現代の知的生産と未来の知的生産

12月10日、rondokreantoで開催されたシンポジウム「現代の知的生産の技術」に参加してきました。

シンポジウムは二部立てで、暦本純一さんの「知的生産とは」と、堀 E. 正岳さんの「フィールドノートからエバーノートへ」。それぞれのセッションの後には、会場からの質疑応答もあり、こちらも大いに盛り上がっていたのは、さすが「知的生産」に関心を持つ人たちというところ。分野もさまざまな人が参加していたので、なかなか新鮮な体験となりました。

で、今回はちょっと考えたことをつらつらと書いてみます。

静けさとCAI

知的生産の技術 (岩波新書)

『知的生産の技術』で梅棹さんは、整理作業を行うことの意義を「能率」ではなく「秩序としずけさ」を求めるためだ、と書かれています。これを、マーク・ワイザーの「カーム・コンピューティング」(calm computing)とからめて、「意識されない技術」についての研究をいくつかご紹介くださりました。自動的に顔だけを隠す「窓」などは、いろいろ発想を刺激されます。

また、文明を人類と装置からなる一つの系(システム)だと捉えた梅棹文明論を踏まえた上で、人間と機械の新しい関係性についても触れられていました。ウィーナーのサイバネティックス的であり、現代ではもう当たり前になりつつある話でもあります。チェスプレイヤーを打ち負かすコンピュータが存在するならば、そのコンピュータを使って人間同士が対戦すれば「より良い手」を見つけられるのではないか、という発想は、案外『ヒカルの碁』で示されていた藤原佐為と進藤ヒカルの「協力プレイ」をメタファーとして捉えられるかもしれません。

ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)
ヒカルの碁 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

一方で、AIの進化が行きすぎてしまうシンギュラリティなどの懸念もあるわけですが、この話は10年、20年のスパンで考えても意味がなく、もっと長い文明史全体のパースを得る必要があるでしょう。そのあたりは、2016年の傑作本と言っていい『サピエンス全史』が面白いでしょう。もちろん、ケヴィン・ケリーの著作(『テクニウム』『〈インターネット〉の次に来るもの』)も参考になりそうです。

サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福

ここまでを踏まえた上で少し考えておきたいのが、梅棹さんが「秩序としずけさ」を求めた理由です。なぜ、それが必要だったのか。忘れてはいけないのは、彼は世界中を飛び回り、いろいろな組織に関与し、現実的にも忙しく働いておられたことです。つまり、日常生活は知的な刺激で満ちていたのです。でもだからこそ、そうして頭に(あるいは心に)溜まったものを整理する時間が必要でした。その時間は__脳が寝ている間に情報を整理するように__しずかでなければならないのです。

ここは案外重要なところで、「秩序としずけさ」が必要だというのは、その前提にその他の時間で刺激が(あるいはノイズが)たくさんあるから、という要素があって、つまりこれはハレとケのような関係性になっています。どちらかだけではダメなのです。

騒がしい日常の中に、一種の静謐な時間をいかに設定するかという視点が必要であり、つまりこれは書斎論の話でもあります。「現場」の話ではないのです。家の中の書籍や資料をすべて捨て去れば、圧倒的な「秩序としずけさ」が訪れるでしょうが、そこから何かを生産できるかはなかなか怪しいところです。人間の脳は、インプットに反応してアウトプットを生み出す点を忘れてはいけません。

もう一点、機械化人間のお話ですが、やはり気になるのはCAIの行方です。CAIとは私の造語でCAD(Computer-Aided Design)をもじった言葉です(Computer-Aided Intellectual)。

すでに現在でも私は機械と一体化してこの文章を紡いでいます。神林長平の「ワーカム」を使っているわけではなく、ただパソコンのエディタを使っているだけですが、人馬一体ならぬ人機一体の感覚がそこにはあります。私はエディタに作用して文章を紡いでいるわけですが、間違いないくエディタからも作用が返ってきていて、完成する文章に影響を与えています。ただ、その影響そのものは目には見えませんし、体感としても感じられません。比較する対象がないからです。

言壺

万年筆と原稿用紙からワープロに移行した経験を持つ世代なら、その差異には気がつかれるかもしれません。あるいは、現代でも積極的に口述筆記(Siriに話しかけてメモをとる)を行われている方ならば、タッチタイピングとの感触の違いを自覚されているでしょう。私も、たまに口述筆記は使いますが、面白いことに(あるいは恐ろしいことに)機械の仕様に合わせて口にする言葉が変わるのです。機械に受諾されやすい言葉を意識的に(つまり、いずれは無意識的に)選択するようになっています。最近はGoogle翻訳の精度も上がっていて、いずれは「機械翻訳しやすい言葉遣い」が、世界レベルの発信を見据えた人には当たり前になるかもしれません。

文体という個性が欠損する代わりに、より広範囲に広がる可能性を手にできるというトレードオフは、私たちに「守りたいものは何なのか」という問いを突きつけてきます。

もちろん、以上のような作用・反作用は、別に対機械だけで起こっているわけではなく、毎日つぶやいている人間は140字縛りの文体を手にしていきますし、ブログでも同様です。マクルーハンが予言したとおり、メディアはマッサージなのです。その作用は受信する側だけではなく、発信する側にも確実に影響を与えます。

メディア論―人間の拡張の諸相
メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

今後、機械を使った知的生産から、AIを使った知的生産に徐々に移行していく流れが生まれてくるでしょう(もう生まれているという意見もありそうです)。そこでまず考えなければならないのは、そのすべてをAIに委譲するのか、それとも新たなチェスプレイのようにコンピュータのアシストを得ながらも最終的には人間の関与を経てアウトプットを行うのか、という選択です。機械が私たちに作用を与え、それが「人間」というものを形作っていくことを考えれば、この選択は軽くありません。でもってそれは「人間とは何か」という形而上的な問いと実際的に向き合うことでもあります。

仮にAIを補佐として位置づけるCAIの道を選択したとしても、どこまでその関与を許容するかの線引きがあります。「ワーカム」は恐ろしく便利な存在ですが、そこで行われる知的生産においては人間はただの従属物でしかありません。これは、昨今のパクリメディア事件が抱える根本的な問題も明示しています。

1. 私「こういう文章が書きたい」→AI「こういう資料がありますよ」

2. AI「こういう文章を書いてください。文章の選択肢はこれとこれとこれです。選んでOKボタンを押してください」

どちらの未来を私たちは選ぶことになるのでしょうか。これは思ったほど簡単な問題ではありません。

創造(クリエイティブ)とは、ほとんど大半は決定に過ぎないのです。OKボタンを押すかどうかなのです。

私はこの文章を書いているとき、もやもやとした言いたいことがあり、それを適切に言い表せる文章を思い浮かべ、それが本当に機能するかどうかを判断し、うまく機能しそうならそれを記述し、そうでなければ破棄して新しい文章候補について検討する、ということを繰り返しています。ある種、アルゴリズム的です。

適当にボタンを押すサルを無限に集めてタイプライターを叩かせれば、そのうち一匹はシェイクスピアの「ハムレット」を書く、といった思考実験がありますが(そしれこれは、若干否定的な文脈で使われますが)、アルゴリズムを使えば同じことはできるでしょう。問題は、幾万集まった「ハムレット」っぽいものの中から、最終稿1つをどのように選択するのか、ということです。

パターンAは、ハムレットがあの台詞をつぶやくかもしれません。パターンBでは、つぶやかないかもしれません。それらを読み比べて、どちらがより人間に訴えかけるかを判断する必要があるのです。

でもってそれは、結局の所シェイクスピアが原稿を書くときにやっていたことと同じではないでしょうか。本質的に創造とは選択なのです。だから、上記で示したパターン2のような「選んであとはOKボタンを押すだけ」も、創造行為と呼べるのかもしれません。

このような言説は、クリエイティビティーに対する冒涜のように感じられるかもしれませんが、あるいは逆に人間の可能性を示しているのかもしれません。ともかく簡単な問題ではないのです。

さいごに

とは言え、まだ現代の技術はそこまでは到達していません。「ワーカム」に怯える必要はないのです。ただ、我々が技術との関係性をどう考えるかによっては、あっという間にそれは登場し、私たちの知的生産を支配下に置くでしょう。もしかしたらそれは一つの楽園の形なのかもしれませんし、何かの終着駅なのかもしれません。

もしそれが終着駅であったのならば、地球最後の哲学者は最後の気力を振り絞ってきっとこう言葉を残すでしょう。

「人間はかつて考える葦であった」

と。

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