invisible hardship

私たちに提示されるのは、完成品であり、成功品です。『ハイブリッド発想術』にも書きましたが、欠陥品や失敗品は隠蔽され、私たちの目には止まりません。

あるもののデザイン案が10あろうが、100あろうが、1000あろうが、最終的に私たちの目に入るのは最後のただ1つのみです。どれだけエジソンがフィラメントの素材に悩もうが、完成品の電球はただ電球としてだけ存在しています。

だからそう、それはクールなのです。「失敗? そんなの知らないね」みたいな顔で澄ましています。

もちろん、それはそれで良いのでしょう。私たちは電球が点けばそれで十分であり、いちいちエジソンの苦労を想起していては身が持ちません。道具を使う、体験するという文脈においては、バックボーンは無用か、むしろ有害ですらあるでしょう。

とは言えです。何かの価値を判断するときは、また違った文脈が登場します。いわんや、自分が作り手の立場に立ったときならばなおさらです。

完成品はどれだけクールでも、そこに至るためのプロセスはまったくクールではありません。隠蔽しているヴェールを取り払い、その中に一歩踏み込んでみれば、ぐじゃぐじゃのドロドロが広がっています。そこを一歩一歩進んでいく気概、情熱、覚悟、その他いろいろがなければ、踏破は不可能でしょう。

クールなものは、クールにはできていないのです。

文章だってそうです。きらりと光るタイトルがあり、適切に内容を要約する見出しがあり、綺麗な文章の接続があり、納得できる文章の構造がそこにあったとしても、そんなものが初めから存在していたと考えるのは早計です。相当な早計です。

そうしたものは、だいたい、たいてい、後からできます。「整えられる」と表現すれば良いでしょうか。「後付け」という言い方もできます。作っては壊し、作っては壊し、部分的に改修し、ときに大手術を行う。そのようなことを繰り返して、最終的にできあがるのはクールなものです。

この場合のクールとは、「あたかもはじめからそうであった」という顔つきをしている、ということです。「ほら、この文章書くの苦労したんですよ。こことここの部分は特にですね。あと、この見出し。これって最高じゃありませんか。15パターンも考えたんですよ」みたいな注は付かない、ということです。

だから一見すると、すごく簡単に成し遂げられたように思えます。もう少し正確に言えば、そこにあったはずの苦労は意識されません。スムーズに読める文章であればあるほど、その裏にある鉋がけの工程は見えてこないのです。

これはデザインと同じでしょう。優れたデザインであれあるほど、それがデザインであることは意識されなくなります。綺麗に読める、違和感なく読める、さらっと読める文章のためには、999枚の破り捨てられた原稿用紙がゴミ箱に積まれていることすら珍しくありません。

しかしまあ、そんなことは読む人には関係ありません。必要なのはそこにある文章であって、ゴミ箱に積まれた原稿用紙ではないのです。

が、書く人となれば話は変わります。一番最初にゴミ箱に投げ捨てられた原稿用紙と、1000枚目の原稿用紙。この二つの間にあるものについて、注意を向ける必要があります。それは紛れもない現実なのです。

だからそう、問うべきは「自分はどちらの立場なのか」ということなのでしょう。

良き船旅を。

Related Posts with Thumbnails
Send to Kindle

コメントはまだありません

No comments yet.

RSS feed for comments on this post. TrackBack URI

Leave a comment

WordPress Themes