政治と国民の関心

世界の国々を眺めてみたあとで、この日本を見てみると
すごく不思議な感じがする。
週刊誌や、TVの番組でも政治に関する番組は多い。
もちろん圧倒的というほどではないが、どの放送局でも番組が作られていることから考えて、視聴率はそれなりにとれているのだろう。

そういった意味では政治に対する関心は低くないように思われる。

しかしながら、国政選挙の投票率は低い。

一体なぜなのだろうか。

マスコミが問題をあおり、視聴者の関心を引きながらもそれを一票に投じられることがないのはなぜだろうか?

まず、マスコミは国民に投票を促すような意図はまったくないという風に感じられる。
だれだれの政治家が悪いことをしている、官僚はこんな奴らばっかりだ、という情報を流し、国民が抱えている不安を具体的な形に持っていきながら、それによってガス抜きにしている。

政治家の意図だろうか?

多分違うだろう。国民の少なからずの人々がシリアスな議論を避けたがっているせいなのではないか。

あと、長期政権ということにも問題があるのだろう。
投票しても結局のところ変わらないという意識があるのだと思う。
もしかしたら、そうかもしれない。
しかしながら、何もしなければ変化は望めない。

政治家のルールを作っているのは政治家なのだ。

そして、それに唯一口をはさめるのは有権者である。
それが形式的なものであれ、有権者は政治家にたいして発言権をもっている。それが投票である。

現在の政治のシステムというのは一般的な国民が携わりにくいようになっている。
立候補するにもお金がかかるし、選挙活動にもお金がかかる。もちろん政治家になってからもお金がかかり続ける。

当然、立候補するのは2世議員が多く、地盤を持たない人々はその人間がよほどのカリスマ的な人物でない限り、あるいは選挙の相手がよほどのミスを犯さない限り当選することは難しい。

政治家になってしまえば、任期の間は国民からとやかく言われても気にしない。

たとえミスを犯しても、「政治」でそのミスを挽回したいと思います、といって仕事を続けることができる。

政治というのは、なんであろうか?
金と権力をつかって、いかに票を集めるかということなのだろうか?ここで言う票というのは国民から投じられる票ではない。
それは党に所属する議員の数ということである。
過半数を確保すればとりあえずその党は自らの意見を押し通すことができる。

それが現在の民主主義の姿である。
それは効率的といえば効率的かもしれない。

民主主義の本来の姿から、現在の日本の政治にいたるまでになにかの間違った流れがあったことは確かだ。

そして、その原因は国民の関心の低さであることは間違いない。

戦後、経済的に復興してく中で、政治家がそして官僚が行ってきたことはあながち間違いではなかった。
そういう状況の中では、彼らのシステムはその機能をはたしていたのだ。

国民は政治について考える必要などなく、自分の生活を向上することに専念し、ただ働いていればよかったのだ。

が、それは今では通用しなくなってきている。

今では無能な人間が政治に携わっていたら、とんでもないことになる。それは政府に限らず、自治体であってもだ。
が、政府は「国債」という切り札がある。日銀という圧倒的な味方がいる。

少々の問題点はごまかし続けることができた。

が、問題は金銭だけではない。
というか、金銭は根本的な問題ではありえない。

もちろん、外貨は重要である。経済と金融は切り離せなく、借金があるよりもないほうがいいにきまっている。

が、日本という国が抱えている問題は国が圧倒的な借金を国民に背負っていることではない。

それはある意味で表層的なものだ。

根本的な問題は「日本」というシステムの形骸化である。実質的な機能がうまく動かなくなってきているということだ。そして、それに変わるシステムをだれも作り出せそうにないということだ。

特に、現状の国会議員にそれを明示的に示す人はいない。

システムとはもちろん憲法を含む。
が、憲法を変えるためにはビジョンが不可欠だ。
この国の方向性と言い換えてもいい。

それらが示されないまま、どうしようもない問題だけを小手先の処置だけで済ませてきたのが現在の日本である。

われわれは高度経済成長の中をひとつの列をなして歩いてきた。そこには先進国という目標があり、だれもがそれを目指して歩くことができた。すくなくともそれで安心感を得ることができた。

そして、われわれはそこにたどり着いた。
そこにたどり着いてしまった後でも、先導者は新たな目標を示すことができなかった。目標を探さなくてはいけないという意識すらなかったのだと思う。

だから、われわれはまだその列をなして歩くことを強制されてきた。しかし、目的地が見えない列がまっすぐ歩くことはできない。
はぐれる人も、立ち止まる人も、後退する人もでてくる。

それは、それで仕方のないことだと思う。

もう日本という国には全員が列をなして向かうべき目標などないように思える。
肝心なのは、それを先導者がはっきりと伝えることだ。

どこに向かうも個人の自由である。われわれははぐれた人をサポートすることしかしない、できない。とはっきり告げることだと思う。

たとえば、新幹線、高速道路の問題があがる。
多くの日本人が利用もしない線になぜ国の税金をつぎ込むのか理解できない。納得できない。

それが国を包みこむ目標がなくなったということだ。

地域に貢献することがあるならば、税金を投入して作るというのは「国」のひとつの機能であると思う。
もちろん経済的に余裕があればということだが。

肝心なのは、もう、誰もあっちへ行きなさいと教えてくれないという現状を認識することだ。

政治家は政治を行うだけの人間である。もちろん倫理観は問われるが、それ以上を求めても詮無いことである。

われわれ自身がはっきりと日本国のありように意見を持つべきなのだ、と思う。それには責任をともなう。
今まで日本人はその責任をほったらかしにしすぎていたのだろう。

個人主体に生きるということと、社会的な責任を持たないということはまったく別なことである。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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