感情的反応・コミットメント・決断主義

「状況に左右されずに、常に同じ反応を示すこと」

さて、これは、合理的な反応と感情的な反応のどちらでしょうか。

うん、そうですね。なんとなく合理的な反応な気がしますね。理知的というか、理性的な雰囲気が漂ってきます。

しかし、『愛と怒りの行動経済学』では、やや物騒な例を用いてこれを逆転させます。

愛と怒りの行動経済学 賢い人は感情で決める (早川書房)
早川書房 (2017-03-31)
売り上げランキング: 4,888

もしわたしが自分の置かれた状況に感情的に反応し、侮辱されたら必ずナイフを抜くとしたら、わたしの行動はふたつの状態のみを用いて表現できる。(一)侮辱されたと感じている、(二)侮辱されたと感じていない、のふたつである。

どういうことでしょうか。その人が、感情的反応を優先させる場合、自分が侮辱されたと感じていれば、どんなときであっても、相手が誰であっても、必ずナイフを抜くことになる、ということです。その他の要素は一切考慮されることはありません。つまり、「状況に左右されずに、常に反応を示す」のです。

プログラミング的に言えば、if (yourMind == getInsult) then Pull out(the knife) みたいなものでしょうか。逆に、「合理的な反応」を示そうと思えば、相手が誰なのか、周りに誰も見ている人がいないのか、といった要素も加えてどんな行動を取るのかが判断されます。つまり、合理的な反応は状況によってまちまちになるのです。

したがって、合理的な反応と感情的な反応の決定的なちがいは、後者のほうが状況に左右されにくいことである。感情的な人間が侮辱に対していつも同じ反応をすると言っているのではない。合理的な人間の反応のほうが、そのときの状況に左右されやすいということだ(このことは、精神が合理的であるためには自制を要するという事実とも一致する)。

さて、これをどのように受け止めればよいでしょうか。実は簡単ではありません。

感情的反応がもたらすもの

侮辱されたら必ずナイフを抜く、というのは明らかに愚直な行動です。とても理性的とは呼べません。しかし、彼がその行動を繰り返すことで、周りの人間に「あいつのことは侮辱してはいけない」と思われることは十分ありえます。これを一つのゲームとして見れば、彼は威嚇によって自らの精神的安泰を得た、という風に捉えられます。

あるいはもっと美しい例もあります。

ヒーローものの物語では、たいていのヒーローは仲間を救うためにかなりの無茶をします。それこそ合理的に考えれば、やってはいけないことをやらかします。主人公が合理的反応を優先するか、あるいは功利主義者であれば、「今あいつを助けに向かえば、我々の生存確率が31%減少し、市民が巻き込まれる確率が25%もアップする。彼の戦力の補充は、350万ドルで可能だし、議会も承認してくれるだろう。よって今回は助けないことにする」みたいなことを言い出して、一気に場がしらけることでしょう。

単に物語の盛り上がりが欠けるだけではありません。そのように判断するかもしれない統率者は、強いリーダーシップを発揮することができません。統率者が仲間を守ることにコミットするからこそ、その仲間はそのチームにコミットしてくれるのです。その仕事が命がけの厳しい仕事であればあるほど、過剰なコミットメントは欠かせなくなります。

それに、もっと一般的な生活の場合でも、「毎月貴方がグッチのカバンを買ってくれるか、豪華なディナーに連れて行ってくれる限りにおいては、愛しています」みたいなものは、愛とは全然関係がないでしょう。人を愛するとは、フルコミットメントな行為であり、ある意味では極めて愚直な行動です。まさに、「状況に左右されずに、常に同じ反応を示」しているのです。

でもって、そのような反応たちを組み込んで、私たちの社会は成立しています。合理的でないからといって簡単に切り捨てられるものではないでしょう。

バカのフレーム

別の側面からも、感情的な反応に光を当ててみましょう。

それについては『勉強の哲学』において端的に表現されています。

勉強の哲学 来たるべきバカのために (文春e-book)
文藝春秋 (2017-04-14)
売り上げランキング: 15

しかしバカであることには強みがあります。可能性の増殖のなかで迷うことがないのです。

そもそも、真に合理的な反応を示そうと思えば、すべての情報を入手した上で、起こりうるすべての結果についての期待値を計算しなければいけません。これには問題が二つあります。一つは、すべての情報を入手するのは原理的に不可能なこと。もう一つは、期待値を計算している間にも状況は動いてしまうこと。よって、真に合理的な反応以外したくない、という態度は、結果的に「何もしない」という状況を引き起こします。食べる干し草を選べなかったロバ状態です。

現代の状況が、そのやっかいさに拍車をかけます。情報が溢れかえり、しかも個人がいくらでもそれらを入手できること。また、制度や身分による制約が減少し、自分の生き方を自分で選べるようになった(≒可能性が著しく上昇した)こと。個人が持ちうる情報と可能性が、これまでの人類史になかったほど上昇したことで、私たちは合理的であろうとすればするほど、何もできない、という皮肉な状態に追い込まれてしまいます。

だからなのかもしれません。巷に溢れる昨今の自己啓発書では、やたらめったら決断主義が推進されています。

再び『勉強の哲学』から引用してみます。

何でもいいので、突然「エイヤッ」と決断する。ピュアに決断する。そうすれば、「決めたんだから決めたんだ」というわけで、たとえどんなにバカげたことでも、それがあなたにとって絶対的に「真理化」されるのです。そう、真理が生成するのです。

それぞれの本において手法は異なりますが、自己啓発書の基本は「可能性の検討をしない」が主軸です。「なりたい自分」というものが仮にあるとしたら──それも相当な虚構ではありますが──、それが「なるべき自分」なのかについては考えずに、まずその自分を目指すことを決定する。ときめかないものがあったら捨てる(あるいはときめくものは残す)。

なぜそれにコミットするのかを読み手が問うことをスルーして(そのために著者は何かしらの理屈をちゃんと用意してくれています)、「まず、これにコミットしなさいよ」と言ってくれること。多くの可能性をあらかじめ限定してくれること。それが昨今の自己啓発書の一つの役割なのかもしれません。可能性過剰社会に対する処方箋というわけです。

このような書物によって導かれる行動は、一見合理的反応にも思えますが、むしろその衣を被った感情的反応(判断なんかしたくない)と言えるでしょう。なぜならば、そうした本に「触発」された人が、意識高い系と揶揄されるのは、まさに「状況に左右されずに、常に同じ反応を示すこと」、つまりTPOを弁えずに、本に書いてあることをそのまま口にするからです。

可能性の増殖に迷うことはなくなったのかもしれませんが、自分でどこを歩いているのかもわかっていないのかもしれません。

さいごに

合理的反応のみを目指すならば、強いコミットメントはまず生まれてきません。コミットメントとは、基本的に「バカな」ことなのです。

だからといって安易な決断主義に流れることは、いささか「いきすぎ」な感覚もあります。たしかにそれは楽なことではあるのでしょうし、可能性過剰社会へのアンチテーゼとして受け取ることもできるかもしれません。

が、決断主義というのは、今の時代が今の時代であること、自分が自分であること、自分が今の時代に生きていること、といったもろもろを無視します。もちろん、そこには他者も存在しません。生成した真理に刷り込みのようにコミットし続け、その後の生じるあらゆる可能性の検討を締め出します。つまり、可能性という点において閉じてしまっているのです。

もちろん、生成した真理にコミットしている人は、「可能性という点において閉じてしまっている」ことすらも検討を却下するでしょう。それが、「可能性という点において閉じてしまっている」ことの証左でもあります。

だからこそ、合理的反応と感情的反応を組み合わせるしかないのでしょう。でもって、それこそが「人間らしさ」ということなのかもしれません。獰猛な獣でもなく、高度なAIでもない、その中間地点としての。

新しい時代を生きる力
Related Posts with Thumbnails
Send to Kindle
Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です