ぐぬぬなき創造

次の記事にある福山雅治さんのセリフにドキっとしました。

「望まれた役をする”劇団福山雅治”」 – ほぼ日刊イトイ新聞

ものを作る人間って、
心のどこかで常に誰かに嫉妬していると、
僕は思っているんですね。

一応、私は「ものを作る人間」なんだと思っていますが、見事にこれがありません。他の人のすごい作品に出会っても、すごく単純に「おぉ〜、すげ〜」と感じるだけで、嫉妬の種火すら発生しないのです。そうか、だから私はパッとしないんだな、と納得したわけですが、それはそれとして思うところはあるわけです。

他の人が作ったすごい作品は、言ってみれば「その人の仕事」です。「私の仕事」ではありません。仮に自分の分野に重なる仕事でも、「あぁ〜、これで自分はこの本を書かなくていいや」と思うか、あるいは「自分だったら、こういう切り口で書くかな」と思うくらいです。ぐぬぬなき創造なのです。

だって、そうですよね。

私には私なりに蓄積してきたものがあり、磨いてきた技術があり、表現したい方向性のベクトルみたいなものがあります。そうしたもの統合として作品は生まれてきます。もっと言えば、そうしたものの統合でしか生まれえないものが生まれてきます。もちろん、他の人には他の人の統合があり、そこから導かれるものがあります。

「仕事」というのは、そうしたものをいかに活かすのか、という話であって、他人のそれを嫉妬してもしょうがないわけです。嫉妬し続けていれば、いつしかその人の体に乗り移れるならともかく、結局やれることと言えば、自分の引き出しをいかに使うのか、という一点しかありません。

こういう感覚は、結構麻雀的で(あるいはポーカー的で)、どうあがいても最終的には配られた手牌(手札)で勝負するしかないわけです。タンヤオ風の配牌だったら、懸命にタンヤオを追いかける。そして、なるべくドラを使えるようにしながら得点を上げることにも努める。チンイツ風の配牌だったら、他の人の色染めに気をつけながら、多面待ちへのフォローもしていく。で、その一回一回のプロセスを丁寧にこなしていく。

ただもう、それだけしかありません。嫉妬している暇があるなら、相手の捨て牌の切り順をチェックしていた方がはるかに役立ちます。

ここで、ハッと気がつきました。対象に嫉妬を感じるほど注目しているなら、その観察は優れたものになるだろう、と。

つまり、嫉妬が単なる嫌悪感と結びつき、拒絶反応を起こしているなら役に立ちませんが、むしろ嫉妬しているがゆえに、作品の細部にまで注意を払うなら、それは「ものを作る人間」の肥やしにはなるでしょう。そういう意味で、ぐぬぬにもきっと機能みたいなものはありそうです。

でもまあ、最終的には、「自分の手牌で勝負する」しかありません。こればかりはどうしようもないところです。

▼こんな記事も:

R-style » 「自分の仕事」をする
R-style » 自分の階段を登る、自分のグラフを見る

▼こんな一冊も:

真ん中の歩き方 R-style Selection
R-style (2014-08-28)
売り上げランキング: 120,157
Related Posts with Thumbnails
Send to Kindle

コメントはまだありません

コメントはまだありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード TrackBack URI

コメントをどうぞ

WordPress Themes