Category: 「本」について

中公新書の既刊本の紹介と豪快な波乗り

先日、『会議のマネジメント』という本を読み終えて、パラパラと巻末をめくっていると、ふと気になるものが目に入った。中公新書の既刊本の紹介だ。文庫や新書でよく見かけるあれである。

もちろん、今までだって何度も目にしているはずなのだが、最近雑誌づくりをしているので紙面構成についてのアンテナ感度が高まっているのだろう。ともかく、ふ〜ん、という感じで気になったのだ。

ブック・リンク

既刊については、二種類ある。一つは、巻末のページに並んでいるリストで、そこには「情報・コミュニケーション」や「科学・技術」といった分類名がくっついている。もう一つは、裏表紙のカバー裏で、そこには特に説明はない。

これらは、いったいどういう役割を担っているのだろうか。

たとえば、川喜田二郎氏の『発想法』をめくってみる。


  • 知的戦略・実用
  • 情報・コミュニケーション

・既刊より

『続・発想法』
『発想の論理』
『野外科学の方法』
『コミュニケーション技術』
『「超」整理法』
『続「超」整理法・時間編』
『会議の技法』


ははぁ、とおぼろげながら見えてくる。前者は、その本の内容を仮に分類するとして、それに近しい分類が並べられているのだろう。対して、後者はより内容的近接性がある本のタイトル、といった感じがする。

とりあえずは、分類を確認してみよう。中公新書のサイトから目録がダウンロードできるのでそこからリストアップしてみた。

中公新書分類

哲学・思想
宗教・倫理
心理・精神医学
日本史
世界史
現代史
経済・経営
政治・法律
言語・文学・エッセイ
芸術
社会・生活
教育・家庭
知的戦略・実用
情報・コミュニケーション
科学・技術
医学・医療
環境・副詞
自然・生物
地域・文化・紀行

19の項目がある。日本十進分類表とは少し違うようだ。あるいはそれをもう少し実用的に細分化したものと言えるかもしれない。個人的に気になったのは、「情報・コミュニケーション」と「知的戦略・実用」である。特に、「知的戦略」という言葉遣いがいい。

「知的生産」や「知的生活」は__岩波や講談社の顔が浮かんで__使いづらいだろうし、それに「戦略」という言葉の響きはもっと目つきが鋭い印象がある。細い眼鏡をかけて総大将の隣に座りながら、「それはですね……」と小さい、でもよく通る声で謀略を説明するような印象である。

と、しょーもない言葉の擬人化は置いておくとして、「戦略」というのは概して知的なものであろうから、ようするにこれは「知的な」ものに関する戦略ということで、ようは知的生産の技術を指しているのだろう。

ということも踏まえて、いくつか手持ちの中公新書をパラパラとめくってみる。


発想法』(以下書名リンクはすべてAmazonページ)

  • 知的戦略・実用
  • 情報・コミュニケーション

・既刊より

『続・発想法』
『発想の論理』
『野外科学の方法』
『コミュニケーション技術』
『「超」整理法』
『続「超」整理法・時間編』
『会議の技法』


「超」文章法

  • 社会・教育 1
  • 社会・教育 2

・既刊より

『詭弁論理学』
『理科系の作文技術』
『「超」整理法』
『センスある日本語表現のために』
『続「超」整理法・時間編』
『「超」整理法3』
『英語達人列伝』


『理科系の作文技術

  • 知的戦略・実用
  • 情報・コミュニケーション
  • 科学・技術
  • 自然・生物

・既刊より

『発想法』
『続・発想法』
『詭弁論理学』
『数学受験術指南』
『「超」文章法』
『知性の織りなす数学美』
『数学する精神』


続・発想法

  • 知的戦略・実用
  • 地域・文化・紀行

・既刊より

『人間関係』
『発想法』
『コミュニケーション技術』
『「超」整理法』
『会議の技法』
『「超」文章法』
『レポートの作り方』


ロラン・バルト

  • 哲学・思想
  • 世界史
  • 現代史
  • 芸術

・既刊より

『現代哲学の名著』
『フランス的思考』
『動物に魂はあるのか』
『物語 哲学の歴史』
『ハンナ・アーレント』
『フランクフルト学派』
『フランス現代思想史』


並べるだけで面白い。たとえば、『発想法』と『続・発想法』では、提示される分類名が違っている。「知的戦略・実用」は共通しているが、前者は「情報・コミュニケーション」で、後者は「地域・文化・紀行」となっている。

単純に「続」を買う人は、その前のも買っているだろうから、アクセントをつけただけ、という風にも捉えられるが、実際に「続」に目を通すとこの配慮がじんわりわかってくる。

「続」に関しては、著者の「実践例」が多数登場し、その内容が「地域・文化・紀行」的なのだ。つまり、研究に使う手法ではなく、その研究の内容に重きをおいて分類が選択されているように見える。これは本のコンテンツを十分に理解した上でのコンテキストの選択であり、こういう微妙な配慮の聞いた仕事は実に小気味が良い。

他には、「既刊より」に何度も登場する本は、名著である可能性が高い、ということも推測できる(『「超」整理法』は読んだ方が良さそうな気がプンプンしてくる)。「既刊より」は、その本の内容に関係する本であり、複数の本の「既刊より」に登場するということは、紹介されている本が広い射程を有していることを意味している。

もちろん、言うまでもなく、これらのリストは分類であれ「既刊より」であれ、良質なブックガイド(あるいは堅実なブッグガイド)となってくれる。本というのは、パッケージされたコンテンツではあるものの、それが孤立していることはほとんどない。著者が意識するしないに関わらずコンテキストを持っているのだ。そして、適切なコンテキストに沿って本を読むのは、豪快に波乗りするくらい気持ちの良いものである。

「データベースのリンクを確認しました」

ただし、このブッグガイドは中公新書内に閉じてしまっている。販促手段なのだから当然であるし、自社の本であるからこそ(自分たちで作っているからこそ)、内容に即したレコメンドが可能とは言え、本好きとしては少し物足りない。

仮にこれをレコメンドを実現するデーターベース__本の情報と関連する本の情報が管理されているデータベース__だと捉えるならば、複数のデーターベースをリンクさせるのが望ましい。中公新書内にある、『発想法』とそれに関する本の情報と、岩波新書内にある(はずの)『知的生産の技術』とそれに関する本の情報がリンクすれば、実に豊かなブックコンテキストが生まれるだろう。もしそんなものが生まれたら、私は一日中それをクリックして遊び回る自信がある。

そのようなブックコンテキストを、「購入履歴」による集合知という方向からAmazonは実現しようとしているが、実際あまりうまくいっているとは言いがたい。まったく的を外しているとまでは言わないが、中公新書の既刊本の案内に比べると、力不足感はどうしても残る。

なぜなら、「買う」ことと「読む」ことは直結していないからだ。もっと言えば「読む」ことと「理解する」こともスムーズには直結しない。その辺に限界があるのだろう。

さいごに

というわけで、コツコツとブックコンテキストを育てているのがHonkureである。あと1年もすれば半日くらいはクリックして遊び回れるサイトになる__はずである。

本の売上げをアップさせるアプローチはいろいろあるはずだが、本を読まない人に本を読ませようとするのは慣性の法則的になかなか難しいものがある。摩擦をこえるほどの力を加えなければいけない。だったら、すでに本を読む人が、スムーズに次の本を探せるような仕組みを、豪快に快適に気持ちよく波乗りできる仕組みを作るアプローチが良いのではないかと思う。

3年後に読んでも面白い本を、3年後にもちゃんと探せるような、そんな仕組みを。

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読んでなくてもいいじゃん

一年間に、7万とか8万の本が新刊として出版される、みたいな話を聞きました。とんでもない数です。仮にその数が半分になったとしても、とんでもなさ加減は変わらないでしょう。

もちろん、それこそが「本」という文化の多様性を担保してもいるのですが、問題は出会いです。

私が丹念に書店を練り歩いて、一年間に1万冊の本と出会ったとしても、6万冊程度のチェック漏れが出てきますし、実際は書店には置いていないような本もあるので、そもそもその計画自体に無理があります。そして、次の年が始まるのです。チェック漏れは、10万冊、15万冊とわけがわからない数に膨れあがっていきます。

まあ、そうやって出版される本の大半は、私にとってどうでもよい本なので、チェックが漏れていてもどうでもよいのですが、100%完全に、そのすべてがどうでもよいとは言い切れないのが難しいところ。見逃した6万冊のうち、一冊くらいは人生をねじ曲げてしまうような本が含まれていることもありそうです。なにせ6万冊ですからね。

そこで、こんな話も出てきます。

ようは「読み終わった本」を紹介してくれるのはよいのだけれども、それだけだとあまりに数が少なすぎるんじゃないのか、ってことなんだと思います。ですよね。

もちろんどうがんばっても8万点数をフルカバーすることはできません。それでも、「読み終わった本」以外でも紹介していけば、本との接点は増えるのではないかと思います。そもそも、書店に足を運ばない人も多いみたいですし。そういう場合、新しく出会える本の種類が非常に限られてしまいます。仮に書店に足を運んだとしても、各書店によって「傾向」があるので、日本全国津々浦々の書店を巡り歩かない限りは、どうしてもフィルターが働いてしまいます。

だから、人と人がネットワークを作り、そこでそれぞれの人が見つけた「あっ、面白そう」という本を紹介することで、新しい本に出会える確率を上げられるのでは、というアイデアが出てくるわけですね。

ただこれは「あちら側」の人向けの情報です。あちら側とは、本に関する感覚がもうバカになっていて、「面白そうだったら、ともかく買う」みたいなことを平然と思う人ということです。「ぜひとも、面白い本(だけ)を買いたい、読みたい」という人にとっては、こういう情報はあまりに乱暴に感じるでしょう。なにせ、情報を提供する人が面白さのハンコを押してくれていないわけですから。

でも、世の中には他人のハンコなんて(ほとんど)見向きもせず、自分のジャッジメントで本をやたらめったら買う人がいて、そういう人にとっては、売り場でも見かけないし、検索ワードも知らない本の情報が目の前に出てくるだけで「ごちそう」なわけです。

だからまあ、#FTBook なわけです。説明はしません。

なぜなら、そういうネットワークに、アフィリエイト狙いの人たちが混ざってくると、情報ソースとして役に立たなくなるからです。そういう人たちは結局、「売れそうな本」「売れている本」の情報を流すばかりとなり、それって結局書店とかと一緒じゃん、ってことになります。求めているのはそういうのではないのだよ、明智君、と僕は声を大にして言いたくなります。

だから僕らは僕らでひっそりやるわけですが、それはそれとして「面白そうな本」とか「途中でやめちゃった本」とか、そういう本の紹介も、喜ぶ人はたぶん喜びます。あるいは、その数は少ないのかもしれませんが。

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興味関心の8:2

いつものように書店をぶらっと歩いていたら、『カール・クラウス 闇にひとつ炬火あり』という本が目に入った。講談社学術文庫から2015年11月に発売された本だ。この原稿を書いているのが2016年の2月なので、3ヶ月前の本ということになる。現代の情報流通の速度から言えば、少し古い本になってしまうだろう。

カール・クラウス 闇にひとつ炬火あり (講談社学術文庫)
池内 紀
講談社
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たしかそこは書評掲載本のコーナーで、どこかの新聞の記事と共に『カール・クラウス』が堂々と面陳されていた。私はこの「カール・クラウス」という人物については全然知らなかったのだが、なぜだか心が惹かれてしまった。読書好きの人ならばおなじみであろう、あの感覚__本に呼ばれているような感覚__が湧いてきたのだ。

Amazonから内容紹介を引いておく。

モラヴィア出身のユダヤ人として生まれたクラウスは、1899年にウィーンで評論誌『炬火(Die Fackel)』を創刊する。ヨーロッパがやがて世界大戦に向かう激動の時期を迎える中、クラウスは編集者としての役割を越え、1911年末以降は『炬火』をたった一人で編集・執筆する個人誌に変貌させていった。そうして権力や社会や文化の堕落・腐敗に鋭い批判を突きつけていった『炬火』は常に毀誉褒貶の対象であり続けることになる。

この評論誌『炬火(Die Fackel)』__かっこいいタイトルだ___は、編集長であるカール・クラウスが自分で原稿を手がけ、広告も入れずに淡々と発行されていたらしい。つまり、しっかりとした購読者がいたわけだ。

ちょうどそのときの私は、コンテンツの有料と無料について考えている傍ら、「自分が雑誌を編集するとしたら、そこにはどのようなコンセプトを入れるだろうか」といったことも考えていた。運命の出会いとまでは言わないが、合コンに行ったら黒髪のメガネ美人がいたくらには幸運な出会いである(ただし私は合コンなるものに行ったことはない)。

こういう出会いがあることが、書店の魅力だろう。最大の魅力とすら言ってもいいかもしれない。

確認しておきたいのは、私は「カール・クラウス」なる人物を知ってもいなかったし、知りたいとも思っていなかった。それにインディペンデントな評論誌の在り方についての情報を探しているわけでもなかった。そんなものが、私の思索に役立つなんてことは思いもしなかったのだ。

私の過去の読書履歴をどれだけ分析しても、お勧めとして『カール・クラウス 闇にひとつ炬火あり』が出てくることはないだろうし、因果関係をはぎ取ったビッグデータの相関関係でも無理だろう。

重要かつやっかいな問題は、私の興味・関心というものが動的に変化していくということである。

一冊の本を読み終える。それが十分に深い読書ならば、読書のビフォーアフターで、「私」というものは変化している。そして、その変化がどのようなものであるのかは、誰にも予測しえない。一冊本を読み終えるごとに、そして書籍以外の情報に触れるたびに、「私」は変化していく。その変化は気分的には線形に感じられるが、実はそうではない。

もちろん、例外はいくらでもある。というか例外の方が多いくらいだ。

私が村上春樹氏の小説を5冊読んだとする。さらに村上作品やエッセイを薦めるのは有効だし、彼が好んで読んできた(あるいは言及してきた)小説や映画や音楽を紹介するのも有効だろう。そうやって広がっていく興味というのもたしかにある。

しかし、それだけではないのだ。この「それだけではない」をどの程度、つまりどのぐらいの割合でキープしているのかが、知的好奇心、もっと言えば知的健全度の鍵を握るのではないだろうか。

個人的にその割合は8:2ぐらいが適切だと感じている。「それ」が8で、「それだけではない」が2だ。

高度に個人の好みに最適化された情報流入において、「それだけではない」はノイズになる。たとえば、『カール・クラウス 闇にひとつ炬火あり』は私が一ヶ月前に出会っていたら、たぶん見向きもしなかっただろう。つまり、邪魔な情報というわけだ。しかし、それが入ってくる可能性を受け入れない限り、新しい変化というのは起きようもない。静止してしまう。

これは別に書店を礼讃しているわけでもないし、書評掲載本のコーナーって良いよねという話でもない(ただし私はそういう書店を好むが)。

一つには私たちが情報を受け取るときのスタンスの話であり、もう一つはそれを反映した情報摂取環境を構築しているのか、という話である。後者はフィルターバブルやエコーチャンバーの問題として表出してくるわけだが、そもそもとして「そういう環境を望んでいるのかどうか」という点が大きな問題として関わってくる。

「それ」に浸っているのは楽しいし、満足も感じる。でも、「それだけではない」が一つも混ざらないのならば、何かが徐々に消失していくかもしれない。使われない細胞が壊死していくように。

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心の中の機微と読書

「本を読んだら、頭が良くなる」とか「本を読まないやつはばかだ」みたいな言説は、穏便に言って乱暴なものでしかありません。

たしかに読書はいいものです。他の人が蓄えた知識や得てきた経験をぎゅっと凝縮した形で受け取ることができます。あるいは、意識を空想の世界に飛ばして、現実では決して経験できないような体験に心を触れさせることもできます。

本を読むことが、人生に効用をもたらすことにはもちろん合意するわけですが、それでも「本を読んだら、頭が良くなる」とか「本を読まないやつはばかだ」なんてことには頷けません。

まず第一に、「どんな本を読むのか」という問題があります。
第二に、「どのように本を読むのか」という問題もあります。
さらに、本以外からだって知識や経験を得る手段はあります。

たったこれだけのことに目配せするだけでも、「本を読んだら、すなわち頭が良くなる」なんて言うことはできなくなりますし、「本を読まないやつはばかだ」と言うのも難しくなるでしょう。

さて、以下のエントリーを読みました。一年間で100冊読む、というチャレンジをしたAliza Weinbergerさんのエピソードが紹介されています。

[L] 100冊の本を読んでみよう | Lifehacking.jp

Alizaさんの読書をみていると、楽しみのための軽いタッチのロマンス小説から、多少の挑戦が必要な真面目な小説まで、読書の幅が大きく撮ってあるのがわかります。

記事では「楽しみと、挑戦」という二つの軸でこれらを捉えていますが、大きく括れば「Alizaさんが、読んでみたいと思う本」を読んでいるということになるでしょう。読書にとって一番大切なことです。

人の動機が単一でないように、人の興味・関心も単一ではありません。幅があります。グランデーションがあります。ロマンスに浸りたい気持ちも、背伸びして科学の知識に触れたい気持ちも、両方が存在しうるのです。そのそれぞれを大切にして、本を読んでいくこと。自分の知的好奇心の幅を狭めないこと。それが、読書生活を豊かにしていくコツでありますし、おそらく読書からの「学び」(一番広い意味で捉えてください)を最大化するポイントでもあるのでしょう。

その心持ちを大切にしていれば、新しい本を読みながらも、自分の古典を何度も読み返すといったバランスの取れた読書生活を送ることができます。だって、それらは共に「自分が読みたいと思う本」なのですから。

問題があるとすれば、数値目標にこだわりすぎたり、世間の流行に敏感になりすぎたりして、「自分が読みたいと思う本」が歪んでしまうことです。言い換えれば、知的好奇心の幅を極端な方へ振ってしまうことです。

どんな本を、どんな風に読むのかなんて自由です。でも、自分の心にある機微をモノトーンで塗りつぶさない方がよいでしょう。そういうことを繰り返してしまうと、最終的には何も無くなってしまいます。本当に、何も。

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ブロガー兼著者の悩み あるいはコンテンツの価値

私は片方ではブロガーであり、もう片方では本の著者でもあります。

すると「ややこしい問題」が出てきます。たとえば、「何をブログに書き、何を本に書くのか」という問題がそれです。

少し長くなりますが、佐々木正悟(@nokiba)さんのツイートを引用してみましょう。

私も「目新しいことはなかった」系の感想をいただくことがあります。結構、これでもメンタルはタフな方だとは思いますが、やっぱりそれはそれでシュンとしてしまいます。全体的には、がっかりさせてしまって申し訳ない、というようなタイプのシュンです。

だったら、自分の持ってるノウハウを一切ブログに出さずに、本だけに書いてしまえばよいのではないか__という仮説が出てくるのは必然でしょう。私はそれを100ミリ秒で却下しますが__このブログのモットーは”sharing is power.”です__、議論の出発点としては悪くない仮説です。

あるいは、「コンテンツの価値とは目新しさのみによって定まるのか?」という方向から問いを立てることもできるでしょう。個人的には、こちらの問い立ての方が楽しめそうです。

そして、この問いは「本が持つ価値とは何か?」という非常にやっかいな__そして著者としてはクリティカルな__問いへと発展していきます。

たとえば、辞書について考えてみましょう。

もし、辞書に載っている言葉が、編纂者が新たに作り出した造語ばかりだったらどうでしょうか。読み物としてはおもしろいかもしれませんが、辞書として役には立ちません。ある意味で、辞書に載る言葉は、「ほかの誰かが知っている」ものでないといけないわけです。

もちろん、辞書を引く人はその言葉を知らないかもしれません。しかし、ほかの誰かが知っていて使っているからこそ、言葉は流通しているのです。そして、使っている当人からしたら、その言葉は目新しくありません。

辞書は、ありとあらゆる日本語の意味を知っている人にとって無価値でしょうが、だからといって、一般的に辞書が無価値とはとても言えません。

もちろん辞書はかなり特殊な本の形態です。それでも、情報の「目新しさ」の基準は読む人依存であることにはかわりありません。「何も目新しい情報がなかった」という評価だけでは、その本が平々凡々なことしか書いていないのか、あるいは読んだ人がものすごく詳しかったのかを判断できないわけです。

でもって、本には想定読者がいます。

すべての人に向けて本を書くことはできません。本のページには限りがありますし、選べる表現も一つだけです(論文は論文、絵本は絵本)。誰かの方向に向けて書いた本は、別の方向の人には背を向けることになります。それは、同じ人間が同時刻に複数の場所に存在できないくらいどうしようもないことです。

よって著者は「目新しい情報がなかった」と言われることは、ある程度覚悟しなければなりません。

重なる読者

また、別の問題もあります。

私が書いた本を読んでくれている人は、私のブログも読んでくれている可能性があります。読者が重なっているのです。これは「検索すればネットで見つかることが書いている」問題とは別種の問題を含んでいます。簡単に言えば、同じことを二回読ませている可能性があるわけです。この問題は慎重に取り扱う必要があるでしょう。

ただし、実際的に言えば、それは本当の意味では大きな問題ではありません。おもしろいものは何度読んでもおもしろいですし、人の記憶はそれほど強くないのでノウハウ系であっても時間をおいて読み返すことには意味があります。それに、置かれる文脈が変われば、コンテンツの意味合いもまた変わってきます。

つまり、きちんと「手を入れれば」、読者が重なっていても惨事にはなりません。手を抜いたら? そりゃ、どの仕事でも同じでしょう。

まとめの価値

もう一つ考えたいのは、「無料の情報がまとまっているだけ」についてです。

今、あえて「だけ」と書きましたが、それは本当に小さな価値しか持たないのでしょうか。情報がまとまっていることは、思っている以上に価値が高いものです。特に情報が多すぎる時代ではなおさらでしょう。複数のブログを飛び回って、情報を探し回る時間を考えれば一冊でそれらにアクセスできるのはありがたいものです。

あるいは、私は『Evernote豆技500選』という本を書くこともできたかもしれません。このブログに書いた記事をフル活用すれば難しくないはずです。しかし、そのコンテンツは結局このブログと何ら変わりありません。

情報が一カ所にまとまっているというのは、アクセスのしやすさが確保されるだけでなく、そこに選別が働いている点も見逃せません。逆に言うと、選別が働いていない「まとめ」は、まとめとしての意味をあまり有していません。

他の価値

コンテンツの価値は、ほかにもいろいろあります。まったく同じ概念についての説明でも、片方ではうまく説明されており、もう片方ではうまく説明されていないかもしれません。一見同じようにみえて、この二つは明らかに価値が違います。

あるいはごく単純に、頭から最後まで楽しんで読めるのかどうか、といったこともあるでしょう。「情報」はそこにあっても、読む気にならなければ宝の持ち腐れと同じです。

ただし、このあたりの価値についてはフォトリーディング的なことをしている人にはあまり関係ないかもしれません。

さいごに

「本」は、情報が一カ所にまとまっており、選別が行われ、コンテキストが制御されています。頭から終わりまで読む中で、自分の「検索キーワード」になかった言葉と出会えることもあるでしょう。そうしたもろもの総体が、「本」の価値の一つです。

もちろん、その価値にいくら払うのかのジャッジメントは人によって違うでしょうが、完全に無価値であるとはとても言えそうにはありません。

書き手としては、自分が書く「本」の価値にいろいろ悩みはあろうかと思いますし、歴戦の著者&ブロガーでなければ、その悩みはいっそう強まることでしょう。私から言えることは、「考えなくてはいけない。されど考えすぎてはいけない」ということだけです。少なくとも完璧なものを手にすることはできません。しかしながら、自分が出せる最善のものを出す必要はあります。

さて、今回は「本」というコンテンツの形態をテーマとしましたが__私が物書きなので必然の選択です__、この問題は「コンテンツの価値はどこにあるのか?」というより大きな問題と結びついています。

無料でコンテンツを出しているうちは(あるいは間接的に収益を得ている場合は)、こうした問題について深く考える必要はありません。しかし、ひとたびそれに値段をつけようと思うと、本当にややこしい(あるいは厳しい)問題と直面してしまいます。

コンテンツの「価値」を守るために、情報を出し惜しみする手段ももちろんありうるでしょう。

ただ個人的には、それはあまりモダンな生存戦略ではなさそうな気がしています。徹底的に出した上で、そこから価値__と見なされるもの__を「作り上げる」こと。それができるなら、どこからだって価値を生み出していけます。たぶん、そういうのが大切ではないかと思う今日この頃です。

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本との出会いについての断章

あまりにもまとまっていないので、思っていることを脈絡なく並べます。

本との出会い

読書好きが抱える3つの制約

という記事を書いたのだけれども、読書好きは制約と共に欲望も抱えています。その一つが「あたらしい本との出会い」です。

家には未読の本が山ほど合って、さらに再読したい本もマウンテンのようにあるのに、ついつい書店に行ってしまう。どん欲です。

もちろん、その「あたらしい本」は、イコール新刊というわけではなく、単に自分が読んだことがない本、という意味。で、その読んだことがない本も、詳しく見ると、「自分の文脈内にある本」と「自分の文脈外にある本」の二種類に分けられそうです。

前者は好きな作家の本とか自分の専門分野、後者は新しい作家の出会い、といったカテゴライズになります。

さて、本の出会いの場所なのですが、これは言い換えれば、本の情報と遭遇する場所ということです。代表例は書店ですが、そればかりではありません。それに書店にもいろいろあります。

  • 書店(大型・小型・専門店・ウェブを含む)
  • 中古書店(チェーンタイプ・小型・専門店・ウェブを含む)
  • 書評・本を紹介するメディア(ブログ・アプリを含む)
  • 他人のオススメ(読書会・ビブリオバトル含む)
  • 他人の本棚(ウェブ本棚を含む)
  • 図書館(私設・公設)・ライブラリがあるカフェなど

大ざっぱに考えると、だいたいこんな感じでしょうか。で、それぞれ少しずつ異なった性質を持っています。自分の文脈外の本とどれだけ出会えるのか、出会った本がどれだけ自分に向けて訴えかけてくるのか。そういった違いです。

ちなみに、書店はメディアである、という言葉がありますが、たぶんその文脈で言えば、他人の目に晒される本棚もまたメディアと言えそうです。最近スタートさせた「1000冊の本の紹介」なんかをやっていても、それは感じます。

さて、書店や新聞の書評記事では、基本的に「新しい本」が紹介されます。当然、それは買いやすいわけです。品切れ、ということはあるにせよ、まあ買えます。

ただ、他人の本棚で見かけた本はなかなかそうはいきません。2000年ぐらいの本でも、Amazonで検索すると中古しかない、みたいなことがありえます。34円とかで出品されていたりするわけです。つまり、在庫がない。出版社にも卸にもない。ようは、売り切り商売です。コンビニのソフトドリンクみたいですね。

でも、それは仕方がありません。こんなに出版点数が多いのだから、その全ての在庫なんて抱えられているわけがありません。金銭的はともかく物理的な限界はやっぱりあります。だから、世の中には新品で買えない本がやまほどできてくるわけです。

で、私が他の人の本棚を覗いて、面白そうだな〜と思った本をAmazonで検索して、そこに中古しかないとちょっと残念な気持ちがしてしまうわけです。そして、このSNS時代においては、「他人の本棚」に触れる機会が増えてきています。この変化は、実はかなり大きいのではないでしょうか。

別に私は中古で本を買うのが嫌なわけではありません。私は書籍平等主義者なので、新品でも中古でも紙でもデジタルでも分け隔て無く受け入れます。残念な気持ちがするのは、売り手としての視点です。

つまり、今このとき電子書籍で400~800円ぐらいで販売されていたら即座に買うという人間がここにいるにも関わらず、市場(Amazonですね)には、それがない。この感覚は、コンビニに行ったときに、人気商品が陳列されている棚がまるまる空っぽになっていて、仕方なく別の商品を買って帰るときの気持ちに似ています。簡単に言えば、機会損失です。ロングテールが形成されていないのです。

お断りしておきますが、新品が入手できないことに文句を言っているわけではありません。そうではなくて、作れたはずの売り上げが、作れていないという状況に構造的問題があるのではないか、と考えているわけです。

もちろん、この話は「なんでも電子書籍化しておけば、ロングテールが作れる」ということを意味してはいません。まったく意味してはいません。全然売れない本が1万冊集まっても、やっぱり売り上げは0なのです。ただ、一年間で一冊売れる本が一万冊集まれば、一万冊の売り上げになります。この1の差は、唖然とするほど大きいものです。

それはつまり、本の質、が問われるということです。この問題は避けては通れません。

さいごに

書いてみて、少しばかり脳内の整理はできましたが、結論みたいなものは(まだ)ありません。

とりあえず、売り手側は、(読者の)本との出会いというものを、多面的に捉えることが必要なのではないかと感じます。書店の一番良いスペース、というのはもちろん大切なわけですが、それだけもないでしょう。あと読者にも、ものすごく本好きの読者と、それほどではない読者と、ぜんぜん本好きではない読者がいます。どこに、どうリーチするのかによって、戦略みたいなものも変わってくるでしょう。

今後、消費が個人化し、個々人が専門化していくならば、「ベストセラー」的なものはどんどん生まれにくくなってくるはずです。そうした環境の中で、本との出会いをどうデザインするのかは、きっと大きな問題(及びビジネス的機会)となってくるのかもしれません。

ちなみに、「本を紹介する」ことについても書きたかったのですが、また回を改めましょう。

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読書好きが抱える3つの制約

本を読むことが好きな人って、平均的に次の3つの制約を持っているんじゃないかと思います。

  • 時間
  • お金
  • 場所

こういうものがあるから、「本を買いたい欲求」を十全に満たせないわけです。もちろん、すごい富豪とかは別ですよ。あくまで平均的読書ピープルについてのお話です。

でもって考えてみると、最近の電子書籍って、この制約を(ある程度は)解決してくれているのではないでしょうか。

スマートフォンで「本棚」を持ち歩けるようになり、隙間時間で読書を進めやすくなった→時間
これまで定価販売だった書籍にセールが頻繁にかかるようになった→お金
家の本棚に置けるかどうかは気にしなくてもよくなった→場所

もちろん、単純な話ではありません。スマートフォンのせいで読書時間そのものが減ってしまったということもあるでしょうし、端末の保存容量の限界なんかについても制約はあります。でも、それはそれとして、これまで存在していた制約が電子書籍によっていくつか解放された、という点はあるでしょう。

電子書籍の販売・購入に関しては、まだまだハードルはありますし、所有権の問題もこれまでの書籍の購入とは違ったものとなっています。電子書籍そのものも完璧なメディアとは言えない状況です。

その点を踏まえた上でも、上記のような制約を解決している、という点はまず評価しておくべきではないでしょうか。その評価の上に、紙の本の良さも加えてから、「本」の未来について論じられるのがバランスが良い気がします。

著名人で、リッチメンで、本の置き場所なんか困ったことがない、みたいな人ではなく、平均的読書ピープルの感覚がやっぱり大切なのではないか、と感じる今日この頃です。

▼拙著:

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