権威主義と距離を置いた信頼

情報を伝える行為において大切なことは何だろうか。

たぶん、信頼だろう。

情報そのものの信頼性ではない。もちろんそれも大切だが、書き手に対する読み手側からの信頼こそが最も大切である。

なにせ発信者は人間である。人間は間違いを犯す。その人が「これは正しい」と思ったことが、そうでないことは十分ありえる。「信頼性100%の情報を発信する人以外は見たくない」と考えていたら、RSSリーダーは空っぽのままであろう。あるいは、排他的な狂信者(あるいは詐欺師)のブログ1つだけになってしまう。

では、発信者に向けられる信頼とは何だろうか。

統計学的に信頼度の高い情報を発信している人、という定義を用いることもできるだろう。しかし、これであれば最初の一歩を歩み始めたばかりの人間がかなりの程度ふるい落とされてしまう。それはそれで一つのフィルターだが、別の選択肢も欲しい。

『勉強の哲学』にこんな言葉出てくる。

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信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である。

力強い言葉だし、このネット時代だからこそ採択したい定義でもある。

この定義には二つ特徴がある。

一つは、評価軸のスパンだ。「粘り強く」を確認しようとすれば、今日明日という話ではまずわからない。よって、今比較し始めたばかりの人は、「信頼に値する他者」のネクストバッターサークルに位置づけられる。簡単には判断しない、ということだ。

もう一つは、降格の可能である。これまで「粘り強く比較」を続けていた人でも、その人がそれを止めてしまえば、急激にその人に対する信頼の度合いが降下する。なにせ世界は変化し、出来事は常に生成しているからだ。だからこそ、比較は続けなければならない。比較の手を止めた人は、その歩みをも止めたことになる。

私たちが歩き続けるつもりならば、その人は置いていくしかない。

つまり、この定義を採択すると、権威主義にサヨナラを告げることになる。一度「信頼に値する他者」という名声を獲得しても、それでアガリということにはならない。常に、批判的な目で他者を評価することになるし(もちろん、信頼に値する情報提供者かどうか、という観点でだ)その眼差しは自分自身にも向けられる。粘り強く比較を続けなければ、置いていかれるのは自分なのだ。

そして、この話はこれから書こうとしてる『僕らの生存戦略』においても重要な意義を持つ。ネットワーク社会(タテではなくヨコ社会)では、他者から「信頼に値する他者」と思われることには、重要な意義がある。いささか功利主義的な見方ではあるが、他者から信頼されることは自分にとって価値があることだし、そうした人間が増えることは社会にとっての貢献にもなる。

で、どうすれば信頼されるか、という話に当然のようになっていくわけだが、たぶんそれはほとんどの警句と同じように「〜〜すべからず」という形を取るのだろう。「知りて害を為すな」とか、何かそういったものだ。そうした警句を指針にして、継続的に活動していくこと。

たぶんそれは「ネットで人気者になる方法」とは、少しばかり(あるいは大幅に)違っているのかもしれないが、もちろんそんなことを気にしていては話は始まらない。別に人気者にならなくても、生き延びる術はあるはずなのだ。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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