GTDと禅 [タスク管理概論]

時間がない。さっそく始めよう。

GTDは優れたタスク管理の思想である。有能な一揃えのシステムもある。しかし、問題がないわけではない。ざっくり言って二つの問題を抱えている。

一つは、タスクの整理はできても、実行についてのサポートが存在しないことだ。整理されたリストがあればどのタスクに着手するかは自ずと明らかになるらしく、また、着手すればそれは達成できることになっている。前者は定義をいじればぎりぎり納得できないこともないが、後者に同意するにはいささか厳しい。私たちはそういう風にはなっていない。

もう一つは、「水のような心」に関する問題だ。

GTDは、見通しと制御感を得ることによって、「水のような心」に至ることを目指す。それがストレスフリーの状態というわけだ。思想としてはごくまっとうである。「気になること」を心から追い出し、それらをすべて「しかるべき位置」に置けば、私たちの心は軽やかに開放されるだろう。

問題はここにある。

見通しと制御感は、容易に支配感へと移行する。「すべてをコントロールしている感覚」があれば、「水のような心」に至れる、といった思想に傾きがちなのだ。

これがどのくらい問題であるかは、だいたい20数年生きてきた人間ならばすぐに察せられるだろう。人生のすべてをコントロールすることはできない。当たり前の話だ。人が生きることは、結局はままならないことなのだ。そして、禅とは、そのままならなさを受け入れることであろう。制御できないものを制御しようとする心から距離を置くことで、心に平穏さを取り戻す。

思想の乖離がみて取れるだろうか。

どうしようもないことを、「どうしようもないこと」として支配下に置こうとするのが、マッチョ型GTDである。これは限定的な領域においては「水のような心」を得られるだろうが、生きること全般ではそうはいかない。むしろ、苦悩が増える。

禅型のGTDは、「どうしようもないこと」は制御の対象から外す。「気になること」であり、それが自分の責任の範囲に位置するとしても、対処することを放棄する。不条理を不条理として受け止め、「そういうものだ」と受け流すのだ。

このような運用方法であれば、「水のような心」はより広い領域へと広がっていくだろう。しかし、もう一度言っておくが、それはすべてを制御できたからではない。むしろ、「自分が制御しなければならない」と思っている範囲を改めたのだ。あるいは「自分が制御しうる」と思っている範囲を適正に戻したのだ。

まったく同じようにGTDを運用していても、「どうしようもないこと」への対応で、その結果はずいぶん違ってしまう可能性がある。

今回は、ここまでにしておこう。

▼参考文献:

全面改訂版 はじめてのGTD ストレスフリーの整理術
デビッド・アレン
二見書房
売り上げランキング: 4,556
Related Posts with Thumbnails
Send to Kindle
Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です