Category: 本を書くこと・本を書く人

class かーそる < Magazine

知的生産マガジン『かーそる』読んだ – ウラガミ

「1つのメディア」というより「一人ひとりの文章をまとめたもの」っぽい印象。なんというか、アンソロジー的?

「かーそる2016年11月号」の特集1は、このアンソロジー感がかなり強く出ていると思います。なにせ、そういう意図で編集したのですから当然でしょう。

同一のテーマについて、まったく同じ軸で記事を集めるのでもなく、かといって全然バラバラというわけでもない。テーマがあり、リフレインがあり、通奏低音がある。そのような響き、うねりをこの特集1では意識しました(人によっては若干くどく感じられたこともあるでしょう)。

でもって特集2では、テーマ性をもっと緩くし、コラムではまったく関係ない(でも若干テーマと呼応する)連載を載せています。

たぶん、こういうテイスト(作り方)の雑誌ってあんまりなかったのではないかと、勝手に考えています(もちろん、雑誌研究家ではないので断言はできません)。

「かーそる」は、雑誌的であり、雑誌的ではありません。それがやりたかったことの一つでもあります。


雑誌(Magazine)というメディアがあり、書籍(Book)というメディアがあります。そしてそこから、__主に流通上の要請によって__ムック(Mook)というメディアも生まれました。これって、MagazineとBookを合体させた和製英語(概念)なのです。そんなものを生み出してよいのなら、別のまったく新しい概念を生み出しちゃっても問題ないはずです。

そもそもメディアとは、よく言われるようにmedium(メディウム)の複数形であり、そのmediumは「真ん中にあるもの」「媒介するもの」を意味します。私はそれを、「間を埋めるもの」として規定します。

だからこそ、情報発信は新しいこと(=まだ誰にも埋められていないこと)を提出しなければならないのです。そして、それが必要であれば、メディアの形態そのものも新しく作り出すべきでしょう。べき、というか、それを生み出すような力学が(あるいは思念や情念が)情報発信には潜んでいるはずです。


「かーそる」は、基本的には雑誌です。別の言い方をすれば、「雑誌」クラスを継承して誕生しました。しかし、そこには拡張があり、変更があります。だから、既存の「雑誌」とまったくのイコールにはなっていません。そもそも、まったくのイコールであるならば、わざわざ新しく始める意味はないでしょう。

それでもなお、この「かーそる」は雑誌です。だって、もう、そう呼ぶしかないですよね。少なくともこのメディアは、書籍ではありませんし、ムックでもありません。一番近しいものを何か挙げるとすれば、それは雑誌しかないわけです__今のところは__。

さいごに

ちらっとだけ、Bagazine(バガジン)という和製英語を思いつきましたが、ググッたらいくつも見つかったので静かに却下しておきます。

それに「雑誌」というなじみ深い入り口を持っておくのは__中のコンテンツの新しさを考慮すると__案外重要なのではないかとも感じています。それは「ほぼ日」が、新聞を名乗っているのと同じことです。

まあ、名前をどう呼ぶかは別として、「こういうメディアがあったらいいな」と思っているなら、「You、作っちゃえよ」とアドバイスされるのが現代だ、ということです。「かーそる」は、知的生産の技術周りの話をしていきますが、タスク管理を扱う季刊誌とかあっても、いいと思うんですよね。書き手も需要もちゃんとありそうな気がします。

かーそる 2016年11月号
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一番早いギヤに合わせる

次の記事を読みました。

佐々木大輔@中の人 – 僕がスマホから8万5千文字の小説を書けた理由 – Powered by LINE

ノリ的には、僕もLINE BLOGを開設して、そこにエントリを投下するのが良さそうですが、残念ながらアカウントを持っていないので、とりあえず自分のブログで。

上記の記事にはこうあります。

文字入力のスピードを難点にあげる人がいるが、よく考えてみてほしい。文章を書くのにもっとも困難なのは、肉体的な文字入力でなく、脳内の文章作成だということを。それに必要な集中力と考える習慣を、スマホは与えてくれる。

ある側面では、これはまったくその通りです。だからこそ、タイピングの速度を少々上げても、執筆の総生産量みたいなものはほとんど変わりません。大半の時間は「考えて」いるからです。

さらに、文章作成に必要な集中力をスマホが与えてくれる、という点も頷けます。機能が多く、画面も広いパソコンは、ある意味で注意分散の宝庫のようなもの。特にいろいろな部分が目に入ってしまうエディタは、「文」以外のこと__章立てとか前後関係とか__に気を配ってしまい、結果的にその「文」に集中できない事例がたびたび発生します。

が、しかし。

それでも「スマホで執筆」には、僕は懐疑的になってしまいます。もちろん僕もスマホで何かしらの文章を書くことはありますが、その際に一番心地よいのは口述筆記(音声入力)なのです。なぜか。それは、トップスピードに関係していると思います。

平均を取ってみれば、たしかに執筆で行っていることの多くは「考えて」いることです。だから、タイピング速度の向上は生産性の向上には即座に結びつきません。でも、平均ではない瞬間はあります。簡単に言えば、「思念があふれ出てくる」ような状態があるのです。

そうしたときは、キーボードのタイピングですらもどかしいことがあります。今書いている文章の次の文章の輪郭が、もう頭の中に浮かんでいるのです。そして、その輪郭は、今すぐにでも手を伸ばさないと、跡形もなく消え去ってしまうような恐怖感があります。私は、これを捉まえたいと願います。だから、その部分ではタイピング速度はたいへん重要なのです。その点、口述筆記は単にそれを口にすればいいので楽チンです(ただし、早口だとうまく認識されていないことが多いので不完全です)。

そのような言葉があふれ出てくる瞬間は、そうそう多くはありません。文章の書き出しや書き終わりは「考える」ことが占めていて、せいぜい真ん中あたりに、「筆が乗ってくる」瞬間があります。消えそうな文章の輪郭を次々とキャッチしていく__そんな瞬間は、絶好の波を捉えたたサーフィンのように心地よいものです(サーフィンをやったことはありませんが)。その快に身を委ねたいと、自分では願っています。たとえそれが、全体からすれば僅かなひとときに過ぎないとしても、です。

おそらく1時間で6000字も書ける人は、常にこの「思念があふれ出てくる」ような状態なのでしょう。さすがにその境地に辿り着きたいとはまでは思いませんが、ある程度はキープしておきたいところです。ちなみに、この上の二段落はちょうどその「筆が乗った」状態で書きました。この一段落は、むしろ「考えて」書いています。

何か違うのか?

それはちょっとわかりません。でも、リズムの緩急はその辺からも生まれてくるのかもしれません。

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「かーそる」創刊号の制作環境について #かーそる

Kindleストアに配信されてから、3日目となりました。

かーそる 2016年11月号
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昨日の深夜、ふとランキングを確認したら60位台まで駆け上がっていて驚いたんですが、今朝もまだ70位台と検討しております。ご購入してくださった皆様、ご紹介してくださった皆様、そして早々と感想記事をアップしてくださったお一人様、どうもありがとうございます。

こうしてランキングが上がっているのをみると、私が「この人の文章面白い!」と感じている人の文章が、多くの人に読まれているのだな、と感じられて実に感慨深いものがあります。それが「場」というものの力でもあるのでしょう。

とは言え、まだ創刊号でしかありません。立てた旗は立て続けることに意味があるように、雑誌も(とりあえずは)発刊し続けることが肝要です。その継続があってこそ、「場」というものの足場は固められていきます。そうして初めて、その上にいろいろなものを置いていけるようになるのでしょう。

だからこそ、創刊号を手に取ってくれた方が、No.2も、No.3も興味を持ってもらえるような雑誌を作っていきたいと思います。と、まあ、深刻そうに書いていますが、単に「自分が面白いと思える雑誌を作っていく」というだけなので、そんなに気負いはありません。楽しくやっていきます。

ということで、今回はこの「かーそる」の制作環境およびツールをご紹介しておきます。

勧誘活動

一番最初、各メンバーの方に「ご参加いただけませんか?」と声を掛けたのは、Twitter(のDM)でした。現代の必須ツールですね。
※一名だけメールでした。

Twitterをやっていると、その人の「ひととなり」みたいなものが、5%くらいは見えてくるので、声を掛けやすくなるという効果はたしかにあります。ちなみに、その時点で直接顔を合わせたことがない方もいらっしゃいました。これもネット時代の特徴であり、私みたいなローカルに住む人間ならよくある話ではあります。

集合場所・原稿提出場所・資料置き場

制作工程のメインとなったのが、Evernoteの共有ノートブックです。別の言い方をすると、私たちの「たまり場」がEvernoteでした。

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複数人で情報を共有するツールはごまんとありますが、「かーそる」の制作ではそれをEvernoteに定めました。なぜか? 私がEvernoteのコミュニティーリーダーだからです__というのは78%くらいは嘘で、私が一番アクセスしやすいツールがそれだったからです。

あと、後々はテキストだけではなく、画像や何かしらのファイルも共有することになることを想定して、そういうごちゃ混ぜな情報を難なく扱えるツールとしてもEvernoteを信任しておりました。

で、そのEvernoteの使い方にもいろいろ工夫があったわけですが(たとえば3種類のノートブックを共有しております)、その辺を書き始めるとまた盛りだくさんになってしまうのでここでは割愛しますが、とりあえず、すべてのやりとりがそのノートブックを通して行われたので、逆に言えば全ログが残っています。この創刊号を作るための話し合いのノートも、全部で5つ生まれ、文字数ベースでみても、相当な書き込みが行われました。

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10万字の本編原稿とは別に、こういう山のようなやりとりがあったわけです。原稿集めて、はい終了、ではなかったわけですね。

個人的な感覚では、「雑誌を作るために集まり、話し合う」というよりは、「皆でワイワイ・ガヤガヤ盛り上がっているうちに、雑誌のコンテンツの種が生まれ、育つ。それを切り取り、まとめて雑誌にする」という方が近いです。たぶん、その方が面白い雑誌ができるのではないか、という直感もあります。

まあ、この辺の話もおいおいと。

編集長編集ツール

原稿の提出はEvernoteで行ってもらったのですが、編集長たる私の仕事としては、その原稿をいかに配置するのかを決めなければいけません。そして、残念ながらその機能はEvernoteはさほど得意ではありません(遠回しに書きました)。

そこで登場したのが、Scrivenerです。こいつは画像も扱えるので、今回の雑誌作りにもぴったりです。

Scrivener
カテゴリ: 仕事効率化, 教育

皆さんにあげてもらった原稿をScrivenerのファイルにつっこみ、順番を仮決めした後で、PDFファイルとしてエクスポート(compile)し、皆さんに確認してもらいました。その際は、電子書籍的なこと(つまりEPUB的あれこれ)については考えず、どの並びなら原稿がしっくり落ち着くかを確認することに集中しました。おそらくそれが一番大切な要素だからです。

実際の電子書籍作成

順番が決まれば、次は細かい作業に入ります。

最終的な出版はBCCKSさんで行うと仮決めしておいたので、そのエディタに原稿を流し込んで、「電子書籍的なこと」をいろいろ調整しました。実はここが一番苦労したのですが、その辺は「Project:かーそる」のブログにでも書いてきますので、ここでは割愛しておきましょう。

とりあえず、ここでEPUBとプリント版のプレビューをチェックして、全体的にOKならば、いざ出版、という流れ。それで一段落です。

さいごに

ランディングページについては、一から立ち上げることなく、もともと作ってあった「Project:かーそる」の固定ページを割り当てました。そのページのSEO効果はほとんど期待できないでしょうが、そういう細かい話はあまり気にしていません。「Project:かーそる」にコンテンツを充実させていくととが、もろもろの代替になると踏んでおります。

というわけで、今回はめずらしくでんでんシリーズのお世話にはなりませんでした。でもって、それが逆に、「ああ、でんでんシリーズ、ありがてぇ……」と痛感した理由でもあります。本当に、いろいろうまくできてます。

とりあえず、以上が創刊号制作の主な環境とツールでした。No.2も基本的にはこの路線で進めると思います。ポイントはやはりEvernoteで、この辺はいろいろ話が盛りだくさんなのですが、また別記事にするとしましょう。

▼こんな記事も:

R-style » 季刊誌「かーそる」の創刊号が発売となりました #かーそる

R-style » なぜ雑誌「かーそる」を作ったのか?

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なぜ雑誌「かーそる」を作ったのか?

面白そうだったから。

以上。

というのも何なので、ちょっと断片的に書いてみます。

群雛不在

インディーズ作家を応援する雑誌「月刊群雛」が休刊となりました。休刊とはなりましたが、それでもあの雑誌は、あるいはあの雑誌が目指そうとしていた場所は面白かったわけです。

幸い二回ほどゲスト寄稿で参加させていただいたこともあり、「どんな感じで作っているのか」の雰囲気もわかっていたので、「これならば、まあ、自分でもできるかもしれないな」と思っていました。

フォロワー

「ちょっと作ったら面白いかもですね〜」みたいなことをちらっと書いたら、「倉下さんが編集長なら、興味あります」という反響がいくつか返ってきました。

木を登るには十分な材料です。

「雑誌」というメディアへの興味

いくつかの本を読んで__具体的には『これからのエリック・ホッファーのために』『行為と妄想』『カール・クラウス』の三冊__、「雑誌」というメディアが持つ力が気になっていました。

近頃の私は、雑誌をほとんど読まなくなって、まったく関心外だったのですが、雑誌という形態のメディアだからこそできること、発生する力があるのではないかと感じ始めました。その力を嚆矢として示していたのが月刊群雛だったのかな、という直感も生じます。

あとはまあ、自分で確かめるしかありません。

ブログ界の行き詰まり

つまんないブログ増えたよね〜、と書くとたぶん老害扱いされるので、面白いブログが見つかりにくくなったと書いておきましょう。でも、まあ、それは仕方がないのかもしれません。

ブログを書いていたら、本を出版できたという話は一時期ものすごく盛んでしたが、今では急激にしぼんでいます。まあ、出版業界も厳しくなっているのと、「アルファブロガー」と呼べるような人が、もうほとんどいない(新しく生まれていない)ということも関係しているのでしょう。だから、面白い記事を書くことよりも、手っ取り早くお金になる記事に主眼が置かれるわけです。でもってそこでは多様性が失われて、似たようなブログが増えていきます。

でも、それはそれとして、そんなこととはまったく無関係にブログを書いている人たちはいます。でもって、そのようなブログは(少なくとも私にとって)面白いわけです。

で、この(少なくとも私にとって)というのが重要で、もしかしたらその面白さは日本に存在するどこの出版社さんとも共有されないかもしれません。

だったらまあ、自分が木に登ればいいわけです。面白がっている当の本人が。

旗あるいは釣り針

私はどうあがいても、ブログを書いていれば儲かりますよ、みたいなことは言えません。だって、自分がそうなっていないから。

だからまあ、自分は自分で淡々とブログを書き続けてきました。大きなことを言わず、淡々と。せいぜい『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』を書いたくらいで、あの本でも「さあ、今日からあなたもブログを始めましょう」というアジテーションにはまったくなっていません。

で、これはスタンスとしては楽なのですが、もしかしたらそれはちょっと力不足というか手抜きなのかもしれないな、と感じ始めています。

私はかなり身勝手なので、自分が面白いと思えるブログが一つでも増えたらいいなと願っています。世界平和のためではなく単なる自己満足の達成のためです。でも、どうやら世の情勢はそちらには向かっていないようです。それを知りつつ、ただ指をくわえて眺めているだけなのは、中庸というよりは、むしろ日和見なのかもしれません。

だから、旗を立てることにしました。

正直に言って、「かーそる」に掲載されている原稿は日本中の皆さんに楽しんでもらえるものではないでしょう。どちらかと言えば、ニッチな属性になりそうです。偏った趣向とまでは言わないものの、ある領域に関心を持つ人々向けのコンテンツです。だからこそ、旗が必要なわけです。なにせ、ニッチはそれだけでは目立ちませんので。

でもってそれが、先ほど書いた「雑誌メディアならではの力」と呼応してきます。あるいはしてくるはずです。

なので、この雑誌を読んだ方__知的生産者であろうとする人__が、

「ああ、そうか、こういうのもありなんだ」

と感じ、その人が書く文章が(あるいは運営するブログが)、そちら方向にシフトする、あるいはそうシフトすることにクルミほどの自信を持ってもらえたら、私としてはGotcha! なわけです。

さいごに

もちろん、以上のような考えは、あくまで断片に過ぎません。他にも(いちおう編集長なりに)いろいろ考えて雑誌作りを行っています。その辺も、機会があれば書いてみたいと思います。

ちなみに現状の参加メンバーは、関東〜中部〜関西に広がっており、年齢層もかなり広いです。でもって、リアルでの「会議」は、(一度だけの例外を除けば)ありませんでした。こういうのは、田舎に住む人間としてはありがたいわけです。

でもって、その「多様性」と「ローカルでもできること」は、これからの日本でも重要な意味を持ってくるでしょう。もう一つ、「多様なコミットメント」の話もありますが、また長くなりそうなのでここで止めておきます。

▼こんな記事も:
R-style » 季刊誌「かーそる」の創刊号が発売となりました #かーそる

▼こんな一冊も:

これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得
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行為と妄想 わたしの履歴書 (中公文庫)
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ツールと脳

ぜんぶ頭に入れるから:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

書こうとする文章が一定以上に長くなると、全体像を頭の中で組み立てることはできなくなる。

たとえば、この文章は、上記のコピペを貼り付けて、「さて」という感じで指をポキポキ鳴らした後(比喩だ)書き始めている。どのように書くか、何を書くかについてのアウトラインは、事前にはいっさい構成していない。もし、この後に続く文章に見出しが出てきたら、それは書きながら、あるいは書き上げた後につけられたものである。後付けの構造化。

事前には、構造はまったく存在しない。そして、書きながら、あるいは書き上げた後にそれを構造化できる。エディタ以外のツールを使うことなくそれができる。それは文章の全体像が頭に入れられるからこそ、できる行為だと言えるだろう。

どこに限界があるのか

一方、本を書くときには章立てを行う。第一章は〜〜について書き、第二章は▼▼について書き、というやつだ。それが5つか6つくらいであれば、これまた脳内で、脳内だけで組み立てることができる。しかしそこまでだ。それぞれの章に具体的にどう項目を立てるとなるとお手上げである。一つの章だけでも難しいが、それが3つも4つも集まったら悲劇的なことになる。

長さ自体よりも、要素間の関係が急速に複雑さを増すことが問題だ。

指摘されている通り、長さが問題なのではない。どれだけ長くても、それが単調で、線形に演算可能であればおそらく脳内だけでもやっていける。が、文章というのはそういうものではない。それが問題なのだ。

第一章第一項で書いたことは、第三章第四項で書いたことよりも「前」に位置している。そこには前後関係があり、文脈がある。説明の粒度があり、口調のテンポがあり、比喩のパターンがある。書く人はそれらをバラバラに書くのかもしれない。しかし、読み手はそれをリニアに摂取する。そのことを念頭に置いて、文章は構成されなければならない。

たとえば、この文章が上の段落から始まったらどうなるだろうか。不自然に決まっている。意味もわからない。そうであることが、私には脳内でわかる。だからこそ、これくらいの文章にはエディタ以外の他のツールは必要ない。しかし、文章量が増えるとこうはいかなくなる。要素同士の関連性が増え、制御しなければならない文脈は無数に増大する。

[問]
A、B、C、D、Eという5つの要素を、一列に並べる並べ方はいくつあるか。

これくらいなら頭の中で数えることができる。ではこれが、20や30であれば? そしてそのうちのたった一つを「これが良い順番だ」と決める場合は?

脳にはお手上げだろう。

ツールの効能とその違い

とりあえず書いてみて、はじめて何をどう書けばいいのがわかる。より正確にいうと、何をどう書けばいいのか考える素材を手に入れることができる。

アウトライナーやカードに書き出すと、二つのことが可能となる。

まず、頭の中の素材を一覧できるようになる。書こうとしていることがマジカルナンバー(7±2)以下ならば、脳内のメモリで処理できる。それ以上であれば、無理だ。外部化__物質への定着化__を行わなければいけない。

ただしそれだけであれば、カードと大きな一枚の紙、エディタとアウトライナーに大きな違いはない。違いを生むのは二つ目の要素、つまりそれぞれの要素の「断片化」であり、そこから導かれる「操作可能性」の付与である。

この要素は、認知的要素(アフォーダンス的要素)と、機能的要素の二つがある。

アウトライナーは、一行ごとに別の要素として扱われる。カードはどれだけ頑張っても書ける文字数は限られている。よって、ユーザーに「これは断片ですよ」という認知を促す。それは「文章」ではないのだ。だからこそ、組み換え・入れ替えようという気持ちが生まれる(あるいは刺激される)。

機能的要素は、たとえばアウトライナーならば下位の要素を隠すことあできるし、カードならひとまとまりのカードを山にまとめることができる。人間の脳にとって目に入る情報は、思考の道行きに大きな影響を与えるのだから、これはかなり実際的な影響を持つ。大きな紙やエディタはこれは不可能である。

前者の要素については、たとえば「紙には鉛筆で書く」(エディタブルにする)や、「エディタで一行ずつ改行していく」などの使い方で、ある程度その要素を似せることができるが、後者は根本的に無理である。物真似できるのは半分まで、ということだ。

さいごに

結局のところ、何が言えるのだろうか。簡単だ。

「ある種の行為に行き詰まったら、ツールを替えてみる」

特にある行為のおいて、脳の負荷の増大を感じるようであれば、何か別のツールを触ってみるのが良い。

マクルーハンは「メディアはマッサージである」と言った。それと同じで、ツールは私たちの脳の働きに影響を与える。いやむしろ、それは脳の働きを規定してしまうとすら言える。ツールは私たちにある種の能力を付与してくれるが、それはまた別の物の見方を制限するということでもある。だからこそ、軽やかにツールを移動するのだ。

逆に言うと、「このツールさえ使えば、すべてがうまくいく」という言説は、だいたいにおいて(それもかなり高い確率で)戯言である。世の中は__というか、私たちとツールの関係は__そんな風にはできていない。

「ツール」は重要ではあるが、個々のツールはそれほど重要ではない。

これは肝に銘じておきたいところである。ツール原理主義は、すぐに行き詰まってしまうだろうから。

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ヤバくなったGoogle翻訳を試してみたよ

なんかすげーらしいので、ちょっと試してみました。

まずは、昨日書いた記事から適当に一文を。

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それぞれ引用。

このフォローボタンをポチッとすれば完了です。それで「新刊情報、おすすめ情報、近日リリース情報」などが受け取れるようです。おそらくメールが届くようになるのでしょう。

Click on this follow button and you’re done. So it seems to be able to receive “newly published information, recommended information, coming soon release information” etc Perhaps the mail will arrive.

なにがヤバいって、「ポチッとすれば」をちゃんと「Click on」に翻訳していることです。押すなんて言葉はひと言も入れていないのに、きちんと文脈に沿って翻訳されています。これは今までのGoogle翻訳には期待できない動きでした。

ということは、期待が広がります。特に、セルフパブリッシング作家には新しい可能性が待ち受けているかもしれません。なにせ、自分が書いた本を英語で出版できるかもしれないのですから。

Let’s try

まずは、試してみましょう。3つのタイプの文章を翻訳します。エッセイ、技術系、小説(ショートショート)です。

エッセイ

『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』より一部抜粋。

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技術系

続いて『Evernote豆技50選』より一部抜粋。

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小説(ショートショート)

同様に『Category Allegory』より一部抜粋。

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さいごに

全体的に、おおむね読める程度には翻訳されていますね。とりあえず「文章」の体裁は成している気がします。

予想では、小説はちょっと難しいかと踏んでいましたが、特にそういうこともありませんでした(私の文体がフラットなことも要因ではあるでしょう)。さすがに、「Fight information with no information with information!」は何やら哲学的複雑さを持つ言葉ですが、その辺はご愛敬ということで。

とりあえず今後もバリバリ進化していくでしょうから、Google翻訳をベースに自分の本を英語でセルパブできる未来がやってくるかもしれません。いやはや、すごいですね。

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Amazonに著者のフォロー機能が

徐々にデプロイされているようです。

難しいことは特にありません。

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このフォローボタンをポチッとすれば完了です。それで「新刊情報、おすすめ情報、近日リリース情報」などが受け取れるようです。おそらくメールが届くようになるのでしょう。

で、そもそもこのフォローボタンなのですが、いくつかのページにあります。上記は、私の書籍の個別ページの下にあったボタンです。ちなみに、このボタンが表示されるのは、

  • 著書セントラルにおいて著者ページを作成している著者
  • 電子書籍

の条件を満たすものです。そもそも著者ページを作成していない著者にはボタンは表示されませんし、また作成している著者でも紙の本のページには(今のところ)表示されません。

でもって、その著者ページにもフォローボタンはちゃんとあります。

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さらに、フォローすると、「他にもどうですか?」的に近しいであろう著者もオススメしてくれます。

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この辺はTwitterなんかに似ていますね。まあ、知りもしない著者をフォローすることはなかなかないでしょうが、たまたま見つけた見知った人をフォローするくらいには使えるかもしれません。

ちなみに、フォローした人のリストですが、アカウントサービスの「おすすめ商品」→「プロフィール」→「フォロー」から確認できるようです。

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ここで「フォロー中」のボタンをぽちっとするとフォローが解除できます。もちろん、普通に表示されている他の「フォロー中」のボタンでも解除可能なので、「よく考えたら必要なかった」という場合はあっさりぽちっとしてしまいましょう。

というのも、現状こうしてフォローされたからといって著者には何の通知も来ませんし、その上何人にフォローされているのか、という情報も、誰にフォローされているのか、という情報もわからないからです。ミステリアスですね。まあ、その辺はぼちぼち変わっていくのかもしれませんが。

今のところは、新刊情報などが勝手にAmazonから送られるだけですが、今後のバージョンアップにおいて、フォローしてくれている人に著者がダイレクトにメッセージを送れるような機能が盛り込まれれば、個人的には嬉しいと感じます。そういう機能が、切実に求められているのです。

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風に吹かれて歌を聴け

風が吹く。
一つの結果として、風が吹く。

温度が違えば、気圧も異なり、
そこに風は生まれてくる。
不均一の是正措置。
結果としての空気の流れ。

流れてきた風を、変えることはできる。
誘導し、封じ込め、
新たな流れを与えることはできる。

しかし、おおもとは変わらない。
地球が地球である限り、同じように風は吹く。
同じように、風は吹き続ける。

どれだけ風を変えようとも、
根源はそのままだ。

吹いた風は何をする?
木々を揺らし、石を削り、風車を回す。
風がもたらす、もう一つの結果。

風を変えれば、それらは変わる。
散る葉が変わり、削られる石が変わる。
もう一つの、結果は変わる。

幾たびもそれが繰り返されたのなら、
地形だって変わってしまう。
そうなれば、風もまた変わる。
根源から変わってしまう。

* * *

言葉とは、風のようなものだ。

心が言葉を生み、言葉は何かを変える。
巡り巡って、自分の心もまた。

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『「超」整理法』を前にして考えている三つのこと

のきばトーク、第八回収録しました。

テーマは『「超」整理法』について。

とはいえ、結構雑多な話となりました。毎度好例ですね。

疑問点

個人的に、気になっているのは次の3つの点です。

  • 『「超」整理法』の面白さは何か?
  • 『「超」整理法』はflagbookなのではないか?
  • 『「超」整理法』を現代で提出するとすれば?

『「超」整理法』

火薬庫ぎりぎりの話をしますが、『「超」整理法』って面白いんです。本としての強度がある、と言い換えてもよいでしょう。ごく普通に今でも再読しますし、そのたびに結構引き込まれて読んでしまいます。

実用書・ノウハウ本でありながらも、ちゃんと本として面白い。

それは本書で提示されているノウハウが現代でも通用する、ということとは別に、おそらく本書の建て付けも関係している気がします。つまり、「何が書かれているか」だけではなく「どう書かれているか」も影響している、ということです。

ちょっと、この辺りについては深掘りしてみたいところです。

『「超」整理法』はflagbookなのではないか?

最近考えているのは、これです。

私は、『「超」整理法』から(実際は『「超」勉強法』から)スタートし、知的生産に関する著作をさんざん漁ってきました。で、とうとう『知的生産の技術』に辿り着いたわけです。原典との遭遇。

そこから、現代における「知的生産の技術」についての思索・探求が始まったわけですが、その中で、『「超」整理法』を単なる『知的生産の技術』の系譜としか捉えてこなかった気がします。木の幹は『知的生産の技術』だけであって、それ以外の本は枝葉にすぎない、という見方です。

でも、それはちょっと間違っているのではないか。そんなことを思いつつあります。

私と、私よりも少し上の世代(のライフハッカー)はだいたい『「超」整理法』を読んでいます。影響も受けています。私と同じように、『知的生産の技術』はそれよりも後に読んだ、という人もいるようです。

だとすれば、『「超」整理法』を『知的生産の技術』の系譜にだけ置くのはいささか視野が狭いかもしれません。実際に系譜の本ではあるのですが、この本はこの本でエポックメイキングだったのではないのか、という疑問が立ち始めています。

たとえば、私は中学から高校時代に必死にB’zを聴いていました。今ではもう音楽の趣味はずいぶんと変わってしまいましたが、それでもB’zの曲を耳にすると「帰ってきた」(at home)な感覚があります。音楽の原風景を形作っているのです。

でもって、それは思想や価値観、ある種の物事に対するアプローチにも似たようなことが言えるのではないでしょうか。もしそれが言えるのならば、多感な時期に『知的生産の技術』を読み込んだ世代と、『「超」整理法』を読み込んだ世代では、何かしらの違いが発生していてもおかしくありません。

その視点に立って、もう一度知的生産の技術に関する本たちを点検していくのも面白そうだと感じています。

『「超」整理法』を現代で提出するとすれば?

上の二つの疑問が合わさると、この疑問が立ちます。

まず、『「超」整理法』の面白さを解剖する。でもって、その要素を踏まえて現代で再提出する。その際は、単に現代の情報を織り込むだけではなく、世代の転換にも目配せする。

どういうことかというと、『知的生産の技術』、『「超」整理法』、『ストレスフリーの整理術』とflagbookは移動してきていて、それぞれの世代の特徴がそこにあるはず。だとすれば、今の世代の感覚に合わせて、その本の建て付けを変える必要がある。『「超」整理法』が好きな世代に、懐かしさで訴えかけるのではなく、むしろ新しさをもって新しい世代に受け入れてもらえるようにする。

その際は、現代のナレッジウォーカーや一般の市民がどのような状況に置かれているかを考える必要がある。

みたいな、(いささか壮大な)計画です。

たいへん面白そうですね。できるかどうかはわかりませんが。

さいごに

というわけで、最近のホットは『「超」整理法』の解剖です。

またちょこちょこブログで記事を書くかもしれません。

では、では。

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物書きのロール・モデル

月刊群雛の特別号、別冊群雛2016年02月号を読みました。

別冊群雛 (GunSu) 2016年 02月発売号 ~ インディーズ作家と読者を繋げるマガジン ~
NPO法人日本独立作家同盟 (2016-02-01)
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読みたかったのは、『山珍居にて』というゲスト座談会。以前いしたにまさきさんが、藤井太洋さんと楽しい時間を過ごした、みたいなことをTwitterかFacebookに投稿しておられたので、「おいおい、その組み合わせは気になるじゃないか」と思っていたのですが、どうやらこの座談会だった模様です。しかも、林智彦さんも入っての豪華メンバーな座談会。

で、内容はもちろん面白かったわけですが、その冒頭近くで、いしたにさんがこんなことを言っておられます。

いしたに:藤井さんをそのまま真似するのはやめた方がいいんじゃ……(笑)。

まあ、そりゃそうですよね、と思ったんですが、ふと疑問も思いつきました。

一体、誰ならばそのまま真似できるのだろうか?


藤井さんはなんでもこなせる人(=多彩なスキルを持っている人)なので、そうでない人がそのまま真似してもうまくいかないだろう(そもそも真似できない)という点はたしかにそうでしょう。あこがれにはなっても、汎用的ロールモデルとしては機能しにくいわけです。

だったら、私みたいな平々凡々な物書きをロールモデルにすれば良いのでしょうか。それも難しそうです。

私はブログを中心として、有料メルマガをその下支えとしながら、商業出版といわゆるセルフパブリッシングで「出版活動」を行っています。で、これと同じことをやっている人はどのくらいいるでしょうか。

細かい点で言えば、有料メルマガを活用しているライターさんはちらほらいます。ブログを使っている人も多いでしょう。セルフパブリッシングを活動の中心に据えている人も少なからずいます。しかし、それらを私と同じ割合・意図・頻度で行っている人は誰もいないはずです。

つまり、何が言いたいかというと、誰かのやり方を「そのまま真似する」というやり方は、たぶんもう通用しないのではないか、ということです。

座談会の中では、プラットフォームとそこで機能する戦略の差異についても触れられていたのですが、現代ではメディア手段が多様になり、ニーズは複雑化しています。そして、クリエーターも様々な選択が可能となっています。

そんな状況で、「こうしておけばうまくいく」といった簡単なノウハウはなかなか成立しないでしょう。誰かが「成功」していたとしても、そこにあるノウハウをアレンジなり、取捨選択していかなければ、なかなか望む結果は得られないでしょう。

で、そうした取捨選択をどのように行うのかですが、それは自分の中にある「意図」と合致するかどうかが鍵になりそうです。言葉を大きくすれば、自分の「野望」に適するのかどうかというジャッジメントです。

文章を書くことで生きていくのか、生きていくことの中に文章を書くことを組み込みたいのか、それとも単にみんなに読んで欲しいのか。文章との関わり方はさまざまあります。

それに「文章を書くことで生きていく」ことでも、個人でやりたいのか組織に属したいのか、それとも全然違う野望があるのか。その辺については、当人にしかわかりません。逆に言えば、そこをある程度クリアにできない限り、さまざまなノウハウを自分のために役立てることも難しそうです。なにせ、数あるノウハウには逆向きのベクトルを持っているものもあるはずですので。

もちろん、使えるお金や時間・持っているスキル・動かしがたい価値感といったものも、考慮すべき制約条件になるでしょう。そして、それは人それぞれ違っています。

そんな全体像を眺めてみると、結局は、自分の戦略を自分で組み立てていかなければならないことが見えてきます。

その意味で、単純なロール・モデル、言い換えれば静的なロール・モデルは、それだけでは頼りになりません。言い換えれば、物書き一人ひとりが、自分の前の道を切り開いていく必要があるのです。


ずいぶん抽象的な表現になりましたので具体的に言い換えると、

「どうやって人気を得るのか」
「どうやって読者を得るのか」
「どうやって収入を得るのか」

は、(他人のアイデアを参考にしつつも)自分で考え、ときに自分で生み出す必要がある、ということです。それは別に物書きに限ったことではなく、現代のクリエーター全般に言えることなのかもしれません。

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