書評 「希望のつくり方」(玄田有史)

「希望」という言葉を聞いて、どうしても一番最初に思い浮かべるのは『希望の国のエクソダス』のあのセリフだ。

「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」

2002年の小説だからいまからもう8年ほど前になる。20代を少し過ぎたばかりの私はこのセリフに強く共感しているのを今でも覚えている。

しかし、今では「希望の欠落」を単純に悲観してはいない。「あの頃はよかった」的センチメンタリズムに浸っていても、あるいは「大人が悪いんだ」的攻撃性を持っていても、現実を変えることはできない。それを知る程度には大人にはなった、という事だろう。

希望に関して、私が持っている疑問はいくつもある。例えば

「人間が生きていく上で、希望というのは必要なものか」

というのがそのひとつだ。この疑問を別の側面から見れば、

「希望の機能とは一体なんだろうか」

と考えることもできる。本書はこういう疑問を考える上でのいくつかの有用なヒントを与えてくれる。

希望のつくり方 (岩波新書)
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希望の機能

希望というのはおそらく「心の機能」であろう。それが人間特有のものなのかどうかは判然としない。犬に「あなたは希望を持っていますか?」というアンケートが取れない以上、確認しようがないわけだから人間以外の動物が希望を持っているかどうかの最終的な結論は取れないだろう。

しかしながら、「希望」という概念を持っているのは人間だけだ。そもそもこれは心の特定の動き(あるいは状態)について人間が名称を与えたものにすぎない。ではその「希望」の定義とはどのようなものだろうか。

本書では、「夢」と「希望」という対比、あるいは「幸福」と「希望」という対比でその定義に迫っていく。

無意識のうちにみたり、飽き足らない気持ちから次々と生まれるのが夢です。それに対して、希望は意識的にみたり、苦しい状況だからこそ、あえて持とうとするところに特徴があります。

「継続」を求める幸福に対し、希望は「変化」と密接な関係があります。(中略)過酷な現在の状況から良い方向に改善したい。苦しみから少しでもラクになりたい。もしくは誰かをラクにしてあげたい。そんな思いが、希望という言葉には宿っているのです。

こうして見ると、「希望」という心の動きは困難な状況を乗り越えるためにエネルギーを生み出す機能を持っているとみてよいだろう。マイナスの状況からの変化を意識的に求めるときに、「希望」という機能が発動する、そんな印象を受ける。

そう考えると、この国に希望がないという状況はもしかしたら一つの達成なのかもしれない。この国の状況を「人々が現実的な困難に直面することがなくなった=希望の必要性が薄れた」と考えることもできる。

毎日が幸福ならば希望を持つ必要はない。国の中から「希望」がなくなっているのならば、それは国民の大部分が幸福を感じているからではないか。そのような推論を立てることができる。

しかしながら、年間3万人を超える自殺者がでる社会が「幸福で満ち溢れている」と考えるのは難しい。

こうしてみると、この国には「希望がない」のではなく「希望が機能してない」のではないかという考えが出てくる。つまり「希望の機能不全社会」というわけだ。

「希望の機能不全社会」について考える前に、そもそもこの国に希望があったのかを考えてみる必要があるだろう。

戦後直後から高度経済成長の中を生きた経験が無いので断言する事は難しいが、その頃にはこの国に希望が存在していたような印象を受ける。はっきりと言えることは、少なくとも「目標」は存在していた、という事だろう。その時の日本にとってやるべきことはしっかりと見えていたし、お手本となる存在もあった。

マイナスの状況でやるべきことが見えている状況、これは本書で解説されている希望のあり方にマッチする。だとすれば「希望」はあったのだろう。ただし、その「希望」は個人の希望というよりは国家としての希望なのかもしれない。

「貧しくても真面目に働けば人並みの生活基準に達することができる」

これは個人としての希望に見えるが、これは「国家の希望」に沿う形で国民の希望が作られただけという印象を受ける。

もう一点考えたいのは、その時代の国民は「物質的豊かさ」を求めていたというよりは、「人並みの生活をする」ことを求めていたように感じる、という事だ。あくまで物質的豊かさは「人並みの生活」を満たすための基準でしかなかったのではないだろうか。

希望によって分断される国民

そう考えてみると現代の「希望の機能不全社会」が朧気ながらに見えてくる。

本書第四章「希望を取り戻せ」(北斗の拳の主題歌みたいな章題ですね)では、次のように書かれている。

希望は根本的には、一人ひとりが自分の物語として人生をかけて紡いでいくものです。(中略)誰からから与えられた希望や、政治的におしつけられた希望は、本当の希望ではありません。

この希望の定義によれば、戦後日本国が持っていた「希望」というものは本当の希望ではなかったといえる。自分の物語を紡ぐのではなく「人並み」の生活を送ることを目指し、本来の自分の希望ではなく国の成長のために頑張って働く。これは希望ではない、ということです。

希望っぽいものを希望として勘違いしてきた社会だったわけです。アミバの正体がバレるように、その偽りの希望の仮面は現代では剥がされています。しかしながら、その偽りの希望に変わる本当の希望のつくり方は未だにうまくシェアされてはいません。そのかわりに、「偽りの希望」しか知らない人々が、その希望を奉っているのが現状です。

神聖性がもう無いことを誰しもがうすうす気がついている教祖のように、「偽りの希望」に対する人々の接し方は極端な二つのパターンがあります。一つは「あくまでこだわる」派。もうひとつは「距離を置く」_あるいは無視する__派。もしこの国の中で断絶が起こるとすれば、この二つの派閥になっていくのでしょう。もしくはもうすでにそういう状況になっているのかもしれません。

まとめ

経済学に限らず、あらゆる社会科学が取り組むべきことは、いまだ光の当たらない、言葉にならない声をあげている人の声によく耳を澄ますことです。そして、その実態を明らかにすべく、謙虚に努力を続けることです。

現代ではソーシャルメディアの登場で、今までは言葉になっていなかった声もずいぶんと拾い上げやすくなっているはずだ。ソーシャルメディアが社会科学に与える影響も今後はずっと大きくなっていくのではないかと思う。

「希望学」が目指していく方向は、「希望のつくり方」を広めていくことだろう。それは、個人個人の「希望の作り方」をシェアする形を取るべきなのかもしれない。「人生」や「成功」や「働くこと」について、マスやマクロではなく個人の視点からの物語を語る事。それが必要なのかもしれない。

本書巻末にはまとめとして8つの「希望のつくり方」が提示されている。8つと書いたが実際に書かれているのは7つまでで8つめは空欄になっている。

この八番目の空欄には、ご自身の経験をふりかえりながら、希望をつくるヒントを、自分でみつけて、書き入れてみてください。

皆さんも一度自分の「希望のつくり方」について考えてみてはいかがだろうか。「苦しいときも、○○していたら大丈夫」といえる何か。それが希望をつくる秘訣であり、シェアすべき何かなのだろう。

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