ツールと脳

ぜんぶ頭に入れるから:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

書こうとする文章が一定以上に長くなると、全体像を頭の中で組み立てることはできなくなる。

たとえば、この文章は、上記のコピペを貼り付けて、「さて」という感じで指をポキポキ鳴らした後(比喩だ)書き始めている。どのように書くか、何を書くかについてのアウトラインは、事前にはいっさい構成していない。もし、この後に続く文章に見出しが出てきたら、それは書きながら、あるいは書き上げた後につけられたものである。後付けの構造化。

事前には、構造はまったく存在しない。そして、書きながら、あるいは書き上げた後にそれを構造化できる。エディタ以外のツールを使うことなくそれができる。それは文章の全体像が頭に入れられるからこそ、できる行為だと言えるだろう。

どこに限界があるのか

一方、本を書くときには章立てを行う。第一章は〜〜について書き、第二章は▼▼について書き、というやつだ。それが5つか6つくらいであれば、これまた脳内で、脳内だけで組み立てることができる。しかしそこまでだ。それぞれの章に具体的にどう項目を立てるとなるとお手上げである。一つの章だけでも難しいが、それが3つも4つも集まったら悲劇的なことになる。

長さ自体よりも、要素間の関係が急速に複雑さを増すことが問題だ。

指摘されている通り、長さが問題なのではない。どれだけ長くても、それが単調で、線形に演算可能であればおそらく脳内だけでもやっていける。が、文章というのはそういうものではない。それが問題なのだ。

第一章第一項で書いたことは、第三章第四項で書いたことよりも「前」に位置している。そこには前後関係があり、文脈がある。説明の粒度があり、口調のテンポがあり、比喩のパターンがある。書く人はそれらをバラバラに書くのかもしれない。しかし、読み手はそれをリニアに摂取する。そのことを念頭に置いて、文章は構成されなければならない。

たとえば、この文章が上の段落から始まったらどうなるだろうか。不自然に決まっている。意味もわからない。そうであることが、私には脳内でわかる。だからこそ、これくらいの文章にはエディタ以外の他のツールは必要ない。しかし、文章量が増えるとこうはいかなくなる。要素同士の関連性が増え、制御しなければならない文脈は無数に増大する。

[問]
A、B、C、D、Eという5つの要素を、一列に並べる並べ方はいくつあるか。

これくらいなら頭の中で数えることができる。ではこれが、20や30であれば? そしてそのうちのたった一つを「これが良い順番だ」と決める場合は?

脳にはお手上げだろう。

ツールの効能とその違い

とりあえず書いてみて、はじめて何をどう書けばいいのがわかる。より正確にいうと、何をどう書けばいいのか考える素材を手に入れることができる。

アウトライナーやカードに書き出すと、二つのことが可能となる。

まず、頭の中の素材を一覧できるようになる。書こうとしていることがマジカルナンバー(7±2)以下ならば、脳内のメモリで処理できる。それ以上であれば、無理だ。外部化__物質への定着化__を行わなければいけない。

ただしそれだけであれば、カードと大きな一枚の紙、エディタとアウトライナーに大きな違いはない。違いを生むのは二つ目の要素、つまりそれぞれの要素の「断片化」であり、そこから導かれる「操作可能性」の付与である。

この要素は、認知的要素(アフォーダンス的要素)と、機能的要素の二つがある。

アウトライナーは、一行ごとに別の要素として扱われる。カードはどれだけ頑張っても書ける文字数は限られている。よって、ユーザーに「これは断片ですよ」という認知を促す。それは「文章」ではないのだ。だからこそ、組み換え・入れ替えようという気持ちが生まれる(あるいは刺激される)。

機能的要素は、たとえばアウトライナーならば下位の要素を隠すことあできるし、カードならひとまとまりのカードを山にまとめることができる。人間の脳にとって目に入る情報は、思考の道行きに大きな影響を与えるのだから、これはかなり実際的な影響を持つ。大きな紙やエディタはこれは不可能である。

前者の要素については、たとえば「紙には鉛筆で書く」(エディタブルにする)や、「エディタで一行ずつ改行していく」などの使い方で、ある程度その要素を似せることができるが、後者は根本的に無理である。物真似できるのは半分まで、ということだ。

さいごに

結局のところ、何が言えるのだろうか。簡単だ。

「ある種の行為に行き詰まったら、ツールを替えてみる」

特にある行為のおいて、脳の負荷の増大を感じるようであれば、何か別のツールを触ってみるのが良い。

マクルーハンは「メディアはマッサージである」と言った。それと同じで、ツールは私たちの脳の働きに影響を与える。いやむしろ、それは脳の働きを規定してしまうとすら言える。ツールは私たちにある種の能力を付与してくれるが、それはまた別の物の見方を制限するということでもある。だからこそ、軽やかにツールを移動するのだ。

逆に言うと、「このツールさえ使えば、すべてがうまくいく」という言説は、だいたいにおいて(それもかなり高い確率で)戯言である。世の中は__というか、私たちとツールの関係は__そんな風にはできていない。

「ツール」は重要ではあるが、個々のツールはそれほど重要ではない。

これは肝に銘じておきたいところである。ツール原理主義は、すぐに行き詰まってしまうだろうから。

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