教養と地図と自由と

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続けよう。教養についてだった。

たとえば、「教養がある人」と聞くと、どんなイメージを思い浮かべるだろうか。

知識が多い人? それはそうだろう。しかし、知識をたっぷり持っていても、自分では何も考えずに社長にへいこらしている人を「教養がある」と評せるだろうか。あるいは、一方的に他者を見下し、あざ笑い、ときに暴力を振るう人はどうだろうか。

なんとなく、そういう人間は「教養がある」とは呼びにくい。

教養は知識だけではなく、その立ち振る舞い、行動、判断基準も影響してくる。あるいは、その背景となる(あるいはそれらの行動を生み出す)価値観が関係しているのかもしれない。

私は教養を、「知識の地図」だと考えていた。単に知識があるだけではなく、それぞれの関係性を知り、全体図を見通せるようなメタ知識を有している人のことだ。おそらく、一つの側面ではそれは間違っていないだろう。バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』にも似た話が書いてある。

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でも、それだけでは足りないのではないか、と思い至った。『勉強の哲学』を読んでからだ。

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ある人が地図を手にしている、ということは、一体どういうことだろうか。知識の全体像がある、ということだ。それはいい。でも、それだけだろうか。

いいや、そうではない。

彼は旅立つことができる。地図を片手に、自分のフィールドから抜け出ることができる。それは、言い換えれば自分のフィールドが世界の全体ではなく、その一部でしかないことを知っている、ということとイコールだ。

『勉強の哲学』では、真なる自由など存在しえず、ある環境から別の環境へ移動できることこそが自由だ、という旨のことが書かれている。人はどこまでいっても環境依存な存在である。特に意識はそうだろう。環境からの完全なる自由(独立)を目指せば、おそらくは解脱的な方向に向かうしかなくなる。それは究極的かつ極限の自由かもしれないが、どう考えても身近なものではない。というか、もはやその領域では、自由という概念すら消失している。

私たちは環境依存な存在だ、という前提は変えないままに、一つの環境のみに依存しないようにする。環境と環境と渡り歩けるようになる。それはまさしく、教養を手にすることとイコールであろう。

教養は、リベラルアーツでもあり、それは自由七科を意味する。文法学・修辞学・論理学・算術・幾何・天文学・音楽。人を自由にする学問。自由市民で在るために必要な学問。

この自由は、無限の開放を意味していたりはしない。つまり最近よく言われる「自由に生きる」とも違っている。それは渡り歩く力であり、相対化(あるいはメタ化)する力であり、ある刹那的な瞬間では環境から離れられる力である。

ここが大切なところだと思う。教養を手にした人間は、一時的に環境から離れる力を持つのかもしれない。しかし、いずれかはどこかの環境の漂着する。だから、ある環境に依存している人を、それを理由でバカにすることはできない。人間とは皆そういう生き物なのである。単にそれだけの話なのだ。大きな声で他人をバカにしているその当人が、まったく同じ構図に陥っている。よくある話だろう。教養の欠如、ということだ。

おそらくだが、教養があると評される(あるいは評せる)人の立ち振る舞いは、「人間とは皆そういう生き物なのだ」という理解が背景にあるのだろう。でもって、その理解には他者の存在が不可欠となる。なぜなら、「人間とは皆」の「皆」には、自分と同じような人(=拡張された自己)だけではなく、自分と同じようにはまったく思えない人も含まれていなければならないからだ。自分のフィールドに籠もっているだけでは、まずたどり着けない。

地図と旅
自由と恐怖
教養と知識

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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