find the lightのススメ

どこから話を始めるのかちょっと難しいね。

昨今のウェブとも関係あるし、ある意味では生き方みたいなものとも関係している。薪割りみたいにすぱっと切り出せそうにはない。でも、あんまり肩肘張らずに始めてみよう。

「ふぁいんど・ざ・らいと」

記事

以下の記事を読んだ。

23-seconds blog: 懐古の海鮮和食定食

何と言いますか、どんなものでも、おいしそうなら、おいしそうで、全然構わないのです。自分で気づいて、自分で表現します。生きることのすべてです。

少しだけ誇張を許してもらえるなら、ピリピリ震えがくる記事だ。

記事には、いくつか別の記事が紹介されている。

シャープソーンのマリオ | gofujita notes

ぼくは、たとえば横浜のきどったお店で何だか知ったかぶりしたニイさんに、「今日、厚岸から入った牡蠣は、はっきり言ってオススメですよ。食べないと損ですよ」なんて言われると、絶対別のものを注文するくらいにはヒネクレている。けれど、なぜだかマリオの解説は、食べている料理への安心感を高めてくれたし、ジャージー牛を誇りをもって育てているキャベンディッシュさんの顔を浮かべながらその乳でつくったバターを味わうのは、やはり生きる活動の醍醐味というものだ。

はやくなるのがはやい:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

おそらくこの男の子は電車が好きで、ふだんから電車の走りに注意を向けているので、加速性能の差に気がつき、それを「はやくなるのがはやい」と表現したのだ。そう考えれば、語彙の範囲内で実に的確な表現をしていると思う。

もし、時間があるならこれらの記事も頭から読んでみたっていい。時間がないなら、そうだな。まあ、そもそもこの記事を読むのを後に回した方がいいかもしれない。それぐらい、ちょっと込み入った話になるんだ。

さて、準備はいいかい。話を続けよう。

もうちょっと別のブログの記事を紹介してみよう。

ほどほどの不自由がココロの自由 – 日々の食卓から

それなのに、あの頃よりも。
制服を着て、学校に通っていたころより。

もしかして、ワックスで髪をがちがちにかためて慇懃無礼に接客してた頃より。
 
いまの不自由な生活のほうが、ココロが自由だ。 

葛藤 – 仮庵

いままでとは何か違うな? と気づく前はなんとか食べさせない方向で説得してきたが「ストレスか?ストレス食いなのか? ふふふ。いいよ、食べな。1個ね。食べたら歯みがけよ」と言ったらニヤニヤして、ちゃんと歯も磨いて安心したように寝た。
そうしたらその日から、起きてこなくなった。
またあるかもしれないが、その時はその時だ。

「ぬか~つくるとこ~」(倉敷市)の自由に衝撃をうける: 鷹の爪団の吉田くんはなぜいつもおこったような顔をしているのか

自由をくちにするのはかんたんだけど、
「ぬか」ほどすきなことだけ すればいい場所を
わたしは はじめてみた。
すきなことをしていいよと、ほうりだすのではなく、
スタッフがこまかなところまで 目くばりをおこたらないからこそ、
ぬかびとたちは、すきで得意な活動に、安心して没頭できる。
スタッフがぬかびとたちのちからを じょうずにひきだしている。

まだまだあるけど、きりがないのでやめておこう。

これらの記事からは、共通するある種の要素を感じる。簡単に言えば好感触なのだけど、それではあまりに曖昧だ。それがいったい何なのかずっとずっと気になっていた。読書好きとか、そんな単純なことじゃない。もっともっと深く広く根を下ろした何かだ。で、その何かに僕の心は反応してしまう。引きつけられてしまう。

「ふぁいんど・ざ・らいと」

いんたーねっつ

インターネットの話をしよう。

「注目」の力学に支えられたインターネットは、刺激的な発信が増加する傾向を持つ。結構なことだ。なんたって人は刺激的なものが大好きなんだから。でも、それはコントラストを強めすぎた写真のような歪さも持ってしまう。良いものにせよ、悪いものにせよ、極端なものばかりが注目され、ほどほどのもの、ちょっとしたものは見過ごされていく。

不思議なことだ。

だって、僕たちの日常は「ほどほどのもの」や「ちょっとしたもの」で満たされているはずなのに。一体僕たちはほんとうのところ何を目にしているんだろうか。

そういう意味で、上記の記事たちは「ちょっとしたもの」に目を向けている。それが僕の心を引きつける「何か」なんだろうか。どうにも違う気がする。それだけではない気がする。

「ふぁいんど・ざ・らいと」

いい話

あるとき、気がついた。そこには「発見」があるのだ、と。

自分の目で人生を眺め、自分の頭で考える。そしてキラリと光る何かを発見する。どの記事にもその発見がきちんと息づいている。それらは、まあたしかに「ちょっとしたもの」でしかないし、世界を変えるような力は持ち合わせていないかもしれない。でも、人生に寄り添っているが故に決して空疎にはならない。思考実験はあるかもしれないが、実体が常に存在している。

だから奇っ怪なことにはならない。むしろ地に足がついた、そしてそこから暖かさが伝わってくるような感触がある。

たぶん、そういう記事には「ちょっとしたいい話」が含まれていることだろう。でも、それはバイラルメディアで流れてくるようなわかりやすい(そして真偽が怪しい)「イイ話」とは違う。そういう話は単に事実を伝達しているだけで、発見はどこにもない。その記事をいいね!してシェアしている人も共振材となっているだけで、何も自分では発見していない。

つまり、僕が言いたいのはこういうことだ。

「イイ話」をいくらストックしても、自分の人生が良くなったりはしない。むしろ、なんでもない日常に目を向け、そこから自分で何かを発見していくことが必要だ。キラリと光る何かを。

「ふぁいんど・ざ・らいと」

さいごに

日常に目を向けることも大切だが、それは土台の片一方でしかない。

大切なのは、考えることだ。発見するということは、考えるということなのだ。思うだけでなく、考える。それが鍵だ。

でもって、それを記事にしたため、ウェブの大海原に送り出すことは、ウェブ全体の情報流通にとってすごくすごく良いことじゃないかなって、僕は思う。少なくとも、僕はとても楽しい気分になれる。それにちょっとレジスタンスっぽい気分を味わえるしね。

まあ、そんなたいそうなものじゃないにせよ、誰かの日常をちょっと変えるだけの力はあるかもしれない。

「ふぁいんど・ざ・らいと」

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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