そのうち考えるのをやめる脳

そのうちカーズは考えるのをやめた

たとえば、あなたが究極生命体だとして、それでも宇宙空間に放り出されて身動きが取れなくなれば、やがて考えるのをやめてしまうだろう。

宇宙の大半は物質が無く、非存在の闇で覆われている。その中にあっては、人間はまさに点でしかない。そしてその点には、ほとんど何の情報も降り注がないのだ。

だから、考えるのをやめてしまう。

brain in tube

試験管の中の脳みそ、というイメージがあるが、もしそれが単純に閉じた系であるならばすぐに考えるのをやめてしまうだろう。結局のところそれは、宇宙空間と大差ないからだ。

それが人間の体からやってくる感覚神経の電流なのか、それとも擬似的に生成されたアルゴリズム的電流なのかはともかくとして、何かしらの刺激が脳にやってこないと、脳は考えることをしない。

思考とインプット

以上のような極端な思考実験は、1つのことを示している。

「考えるには、インプットが必要」

当たり前のことを言っている気もするが、ひっくり返せばどうだろうか。

「人は、インプットなしでは考えることができない」

これは、「人間は主体的に考えられる存在である」ことをいくらかは否定している。もし人間が主体的に考えられるのならば、試験管の脳でも考えられるはずだ。でも、本当にそうだろうか。

もちろん、この思考実験を実際の実験として行うことはできない。第一に、倫理的な難しさがある。第二に、測定がほぼ不可能だ。刺激を与えない脳の状態を(特に内的な動作を)、刺激を与えないで観測するのはS級のトリックが必要だろう。よって、これは原理と呼べるものではないし、それに昇華することもない。

だからそう、あくまで「念頭に置いておく」たぐいのものである。

身の回りの情報

とは言え、これは運命論ではないし、決定論でもない。

「考える」という行為が、インプットによって発生するにしても、そこで何を考えるのか、どのように考えるのかまでは拘束されていない。インプットが行うのは、導火線に火をつけることだけで、ニューロン(シナプス)のどこに火がつくのかは、それこそ脳次第だろう。

あくまで、インプットに触発される形で、思考はスタートするということだ。

だからそう。たとえば、これまで一週間でテレビを20時間見ていた人が、それをまったく見なくなったら、単純に蓄えられる知識が変質するだけではなく、「何を考える」のかも変わってくるはずだ。

その他、対象は何だっていい。情報が多すぎるからとそれを遮断していくような試みは良いとして、それを徹底的に削っていった先に待っている思考は、それまでの思考と同じではないかもしれない。それについては、真剣に検討した方がよいのかもしれない。

もちろん、日常的に摂取する情報、コミュニケーションをとる人、たまに触れる映画や演劇といったものすべてが、この話に関わってくる。そうしたメディアが、何を話題にし、どんな手つきで語り始め、どのような視線で世界を切り取るのか。それがそのまま、自分の「思考」にもフィードバックされていく。そういう可能性がある。

さいごに

主体的に考える。

これは、見た目以上に難しいことだ。「本当の意味」では、私たちは主体的に考えることなどできないのかもしれない。

それでも、インプットについて気を遣うことはできる。その気遣いを主体性の発露として捉えることもできるだろう。

Related Posts with Thumbnails
Send to Kindle

コメントはまだありません

No comments yet.

RSS feed for comments on this post. TrackBack URI

Leave a comment

WordPress Themes