アウトラインはなぜ目次ではないのか

inspired by アウトラインと目次:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

「これから昔話をするね。桃太郎っていう一人の勇敢な男の子の物語なんだ。その物語には、鬼が登場して、犬やら猿やら雉が大活躍するんだ……」

これは概要だ。つまり、アウトラインである。

あなたは、このアウトラインを子どもに伝え、その後、実際に物語を語り始める。

「昔々あるところに、おじいさいんとおばあさんがいました」
「名前は? 名前はなんていうの?」
「おじいさんとおばあさんは、二人だけで生活していたから、名前は必要なかったんだ。互いに、おじいさん、おばあさんと呼んでいたんだ」
「そんなのおかしいよ。だって、おじいさんはおじいさんだからおじいさんなんでしょ」
「そうだね。おじいさんとおばあさんにはたしかに昔孫がいた。でも、その孫は流行病(はやりやまい)にかかってしまったんだ。それを治療するための薬は、遠くの島にしか存在しない。しかもその島はうわさによると鬼たちによって占拠されてしまっている。とても勇敢だったおじいさんの息子(おとうさんだね)は、意を決して薬をとりに島に向かった。でも、一ヶ月経っても、一年経っても帰ってはこなかった。孫も病に負けて死んでしまった。そのようにして、おじいさんとおばあさんは二人暮らしになったんだ。二人は、できるだけ昔のことを話さないようにしているんだけど、お互いの呼び方だけは変わらなかった。わかるかい?」
「かなしいね」
「そう、だから、あまり呼び方については触れないであげよう」
「わかった」

実際の執筆とは概ねこのようなものである。ツッコミをいれるのは、たいてい自分だが、やっていることはかわりない。

執筆を始める前は、「このようなことを書こう」というイメージはできている。配置すべき要素も、話の流れも固まっている__ように思える。しかし、実際に執筆を始めてみると次から次に書くこと、書くべきことが出てくる。それらは、概要を考えているときには、まったく想像もしなかったことばかりだ。私もまさか、おじいさんに息子と孫がいたとは露も知らなかった。

ここで二つの選択がある。こうしたツッコミを無視するか、受け入れるかだ。

無視すれば、話は概要通りに流れていく。受け入れたら、上記のように追加の説明が必要になってくる。タチの悪いことに、そうした説明をしていると、単なる肉付けだけに終わらず、最初に語った概要そのものに影響が出てくることもある。フィードバック・ループだ。

どちらが「正しい」のかをここで断じることはしない。しかし、「わたし」という人間の想像力が、一瞬のうちにすべて発揮されると想定できないのであれば、後者のやり方のほうが豊かな作品が生まれてきそうな気はする。想像力を時間的に積分するのだ。

上記の追加要素を語ったことで、

・おそらく桃太郎は、亡くなった孫と瓜二つの顔をしている
・→だから二人はその子どもを育てる気になった
・→その代わりおじいさんとおばあさんの間で一悶着はあっただろう
・桃太郎は鬼ヶ島で、おじいさんの息子と再会する
・→どうなるかはわからないが物語にとって重要なイベントになる
・おじいさんの娘、つまり息子の嫁はどうなったか。伏線である

という要素が生まれた。「このようなことを書こう」と瞬間的にイメージした話にはまったくなかった要素だ。

こうして思いついた要素をすべて切り捨ててしまってもいい。瞬間的なイメージに固執して、すべてをそれに従わせる手もあるだろう。あるいは、気ままな部下に翻弄される中間管理職のように、それぞれの要素に身を任せて、自分は脱線しすぎないように流れを整えるだけの立場に立つこともできる。

どちらでもいい。どちらが好みか、という話にすぎない。

アウトラインは、目次だ。
アウトラインは、目次ではない。

どちらも正しいことがある。所詮は、物事をどのように進めていくのかのスタンスの違いなのだ。

驚くべきなのは、一見「アウトライン=目次」派のためのツールに思えるアウトライナーが、実は「アウトライン≠目次」派にとっても有用だ、という点だ。この点は、しっかりと確認しておきたい。

ちなみに、私にとってアウトラインは目次とはほど遠い。きっと、お父さんの鬼ヶ島での活躍をスピンオフで書いてしまうくらいだから。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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