4/5の悪評な目標

目標と実行のお話。
理想と現実のお話。
タイトさと遊びのお話。

習慣と目標と

今のところ、私は毎日このR-styleを更新している。一日一記事。2000字ほどの、そこそこ長文で、読み物として成立する記事を書いている。

なかなかできることではない、と思われるかもしれないが、毎日散歩している人とか、ラジオ体操している人と同じである。習慣になっているのだ。結局の所、「一年間毎日ブログを更新する」というのは、「今日、ブログを更新する」ことを365回繰り返すだけなので、そんなにきついものではない。

しかし、習慣というのはいきなり身につくものではなく、私もあるどこかの時点で、「そうだ。毎日ブログを更新してやろうじゃないか」と決めたことも間違いない。そのころは多分人気ブログを作ろうと頑張っていたのだろう(遠い目)。

だったら、そう。ここで目をランランに輝かせて、「目標を立てたから、実現できたんですよね。やっぱり目標を立てることは大切ですね」、と言いたくなってくるが、そういう考え方の危うさについては、『「目標」の研究』でも少し触れた。

「目標」の研究
「目標」の研究

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目標を立てたからといって、それが叶うわけではない。むしろ、叶うような目標を立てたから、叶ったのだ。あまりにも夢がない話であるが、まさにそれが現実なのだから仕方がない。

私は毎日更新をする前から、結構な頻度で更新していた。週に4〜5回は書いていたのではないか。それは別に目標を立てていたわけではなく、単に書くのが楽しかったからで、つまり無理とか頑張りみたいなものはなかった。自然状態で週に4〜5回更新できるなら、毎日更新することは少しばかり負荷を上げることにすぎない(しかも日曜日はまとめ記事であり、実質まともな記事は週6回である)。

つまり、ぜんぜん何も書いていないところから、急に毎日更新を始めたわけではなく、ぼつぼつとブログを続けているうちに、少しずつ更新する頻度が増えてきて、しかもそれがナチュラルにできたので、今度は毎日更新を始めた、ということだ。実績に支えられた、段階的ステップアップである。

濁したお茶とひっくり返されるちゃぶ台

しかも、である。

毎日更新は続けているものの、そのすべてが「2000字ほどの、そこそこ長文で、読み物として成立する記事」かというと、これはもうはっきり言ってノーである。もっと短い文章もあるし、極めて短い文章もある。あんまり文章を書く気がなかったり、スケジュールの都合でどうしても書けないときは、そういうものでお茶を濁している。

もちろん、そういうMuddy teaな記事ばかり量産していては、何のためにブログをやっているのかわからなくなる。あくまで、臨時というか便宜的な対処という点は譲れない。しかし、それすらも許されないようであれば、あっという間にこの目標は破綻していただろう。

最終的な目的としては、きちんとした文章を書く回数を増やし、自分の文章力を向上させたい(でもって、読者さんも増えたらいいな)という願いがある。そのためには、ラフな記事を書いていては意味がない。が、しかし。ラフな記事を一切認めない目標を立ててしまうと、忙しくなったらまず間違いなく何も書けなくなってしまう。そして、その時点で目標が機能不全を起こすのだ。

簡単に言えば、「毎日更新する」という目標を立てて、一日書かない日が出てくると、もう「毎日更新する」ということそのものに意義を感じなくなってしまう。ちゃぶ台がひっくり返されるのだ。認知的不協和の解消のためなのかどうかはわからないが、そういうことはよく起きる。

本来、一日程度の欠損などは無視してしまって、そこからも更新を続ければいいものだし、そうすればいずれかは習慣化されて、いちいち目標を意識することもなくなるだろう。が、なかなかそうはいかないのだ。特に、タイトに目標を設定するほど、破綻は起こりやすい。

目標を目標にしてしまう

タイトな目標設定は、理想偏重から来ている。そして、その背景には現実軽視がある。

自分が掲げた理想通りのことを、現実の自分ができないことなんて、ほとんど当たり前であろう。なにせ自分のことは、自分もよくわかっていない。それに未来のトラブルを完全に予測することもできない。しかし、タイトな目標設定はそうしたもろもろを完全に無視している。トイレ休憩や渋滞の時間を計算に入れない、ゴールデンウィークの旅行計画のようなものだ。

自分の(あるいは人間の)不完全性を考慮に入れれば、タイトな目標はそもそも達成できないものである。達成できないものが途中で達成できなかったからといって、目標そのものを投げ、行為を放棄してしまうのはいささか滑稽ではないだろうか。行為そのものではなく、「目標に向かっている自分」に酔っているのかもしれない。恋に恋するというやつだ。

どれだけ今の自分が低い位置にいて、目指す場所が高いところにあっても、今の自分は、今の自分の地点から歩き始めるしかない。低さを嘆いている暇があるなら、階段を一段上ることに時間を使った方がいいだろう。もちろん、階段を上らずに、そこでうろちょろしているという選択だって、人の生き方であることは言うまでもない。結局のところ、何を欲しているのか、という話なのだから。

さいごに

話を簡単にまとめておくと、目標というのは、実績ベースで考えるのが良い。今の自分にできることを確認し、その線を少し先に延ばすくらいに留めておくのだ。言うまでもないが、それですらやはり負荷があり、実行していく上での障害は出てくる。

だから、理想の方向性は持ちつつも、どこかにラフさは残しておく方が良い。車のステアリングで言うところの遊びを入れておくのだ。

一ヶ月に8冊本を読む目標を立てて、6冊しか読めなくても、「まあ、そこそこ頑張った」と評価できた方がいい。そこで「ダメだ」となって、残りの11ヶ月をまったく本を読まないまま過ごすよりは、当初の目的を達成できるだろう。

そのためには、最初からそうなるであろうことを織り込んでおいた方がいい。失敗することを考えていない人間は、その失敗に事前に対処することはできない。この辺の話も、『「目標」の研究』で触れた通りだ。

上記のような考慮を経て生み出される目標は、どう考えても輝かしいものではない。みすぼらしいとまでは言わないものの、キラキラと理想の光で輝くような光沢は持っていない。今の自分にできることの少し先しか見据えていないし、しかもそれですら失敗することが織り込まれている。ああ、なんという現実。

でもまあ、絶対に攻略できないゲームは、最終的にはつまらなくなるわけだからして、今の自分に楽しめる程度の難易度設定が大切ではあろう。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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