自由についてのノート その1

前回:R-style » 断片の知識を付箋とノートで組織化する


ノートをまとめながら考えたことを記しておく。

まず、時代によって「自由」はさまざまな論じられ方をしてきた。そしてそれは、その時代の文化や出来事に強い影響を受けている。

古代ギリシャにおいてソクラテスは、いかに善く生きるのかについて考えた。いかに自由に生きるのかではなかった。もちろんその二つは重なるのかもしれないが、ソクラテスにおいて「自由」という概念がダイレクトに中心となることはなかったのではないだろうか。そもそもその時代に個人の自由の概念が検討されていたら、市内から奴隷の姿は一掃されていただろう。

人には与えられた役割や、あるべき姿があり、いかにすればそれに近づけるのが吟味されていた。そんな印象を受ける。プラトンの後期においては、「国家」が議論されるが、そこでも自由ではなく正義が中心的な課題だった。もちろん、自由と正義は異なる概念だ。


グッと時計の針を進めて、1600年代である。

デカルトは『方法序説』によって、「私が疑っていることそのものは疑えない」という出発点を発見した。もちろん、それは「個人」の出発点でもある。だからこそ、「個人の権利を侵害してくる国家ってなんなん?」という疑問は生じるだろう。おそらくこれは、ルターによる宗教組織が持つ権威への反抗が下地にあったのかもしれない。神の意向によって行われる国の統治なら、それは仕方がない。でも、そんなものがないのだったら、なぜ我々は法律を受け入れ、税金を支払っているのか?

いやいや、まてまて、人間っていうのは統治機構がないとえらいことになっちゃうんだよ、争いばかりで大変なんだよ、だから人間が自然的に何かしらの権利を持っているにしても、それは統治機構(=国家)に譲渡しておいた方がいいんだぜということをトマス・ホッブズが『リヴァイアサン』で言い始めて、神の代わりの絶対王政を主張したわけだが、さすがにそれは詭弁が過ぎるということで、ジョン・ロックなりジャン・ジャック・ルソーなりが、もうすこし現実的な着地点を探っていった。

でもって、このルソーの『社会契約論』あたりで、自由意志なるものがもやもやとその姿を現し始める。社会契約ってものが必要にしても、それは個人がその存在に合意しているからこそ正当性が認められるわけで、だったら個人の自由意志が欠損されるような社会契約はナシだぜ、というのはまあ飲み込めるにしても、ルソーは一般意志なるややこしい概念も合わせて提出してきた。

この一般意志なるものは「つねに正しく、つねに公の利益を目ざす」ものらしいので、おそらく『PSYCHO-PASS』のシビュラシステムのようなものなのだろう。ルソーは、人間ちゅーもんは、一般意志に従った方がいいぜよ、と説く。シビュラシステムを見ていると、おそらくそうなんだろう、とも思う。私たち個人と国家が見事に融和するとき、そこには安寧の楽園が約束されるのだろう。融和できない個人を疎外する形で。

ということで、昨今言われている「ポスト真実」って、むしろ「ポスト一般意志」な気がしないではない。「一般意志、知らんがな」という声が膨れあがってきていて、そこでは真実なんてものは下の下として扱われる。なぜなら真実は、「一般的」に認められる正しさだからだ。「一般」が解体されるとき、真実の価値も崩れ去る。

むしろ私たちが「ポスト真実」として見ている現象は、もっと大きな現象の些細な前触れなのかもしれない。

Related Posts with Thumbnails
Send to Kindle

コメントはまだありません

コメントはまだありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード TrackBack URI

コメントをどうぞ

WordPress Themes