。そして、おそらくは「安定期間」以外の時間の方が長いのではないか、という気がします。安定期間は、流れの中の一部分でしかなく、やがて終わりがやってきます。

さいごに

おそらく、

「状況と目的を確認し、それに合わせた手法を選択していく」

というのが「変化多き時代」において有効なアプローチなのでしょう。これは国政や戦争についてだけではなく、個人の生き方や仕事術にまで広がるアプローチです。

「状況と目的の確認」は一度実施すればOKというものではありません。それは、一定期間で繰り返す必要があります。言い換えれば、進行のプロセスに組み込まれている必要があります。

確認してみても、何も変わっていないことが確認されるだけかもしれません。それでも、それを確認できたことには意味があります。

また、「それに合わせた手法を選択する」というのも簡単なことではありません。でも、まったく不可能なことでもないでしょう。

手法についての知識が多ければ、選択肢は増えます。そういう意味で多数の手法を知っておくのは悪いことではありません。ただ、手法の知識を増やすだけでは問題解決には繋がらない、という点は踏まえておく必要があるでしょう。

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「激震 マスメディア ~テレビ・新聞の未来~」の雑感

2010年3月22日午後10時から放送された NHKの放送記念日特集「激震 マスメディア ~テレビ・新聞の未来~」は非常に興味深い内容であった。

有識者を集めた討論を行う、ということでテーマは以下のようなものだ。

今後、マスメディアはどう変革していくべきなのか。変革するためには何が必要なのか。そして、それは私たちの暮らしにどんな影響を及ぼすのか。世界のメディアの最新状況を伝えるVTR取材と、有識者によるスタジオでの討論をもとに、ネット時代のマスメディアのあり方について考える。

ちなみに、有識者は以下のメンバー。番組中でも座り位置で明確だったが番組側が想定していた対立軸がはっきりとわかるメンバー構成だ。

<ゲスト>
●日本新聞協会会長   内山斉 (読売新聞グループ本社代表取締役社長) 
●日本民間放送連盟会長 広瀬道貞(テレビ朝日顧問) 
●ドワンゴ会長     川上量生 
●ITジャーナリスト  佐々木俊尚
●学習院大学教授    遠藤薫  
●NHK副会長     今井義典 

マスメディアとネット。この対立軸からネット時代のマスメディアのあり方を模索するというのが試みであったのだろう。

また、それに関連した動きとしてUSTで番組にツッコミを入れるという企画も動いていた。
視聴された方も多いかも知れないし、あるいは存在だけは知っているという方も相当数おられるだろう。

切込隊長さんの「NHKハッシュタグ問題に関する私見(告知あり)」を見れば大体わかるが、

“革命的Ustream放送”「激笑 裏マスメディア~テレビ・新聞の過去~」の裏側 (1/2)(ITMedia)

も参考になるだろう。私自身はNHKの放送とUSTを同時に視聴し、その後しばらくはUSTも追いかけていたが、途中で断念した。ITMediaの記事を見ると30分ほど中継が途絶えていたそうだが、そのタイミングで「あぁもう寝なきゃ」ということで眠りについた。

というわけで、この裏USTについてはあまり言うべきことを持たない。強いて言えば、
・飲み会の中継(それはそれで面白い)
・特定の人飲み過ぎ(エビス美味しそう)
・毒舌家二人は多すぎた?(誰とは言うまい)

程度の感想があるばかりだ。試みとしては面白かったし、技術的な問題点も今回の事例で明らかになっただろうから、今後の展開にはますます期待ができると思う。

以下は雑感ながら「激震 マスメディア ~テレビ・新聞の未来~」の番組内で語られていた事を考えてみたいと思う。
※長文注意

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引きこもりという現象(1)~東京都の引きこもりが2万5000人~

都内の引きこもりが2万5000人と推計 東京都の調査で(産経新聞)

 東京都内の引きこもりの若者が、約2万5000人と推計されることが22日、都の調査で分かった。家族との関係が希薄な男性に引きこもりが多いのが特徴。これまで全国レベルの調査はあったが、大都市での本格的な調査は初めてだという。

あくまでも統計による推測ではあるが、東京都内で2万5000人のひきこもりがいるらしい。はたしてこの数字をどのように解釈すべきなのであろうか。

都によると、無作為に抽出した都内在住の15歳以上34歳以下の男女計3000人を戸別訪問してアンケート調査を実施した結果、引きこもりの若者は全体の0.72%を占めることが判明。この数字を、実際に都内に住む15歳以上34歳人口の349万1000人(平成18年10月現在)にあてはめると、引きこもりの若者は約2万5000人と推計されるという。

東京都内にすむ15歳以上34歳未満の人口が349万人。その内の0.72%ということで2万5000人。0.72%ということは100人の中で一人いるかいないか、というレベル。人間の社会学的な行動から考えればそれほど極端な数字であるとも思えない。
極端な数字でないから問題ではない、ということが言いたいわけではない。
この程度の数字ならば社会的なキャパの内側にある、という推測はできるが、今後この数字が拡大していくのであれば社会的な問題である、ということは言えるだろう。

単純に引きこもっている人が生産や消費側に積極的に関われば日本全体の消費活動というのは当然活発になるだろう。しかしそれはマクロ的な要請であり、個人の生き方を規制できるものではない。

少し話がややこしくなっているが、引きこもりに関しての問題は、引きこもっている人間は社会に戻ることが難しく、そういった人間が社会的にみてお荷物になる可能性が高い(社会保障などの面において)
ということにほぼつきるのではないかと思う。

つまり社会的に見れば、将来に向けての問題ははらんでいるものの、今現在においては消費や生産に関わっていない、というだけの存在に過ぎない。食い扶持を持たない人間を養っているのは当面はその両親であり、現時点では国に直接的な負担というものはない。
社会的には働いてくれればプラスにはなるけれども、働いていなくても今のところマイナスにはならない、という認識でそれほど間違っていないはずである。

であるとするならば、0.72%の引きこもりというのはそれほど大騒ぎする問題ではないだろう。ただ、そうして割り切ってしまうには違和感がある。もちろん将来へ不安材料を持ち越している、ということもその原因の一つであろう。いずれにしろ、そのまま働かなければ生活保護の対象となる確率は高い。そうでなくてもフリーターくらしか仕事がないとなれば、生活の不安は消えないだろう。そういう状況が持ちうる社会の不安定感というのは当然現時点から心配しておかなければいけない。しかし、今のパーセントから見ればそれは大きな問題ではないと言えるだろう。

結局残るのは、生き方としての問題、ミクロの問題ということになる。人が引きこもって生きるたいう状況は一体どのような意味合いを持つのか。社会との関わり合いの拒絶ということが都内でも万単位の人間で起こっているというのは一体どういった現象なのであろうか、という疑問がわいてくる。

単純に就労意識が低い、つまりやる気がない、ということで切り捨ててしまえばおそらく日本が抱える構造的な問題というのは見えてこないだろう。引きこもりというのはもちろんさまざまな要因があるのだろう。ただマクロの視点からミクロに移行し、そこからもう一度マクロを見つめ返す中で、この現象の中に潜む根本的な問題というのが見えてくるのではないかと思う。
それは人が社会で生きるというのはどういったことか。社会との関係や労働とは何か、ということをもう一度見つめ直す、という作業になるかもしれない。

ちょっと長くなったので続きはまた別の機会に。

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体のリズムが刻めない人々

産経新聞の特集になかなかおもしろそうなのがあった。(記事はこちら
「溶けゆく日本」というタイトルで、そのテーマは記事から引用すると

第4部のテーマは「快適の代償」。日々向上する生活の便利さの半面で、皮肉な現象が次々に起こっている。そんな「代償」を追う。

人類の科学技術の進歩は、我々の生活に様々な豊かさを与えてくれた。しかし、豊かに、快適になれば、また別の貧しさや不快感というものが生まれてしまう。それは人間がこうして生きている以上ある程度は仕方がないことだ。

この記事は待てない人々というタイトルで、スピーディーに動き回る現代社会で待つという事がだんだんできなくなってきている人の傾向を探っている。
出したメールの返信が気になって仕方がない、飲食店で待たされるのが耐えられない、子どもが成長していくのをじっと見守れない、現れ方は様々だが、文明、技術の進歩、情報の伝達などが普及した結果もたらされた不快感といえるだろう。

人間というのは体内時計というものを持ち合わせている。24時間よりもすこし長めに設定されたその時計によって人は一日の間隔を切り替えていく。それは遺伝的に刻まれたリズムといって良いだろう。そういったリズムはそのほかの事にも深く刻まれているはずである。
体に刻まれているはずのリズムはおそらくはそれほどせかせかしたものでは無いはずだ。人類がここまで文明を進歩させたのは歴史的にかなり最近の事である。我々の遺伝子はまだそこまで対応はできていない。
しかしながら、メール返信の1分、レジの3分が待てない人々が増えてきているという。
それは単純に我慢ができなくなった、つまり脳の力が弱まったという事ではないのかも知れない。
最近はかなり寒くなってきているが、それでも有名なラーメン店には行列ができている。その行列に並ぶ人たちは1杯のラーメンのために20分や30分くらいは平気で待つ。というよりもラーメンを食べるという行為の中に待つという作業が組み込まれているといってもいいかもしれない。待つことにもそれなりの価値がある、というふうに認識しているのかもしれない。
しかし、1分が待てない人もいる。私なんかも食べ物屋で行列に参加するの気は全くない。それがどれほどおいしい物でもわざわざ並んで食べようとは思わない。しかしそれは感覚的に待てないというよりは行列というものがキライなだけだ。
なぜ待つことができないのか、ということを考えていくとやはり脳ということに行き着いてしまう。もちろん待たせないことをサービスの第一条に掲げるサービス業に消費者がならされてしまったというのが非常にわかりやすい理屈である。
しかし、あえて脳と体というところで考えてみたい。
先ほども述べたように体のリズムというのは結構穏やかなものである。一日のリズム、食事のリズム、消化のリズム、睡眠のリズム、どれをとってもそれほどせっぱ詰まった感じはなく、余裕を持って刻まれたリズムだ。
しかし、脳はどうだろう。今の現代社会で脳に送られる情報というのは非常に多い。それは少し悲しくなってしまう位に莫大な量である。何が悲しいのか。それはその大半が意味もなく役にも立たない情報だからだ。しかしそれが何か意味があるかのような包装紙に包まれて送り込まれる。普通脳は意味のない情報はかなり切り捨てて処理している。そうでないと簡単にパンクしてしまうだろう。生存に必要な情報をピックアップし、荘でない情報は切り捨てる。情報の重み付けがなされているのが脳の情報処理である。
しかし受動的に受ける情報はほぼ均一の重みしか持っていない。テレビをぼーっと見ていると、番組とCMの境界が非常に曖昧になってくる。CMを見るためにテレビをつけているわけではないはずなのに、番組と同じようにCMを見てしまう。情報処理的に言うと非常に効率の悪いことをしているわけだが、見ている本人はそれを気にすることはない。

そうやって送り込まれる情報の切り替えはかなりスピーディーだ。何せ本来は意味のない情報だから吟味されると内容が無いことが発覚してしまう。だから次々に目新しげなパッケージで内容の無いものを送りつける。
そういう情報の流出にさらされていると、だんだん間というものが感じられなくなってくる。間というのはある物とある物一定の間の空間、距離、時間の事だ。本来は何かがあって、次の何かがあるまでにこの間というのが存在する。その間に人は深い熟考に陥ったり休息を取ったりする。
この間というものがほとんど無い状態に脳は陥っているのではないだろうか。
そうであるならば、待つというほとんど何の意味も無い時間に人が耐えられなくなってしまう。イベントの次にはすぐ次のイベントが待っていないと気が済まない。そういった人々が増えてきている、というのはこういう事ではないかと思う。

別にテレビが全般的に悪いなどと言うつもりはない。インターネットにだっておそらく似たような構造は眠っていることだろう。体のリズムを見失って、脳のみで今を認識する人々、この増加を食い止めるためにはいったいどのような対策があるか、その辺はまた別の機会に。

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この国の行き先

出先にノートPCを持ってきたのは良いが、マウスを忘れたので、ニュース記事の切り張りはちょっとめんどくさいので今日はなし。

近畿地方では久方ぶりにかなりの量の雨が降っています。
こうなると今の季節が一体なんなのか感覚的には非常に分かりにくいですね。

もう11月の足音が聞こえてきています。ということは冬ですか。秋の認識もほとんどないまま10月が終わっちゃうのは少し悲しい感じですね。今年は紅葉も見にいけなかったし。

今国会が行われているというのにあまり政治面で注目する記事がありません。
基本的に与党というか自民党が対決姿勢をとらず、また民主党が反対のための反対を掲げることで、「いつどのような形での解散か」という探り合いになっているのが原因かもしれません。

もちろん国会でもさまざまなことが議論されているはずですが、メディアの注目はほとんどありません。相撲とかボクサーとかこの国的にはほとんど意味は無いが、煽ることによって正義の側に立つことができる話題にメディアの関心は集中しているみたいです。

この国の将来を考えるということは大変苦痛な作業です。消費税は何パーセントか、社会保障はどうなるのか、年功序列の崩れた会社でどのように生きていくのか、過酷なサービス業での働き手の不足は?時間を持て余すニートやフリーターたちの将来は、などなど真剣に考えれば考えるほど暗くなる話題がたくさんあります。
それに比べれば今のメディアを賑わせている話題は、ほとんど何の思考もいらず、一方的にあいつが悪いという意見を主張するだけでもっともな意見として通用してしまいます。ネガティブな感情を排除して、善悪の判断も必要なく、価値観の対立すらありません。

こういう楽な方に流れていけば行くほど、別のところに立っている本質的な問題はどんどんと置き去りにされて、手のつけられないほど成長してしまうのです。
サブプライムローンの問題でも少し落ち着いたかんはありましたが、やはり日経平均の値動きの幅は大きく、しかも上値を押さえつけられ、どうにも上昇できない感じがあります。それは日本国内だけでなく投資家というもの間に拭えない不信感があり、しかも日本という国の将来がそれほど楽観できないという予測からきている結果と言えるでしょう。

本来はもっとこの国は悲観的な見方に満ちていながらも、なんとか建設的な方向を探そうと必死にならなければ行けないはずが、どうにも的外れな話題、一時的な話題に流され過ぎている感じがあります。

これも誰の責任かということを追求しても仕方がありません。メディアの無自覚さと言うことはよく取り上げられますが、メディアに依存している人間が多くいれば、それもまた問題と言えるでしょう。ネットも今のところまったく健全なメディア装置とは言えないようです。

これからのよりどころは一体何になっていくのでしょうか。この国は世界に向けて何を誇れる国になっていくべきなのでしょうか。すくなくとも「安全」というキーワードは徐々に外れようとしていることは間違いありません。

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長崎原爆の日に思う

2007年8月9日。62回目の長崎原爆の日である。われわれはこの日に一体何を思うべきなのだろうか。

長崎原爆:平和祈念式典 宣言で非核三原則の法制化求める(毎日新聞)

長崎は9日、62回目の原爆の日を迎えた。爆心地近くの平和公園で、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典があり、4月の銃撃事件で死亡した伊藤一長・前長崎市長を引き継いだ田上(たうえ)富久市長(50)が初めての平和宣言を読み上げた。市長は宣言で、原爆投下を巡る久間章生前防衛相の「しょうがない」発言に触れ、「誤った認識」と批判し、非核三原則の法制化を求めた。また、米国など核保有5カ国に加えて、北朝鮮やインド、パキスタンなど新たな核保有国の出現に対し「核不拡散体制が崩壊の危機に直面している」との認識を示し、政府に核兵器廃絶に向けた強いリーダーシップを求めた。

世界中から核兵器は減っているのだろうか。核兵器廃絶に向けて世界中かひとつの意志の元に力を合わせているだろうか。
無論そのようなことは無い。日本自身ですら核兵器を持つことが想定されかねない世界情勢というものがそこには厳然と存在してしまう。

さらに、00年の核拡散防止条約(NPT)の再検討会議で、核保有国が全面的な核廃絶を約束したことを指摘しながらも、核保有5カ国に加えて新たな核保有国が相次いで生まれている現状に対し「核兵器使用の危険性を一層高めている」と述べ、核を巡る世界の現状を憂慮した。その上で、名指しこそしないものの、久間前防衛相の「しょうがない」発言や麻生太郎外相らが唱える核保有論などに言及。「被爆国の政府として廃絶に向けリーダーシップの発揮を」と国に注文を付け、「非核三原則を国是とするだけでなく、その法制化こそが必要です」と訴えた。

基本的に核保有国が世界のバランスをとろうとする中で、核兵器を廃絶していくというのはもはや理想よりも空想に近いものなのかもしれない。
誰だって自分の力を自ら放棄したいとは思わないものだ。そしてその力が強大であればあるほどその傾向は強いものになるだろう。

さて、日本は一体どのような態度で世界に対峙するべきなのだろうか。
われわれは何を望み、何を実現するべきなのだろうか。

「あのような惨劇を二度と繰り返させない」
本当にそれに尽きるのではないか。世界中から核兵器をなくすことはできない。圧倒的な技術革新が起こり一瞬で核兵器を無効化するようなそんな夢のような技術が確立されない限りそれぞれの国がパワーバランスを眺めながら核兵器を所有し続ける今の状態に変化は訪れないことだろう。インドやパキスタン、北朝鮮などが核兵器を所有することを望むのも、日本がアメリカの傘下にはいっていることも自己防衛としてみれば非常に理にかなっている。
単純な軍事力以上の何かが核兵器にはある。それは日本が核武装をする、という議論が持ち上がるたびに起きる圧倒的な非難からも理解できるだろう。

そのような力を持った核兵器を廃絶するためには日本という国の力はあまりにも弱すぎる。核廃絶を他の国に訴えかけるほどの力は核保有国にしかないという笑えて繰るほど捻じ曲がった構図の中で完全に日本という国のポジションは無い。日本とアメリカの力菅家を見ればそれは痛いほど伝わってくるだろう。われわれが世界に向けて唯一発信できる要素は「被爆国」であるというその一点に尽きる。

では、被爆の痛みを知る国として日本は存在できているだろうか。日本人のどのくらいが核兵器というのはどういったもので、どのような害があり、実際に広島と長崎でどれくらい犠牲者がでて、現在にもその被害の足跡が残っている、ということを知っているだろうか。なんとなく曖昧で漠然としたイメージで核というものが語らえていないだろうか。

歴史の教育の中で、近~現代史がおろそかにされている現状では、そういった知識が一般化していなくてもそれはある程度やむないことなのかもしれない。
しかし、「唯一の被爆国」としてできることは、その脅威を伝えることに尽きるのではないだろうか。それは国連の代表が会議で発言するということだけではない。一人ひとりの日本人がきちんとしたイメージを共有している、そして海外の人間にきちんと自分たちの思いを伝えられる、ということではないだろうか。
そういう意味で、まだまだこの国の力は弱いといわざる得ない。
非核三原則の法制化よりもそういったところに力を入れていく必要があるのではないだろうか。

「唯一の被爆国」として存在する日本。改めて考えれば「唯一の核兵器使用国」として存在しているはずのアメリカ。その二つの国が同盟関係を結んでいる、というのも滑稽であるのだが、それこそが核兵器のもつ力を示すものだといえるのかもしれない。
そしてそれはそのまま今後のわれわれが考えなければいけない大きな課題のひとつだともいえる。我々は大きな傘の下守られているのか、それとも呪縛にも近い束縛のした軟禁されているのか。

2007年8月9日。われわれはこの日に一体何を思うべきなのだろうか。

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国家の機能 ~カンバスは白紙たるべきか~

6月の失業率3.7%、有効求人倍率も3カ月連続で上昇

総務省が31日発表した6月の完全失業率(季節調整値)は前月比0.1ポイント低下の3.7%だった。4月に3%台を回復し2カ月連続で3.8%となっていたが再び低下した。厚生労働省が発表した6月の有効求人倍率(同)も前月を0.01ポイント上回る1.07倍と3カ月連続で上昇。雇用情勢は改善している。ただ労働者の賃金はマイナス傾向が続いている。雇用改善が物価にどう波及するかは依然として不透明な状況だ。

雇用情勢は改善されているのだろうか。このあたりの感覚はちょっとわからない。数字上の失業率が改善しているというてん、求人倍率もあがっているという点はあるが、それほど目だった数字ではない。むしろ注目したいのは賃金のマイナス傾向のほうである。

6月の現金給与総額、7カ月連続で減少・賞与減響く

厚生労働省が31日発表した6月の毎月勤労統計調査(速報、従業員5人以上)で、すべての給与を合わせた現金給与総額は前年同月比1.1%減の46万5174円で7カ月連続で減少した。賞与を示す「特別に支払われた給与」が19万4184円と2.3%減少したことが影響した。

業種間の差異はあるだろうが、全体で平均を取ると給与は下がっているということだ。
一人頭の取り分が減り、その分で求人が増えているということだろうか。

高給を得ていた段階の世代が退職し、それが再就職や新規雇用につながることにより平均賃金というのは落ちていく。おそらくはそういった現象が数字に現れているのであろう。

しかし、すくなくとも多くのサラリーマンの給与が目だって上がっていない、ということは間違いないだろう。

このところ物価の上昇が目立つ。電気やガス、そしてガソリン。徐々に物価の上昇、つまりインフレへの圧力が高まっている。しかし賃金は上昇してきていない。
よく、「景気回復の影響はいまだ中小企業までまわってきていないようだ」というような景気観測があるが、果たしてその観測は正しいのであろうか。上のような言い方には、
今はまだちょっと厳しいかもしれないが、時間がたてばみんな幸せになれるよ、というような含みがある。

そのような認識は現代に至るまでの日本では十分通用していた。しかし経済の仕組みが変わりつつある中で、大企業の景気の良さが時間を経て中小企業にまで広がるという絶対的な保障はもう無いのかもしれない
大きな企業であるほ市場は世界に開かれる。マーケット、労働者それぞれが世界に開かれている。いかに作り、いかに売るか、ということをグローバルな視点で考えていかなければならない。そういうのが当たり前に成りつつなる中で、大企業→中小企業という構図はもう崩れつつあるのかもしれない。

おそらくこのまましばらくは「景気回復の影響は・・・」というようなことが言われ続けるのではないだろうか。そしてそのまま体力を持たない中小企業がつぶれていく、というような形をどうしても想像してしまう。この日本社会全体が、あたらしい経済体制に向けてシフトしていかなければならないなかで、いまだに政局ひとつまとまらないこの日本は一体どうなっていくのだろうか。
経済を立て直すというお題目は大切である。しかしその経済という言葉がこの国民全体に影響を与えるものなのか、それを使う政治家の意図をわれわれはきちんと精査しなければならない。

今は切断と接続が極端な形で現れている。日本にすむ人々はいろいろな意味で切断されている。個々のつながりが薄いというだけではない、以前はきちんとリンクしていた良い学校→よい会社というリンクも切れつつある。今まで接続されていたいろいろなものが切断され、新たな接続先を探している。
逆にネットの著しい普及により、個人がさまざまな対象とつながれる可能性を得ている。それは国や会社や社会が用意したリンクではなく、個人が自分自身で選べるネットワークである。
いろいろな情報を参照し、いろいろなデータをダウンロードし、いろいろな人と会話し、いろいろなビジネスを提案できる。

自分でうまくネットワークを構築できる人はさまざまなものとつながることができる。
それができない人は、誰かが用意したネットワークで我慢するか、その構造から完全に取り除かれるかの二択しかない。

雇用をめぐる環境が変わりつつあるなかで、当然のように労働者もその変化に適応しなければならない。そうでなければ、不本意な仕事を不本意な給料で続けなければいけない状況に追い込まれてしまうだろう。

そういった意味でこれから社会人になる人たちはさまざまな可能性を持っているし、それとともにある種の困難さも同時に抱え込まされてしまっていると思う。
若者が職や社会のあり方について困惑を覚えるのは当然のことだろう。
人は完全に自由な状態で選択を行うのは相当に困難であろう。制約された中でいくつかの可能性を検討し、最大限の結果を得ることはある程度容易である。
社会のシステムから放り出された若者は、まったく白紙のカンバスに自分の将来を描いていかなければならない。日本社会は未来について輪郭線を与えることすらできていない。
彼らが頼れるのは自分自身だけなのだが、それをはっきりと告げる人間はそれほど多くない。それを告げられない親は子どもの面倒を見続けるしかない。

現実は冷酷であり、時間は流れ続けている。

ひとつの国において、「歩んできた歴史、伝統を引き継ぐこと」「そこで生きる子どもが未来に希望を感じられること」この二点以外に重要なものは何ひとつ無いような気がする。

歴史や伝統が置き去りにされているのであれば、その国がその国である理由というのはまったくなくなる。別にほかの国の属国・植民地であってもかまわないことになってしまう。地球上のさまざまな地域でさまざまな文化が存在し、それが今でも残っている。
それが残っているということだけでそこには意味がある。
歴史や伝統を引き継ぐというのは単に良い面だけを受け取る、ということだけではない。
犯した過ちや、方向性の失敗なども過去の教訓として刻み込むということだ。

「伝統は、遺産でもあり、重荷でもある」というのは私の好きな言葉の一つだが、これは国だけに通用するというものでもない。一人の人間、ひとつの会社においても通じる言葉であると思う。

もうひとつの「そこで生きる子どもが未来に希望を感じられること」というのも重要である。当然
子どもがきちんと尊重される社会であるということとともに、社会にいきる大人たちが自ら肯定して生きているということが必要になってくる。野球のイチロー選手や松井選手を見てプロ野球選手、メジャーリーガーにあこがれる子どもたちは多いだろう。しかし今の朝青龍を見て力士に憧れを感じる子どもがいるだろうか。
それは会社勤めのサラリーマンにだっていえることだ。社会で生きる人々が努力し、結果を残し、満足感を感じているという姿が子どもに自分たちが生きる希望を与えるのではないだろうか。

「歩んできた歴史、伝統を引き継ぐこと」「そこで生きる子どもが未来に希望を感じられること」というのは国の基本的な機能を表しているように思う。それは過去と未来をつなぐものだ、ということだ。今この瞬間存在し続けることしか頭に無い国というのは国として体をなしていないとすらいるのかもしれない。

今の日本は果たしてその二点をうまく満たせているだろうか・・・。

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