新しい言葉と自分のフィールド

『勉強の哲学』に関係する話を少し。

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勉強とは、新しい言葉を覚えることだ。あるいは新しい言葉遣いに慣れることだ。つまり、言語の習得である。

これは実感的にいっても頷けるだろう。「貸方」「ディスコース」「選好」「顕在意識」……。新しい分野に触れることは、新しい言葉に触れることである。いや、むしろ逆に言えるかもしれない。自分にとっての新しい分野とは、自分にとって馴染みの薄い言葉遣いをしている分野である、と。

でもって、その「言語の習得」は言葉の意味を辞書的に暗記することとは違う。それは、外国語を覚えることは、単語の丸暗記とイコールでないことに等しい。

『学びとは何か』で解説されているように、言葉の意味は発見・獲得・修正されていくものである。そして、言葉同士は相互に影響しあっている。それらの言葉の総体が、言語として立ち現れてくるのだ。そしてそれは、その人間が世界をどのように認識しているのかともイコールである。

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見知らぬ言葉との接し方

新しい分野に触れると、まったく見知らぬ言葉、あるいは普段使っているのとは違う意味で用いられる言葉が出てくる。

このとき、読み手の反応は二種類だ。一つは、わからないなりに読み進める。言い換えれば、「ああ、この言葉は今の自分にはわからないな」ということがわかった上で読み進める。もう一つは、自分の実感に引きつけて勝手に解釈する。その解釈には、「どうせ自分にはこの言葉は絶対にわからないだろう」という絶対的な拒絶も含まれる。

あやふやなのはどちらだろうか。もちろん、前者である。たとえば、文中に「貸方」という言葉が出てきたら、前者の読み方は、脳内でそれを〈貸方〉として読む。意味的解釈を行わずに、箱の中に入れたままで読み進めるわけだ。それはつまり、その文の全体的な意味解釈を保留することとイコールだ。メモリにストックされるわけだからして、おそらく脳的に疲れる行為であろう。

後者は自分の実感に引きつけて、その言葉の意味を決定論的に決定して、文を解釈する。言葉と文の意味は明らかとなり、ストックのためのメモリも必要なくなる。「絶対に読めない」とした場合でも、あやふやなものはどこにもない。

外に出ること

さて、二つの行為を比較してみよう。

〈貸方〉として読む行為は、いわば自分の領域から一歩踏み出す行為である。ここでは自分の領域を、自分の言葉遣いが通じる分野という意味で使い、それを「自分のフィールド」と呼ぶことにする。

自分のフィールドの外は、未知の領域である。そこに足を踏み出す行為は、冒険であり、旅でもある。非日常性との接触だ。そうした接触は私たちに一つのことを突きつける。何か。無知である。知らない言葉(あるいは言葉遣い)に出会うことは、私たちに無知(あるいは無力感)を突きつけてくる。これはまったくもって、恐怖であろう。

自分以外の人間が、「ズンドコベロンチョ」という言葉を自然に使いながら、自分はその言葉についてまったく知らない状況をイメージしてみるといい。恐怖以外の何ものでもない。

知らない言葉に触れることは、怖い。それはたしかに知的好奇心も刺激するが、好奇心は猫をも殺すのだ。ここには、プラスの要素とマイナスの要素が入り混じっている。あるいは、マイナスの要素があるからこそ、プラスの要素が出てくるのかもしれない。つまり、人は自分を一旦殺し(無知の状況へと追いやり)、そこから自分を生まれ直させるために、知的好奇心に快を感じる、というわけだ。

内に留まること

むろん、その両義的な要素を過剰に求めるのは倒錯的とも言えるだろうし、その行為を拒絶したってよいだろう。旅に出ない勇気。

ではそれはどのような生き方になるだろうか。自分のフィールドに留まる生き方とはどのようなものだろうか。

それは外部からの情報をまったく摂取しない、ということを意味しない。現代でそんな生き方は難しいだろうし、そもそも外部からの情報と接触してもフィールドに留まることは可能なのだ。つまり、わからない言葉は拒絶し、わかる言葉すべてを自分の実感に引きつけて解釈すれば、そこに広がるのは「自分のフィールド」だけである。

〈貸方〉の存在しない世界。〈貸方〉を保留して留めておくことができない世界。それが「自分のフィールド」に留まる生き方である。すべての言葉が保留なく即座に自分流に解釈され、あとから検証されることも一切起こりえない。

世の中には意図しない「クソリプ」というもの──ジョークのつもりではなく真剣なのだが、ものすごく元の文脈を外しているリプライ──があるのだが、それも結局、「自分のフィールド」から抜け出ていない結果であろう。提示されたツイートを、自分の実感に引きつける解釈しかできていない。つまり、他者の意図がまったく模索されていない。その言葉がどんな意味で使われているのか、という想定が働いていないのだ。

なぜならば、「自分のフィールド」では、すべての言葉の意味は明白だからである。そこには「想定外の言葉遣い」は存在しないのだ。それはつまり、他者が存在しないことともイコールである。

知的体力

『勉強の哲学』の書評記事で、私は以下のように書いた。

知的な体力とは、自分の実感に引きつけてすぐさま理解しようとする欲求にあらがう力である

おそらく「自分のフィールド」から一歩抜け出るためには勇気やその他のきっかけといったものが必要だろう。でも、それだけでは十分ではない。フィールドの外に留まるためには、ある種の力(パワー)が必要なのだ。

ごく簡単なことを言えば、すごくすごく疲れているときには、人は自分勝手な解釈をし、それを正しいと思いがちである。きっと、隣のビルが工事中でヒドイ騒音に悩まされているようなときでも、同様のことが生じるだろう。ようするに認知的な力なのだ。その力は、『マシュマロ・テスト』で測定されるような力に近いと想像できる。

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そしてこれは推測に過ぎないが、その力は鍛えられるのではないだろうか。もちろん10倍や100倍は難しいだろうが、少し増えると想像するのは、脳の可塑性を考えてみてもそれほど滑稽なことではあるまい。で、おそらくそのトレーニングは筋トレ的なものになるだろうし、それはつまり負荷を与える、ということで、結局は、フィールド外に出てみる経験を積んでいくしかない。

それが「勉強」なのである。

ここから「教養」の話につなげたかったのだが、長くなってしまったので、回を改めるとしよう。

(つづく)

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「無知」の技法 Not Knowing
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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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