文章の魅力と文章力と、その他の何か

以下の記事を読みました。

雑記ブロガーに対する究極の2択 – 東屋書店

文章の書き方が上達したためだろうか?

それとも、

君の考えがうまく表現できるようになったためだろうか?

著者は、この二つが別の軸にあるのではないかと仮説を立てながら話を進めていきます。面白いですね。

さて、ここでちょいとした遊びをやってみましょう。

「上手な文章の書き方」

これを2パターンに分けてみます。

「上手な、文章の書き方」
「上手な文章、の書き方」

はてさて、これって同じでしょうか。それとも違いがあるでしょうか。

「文章」の魅力を構成するもの

「文章力」を構成するものはいろいろあります。たとえば語彙、たとえば文法、たとえば比喩。あるいは視点の管理や、話題を提示する順番なども文章力に含めてよいでしょう。

では、「文章」の魅力は、文章力によってのみ構成されるでしょうか。もちろん、そんなことはありません。どんなテーマをどのように扱うのか、書き手はそれをどのように捉えているのか。そういったものも「文章」の魅力になります。ありますよね、「へ〜、そんな風に考えてるんだ」と思えるような文章が。

つまり、「文章力」と呼びうるものもいろいろあり、その統合が「文章」の魅力を作るのですが、それは魅力全体の一部でしかない、ということです。

むしろ、人を惹きつける魅力は「文章力」以外の部分が多くを占めるかもしれません。だったら、「文章力」なんて気にしなくていい__と言い切れるでしょうか。

うまい文章

言うまでもなく、「文章のうまさ」は、文法の正しさとは関係ありません。むしろそれは、「どれだけ読ませるのか」に関わっています。「読ませる文章」=「うまい文章」なわけです。文章というのは読んでもらうためのメディアなのだから当然でしょう。

「この文章は漢字密度の具合がちょうど良いですな」

などと眺めて鑑賞されても、メディア機能としてみれば何の役にも立ちません。読んでもらえてはじめてコンテンツを相手に渡すことができます。だから、有無を言わせずぐいぐい読ませてしまう文章がやっぱり「うまい」わけです。

さてこれは、

「上手な、文章の書き方」
「上手な文章、の書き方」

のどちらでしょうか。

下支えとしての文章力

「文章」の魅力が、「文章力」以外に多く存在しているとしても、文章力は軽んじることができません。

最初の二択に戻ります。二つ目の選択肢はこうでした。

「君の考えがうまく表現できるようになったためだろうか?」

この疑問では見過ごされていますが、実は「君の考え」がヴァージョンアップしたという可能性もあります。より人を惹きつける視点を持てるようになった、ということです。もちろん、そういうこともありますよね。

ではその視点が、より繊細で複雑なものであったらどうでしょうか。より細やかな配慮で、機微がとても重要な意味を持つものであったらどうでしょうか。その表現を下支えするための「文章力」は必要ないでしょうか。

私はそうは思いません。小説家が技法を磨くのは、別に技法を競っているわけではなく、自分が表現したいものを精緻に表現するためにそれらが必要だからでしょう。

だから、少なくとも、「自分の気持ちを伝えるのに文章の書き方は関係ないようです」とは言えません。ある時点では言えるかもしれませんが、「自分の気持ち」が複雑になってきたとき(あるいは機微を含むようになってきたとき)、限界がやってきます。

もちろん、「自分の気持ち」を「自分が表現できるだけのレベル」にわざわざ落として表現することもできるでしょう。それをレベルアップと呼べるかどうかは私にはわかりませんが。

さいごに

なんにせよ、漠然と「うまくなろう」と考えるよりは、「うまいというのは、一体どういう状態を指すのだろうか」と考えた方が、適切なアプローチは見つかりやすいでしょう。進むべき方向みたいなものは見えやすくなりそうです。

ちなみに私は常々文章がうまくなりたいと願って(あるいは切望して)いますが、それは「一度読み始めたら止まらず」「読者の心の奥底に届き、それを1mmでも揺さぶるような」文章が書けるようになることです。無謀かもしれませんが、まあ、物書きなんてみんなそんなものかもしれません。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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