自由についてのノート その2

前回:自由についてのノート その1


国家は国民の自由意志に基づいて形成されつつも、その国民が国家に権利を委譲することで自然状態の混乱から脱せられる、という物語が出てくると、なんであれ、その「国民が持つ権利」が意識されてくる。国家について考えることは、国民について考えることに等しい。

片方ではそれは、フランス革命やアメリカ独立宣言へとつながり、もう片方では、アダム・スミスによる経済学へとつながっていった。前者は普遍的な人権の嚆矢となり、後者は市場の有用性の土台となった。

人々が「自由に」自らの欲求を満たすように行動すれば、なぜかその市場は最適で満たされる。見えざる手が働くのだ。ここでは、わかりやすく「自由」が尊重される。規制は少ない方がいい、あまり決めない方がいい、個人は自由に決定できる方が良い。その方が、全体がうまくいく。

その見えざる手は、だいたいのところはうまく機能するが、ブラックスワンにはまったく手が出なかった、ということは、これまでの金融危機が示しているわけだが、それはともかく、個人というものがあり、それらは自らの欲求を満たすために行動を最適化するので、そのままに放置しておくべきだ、という考え方が見受けられる。さらに言えば、その方が幸せである、という考え方も感じられる。

このあたりから、現代の「個人」に通じる主体が想定・構築されていったのだろう、という予感はある。特徴は、自然的な個人というよりも、国家に対峙される形で浮かび上がってくる個人だ。個人が集いシステムを形成するのではなく、システムがまず存在し、そこに定義される形で生成される個人だ。おそらくそれは、一般意志のリニューアルである国民国家という物語(むしろ、大きな物語)の機能でもあるのだろう。

ただし、その物語は試練にさらされた。二つの世界大戦だ。フロイトやニーチェが活躍した1900年代の初頭、人の心やそれが持つ意志についての思索が深まっていく。フロイトは、精神を多層的に捉え、その奥に暗闇を設定した。ニーチェはそれを克己せよ、と説いた。国家によって定義された国民にしてみれば、国家の存続が危ぶまれると、そのアイデンティティが揺れ動くことは想像に難くない。「我々は何なのか」という問いが、形而上学的というよりも、いっそ生に寄り添う実践において問われるようになる。神は死に、我々は解放され、やがて路頭に迷うことになった。

第二次世界大戦になると、集団心理というものの怖さ、悪の凡庸さ(それはつまり、悪の普遍性をも示す)が浮き彫りになってくる。もちろんそれは魔女を狩っていた時代から存在するわけだが、国家というものの力があまりにも強くなり、科学技術と結びつくことで、どえらいことになることが懸念されていたのだ。熱狂に身を浸し、道路を埋め尽くして看板を掲げるとき、その人は自由なのだろうか。それともそうではないのだろうか。

オーウェルも『1984年』で、その奇妙な「自由さ」を描いている。大喜びで、二分間憎悪に参加する人は、ありありと自由を感じているだろう。では、その人は幸せなのだろうか。それを、誰が、どう決めればいいのだろうか。その決定を、すべて国家に委譲するならば、オーウェルが描いた世界になるし、あるいはシビュラシステムとなるのだろう。

その委譲により、ほとんど大半の人が、そこそこに満足しているなら、功利主義者はこれを成功と呼ぶだろう。一人か二人、致命的に損なわれている人がいたところで、そんなものは「必要経費」なのだ。彼らは人間の苦悩が数字で表現でき、よりにもよってそれが社会に存在する幸福と相殺しうると考える。その結果がプラスなら、Game Win、というわけだ。おかしくてお腹がいたくなる。

彼らは他者が幸福であるからこそ、その苦悩がより増すといったことを考えない。動的なシステムとして見ていないのだ。憎悪は膨れあがり、苦悩は増し続ける。新聞の世界ニュース欄を見れば明らかだろう。幸福であるために、自由が制限されるのは受け入れる必要があるだろう。しかし、何が幸福であるのかを決める自由を制限されてもよいのだろうか。

よい、という立場もあり得るだろう。

行動経済学明らかにしているのは、第一に人間が自分で判断して決定していると思っているものも、その多くが環境に影響を受けている、という点だ。また短期の功利と長期の功利がうまく計算できず、短期的に得をするが、長期的には損をするといった選択をしがちである。もちろん、その決定は「自由に」なされている。

旧来経済学が想定してきた、人間はパーフェクトなエージェントであるという前提は、それほど正しくない。人間は不合理な決定をやらかす。もちろん、すべての決定が不合理ではない。それが顔を覗かせるのは限られているのだろう。でも、その僅かな不合理さが積み重なって、ブラックスワンは顔を覗かせる。人が絶対的に不合理なら、市場を止めてしまえばいい。でも、そうではないからこそ、ここには厄介な問題がある。

一方、脳神経学では、「人間には自由意志なんてない」なんてちゃぶだいをひっくり返すようなことも言っている。でもって、これは行動経済学の知見とも合致する点は多い。電位差によって行動が決定づけられるならば、人の意志は行動を決定していないことになる。ならば、人の自由意志による決定を基盤としたあらゆるものが、形骸化してしまう。そのがれきのあとには、やはりシビュラの信託が待ち受けているのだろう。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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