来年のほぼ日手帳と「感情」の記録
我が家にある手帳は2002年のものが一番古く、当然2009年(今年)のものまであります。そのうち2004年から2009年にいたるまでずっと「ほぼ日手帳」(オリジナルサイズ)を使用しています。
「ほぼ日手帳」にはいくつか他の手帳とは違う機能がついていて、それがこの手帳を使い続けるだけの理由になっているのですが、その機能の中でも私が一番気に入っているのが「1日1ページ」という点です。今だと1日1ページの手帳も多く出ているのかもしれませんが、それ以外の機能(バタフライ・ストッパーなど)も十分魅力的なのでわざわざ別の手帳を探す気持ちはわいてきません。
どのように「ほぼ日手帳」を使っているのかと言うと、スケジュール管理+メモ+日記帳という使い方です。
そしてほぼ文庫本サイズの1ページにあたる一日のページの大部分を私はずっと日記として使ってきました。いつでも持ち歩きちょっとした空き時間に最近起こった出来事に対する感想などを書く、という使い方をしています。
ほぼ日手帳を持つまでは、私はかならず(手帳+メモ帳)を持ち歩いていました。移動中の待ち時間などは「本を読む」か「何か書く」というのが私の行動パターンで、リフィル式の小さな手帳では私の書く量の文章はとてもカバーできません。またメモ帳だけでスケジュール管理もなかなか難しい。結局二つを同時に持ち歩くという羽目になったわけです。
ほぼ日手帳以降はメモ帳は一切持ち歩かず、すべて手帳に書き込んでいました。
「スケジュール機能」+「メモ帳・日記帳」として「ほぼ日手帳」は私の中でほぼ満点をつけられる存在でした。これからも販売される間はずっとこの手帳を使っていこうと思っていたのが2009年6月まで。
そして、iPhoneが私の目の前に突如出現したのです。
2009年の7月に購入したiPhone3GSで私を取り巻く環境が大きく変わりました。
メモもスケジュールも全てこれ一つでこなせてしまう。しかもいくつかのアプリなどを使えばデスクトップとの連携も完璧。一体これ以外に何が必要でしょう。持ち運べる情報端末+タッチのフルキーボード付きと非常に贅沢なスペック。ポメラも購入を結構考えていましたが、現状購入意欲は限りなくゼロに近い状態です。
ほぼ日のサイトで来年の手帳が発売になる、という話題をきいてから来年の「ほぼ日手帳」を買うかどうかずいぶん悩みました。2004年から、なので通算5年使っている手帳。こだわりというか愛着は捨てがたくあります。
しかし、スケジュールとメモをiPhoneに取られたあと、残された機能は「日記帳」しかない。そしてやろうと思えばiPhoneで日記を付けることもできる。
果たして日記帳にこれだけのお金を使うべきなのかどうか。うんうんと悩んでいましたが、とあるブログの記事を読んで心が決まりました。
それでも、君はそれすら忘れるだろう(Lifehacking.jp)
どんなに何度も食事をしていても一枚も写真が残っていない食卓のように、記憶は抜け落ち、改変され、やがては思い出すための記憶のとっかかりさえも失われて、言葉にできないこの一瞬は消えてゆくのです。
たとえ記録をしていたとしても、それを読む私は、今日の私ではなく、異なる経験、異なる物の見方をする私で、きっと今の私と同じ印象をもちはしないでしょう。
しかしあるいは、だからこそ、記録することがもっとも大切なことなのかもしれない、と思いを新たにしたのでした。
全体を通して非常に印象深いエントリーでしたが「記憶のとっかかり」という言葉に確かな手応えを感じました。
例えば、2005年の手帳をパラパラとめくってみます。すると所々大きく白紙になっているページが見受けられます。
そこの部分を見ると「あぁ忙しかったんだな」ということがわかります。
自己反省的な文章を丁寧な字で小さくちまちま書いてあるのをみたり、大きな字で株式相場で勝ったことを書いていたりと、単純な内容だけでなく「文字」からでもそのときの感情を振り返ることができます。
これは一つの財産と呼んでも決して過言ではないでしょう。過ぎゆくときの中で人は記憶とともにその感情も風化させていきます。
他人にはまったく有用ではないが、自分自身にとってすごく有意義な「感情の情報」を残しておくことに意味はあると思います。
だから今年も手書きの日記帳を付けていこうと決心しました。でもそれが「ほぼ日手帳」である必要はあるのか、という疑問はあります。
それは続くこの文章に感じた違和感から一つの答えがでました。
でも、こうした一瞬をとらえるための何かを用意しているでしょうか? そこには、どんな記憶が書き込まれているでしょうか?
将来の自分のためにも、小さな 100 円ノートでかまいません、ユビキタス・キャプチャーの習慣を始めてみませんか。
ユビキタス・キャプチャーの習慣は確かに有用です。それは積み重ねていけば行くほど、時間を経れば経るほど見えてくるタイプの有用性です。しかし、「小さな100円ノート」で本当に良いのでしょうか?
もちろん100円均一で売られているノートを批判したいわけではありません。ノートの機能としては十分なものがたくさん売られているのは100均マニアの私でなくても皆さん十分ご存じの事でしょう。
おそらく著者のmehoriさんは「特別、高価なノートを使う必要ない」といった程度の意味合いでおっしゃられていると思いますが、文面を率直に読むと「なんでも、どんなものでもよいから」という感じを受けます。
個人的にはこの部分は「自分の気に入ったそれなりのノート」にこだわる必要があるのではないかと思います。
「自分の気に入ったそれなりのノート」を使っているとまず「何か書こう」という気が起きやすくなります。またちょっとした時間に手にとって見返そう、とも思いやすくなります。この辺のちょっとした差が習慣を継続できるかどうかを左右する可能性は高いのではないでしょうか。
また別の理由もあります。
例えば私はとてつもなく字が汚いです。(連れ合いによく暗号か外国語あつかいされます)
どこにでもあるメモ帳を使っていた時はかなり雑な字を書いていて、今見返すと全く読めません。
しかし「ほぼ日手帳」にはそこそこ読める字で書いています。すくなくとも見返した時にきちんと読める字です。やはりこの手帳に記入しようとすると気構えて字を書くのでしょう。
単に散らばっている情報のメモならば、後でどこかに転記することになるから雑なメモでも十分ですが、それ自身を保存していくことを考えるならば「それなりの」自分にとって意味のあるノートを使ったほうが良いのではないか、そんな気がします。
というわけで、今年もほぼ日手帳を買うことをたった今決心しました。オリジナル版かカズンかは未だ悩み中ですが、ややカズンに傾いております。
皆様も来年の手帳を選ぶときには、自分の感情を書き込むスペースがあるかどうかも加味して選んでみてはいかがでしょうか?
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