腰を据えて本を読むこと

昨日発売された村上春樹さんの新刊を買って読んだ。朝10時から夜の11時までという、言葉通り一日仕事だった。なにせ500ページを超える本を二冊である。これはなかなかタフだ。それでも、一面に豊かに実った稲を収穫し終えたような充実感があった。ああ、俺はきょう本を読んだのだな、という確かな手応えがあった。

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
村上 春樹
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騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編
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ここまで集中して本を読んだのは久々だった。春樹さんの新作は発売日に買ってすぐに読み始めるが、前作の長編『1Q84』は7年前だという。まるで信じられない。でも、私の実感とはまるで関係なく、時間は前に進んでいるのだ。そして、その7年間で私の生活、特に読書生活は大きく変わってしまったのかもしれない。それも、あまり良くない方向に。

それでも嬉しい発見はあった。

デヴィッド・L・ユーリンの『それでも、読書をやめない理由』に、読書家の悲痛な叫びが次のように綴られている。

それでも、読書をやめない理由
デヴィッド・L. ユーリン
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ところが最近では、パソコンの前で数時間過ごしてからでないと本を手に取らなくなった。一段落ほど読むと、すぐに気がそれて心がさまよい始める。すると、わたしは本を置いてメールをチェックし、ネットサーフィンをし、家の中をうろついてからようやく本にもどるのだ。あるいは、そうしたい気持ちを抑え、無理にじっとして本を読むこともあるが、結局いつものパターンに身をまかせてしまう。

似たような感覚はとてもわかる。落ち着いて本を読んでいられない自分に気がつき、そのことに唖然とするのだ。なぜならその場所は、どう考えても私が辿り着きたい場所ではないからだ。

ネットでは事情通の連中があらゆる情報を提供してくる。このような状況では、知識は幻想に取って替わられる。じつに魅力的な幻想に。ネットの世界はこう断言する。スピードこそがわたしたちを事実の解明へ導き、深く考えることより瞬時に反応することのほうが重要で、わずかな時間も無為に過ごしてはいけない、と。

まさにこれだ。本を読もうとしてどうしても落ち着かないのは、自分が見ていない間に有益な情報が生まれているのではないか、自分は他にもっとやることがあるのではないか、という気持ちが消えないからである。その焦りは、たしかに行動を生むかもしれない。賢明とは言えない行動を。

そのことは、『かーそる 2016年11月号』でHibikiさんが「誠実なステップは利己的なストーリー」として書いていることだ。速度ある反応は、ぜんぜんよくないかもしれない。必要なのは、熟慮なのだ。しかし、ネット的な価値観はそれとはまるで逆の方向に進んでいる。速度が善なのだ。

かーそる 2016年11月号
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ユーリンは、本を読むためには「余裕を持って深くのめりこむ姿勢」が大切だと言う。その通りだ。それらは基本的にゆっくりとした行為であり、無為であり、反応とは呼べない何かを引き出すためのものだ。速度と意味に(そして反応的感情に)溢れた情報交流とは、違った場所に身を置くことだ。

興味深いのは、私がそのように考えていてもなお、つまり熟慮に価値を置いてなお、やっぱり読書するときに落ち着かない感覚を得てしまう、ということだ。価値観と脳の機能がマッチしていない。由々しき事態である。

とは言え、昨日は言葉通りいちにち本を読んだ。散歩もしたし、ご飯も食べたし、少しTwitterを覗いたりもしたが、それでもこれまでの散漫な読書とは違った、どっしり腰の据わった読書体験だった。どうやら、まだ私の脳はその能力を喪失したわけではないようだ。水が流れなくなったことで、少々古びてしまってはいるかもしれないが、まだそこに水路はしっかりと残っている。

そしてその水路は、きっと文章を書く上でも機能してくれるはずだ。書くことは読むことであり、読むことは書くことなのだから。

読書は精神の調律であり、そのために他者の精神に同調する必要がある。私たちは、他者の視点から世界を眺めることによって、自分自身を把握し、それを取り戻すことになる。三角測量。

断片的かつ大量なテレパス__それはもはや洗脳だ__が横行する中で、まるで叛逆のように、あるいは神殿で執り行われる密儀のように、ゆっくりとじっくりと本を読むこと。

非常に残念ながら、それを実行するために私は多くの労力を支払った。一日何もしなくても良いように、一週間の半分ほどを使い、前のめりに作業をこなしたのだ。次の日に送ったタスクもある。そのように準備を万全に整えて、ようやく私は「気を散らす」要素から遠ざかることができた。儀式には生け贄が必要なのだ。昔は必要なかったのかもしれないが、少なくとも今は必要なのだ。

でも、それができるとわかったことで、私は暖かい気持ちを抱くことができた。生き別れた弟に再会したような気分だ。まだ、取り返しはつくかもしれない。

メディアに触れることは、精神をそこにアジャストすることである。生活をそこにフィッティングさせることでもある。少なくとも、今を生きる私たちはまだ、その先を選ぶことができる。20年先ならもう不可能になっているだろう。だからこそ、今は選びたいと思う。選択こそが、我々の自由意志を感じさせる骨幹なのだから。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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