静かな場所での対話

雑誌「かーそる」への感想として次の記事を頂きました。

知的生活日記 「かーそる」読書日記⑦ Go fujitaさんの章 子どもの知的生産の技能を,学校,家庭,地域社会で育てる~若干の異論を添えて・・・ | 知的生活ネットワーク

とてもすばらしい記事です。こういう記事の触発になったのだとしたら、雑誌を作った甲斐みたいなものはフル充電されてしまいます。

ちなみに、Goさんからのレスポンス記事も上がっています。

忘れてしまうぼくたちが忘れないために | gofujita notes

そうですよね。こういうのが対話であり、腰の据わった議論(あるいはその萌芽)なのだと感じます。

ひとりスマッシュ

インターネットでよく見かける「議論」の多くは(もちろんすべてではありません)、次のような特徴を備えています。

  • とにかく極端なことを言う
  • あえて攻撃的に書く
  • 安易な断定を多用する
  • 相手の話を聞くつもりはない
  • 内容ではなく相手の人格を攻撃する

こういう書き方のマニュアルが出回っているのか、と疑いたくなるくらいには似たようなスタイルを多く見かけます。(PV的な)パフォーマンスとしては優れているのかもしれませんが、議論としての実りは多くならないでしょう。比喩的に言えば、テニスではなく、それぞれが一人でスマッシュの練習をしているようなものです。

理念や概念についてわちゃわちゃ盛り上がるのはそれはそれで楽しいものですが、現実は複雑で機微に満ちています。単純な「論」をぶつけてそれで解決できるなら、その問題はとうの昔に解決されているでしょう。実際にはいろいろな方面を考慮し、ややこしい力学を織り込んで前に進んでいかなければいけません。乱暴な議論は、そういう現実的適応の前ではだいたい無力です。

もちろん、「無力だっていいじゃない」という考え方もあるでしょうし、私もプロレス的言説を否定したいわけではありません。それは、端から見ている分には楽しいものです。

でも、少し大きいことを言わせてもらえば、市民が構成する社会において、それぞれの市民が開かれた場所において自分の考えを表明し、他者との意見交流を行うことは、民主主義のもっとも基本的な基盤と言えるのではないでしょうか。

まあ、それはある種の理想であり、高望みしすぎなのかもしれません。でも、PV至上主義的な「議論」の煽り方は、短期的な動員のエンジンにはなっても、静かな場所で行われる対話の促進剤にはならないと思います。そして、今僕たちに必要なのはその場所の方でしょう。

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