必然性について

東京ライフハック研究会vol.16で、佐々木正悟さんが「必然性」についてお話されました。

で、その中で「倉下さんは、必然性のないことばかりやっておられるように見える」と述べられました(だいたいこんな感じだったと思います)。

ふむ、と私は考えます。

そして、「たしかに、そうだな」と納得します。

私はたしかに、他の人から見たら必然性のないことをやっているでしょう。毎日ブログを更新しなくても、死ぬことはありませんし、毎月一冊電子書籍を出さなくても、ショットガンで頭を吹っ飛ばされることもありませんし、ブロガーを集めて電子マガジンを出版しなくても、地獄の業火に焼かれることはありません。というか、別に誰も困らないのです。冷静に考えれば、私自身ですら困らないのです。

でも、もちろん私からすれば、そこには必然性があります。いや、必然性が感じられるのです。

感じること

タスク(何かしらの行動)と自分との関係性を考えるとき、そこで重要になってくるのは、そのタスクに必然性が「感じられる」かどうか、です。ぶっちゃけて言えば、それは感覚の問題でしかありません。

感覚の問題。

夏休みの宿題を、早めの内から毎日コツコツやった方が楽に終わらせられるのは、小学生でも理解できます。しかし、夏休みに入ったばかりの天気の良い日に、その必然性はリアリティを持って感じられないのです。それはつまり、当人にとっては必然性がないのとイコールです。

逆に言えば、何かしらの演算とUIで、その感覚にリアリティを与えられるならば、行動を促せるかもしれません。たとえば、タスクシュートのように。

感覚の問題。

高層ビルの間に掛けられた鉄筋を渡るのと、地面の上に置かれた鉄筋を渡るのは、たとえ風の影響を揃えたとしても、まったく同じようにはいかないでしょう。状況をどう感じるかが、踏み出す一歩を変えてしまいます。

不確実性

私はよく、何の成果も確約されていないことにバンバン首を突っ込みます。クレイジィです。

仮に、「プロジェクト信用会社」みたいな空想の会社に判定を持ち込めば、D判定以下がバンバン返ってくるようなことばかりに手を出すのです。その意味では、つまり客観的な指標では、それぞれのプロジェクトには、私がやる必然性はどこにもありません。

でも、そうです。私にはそれが感じられるのです。

喉が乾いた人が、塩分まみれの海水を飲み干すように。

冷静に考えて、私は若かりし頃からギャンブルに手を染めています__と書くといかにもたいそうですが、パチンコとか麻雀とか、まあそういうことです。で、ギャンブルとは常にリスク、つまり不確実性との付き合いです。

あまりにも長く(あるいは深く)それと関わっていたせいで、私の思考OSの奥深くには、その「不確実性との付き合い方」が強固にインストールされています。

そのような人間にとって、「何の成果も確約されていないことに首を突っ込むこと」には必然性が感じられるのです。いや、察しの良い方ならばおわかりでしょうが、「何の成果も確約されていない」からこそ、その感覚が生まれるのです。あるいは、不確実性が強いほど、その感覚は強まります。クレイジィです。

さいごに

とまあ、大げさに書きましたが、ようするに私は不確実性に慣れているし、むしろそれを好む傾向がある、ということです。そういう人間にとっての「必然性」は、そうでない人にとっての「必然性」とは少し違った見え方をするでしょう。言い換えれば、それぞれのリアリティが違っている、ということです。

でも、それは表層の違いであって、根本は変わりません。必然性は感じられているのです。

ある種のプロジェクトを見たとき、「なんかしらんけど」な感覚を伴いながらも__つまり合理的に実行する理由は説明できないながらも__、私はそれをする必然があると感じます。私はそれを「面白そうだから」という言葉で説明しますが、それは「私がそれを面白そうだと感じていることには何かしら意味があるに違いない」という背景を後ろに含んでいるのでしょう。ここが、案外大切なことなのかもしれません。

で、この話が一体何なのかというと、私がタスクシュートを使わなくてもそれなりにタスクを進められている理由なのだと、私は感じるわけです。

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