Category: メディア論

誰が情報を広めるのか? もちろん、あなたです。

鷹野凌さんの『出版業界気になるニュースまとめ2016』を読んでいたら、ふと目にとまる一文が出てきました。

(前略)それに対する藤井氏の”やはり誰かが褒めて、拾い上げないと作品は浮き上がってこない”という発言は、実体験に基づいている実感なのだと思います。

やはり誰かが褒めて、拾い上げないと作品は浮き上がってこない

これは、現代のソーシャルメディア時代、そして(広い意味での)電子書籍時代において大切なことだと思います。ちなみに、この文章は記事へのコメントとして書かれていて、参照元は以下の記事です。

対談「50年後の文芸はどうなっているのか?」藤谷治✕藤井太洋 « マガジン航[kɔː]

藤井 いま「エブリスタ」や「なろう」や「カクヨム」で書いている人の中から、デュマみたいに立ち上がってくる人がいないと私は思わないので、面白い作品を見つけたら広めたいなと思っています。やはり誰かが褒めて、拾い上げないと作品は浮き上がってこない。レビューをするスタイルが生まれると、日本の文学界も変わっていくと思います。

私も書き手なのでバイアスがかかっている点はあるでしょうが、それでもちょっとこのことについて書いてみたいと思います。

目にとまる場所

思考実験をしてみましょう。

何かの本が5000部印刷され、それが各店舗5冊ずつ1000店舗の書店に配本されたとします。するとその本は、1000店舗の書店に陳列され、「誰かの目に触れる機会」を得たことになります。

もちろん本当に目に触れられるかはわかりませんし、触れたからといって本が売れるとは限りませんが、たとえ数%でも、「へぇ〜」と思って手にとって、パラパラ立ち読みして、そのままレジに持っていってくれる人が生まれる可能性はたしかにあるでしょう。

で、そんなことが実現されるのは、卸があり、返本制度があり、各出版社さんの営業さんが仕事をしているからです。

では、電子書籍はどうでしょうか。

できるだけモデル化して考えてみます。何かの本が作成され、それが一番大きな電子書籍ストア1店舗に配本(アップロード)されたとします。そのストアは日本中どころか、世界中からアクセス可能で、言い換えれば世界中の人間に向けて販売することが可能ではありますが、その本は検索されるまでは存在しないのと変わりありません。

もちろん営業攻勢をかければ、特集ページなどを組んでもらえることは可能でしょう。セールを大々的に売って、影響を広めることも可能かもしれません。つまり、それは紙の本と事情は同じ、ということです。

話を逆に見れば、書店に陳列されるということは、本の情報を(お客さんに対して)シェアしている、という風にも捉えられます。

支援がない構造

上の思考実験でやりたかったのは、紙の本と電子書籍の比較ではありません。営業的バックアップがあるのかないのかの比較です。

商業出版の本が売れているのは__もちろん作品の面白さはあるにせよ__、売るための活動に予算が投じられ、誰かがそれを実行しているからです。そのような本に関しては、私たちは一読者で在り続けても問題ありません。本の価格そのものに、そのための経費が計上されているからです。そこでは本を買う=コンテンツを支援する、という構造が成りたちます。

では、セルフパブリッシング本やその他のマイナーな作品ではどうでしょうか。

あなたがAmazonストアでセルフパブリッシング本を買ったとしましょう。そして、それを読み終えました。以上、それでお終いです。基本的に、それはどこにも広がっていきません。唯一、「この本を買った人は、こんな本も」のデータ提供に貢献はしていますが、それがたいした意味を持たないのはAmazonで購入活動をしている人ならばご存じでしょう。

つまり、読んだだけでは広まらないのです。

もちろん、たくさんの人が一気に本を購入すれば、Amazonのランキングが急激に上昇し、それに伴って作品が広く知られるような現象は起こるかもしれません。しかし、その「たくさんの人が一気に本を購入する」ような動きはどうやって起こるのでしょうか。最初の誰かがその本の情報をシェアして、ではないでしょうか。

つまり、営業的バックアップが存在しないセルフパブリッシング(やマイナーな作品)において、読者の情報共有行動は営業的バックアップの代わりになるのです。というか、実質的にそれしか方法がない、という場合すらありえます。

シェアすることの価値と意義

本を読むという体験だけをみれば、大手の本でもセルフパブリッシング本でもかわりはありません。しかし、セルフパブリッシング本は、読んでいるだけでは、大手の本と同じようには広まらないのです。あるいは広まりにくい構造を持っていると表現しても良いでしょう。

それまでの一読者=お客さん気分のままでは、面白い作品はなかなか広がっていかない→自分の望むコンテンツが増えない、という状況が起こりえます。

だからそう、シェアするのです。

大げさな書評を書く必要はありません(もちろん、書いてもいいです)。TwitterやFacebookでちょっとした感想をつぶやく。なんなら感想なんてなくても、単に買った情報だけを明示してもいいでしょう。それだけでも、その人のフォロワーさんにその本の情報が広がります。正確に言い直せば、その本の情報が少し多くの人に「目に触れる」ことになるのです。

もちろん、目に触れたからと言って本が売れるとは限らないのはどんな本でも同じです。でも、触れない限りはより多くには広まらないのです。そして、その役割をしてくれる人がいない作品がいっぱいあるのです。

少しだけ本の情報をシェアすること。それで、擬似的にその本は「書店に陳列された」のと同じような効果を持ちます。それがどれだけありがたいことなのかは、自分でセルフパブリッシングしたことある人ならば共感されるでしょう。

別に、アイドルを育てるプロデューサ気分になる必要はありません。単に面白いなと思った本について少しシェアすればいいのです。もしそれが本当に広く広がるような面白さを持っているならば、(タイミング次第では)それは広がっていくでしょう。そうでないのなら、自然淘汰されるだけです。

このような「面白かったら積極的にシェアしていく」気風が広く浸透すれば、営業的バックアップを持たない作品が日の目を浴びる可能性は増えるでしょう。逆にそういうものがなければ、(お金を支払ってでも)そうした行為を獲得しようとする輩が増えていくはずです。それはあまりよろしい未来のようには思えません。

3つの変化

この話は、別にセルフパブリッシング本だけに限った話ではありません。他のメディア環境全般に敷衍できる話です。

世の中には「マイナー」なものがたくさんあり、それが日の目を浴びることなく堆積し続けています。その代わりに、「わかりやすい」「反応しやすい」「お金になりやすい」ものが広まっていきます。これは構造的必然性を持っていることでもあるのでしょう。広義の「シェア」の動機が限定的だからです。

面白いと思ったものを積極的に(ここが大切です)シェアしていくと、たぶん以下のようなことが起こるでしょう。

・マイナーなものが広く知られる土壌が生まれる
・相対的に何かをこき下ろす声が小さくなる
・自分の趣味に見合ったコンテンツが見つけやすくなる

一つ目はここまでに書いた話です。

二つ目は、あくまで相対的な話に過ぎませんが、何かを面白いと評する情報が増えれば、何かを非難する情報の存在感は少しだけ薄まります。結果的に、炎上芸でなんとかしたい人たちにとってはやりにくい土俵となるでしょう。

振り返ってみれば、私たちのウェブ的な振る舞いは、大きなものにはすぐにリアクションを取るにもかかわらず、少し面白いものにはあまり言及をしません。そのような行動の傾向が、ウェブ全体の話題を形成している点は改めて考える必要があるでしょう。小さな良いもののシェアを増やすことは、大ぶりになりがちな(そして炎上になりがちな)ウェブの情報環境を変えることにつながるかもしれません。

三つ目は、情報過多な時代ではかなり重要で、まずは私の話をしておきます。

私自身は買った本はすべて公開していますし、面白い本については程度の差はあれできるだけ紹介するようにしています。なぜか。それは私が他の人の買った本・読んだ本を参考にしているからです。自分が参考にしているのに、自分がそれを公開しないのは、わりとズルいですよね。非対称性のフリーライド。

多くの人が__すべてではないにせよ__買った本・読んだ本の情報を公開してくれれば、好みの本を見つけやすい状況が生まれます。たいていの本の情報が、マス向けかランキングという非常に偏った__そして本選びではほとんど役に立たない__提供のされ方をしている昨今において、「誰かが読んだ本の情報」は非常な価値を持っています。そしてそれが増えれば増えるほど、世の中の情報流通の形態は変わっていくのではないか、という予想もあります(予想でしかありませんが)。

でもって、それがこれからの「情報化社会」に必要なものではないかとも思います。

さいごに

「万人よ、シェアせよ!」

と、煽ればシェアする人は増えるのかもしれませんが、そうした盲目的・群衆的行為によるシェアは、結局マス向けの情報共有と何ら変わりありません。それでは同じことが繰り返されるだけです。

変えるのは少しでいいのです。面白いと思ったものをそのままにせず、少しシェアする。余裕があるなら感想を書くなり、レビューする。ただそれだけです。何もかもを褒め称えて回れなんて話ではありません。これまでなら単に摂取して「面白かった」で終わっていたことを、ちょっと共有してみる。そういうことを日常の中に増やしていく。それだけの話です。

その少しの変化が多くに広まれば、コンテンツの環境は変わっていくでしょう。あるいは、そのような期待を抱くことはできます。

そうした「ちょっとしたシェア」が、__大げさな言葉を使うことを許していただけるなら__情報化社会の市民にとって「当たり前」になれば、コンテンツを評価する指標も動いてくるでしょうし、流通するコンテンツにも変化が生まれてくるでしょう。

日々新しい情報が次々と生み出される社会においては、コンテンツは何もしなければ沈んでいきます。

それを浮上させる力を持つのは、もちろんあなたなわけです。

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アール・ティー

はい、本日もTwitterリテラシー講座の時間がやってまいりました。講師の裸子羅舌らしらしたです。よろしくお願いします。

第三回となる今回では、「RT」についての講義を進めます。テキストは9ページですね。あっ、縦向きにタブレットをお使いの方は15ページ目くらいかもしれません。ややこしいので、目次リンクから「RTについて」のページを開いてくださいね。はい、よろしいですか。

ではさっそく始めましょう。「RT」とは、ReTweetの略称です。百聞は一見にしかず、ということで、さっそく実物を見てみましょう。

ツイートの下に、ウロボロスの蛇みたいな矢印がありますね。これがReTweetボタンです。

この場合、接頭辞としてのReは、「再び」のような意味を持っています。再びツイートする、もう一度ツイートする、という意味ですね。ボタン一つで簡単にお手軽に実行できるのでわかりにくいのですが、実はこれは形を変えた「ツイート」です。

第一回の講義で解説した通り、「ツイート」とは、つぶやきと表現されますが、その実体は「世界中に向けた発信」です。つまり、Publishです。そう考えると、リツイートとはすなわちRePublishなのです。

Twitterを使っていると、気に入ったツイートをリツイートしたくなります。それはそれで良いことなのでしょう。元々のツイートをした人もきっと嬉しいに違いありません。ただし、それはどういう形であれ、自分がPublishに荷担していることだけは忘れないでおきましょう。

もし、自分がそのPublishに荷担したくないというのなら、せいぜいお気に入り__ではなく、≪いいね≫にかわりましたね__に留めておくべきです。

RT=RePublishという構図に疑問を持たれるなら、自分のプロフィールページを覗いてみてください。そこには、「自分のツイート」と「自分がRTしたツイート」が並んでいます。つまり、RT=「その人の発信」なのです。これを見れば、RTが自分のPublishであることは一目瞭然です。

screenshot

「その人の発信」というのは、他人の発言を自分がパクった、ということではありません。RTした人の名前(信頼・ブランド)の元で行われた発信、ということです。Publishに貢献したと言い換えてもよいでしょう。

この点は見逃されやすいので注意してください。


気軽に行えるRTは、単に情報を右から左に流しているような感覚がするかもしれません。しかし、そうではないのです。

RTは、再びのツイートであり、基本的なレベルで言えば、自分がツイートしているのと大差はありません。つまり、その発言主体は自分自身なのです。言い方を変えれば、情報の拡散に、自分自身が手助けしている・責任を負っている、ということです。そのことの意味はよくよく考えておいた方がよいでしょう。

では、本日のTwitterリテラシー講座はここで終わりとします。また、次回。

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ツイート適者生存

伝播力というものについて考えてみます。

たとえば、Twitterに映画の感想がつぶやかれたとしましょう。

「○○見た」
「○○ガチで面白い。これは見るべき」
「主人公が落ちてくる隕石を腕力だけで押し返したシーンは映画史に残る」

おそらくそれぞれのツイートは伝播力が違っているでしょう。簡単に言えば、リツイートされる可能性に大小があるわけです。

さてここで、クラスタというものを考えてみます。SNSにおける「クラスタ」とは、興味軸を同じくする緩やかなつながりを指し、たいていの人は複数のクラスタを持っています。私なら、読書・Evernote・ゲーム、といったものです。で、SNSでのつながりは、このクラスタが軸となっています。

仮にXという人のクラスタを、A、B、Cとしてみましょう。そのXさんとつながっているYさんは、B、D、Fというクラスタに属しています。言い換えれば、Bという興味軸でXさんとYさんはつながっているわけです。

X A・B・C
Y B・D・E

もちろん、Yさんも他の誰かとつながっています。たとえばZさんです。Zさんは、Dという興味軸でYさんとつながり、他にF・Gというクラスタに属しています。

X A・B・C
Y B・D・E
Z D・F・G

XさんとZさんは、直接はつながっていませんが、Yさんを媒介することにより間接的につながっています。面白いことに、XさんとZさんは、共有するクラスタが一切ありません。それでも、(間接的にであれ)つながっているというのがSNS的面白さです。こうしたつながりを、たとえば身内の近さを表す「一親等・二親等」の尺度を借りて、X→Y(一紐等)、X→Z(二紐等)みたいな呼び方をすることもできそうですが、脱線になるのでここでは割愛しましょう。

もちろん、この3人の構図はもっと拡大していけますし、人が属するクラスタも3つでは済まないでしょう。あくまで思考実験を進めるモデルだと思ってください。

さて、ここで伝播力に戻ります。

仮にZさんが、自分が見たDに関する映画についてつぶやいたとしましょう。そのつぶやきの内容は、Yさんの関心軸と近いので、比較的簡単にリツイートされます。ツイートそのものの伝播力が弱くても構いません。

では、ZさんがGに関する映画についてつぶやいたらどうでしょうか。Yさんは、自分の関心外なので、そのつぶやきのリツイートはしないでしょう__つぶやきの伝播力が弱ければ、ということですが。逆に、人の心のツボを押すようなツイートであれば、Yさんもうっかりリツイートしてしまうかもしれません。そうすると、Zさんの発した情報がXさんに届くことになります。

さらにその伝播力が十分に強いものであればXさんもリツイートし、Zさんから見た、三紐等や四紐等にまで届く可能性が出てきます。

これはどういうことでしょうか。たぶん、こういう言い方ができそうです。

「リツイートされて自分のところに回ってくる、クラスタ外の情報は強い伝播力を持っている」

つまりは、面白そうなつぶやき、魅力的なつぶやき、興味をかき立てるつぶやきばかりが集まってくる、ということです。

自分が観測しているクラスタ内の情報であれば、そうしたことはありません。メッセージ的に弱いつぶやきでも比較的情報は伝播してきます。しかし、まったく観測外からやってきたツイートは、適者生存の競争を生き延びたツイート界の強者なのです。言い換えれば、読んだ人に影響を与えるツイートなのです。

このような環境は、「隣の芝生は青い」の感覚を加速させてしまう危険性があります。あるいは、「あれも、これも」的興味の拡散を起こしてしまう可能性もあります。

だからTwitterを使うのはやめようぜ、ということではなく、クラスタ外からの情報はちょっと割り引いて見た方がいいかもしれないね、ぐらいの話で今日のところほ落ち着けておきましょう。

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『信頼の構造』とメディアの変化

山岸俊男さんの『信頼の構造』は以下のように始まる。

本書は、1つの中心的なメッセージをめぐって書かれている。集団主義社会は安心を生み出すが信頼を破壊する、というメッセージである。

信頼の構造
山岸 俊男
4130111086

集団主義社会は、言ってみれば小さな村である。そこでは、皆が顔見知りであり、誰もそこで悪いことをしない。少なくとも、そういう前提が共有されている。

だから、そこで暮らす人々はみな安心して生活を送る。その代わりに、人を信頼する力を失う。「よそ者は、この村に立ち入るな」という言葉は、まさにそれを象徴している。

代わりに小さなバザールを思い浮かべてみよう。いろいろな商人が集まる市場だ。そこにはたくさんの商品と、たくさんの人も集まっている。精一杯の善意を発揮する人もいれば、ギリギリのラインの悪道を突き進む人もいる。買い物をする人は、シビアな目を持たなければいけない。かといって、全てを拒絶すれば__「よそ者は、この村に立ち入るな」__、買い物はまったくできなくなってしまう。

安心はないが、その代わり__幾度かの失敗を経て__信頼する力が磨かれていく。

本書で指摘されている、「高信頼者ほど情報に敏感」は非常に重要である。人のことをよく信頼する人は、ぼけーっとしたお人好しではなく、むしろ人が発する情報に敏感だと言うのだ。簡単に言えば、人をよく見ている。そして、相手が裏切ったら強く反撃する。ゲーム理論でお馴染みの「しっぺ返し戦略」というやつだ。

もう一度、小さな村を思い浮かべてみよう。

小さな村は、「よそ者は、この村に立ち入るな」で、よそ者を排除し、村人は安心して暮らしている。もし、何かしらの変装をしてその村の「中の人」として認知されたらどうなるだろうか。もちろん、やりたい放題である。なにせ、村人は安心しきっているわけだから。気がついたときには、もう取り返しのつかないことになっていて、「しっぺ返し戦略」なぞ取りようもない。

さて、考えてみよう。

ある社会が、村型からバザール型へ移行するとする。それ自体はただの変化にすぎないが、渦中にいる人間は大変である。なにせ、あたらしい社会で必要になる「信頼する力」がまったく鍛えられていないばかりか、そもそもそういうコンセプトすら持たない。

安心で担保されていた生活から、信頼で構築していく生活への移行は、口で言うほど簡単なものではない。「痛み」と呼ばれるものが多数発生するだろう。しかし、なんとか適応するしかない、というのが悲しい結論だ。

メディアの変化

視点を変えてみる。

マスメディア型情報社会からソーシャルメディア型情報社会への移行について。

一極集中型のマスメディア型情報社会は、ある意味で村と似ている。一つの(そして大きな)「信頼できる」ニュースソースがあり、それが全国に均一に配信される。人々は日々それを安心して受け取っていればいい。しかし、その「信頼できる」は言葉通りの意味ではない。単に「相手が裏切らないだろう」という予測、もっと言えばそうあって欲しいという一方的な願望に基づいている。

安心して情報を受け取っている代わりに、信頼する力は磨かれない。仮に良くないものが変装して紛れ込んでいても、検証されないまま流通してしまう。

ソーシャルメディア型情報社会では、そうはいかない。そもそも「信頼できる」ニュースソースなんてものはない。バザールに並ぶ商人たちのように、そこにはどんな人もいる、ということが前提である。だから、そこで情報を得る人は__幾度かの失敗を経て__目利き力を身につけていかなければならない。その上で、信頼するソースを見出し、もし欺瞞が発生すれば、以降は見限る、あるいはもう少し踏み込んだ対策をとる、といった手段をうつことになる。

実に面倒だ。しかし、それはもう避けようもない話である。

そして、ソーシャルメディア型情報社会であるにも関わらず、マスメディア型情報社会の心持ちでいると手痛い目にあうことになる。偽物の商品を掴まされ続けるか、あるいは何も買い物ができない。そういう状況に陥ってしまう。

これは送り手の方も同じで、村型のやり方はバザールでは通用しないことが多い。もう少し言うと、バザール型の心持ちの受け手には村型のやり方は通じない、ということになる。

さいごに

メディアに視点を取れば、楽して儲かるならその手法を採るだろう。水の流れのように自然な話だ。しかし、欺瞞を含めてしまうと「あとあと、しっぺ返しが待っている」ということが学習されるなら、インセンティブは変化する。あるいは、変化することが期待できる。

ようするに、信頼されることに価値があり、信頼を毀損することにデメリットがある、という構造があるのならば(そして、それが認知されているのならば)、全体としては自然にそちらの方に流れていく。ただし、その構造設計は簡単ではないかもしれない。

ただし、社会の方はもう変化が進んでいる。受け手であれ、送り手であれ、(そして、それが面倒でコストを伴うものであれ)その変化に対応していかなければならないだろう。

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贈与論と時間[今日の情報カード]

Scannable

“贈与経済”の中では、「与える・与えられる(返ってくる)」の関係性に時差がある。つまり、時間がかかる。

しかし、物々交換、または貨幣経済の中では、その時差は消えている。与え・与えられという関係性は即座に終結してしまう。

それぞれの経済体制が本質的に同じものを有しているにしても、見えなくなった(消えてしまった)時間の影響はどこかしらに出てくるのではないか。それはマクルーハンの視点を借り、貨幣をメディアとして捉えればよりはっきりしてくるだろう。

さらに市場ー資本主義経済の中では、労働者は時給・月給という形で時間を企業に提供し、お金を得ている。ここでもまた登場するのは時間である。あるいは、贈与経済から資本主義経済に移行する中で消えてしまった時間が、別の形で立ち現れていると言えるのかもしれない。

少なくとも、贈与経済と最近の経済に何かしらの差異があるとするならば、この「時間に対する感じ方」や「扱い方」にあるのではないだろうか。今のところ強引さはあるが、そうした視点を持つことだけはできそうだ。

加えて、より先の社会、つまり情報化社会における、情報消費の上限もやはり時間的制約によって生じてしまう点も見逃せない論点となるだろう。

これらの要素をどのような視点で整理すればよいのかは、まだわからない。ただし、キーワードは時間になりそうだ。

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