もしわたしたちがゾウであったら

以下の記事を読みました。

ブロガーズフェスティバルでの紫原(家入)明子さんのことばから文章と音楽について考えてみる | やよこぶろぐ

音楽だというとわかりにくくても、リズムがあるのは理解しやすいと思う。リズムがないなら、「、」も「。」も必要ない。文章には息の吸うところが重要で、そこも音楽と似ている。もし、人間全体の平均的な肺活量が、今の倍あるなら、文章ももっと長くなっていたかもしれない。

面白い視点です。

もしわたしたちがゾウであったら
いったいどんな文章を書いていただろうか。

もしわたちたちがネズミであったら
いったいどんな歌を歌っただろうか。

ブログで長文は読まれないという。あれは嘘だ。

正確には、長文を読ませるためにはそれなりのスキルが必要、というだけである。どれだけ長かろうが、続きが気になる文章はついつい読んでしまう。だから、長い文章だってぜんぜん構わないのだ。

しかしながら、別の意味での長文はちょっとしんどい。こういうやつだ。

ある晴れた日の朝、僕は勢いよくベットから飛び上がり、右手で目覚まし時計を止めながら左手で焼き上がったばかりのトースターを掴みつつ、窓の外を流れるシリカゲルのような雲を親の敵のように、あるいはこれから半年は逢えなくなってしまう長距離恋愛の恋人のように眺めていた記憶を思い出していた。

こういう長文はやめた方がよい。文芸的特殊効果を狙っているのでない限りは避けた方が賢明だ。

人間の脳には認知的な制約がある。そんなにたくさんのことを一度に処理できない。4000字の文章は、たとえば200字ぐらいの塊ごとで、読んでいける。決して4000字すべてを一気に処理するわけではない。同じように、上のような文章も、ある程度は細かく区切って文にした方がよい。

それは人間が持つ平均的な生物学的制約を考慮したもので、かなり一般的なルールと言えるだろう。

文章にはリズムがあります。

ちなみに、この文章は二回ほど転調していますね。たぶんトリッキーな印象を受けられたと思います。そうした印象を受けるということが、私たちが「文」を断片的に処理しているのではなく、全体性で受け取っている証拠です。リズムは断片ではないのです。

ある文が読みやすいのか、読みにくいのか。それは前後の文章によって決まります。あるいは文章が持つ全体性にも影響を受けます。だから、何度も読み返してリズムを整える必要があるわけですが、リズムが良ければそれで良いかというと、たぶんそうではありません。

たとえば、適当にリズムマシンを鳴らせば、ノリの良いビートが刻まれることでしょう。でも、それが心に残ることはありません。リズムが良いのは、前提条件のようなもので、それだけでは何も心に刻まないのです。

そこには何かうねりのようなものが必要です。そして、そのうねりのようなものが読者をぐいぐいと引き込んでいくのです。渦巻きが、近づく人々を飲み込むように。

人間は機械的に文章を処理してはいません。「読んで」いるのです。

でもって、私たちは多様な個性を持つ生命体ですが、それと同時に生物学的制約を共に持つ存在でもあります。そこには、ある種の共通項があるのです。

綺麗なメロディーは心に響きます。でも、心に刻まれるのはもっとドロドロした得体の知れない沼から引っ張り出したものです。その沼は個々人がヒミツの森の奥に隠しているものですが、その沼の底は、いろいろな沼とつながっているのです。だからこそ、誰かの言葉が、別の誰かの心に届くことがありうるのです。

もしわたしたちがゾウであったら
いったいどんな文章を書いていただろうか。

もしわたちたちがネズミであったら
いったいどんな歌を歌っただろうか。

でも、わたしたちは人間なのだ。

さとりからはほど遠く、
制約多き人間なのだ。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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