二分法が生む疎外

何かを二分する。

善と悪、光と闇、理性と感情。

わかりやすい。0と1で構造化された世界。純粋な世界。

そこでは態度を表明しなければいけない。0なのか、1なのか。

何かを二分する世界では、狭間であることが許されない。逸脱も同様だ。「0でもあり、1でもある」といった態度や、「0でも、1でもない」という態度は、存在できないのだ。

だったらそう、編み目を細かくすればいい。二分をさらに二分して、四分するのだ。その操作を繰り返せば、いかにもさまざまなものが許容できるようになるように見える。狭間を受け入れられるように思える。

しかし、実際はそうではない。結局そこでは、0なのか1なのかを表明しなければいけない。単にその選択肢が増えているに過ぎないのだ。突き詰めれば、「0でもあり、1でもある」や「0でも、1でもない」という態度は拒絶されている。

仮にそうした態度を持たざるを得ない主体がいれば、どこまでいっても戸惑いにつきまとわれるだろう。「自分はいったい、どこに位置すればいいのだろうか」と。

そのとき、二分法で世界を分ける主体はきっとこう思うはずだ。「彼らは私たちとは違う」。そのようにして、再び世界は二分される。

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