成人の日におもう

町を歩いていたら、振り袖姿の若い女性を何人も見かけた。実に華やかだ。ふと、手帳をめくってみると今日は祝日だという。成人の日だ。

毎年成人の日を迎えるたびに、自分の成人式のことを思い出してしまう。不思議な感覚だ。クリスマスやお正月ではこうはならない。節目というものの力なのだろう。どれだけ時間がたっても、2000年という時代が脳内によみがえる。

人生に、「ろくでもない」時間と「ろくでもなくはない時間」があるとするなら、20歳の僕の人生は明らかに前者であった。2000年あたりだったら、きっと大花火のビタ押しのリプレイ外しにでも夢中になっていた頃だろう。必死にパチスロの収支表をつけていた頃合いだ。あるいは、マジックのカード集めなんかもやっていたかもしれない。

ともかく就職せずに生きていくことばかりを考えていた。ネクタイは、人生を拘束するものの象徴だった__その3年後ぐらいには、コンビニの店長として、誰に命令されるでもなくネクタイを締めるようになっていたわけだが。人生とは本当に何が起こるかわかったものではない。

でもまあ、本ばかりは読んでいた。それだけは、ちょっと誇れたかもしれない。残念ながら、周りにそれをすごいと言ってくれる人は誰もいなかったが、そんなことは関係なかった。本があり、僕がいた。それで十分だった。

幸運な出来事と、慈悲深い出会いがなければ、今の僕は存在しなかっただろう。同じ事を二度繰り返せと言われれば、力強く「いやです」と断言する。波乗りしながらジェットコースターに乗っていたようなものだ。転落しなかったのが奇跡みたいなものである。

だから僕は、若い人に向けて「こうすれば人生が成功しますよ」なんてことは口が裂けてもいえない。そもそも、僕自身が成功とは遠い場所にいるのだから、それは当然のことだろう。

でもまあ、何かを学ぶことは悪いことではない。

でもまあ、何かを試すことは悪いことではない。

そういうことは言えるように思う。

生存者バイアスにならないぐらいにギリギリに注意を払えば、言えることなんて本当に限られている。せいぜい、したり顔で成功論を説く人間には近寄らない方が良い、ぐらいだろう。そういう人は、何かを売りたいだけか、あるいは物事が見えていないのかのどちらかである。運が悪ければ、その両方ということもある。

人生に正解がないように、人生には間違いもない。

でも、人生には納得感があるし、また後悔もある。

納得感が少ない人生は虚しさが大きいし、後悔が多い人生は楽しみが少ない。

でもって、人間は愚かしいから、いろいろなところで間違う。そういうことが宿命づけられていると言ってもいい。

どれだけ懸命にがんばっても、自分が間違うことがあるというのを受け入れれば、自分以外の人間が間違えたことにも寛容になれるだろう。

完璧主義は、部屋の酸素を減らすだけだ。

できれば、こうすれば人生うまくいきますよ、ということを5つぐらいのポイントにまとめて提示できたらいいなと思う(きっと、10万部ぐらいは売れるんじゃないだろうか)。でも、なかなかそういうわけにはいかない。だからこそ、僕たちは文学を好み、文学を愛し、文学を残してきた。

文学とは、人が生きるための学問である。生きることを学ぶ場所である。

それは、そう、知識ではないのだ。知識の伝授という形では決して行えないものなのだ。座学だけでゴルフのスイングがうまくなったりしないように、生きることは生きていく中でしか上達しない。

だからまあ、生きてみるしかないんじゃないかと思う。自分なりに精一杯の形で。

もし、その姿に誰かが拍手を送ってくれるなら、それはそれで素晴らしいことだ。でも、たとえ誰も見ていなくても、誰かの存在を感じて生きていくことはできるように思う。

でもまあ、なにせ始まったばかりだ。ろくでもなくたって、ぜんぜん構わない。続いてさえいれば、変化は訪れる。なにせ、人生は何が起こるかわからないのだから。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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