インターネットの二つの力

インターネットあるいはウェブ的なものには、二つの力があります。

一つは、広く速く情報を拡散していく力。ソーシャル的なものであり、バズといった現象を生み出します。漢字で表現すれば「加速」となるでしょう。

もう一つは、長く深く情報を蓄積していく力。ログ(ブログ)的なものであり、ロングテールといった現象を生み出します。これまた漢字で表現すれば「持続」となります。

加速と持続。

で、うまく立ち回るなら、この両方について知悉しておく必要があるわけですが、それ以上にそれぞれを指標として捉えることも必要でしょう。つまり、加速だけでも、持続だけでもだめで、その両方を評価軸に据える、ということです。

加速だけを指標にして最適化されたコンテンツは、もちろんすごい加速力を得るわけですが、反面持続については考慮されていないので、まったくの役立たず、ということになります。片方の力しか使えていないのです。

逆に、持続だけを考えていては、情報は広まりません。狭い円の中に留まり、リーチは限られてしまいます。これまた、片方の力しか使えていないのです。

もちろん程度はあり、バランスもあるでしょう。完全に5:5というのではなく、4:6や7:3などの偏りがあったり、1:9みたいに極端に振ったりすることも選択肢ではあります。でも、とりあえずは、両方を見据える、ということが大切なのかな、という気がします。

加速は、知名度の拡大、ノンカスタマーへのリーチ、情報の偏った発信による話題の創出、といった効果がありますし、持続は、信頼感の獲得、ロングテール、場の創出、といった効果があります。それぞれの効果は、もしかしたら対立的なのかもしれませんが、それを扱う人間は、両方を見据えておいてもよいでしょう。むしろ、そうした方が良いとすら、言えるかもしれません。

でもまあ、いきなり両方を見据えるのも難しいので、スタートはどちらかから始めて、いろいろ試行錯誤しているうちにもう片方が急に噛み合ってきて、バーンと弾ける、みたいなルートを辿るのかもしれません。

そういう事例を研究したい気持ちがないわけではありませんが、それよりも別の本を書きたい気持ちが強いので、それは誰かに任せるとします。

▼こんな一冊も:

ブログを10年続けて、僕が考えたこと
倉下忠憲 (2015-05-28)
売り上げランキング: 51,623
Send to Kindle

「役に立たない本は読まない」という指針

一つの指針ではあるでしょう。人生は有限で、書物は膨大にあるのですから、何かしらの線引きは必要となります。でもって、「役に立たない」本を切り捨てるのは、有用で実際的な指針にすら思えます。

何か問題があるとすれば、その「役に立たない」という判断基準についてでしょう。

冒頭の指針をもう少し正確に表現し直せば、

「私がこの本は役に立たないと思う本は読まない」

となります。どうでしょうか。若干、危うさが漂ってくるのではないでしょうか。

読書という行為には、「何を面白いと思うか」の判断基準のアップデートが含まれています。本を読むうちに、自分の世界観が脱構築されちゃうことだってあるのです。しかし、「役に立たない本は読まない」という指針は、そのような脱構築の可能性を大幅に減少させます。ほとんど皆無になると言ってもよいのではないでしょうか。

世の中には、「頭をガツンとやられる一冊」というのがあるわけですが、それはまさに自分の情報判断基準アルゴリズム(ひらたくパラダイムと呼んでもよいでしょう)にアップデートを迫ってきます。

ここで相対主義的に、「アップデートすることにも価値があるし、しないことにも価値がある」みたいな逃げ口上を述べたくなるわけですが、そもそも「アップデート」という言葉遣いには、それが基本的には良いことであるという価値観が埋め込まれてしまっているわけですから、ここはあっさり開き直って、それは良いことだと言っておきましょう。少なくとも、アップデート後の状態に立てば、その前の状態に戻りたくなるような気持ちは湧いてこないはずです(そういう状態を「アップデート」と呼んでいるのですから、いささか欺瞞的な表現ではありますが)。

話がクレータ島の迷宮みたいに込み入ってきたので、あっさりまとめておくと、

「何かしらの判断基準を持つことは大切だが、それが検証・アップデートされない状況はマズイかもしれない」

となります。ときに、自分世界の地平を揺さぶる何か__おそらくそれはノイズと言われるもの__が必要です。

Send to Kindle

電子書籍市場と辺境の人たち

『出版ニュース2017年3月上旬号』の「特集:2016年電子出版市場と「電子化率」の相関関係」を読んだ。鷹野さんの記事だ。

出版ニュース2017年3月上旬号 – 雑誌・電子書籍 | BookLive!

出版物の「電子化」はどれだけ進んでいるのか。それがデータを元に解説されている。で、ポイントは「売っていないものは買えない」だ。しごく当たり前の話だが、少し考えてみよう。

たとえば、とある出版主体が「電子書籍って売れないよね」と思っていたとする。その主体からした合理的判断は、「電子書籍にはあまり注力しない」となるだろう。点数を揃えず、販促にも力をそそがない。だって、売れないのだから。結果どうなるか。当然、売れない。「ほら、やっぱり売れない」。

予言の自己成就だ。

もちろん売上げがゼロということはなかろう。しかし、このような状況でキャズムを越えるような出来事が起こるとは想像しにくい。どう考えても、注力が足りていないからだ。

もし出版主体が「電子書籍は売れる。未来がある」と考え、全力で取り組んでいたら、書い手からみても好ましいラインナップになるだろうし、消費刺激施策はノンカスタマーまで広がっていく可能性がある。そうなれば、市場が広がり、活性化され、本当に売上げが増える──少なくともその可能性は生まれる。

イノベーターの出現場所

現状、電子書籍の市場は小さい。文字モノは特にそうだろう。今この市場に参加する旨味は小さい。でもって、あらゆるイノベーションは、参加する旨味が小さい段階から足を踏み入れ、投資を積み増した先駆者が実現するものだ。もちろんリターンは彼らがかっさらう。IT化によってその傾向はより強まっている。

問題はしがらみだ。しがらみはいろいろなものを束縛する。そして、その束縛を抜け出せるほどの力を持たない中小主体は、現状維持するしかない。逆に、力を持つのなら、新しいしがらみを自らで生み出していける。市場はそこから変わっていくかもしれない。

あるいは、革命は辺境から生まれることもある。中央からはほど遠い、既存の出版ビジネスと縁遠い場所から、破壊的イノベーションがもたらされることもありうる。その波が生み出すものは、これまでのビジネスモデルとはまったく違っているだろう。

どちらにせよ、変化がまったくないビジネスはほとんど考えられない。いつかは何かが変わるのだ。

今買っている人たち

電子書籍の恩恵をまっさきに受けるのは誰か。はっきりしている。大量に本を買い込んでいる人間だ。

本をたくさん買っている(=持っている)人ほど、電子書籍はありがたい。蔵書管理は、あらゆる読書家の悩みであろう。置く場所がないのだ。まるで自己増殖するみたいに本は増えていく。本棚が一杯だから買い控えよう、ということすら起こりうる。購買活動におけるボトルネックが生じているのだ。言い換えれば、消費者はその点で「困っている」のだ。

「困ったままでいいから、紙の本を買いなさい」

と言うのは、売り手として誠実だろうか。少なくとも、電子書籍として買える選択肢は用意すべきではないだろうか。仮にそうしても、紙の本で買う人は買う。売上げは分散するだけで、(単価が変わらなければ)大きく減少することはないだろう。それに、電子書籍には売り切れがなく、言葉通り全国津々浦々に流通するので、発売日に購入者がきちんと購入でき、それによってレビューも集まりやすくなる。結果、紙の本の売上げにつながることすら想定できる。

さらに言えば、ロングテールな売上げも期待でき(※)、セールなどの消費刺激策も打てるので、過去のコンテンツがそろって資産となる。もちろん、管理の手間は増えるだろうが、「情報を残し、次の世代に伝えていく」という文化的使命から考えれば、マーケットプレイスでしか手に入らない状況よりは、はるかに選択肢は広がっていると言えるだろう。
※『ゼロから始めるセルパブ戦略』にも書いた話だ。

寄りつきにくい人たち

とは言え、である。先ほども述べたように、電子書籍の恩恵をまっさきに受けるのは(定義はさておき)読書愛好家である。

でもって、現状電子書籍がリーチできているのも、読書会愛好家ぐらいしかない、という問題がある。このリーチが、読書愛好家以外にまで伸びないと、市場は絶対に大きくならないし、ロングテール的な売上げやセールの動向も規模が小さくなる。これでは先行きは暗い。

電子書籍は書いたときに買いたい本が即座に買え、大量の本を一つの端末に持ち歩ける、というメリットがある。そのメリットは、読書愛好家にとって好ましいものではあろう。

しかし、書店ごとにストアがばらつき、行われているセールやポイント還元の制度がそれぞれ違っているので、読書好きでない人が「気楽に買える」環境ではない。その点、紙の本はどこかの書店に行って、お金を出せばそれで事足りる。そういう人は、書店をくまなく探索して、私にとっての最高の一冊を探すようなことはせず、気になった本、話題になった本を買いたいだけだ。そこでは、気軽に買えることが何よりも重要となる。

その点、他の買い物サービスとアカウントが同一のAmazonと楽天は強いであろう。後は、本への動線設計だけの話だ。それ以外のストアは、やはり今のところは「本好きの人のためのサービス」であり、ノンカスタマーにまでリーチするには一ひねりした施策が必要そうである。

さいごに

「売っていないものは買えない」

これは実にその通りである。売っていないものは買えない。売上げも立たない。そこから市場が広がることもない。瞬間的な売上げも、ロングテール的な売上げも、販売してこそ生じるものである。

とは言え、売っていたからといって買われる、という話でもない。売ることは買われることの必要条件だが、十分条件ではない。

今のところ、電子書籍ががっちりリーチできているのは、本をたくさん買う人か、パソコン(あるいはネット)に親しい人かのどちらかであろう。その外にまで広がらない限り、大規模な市場拡大は望めないと想定できる。

そこで出てくるのが、やっぱり「辺境の人たち」だ。業界の中心に位置するのでもなく、ネットの最先端にいるわけでもない人たち。そういう人たちの実感に即した何かが生まれてくれば、(たとえ日本中の人が電子書籍を読むような事態が訪れることはないにせよ)今よりは市場の拡大が望めるだろう。

▼こんな一冊も:

Send to Kindle

【書評】なぜ保守化し、感情的な選択をしてしまうのか(シェルドン・ソロモン、ジェフ・グリーンバーグ、トム・ピンジンスキー)

「恐怖管理理論」についての本。原題は『The Worm at the Core: On the Role of Death in Life』。私たちの心に住まう「虫」(バグ)がどのような振る舞いをするのか、それが3人の共同研究者によって描かれている。

なぜ保守化し、感情的な選択をしてしまうのか :  人間の心の芯に巣くう虫
シェルドン・ソロモン ジェフ・グリーンバーグ トム・ピジンスキー
インターシフト
売り上げランキング: 19,405

目次は以下の通り。

◎第1部 恐怖管理とは何か
第1章: 人間は死の恐怖管理を求める
第2章: 文化的世界観によって守られる
第3章: 自尊心が壊れるとき
◎第2部 文化の根源
第4章: 儀式・芸術・神話・宗教の成り立ち
第5章: 死を乗り越える方法(1) 文字どおりの不死
第6章: 死を乗り越える方法(2) 象徴的不死
◎第3部 人間の心理・社会を読み解く
第7章: なぜ悪と暴力が栄えるのか
第8章: 動物性を遠ざける
第9章: 二つの心理的防衛
第10章: 精神障害と恐怖管理のかかわり
第11章: 死とともに生きる

リンゴに巣くう虫

まず「恐怖管理」とは何だろうか。語感的に「恐怖政治」に近いもの__人間を恐怖によって支配する行為__だと感じられるが、そうではない。人間の心理機構が、いかに死の恐怖を管理しているのかについての理論である。

アダムとイブは知恵の実を食べた。結果、知恵やその他もろもろを抱えて楽園を追い出され、「人間」となった。ホモ・サピエンスは、他のサピエンス種に比べてかなり複雑な思考を扱えるようになり、(比較はしにくいが)強度の高い自我を持つようになった。それが、これまでの文明を発展させてきた原動力になったことはたしかである。

だがしかし、そのリンゴには虫が巣くっていた。「人間」はそれらも一緒に体内に取り込んでしまったのだ。

生と死のはざまで

「私」という意識は、死を認識できる。膨れあがった脳を持つ私たちは、単に反応的に生きるだけでなく、「私」がいずれ死に、この世界は「私」抜きで進んでいくことを想定できてしまう。想像できてしまう。どのような生物でも、本能的に死に怯えることはあるだろう。ウサギが空腹のライオンに直面したら、臨戦態勢を整えるか、身動きがとれなくなるか、ともなく何かしらの反応を示し、そこに「恐怖」と呼びうるものが含まれていることは間違いない。

しかし人は、そんな実際的な危機的状況になるはるか以前に、「死を想う」ことができてしまう。理性を持った人間は、死を想いながら、生きていくことを定められているのだ。

別の言い方をしよう。自我の機能の一つは「自己同一性」の保持である。それは「自分は自分である」という感覚の担保だ。もっと言えば「自分は自分であり続ける」ことこそが自我(という機能)の存在理由である。「死」の認識は、それに刃向かう剣である。自己同一性において、死は決定的な否認となる。

思考実験をおひとつ

空想的に思考実験してみよう。あなたがもし単一個体の自己同一性を持たず、集合的意識の一部であるとしたら。あなたは「死」を恐れるだろうか。もちろん答えはノーだ。「あなた」という感覚を生みだし、支え続けている精神機構が自己同一性を持っていないのなら、死は何の反抗にも抵抗にもならない。単なる一つの事象と見なされる。

問題は、それは思考実験に過ぎず、私たちは「わたし」という自我を有していることだ。その自我は、自らの役割を否定するものと共に歩んでいかなければならない。まるで人が影と寄り添って歩くようにだ。

装置での対抗

このような不安定とも呼べる状況に、人(あるいは人類)は、メカニズムを持って対抗してきた。それこそが人類が進んできたすべての歩みでもある。単に環境に適応するだけではなく、環境を変えてしまう「道具」を作ること。それが人類が人類たるゆえんであり、死の恐怖もまた、その対象となった。

以上が「恐怖管理理論」の前提にある。そして、中心理念は以下の二点だ。

第一に、文化的世界観に対する信念を持続する
第二に、「自尊心」を高め、維持する

簡単に言おう。人は死を免れられない。しかし、死を超越したもっと大きなもの(Greatなもの)があり、自分がその一部だと認識できたなら、どうだろうか。死を恐れる「わたし」は、その恐怖を完璧にゼロにはできないにせよ、かなりの癒しがもたらされるのではないか。自分が不死になれなくても、不死性を持つものに接続できる、あるいはその一部と見なせる。その認識は、防壁となり、私たちが持つ死の恐怖を和らげてくれる。だから、日常生活において、30分に一回死の恐怖に怯えて何も身動きがとれなくなる、といった事態に見舞われなくても済む。

人間の心理機構をこのように捉えるのが「恐怖管理理論」である。まず私たちは「文化的世界感」によって、不死性が認められるものを獲得する。基本的にそれは共同幻想であって構わない。宗教でも共同体でも靖国神社であってもなんでもござれだ。そうした死を超越しるものを仮設__『サピエンス全史』の著者ならば虚構だと呼ぶだろう__した上で、自分がそこに属している感覚を持つこと。それが一般的に「自尊心」と呼ばれるものである。

この二つの要素__文化的世界観を自尊心__によって、人は防壁を築き、死への恐怖を緩和している、というのが「恐怖管理理論」である。ずいぶん興味深い話ではないか。

たとえば、現実の世界にもインターネットワールドにも、極端に間違いを認められない、謝れない人たちがいる。そういう人たちを揶揄して「謝ったら死ぬ病」なんて呼び方をするが、恐怖管理理論に照らし合わせてみれば、それは揶揄でも誇張でもないことがわかる。

もし謝ることが、その人の自尊心を傷つけるに値することであれば、その行為は防壁の一部を壊すこととイコールなのだ。ウォール・マリアの町に住む人に、「ねえ、ちょっと壁壊してみたら?」と提案したら、気が触れたと思われるだろう。その人にとって謝ることは、まさにそれと同じ行為なのだ。謝ったら死ぬ(=不死性が棄損される)のだ。

自尊心ではなく、文化的価値観についても似た話は多い。人は自分が所属する共同体もろもろが非難されると、異様なまでに怒り出すことが多い。もちろんそれは集団的反動を伴うので、ときに血で血を争う抗争にまで発展してしまう。なにせ攻撃された側も、自らの不死性に危機が迫っているわけだから、死にものぐるいで反撃してくるだろう。こうして戦火は広がっていく。人間が経済合理性を信奉するエージェントであれば、まったく考えられない行動だ。でも、実際の人間はそのような行動をとり、歴史に血の色を刻んできた。なぜか。文化的世界観を攻撃されることに、自我が耐えられないからだ。それは不死性への叛逆なのだ。

わたしの「神」(他の何かでもいい)は正しい。私はその神に所属している。だから、別の神が正しいと良い、私の神が間違っているという人間は滅ぼさなければならない。もし、彼らの神が正しいのならば、私の神が間違っているのだから。そんなことはあってはならないし、あるべきでもない。さあ、旗を掲げよ。

こういうわけだ。

理性的に考えれば、各々が自分のうちなる神を静かに信奉していればいい。真なる信仰とはそのようなものであろう。しかし、絶対的な不死性という点を考えると、いろいろな「神」(何度も言うが別の何かでもいい)の存在は都合が悪いのだ。文化的成熟が未熟で、人が自分を依託できる文化的世界観が限られている場合、正しい「神」を競うための諍いが起こるのは、(少なくとも恐怖管理理論からすれば)ごく自然な話である。

二つの不吉な連想

本書はその恐怖管理理論をベースにして、死への恐怖がどんなメカニズムによって緩和されているのか、そしてその恐怖がどのような影響を人間の行動に与えるのかが詳しく論じられている。

いささかショックであり、行動経済学的な話でもあるのだが、判事に、死を想うような情報を与えると、売春婦に言い渡す判決(保釈金の額)が変わってしまうという実験は、考えさせられるものである。もちろん、死を想った方が、より懲罰的であったのだ。死が意識されると、自分の文化的世界観を守ろうとして、ルールから逸脱した人を攻撃してしまう。これを逆に見れば、ルールから逸脱した人を激しく攻撃している人は、必死で自分の文化的世界観を守っているのだと考えられる。

ここから二つの不吉な連想が広がる。一つは、テクノロジーの進化によって、私たちがこれまで以上にフィルターバブルに閉じ込められるとき、この文化的世界観を巡る闘争は、一層激しさを増すだろうという予想だ。フィルターバブルは、文化的世界観を多様に(あるいは多層に)するようには作用しない。むしろ単一の文化的世界観を強化するように働く。となれば、その世界観が攻撃されれば、目を覆いたくなるような反撃が始まるだろう。アメリカで生じつつある出来事は、その前兆なのかもしれない。

もう一つは、人が恐怖の示唆によってその行動を変えるのならば、そしてその変化に傾向があるのならば、虐殺のための文法というのは、存在しうる、という話である。その意味で、心に住まうその虫こそが「虐殺器官」を成り立たせているのかもしれない。

もちろん恐怖管理理論は、人の意思決定を理解し、それをより良き方向に導くために使えるはずである。しかし、そこに潜む人間の心のトラップには、恐怖を感じずにはいられない。

▼こんな一冊も:

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福
ユヴァル・ノア・ハラリ
河出書房新社
売り上げランキング: 102
進撃の巨人 コミック 1-19巻セット (講談社コミックス)
諫山 創
講談社
売り上げランキング: 19,655
実践 行動経済学
実践 行動経済学

posted with amazlet at 17.03.14
リチャード・セイラー キャス・サンスティーン
日経BP社
売り上げランキング: 73,084
フィルターバブル──インターネットが隠していること (ハヤカワ文庫NF)
イーライ・パリサー
早川書房
売り上げランキング: 275,244
虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)
伊藤 計劃
早川書房
売り上げランキング: 2,104
Send to Kindle

アリとキリギリス

大きなものごを一瞬で成し遂げることはできない。
小さな行為をコツコツと積み重ねていくしかない。

積小為大。万里の道も一歩から。

それはまあ、その通りでしょう。この文章ですら、言葉を一つひとつ重ねることで、キーボードのボタンを一つひとつ叩くことで生まれています。「一気にすべて」なんて、基本的には絵空事に過ぎません。

でもじゃあ、コツコツやっていればそれで万事が為せるのか、というとやはりそれは難しいでしょう。特に、コツコツ、真面目にやっている場合はそうです。

コツコツとは、大局の夢想に溺れず、目の前の道を一歩一歩進んでいこう、という一つの指針です。現実的で、実際的な指針ではあります。ただしその指針は、道が接続する場所については何も触れていません。想定と違う場所につながる道もあるでしょうし、あるいは、途中で分岐点が発生することだってありそうです。これが問題なのです。

コツコツ進むことばかりに心注してしまい、道の選択ができなければ、辿り着きたくなかった場所に辿り着いてしまうかもしれません。あるいは、「かつて、違う選択をしていれば、こんな場所ではなかったはずなのに」という後悔を抱え込むこともありそうです。

「真面目に」という言葉には、「すでに存在している基準に沿う」という含みがあります。誰かのルールに準拠するのです。そしてそれは過去に生まれたルールでもあります。今の私の状況にはそぐわない可能性があるのです。しかし、「真面目に」のスタンスでは、そのことについて疑義を挟むことができません。ただ一つの道を、ただ目の前にある道を、黙々と進んでいくだけなのです。

もちろんそれで成し遂げられることもあるでしょう。丁寧に整えられた環境で、再現性・効率性が重視されるような舞台(たとえば資格試験)であれば、真面目にやることは圧倒的な力を持ちます。そこにコツコツやる指針が合わされば強力無比です。しかし、それが通じる舞台は限られています。「丁寧に整えられた環境」で戦えるのは子ども時代までで、一部の人はそれすらも叶わない状況に身を置かされます。基本的に人生はその状態がデフォルトなのです。

だからこそ、道を疑い、道を選ぶことが必要です。ほんとうにどうしようもなければ、道を作ることすら視野に入れなければいけません。そのために、遊び心は欠かせないのです。真面目にやることでは、それは為せません。創造性は常に(一番広い意味での)「遊び」にかかっているのです。

コツコツ、真面目に、ではなく、コツコツ、遊びで。

ときに笑い、ときにズルをし、ときにちゃぶ台をひっくりかえして、ときにソウゾウする。競争し、偶然に身を投じ、模倣し、逸脱する。

ということを、コツコツとやっていく。そういうことだって、可能なはずです。

アリかキリギリスではなく、
アリとキリギリス。

そういう指針と姿勢を持ちたいものです。

▼こんな一冊も:

真ん中の歩き方 R-style Selection
R-style (2014-08-28)
売り上げランキング: 148,651
遊びと人間 (講談社学術文庫)
ロジェ カイヨワ
講談社
売り上げランキング: 7,483
Send to Kindle

3/6 〜 3/11 今週のまとめ

今週のまとめエントリーです。

  1. Scrapboxの情報構造
  2. Scrapboxの利用方法
  3. Scrapboxの基本操作
  4. のろいビジネス
  5. Take a Write
  6. ハサミ

Scrapboxはまだしばらく使っていきそうな気がしていますが、あまりにもやることが多いので、もう少し経ってから本格的に使い込むことにします。

あと、ひさびさに創作文を書きました。なんとなく書きたくなったのです。

今日の一言

今日の一言はこちらでつぶやいております。

3月6日

だからノイズを完全に遮断してしまうと、創造性を発揮する場所がなくなります。

3月7日

何もかも異質なものは、「新しい」とは認識されない、ということでもあります。

3月8日

意識=時間、とも言えますね。

3月9日

葉っぱが違うから何もかもちがうだろう、というのも乱暴ですし、かといって根っこが一緒だから何もかも一緒だろう、というのも乱暴なわけです。両方を捉える視点。

3月10日

予想を立てることは大切で、むしろ脳にとっては避けられない行為ではありますが、かといってそれに固執すると困ったことになります。

3月11日

言葉にならなくても、沈黙する必要はないのです。

今週のその他エントリー

Honkure

WRM 2017/03/06 第334号
『知的生活の方法』(渡部昇一 )
『雪解けの日に: 吉野雪緒 詩歌集 』(吉野雪緒)
『続 知的生活の方法』(渡部昇一)
『Re:ゼロから始める異世界生活 1』(長月達平)

シミルボン

アウトサイダーとして自分の中心を生きる 「ポスト・ロールモデルな生き方」 | コラム | シミルボン

今週触った本

SF雑誌オルタナ増刊号 vol.2.5 [にごたな]edited by Denshochan
片倉青一, 雪車町地蔵, 六畳のえる, 解場繭砥, ヤミヲミルメ, にぽっくめいきんぐ
電子出版アシストセンター ( 2017-03-06 )

オリンポスの郵便ポスト (電撃文庫)
藻野 多摩夫
KADOKAWA ( 2017-03-10 )
ISBN: 9784048926638

終奏のリフレイン (電撃文庫)
物草 純平
KADOKAWA ( 2017-03-10 )
ISBN: 9784048927529

賭博師は祈らない (電撃文庫)
周藤 蓮
KADOKAWA ( 2017-03-10 )
ISBN: 9784048926652

明日のメルマガ告知

毎週月曜日に配信しているメルマガ。来週号の目次はこんな感じです。

○BizArts 3rd 「第五章 第九節 ロールさまざま2」
○でんでんコンバーターで電子書籍を作る vol.12
○「本」を巡る冒険 「書店のタイプと本との距離」
○今週の一冊 『いかにして問題をとくか』(G・ポリア)
○物書きエッセイ 「さらなる深部へ」

頂いた感想など:

Weekly R-style Magazineは、毎週月曜日の朝7時に配信されているメルマガです。

Weeky R-style Magazine
Weekly R-style Magazine ~プロトタイプ・シンキング~(まぐまぐ)

ブログに書けないテーマ、長期的な連載、日々考えていることなどをお送りしています。

Send to Kindle

ハサミ

 男はハサミを弄んでいた。指かけはぬめりとした漆黒、刃は輝くような銀。それだけでどこか惹きつけられるそのハサミを、男は図書館で見つけた。奥まり、ジメジメとした空気が漂う一角に、堆く積まれた書籍。新雪のような埃。誰にも顧みられなくなった書籍たちの中にそのハサミはあった。男は何かを期待していたわけではなかった。むしろ何も期待していなかったからこそ、その一角を訪ねたのだ。絶望の散策。啓示はそこからやってきた。
 黒いハサミは、本の中に埋め込まれていた。その本のタイトルはもはや思い出せない。そもそも何でもよかったのだ。いつの時代の、どんな著者が、何の目的で書いた本なのかは関係がない。そこにハサミが埋め込まれていたことが大切なのだ。それこそが、男にとっての啓示であり、希望でもあった。
 気がつけば、そのハサミは男の手の中にあった。自分で抜き取った覚えすらない。そもそもそのハサミは、元から男の所有物であったのではないか? そんな不自然な感覚すら、ごく自然に感じられた。男は図書館を後にした。とめる人は誰もいなかった。埃は積もったままだった。
 そのハサミは、なんでも切れた。あらゆるイトを裁ち切り、あらゆるカミを切り裂き、あらゆるカラを突き破った。そうしようとさえすれば、原子と電子のリンクすら断ち切れそうだった。
 男は目に入るものを何でも切断してまわった。AとBを切り分け、光と影を切断し、贈与の連鎖を断ち切った。快感だった。愉悦だった。男は、創造の喜びに打ち震えていた。一つのものが二つになる。これが創造でなければなんだろうか
 男は切断を続け、快楽に浸り続けた。彼の欲求は止まることを知らなかった。切るためよりも、切れるかどうかを試すためにハサミを走らせた。切りたいかどうかすら関係がなかった。そこにあったのは、切断欲求ではなく、切断そのものの顕現欲求であった。ハサミ自身がそれを欲していたのだ。
 彼はあらゆるものを切り尽くした。社会はズタズタに切り刻まれ、科学と宗教信仰は紙吹雪となって散っていった。ハサミはまさに万能だった。あらゆるものの頂点に立つ存在だった。なぜ、そんなものが図書館に奥底に潜んでいたのだろう。なぜ、自分はそのハサミを手に取ることが許されたのだろう。もしかしたら、俺は選ばれた存在なのかもしれない。男は、確信を育み、その分だけ切断を増やしていった。
 もはや何も残されてはいなかった。切るものはすべて切り尽くされた。たった二つのものを除いて。そのうちの一つについて男は可能性を思い巡らせた。このハサミは、俺すらも切れるのだろうか。然り。もちろん然りだ。だったら試さなければいけない。もはや自分の意志とは無関係に、そんな欲望が立ち上がってきていた。あとは時間の問題だろう。
 では、ハサミはどうだろう。このハサミは、自らをも刻むことができるのだろうか。絶対的なハサミは、自らを持ってその絶対性を証明できるだろうか。しかし、ハサミは黙りこくっていた。ありとあらゆるものを刻むハサミは、自らを刻むことを望んではいなかった。そのことが、男にはよくわかった。長い間、いろいろなものを一緒に刻んできた男には、ハサミが発する声が聞こえたのだ。しかし、今このときは、ハサミはじっと沈黙していた。そしてただ、願っていた。俺自身が俺を切り刻むことを。そうして俺が消え去り、ハサミだけが残る。それで終幕だ。カーテンコールはない。望むものも、演じるものもいないのだ。
 男はもうハサミを捨てたかった。でも、そのハサミは彼自身の一部になっていた。彼の手が、ハサミだったのだ。彼は自分の手で、あらゆるものを刻んでいたのだ。あの本を求めて、かつて図書館だった場所にも行った。しかし、その本すらも彼は切り刻んでいた。そもそも、その本が存在していたとしても、彼のハサミは受け入れられなかっただろう。男のハサミと本のハサミはもはや形が違っていたからだ。どこにも行き場のないハサミと、どこにも行き場のない男。どちらによせ、男には何もなかった。今さらハサミを捨てたところでどうなる。しかし、時間が経てば俺は俺自身をこのハサミで刻んでしまうだろう。それはどのような苦痛だろうか。それとも、これまでに体験したことがない愉悦がやってくるのだろうか。試したい気持ちも、試したくない気持ちもあった。ハサミはそれすら切断して分離させた。
 
 そこには本があった。男はもうどこにもいなかった。その消息は誰も知ることがなかった。ただ、本だけが残されていた。その本にはハサミが収められていた。かつて男が振るったハサミであり、彼自身の一部であったハサミだ。その本は、そのハサミのためだけに作られていた。ちょうど収まるサイズに作られていた。
 本は図書館の一角に収められた。ハサミが消えた世界では、いつだって図書館は作られるのだ。そしてハサミであろうがノリであろうが構わずに収集してく。それが図書館が図書館たるゆえんでもある。
 そして、日が過ぎ、雨が降り、雪が降り、埃が積もった。
 本とハサミはまだそこにあった。

Send to Kindle

Take a Write

おどろくほど気軽に、この文章は書き始められている。アプリをテキストエディタに切り替え、command + nで新規ファイルを作成したら、後は冒頭の一行を書き始めるだけだ。最初は「散歩、登山」というタイトルを書き込んだが、気が変わって今のタイトルになった。改行を一つはさみ、「おどろくほど気軽に、」と打ち込んで、後は思いつくままに文章を続けている。今こうして書かれている文章もそうやって生まれている。

非常に気軽な文章だ。なんの準備もない。意気込みもない。着の身着のままの執筆といったところだ。たいていのR-styleの記事はそのように書かれている。まるで散歩のような執筆。

しかし、すべての文章をそのように書いているわけではない。しっかりと準備を整えるものもある。たとえば『かーそる 2016年11月号』に寄せた記事は、どちらも準備を整えた。特に「知的よ、サラバ」は、入念と言ってよいだろう。コピー用紙、大量の付箋、8枚の厚紙ボード、WorkFlowy、Ulysses、そしてEvernote。すべてをフル活動して、原稿を作り上げた。

アイデア出しを行い、関連して欠ける要素を膨らませ、資料を漁り読書メモをとり、順番を並び替えて一番良い流れを探す。何なら少しラフスケッチも行う。そこまでした上で、ようやく執筆に取りかかった。いや、もうその作業全体が執筆だったと言っていいだろう。そして、たいていのボリュームある文章は同じように書いている。まるで山岳登頂のような執筆。

ボリュームがあり、しかもそこに筋が通っているものを書き表そうとすれば、それなりの準備が必要となる。なぜなら、私たちの頭の中身は筋が通っていないからだ。リニアなルートというよりも、連想ネットワーク的にそれらは存在している。しかもそれは動的に再編される。され続けている。挙げ句の果てに、その全体像を「意識」としての私は捉まえきれていない。そんなものを簡単に表せると思ったら大間違いである。

人によっては、それは山に登る作業かもしれない。森の奥に分け入る作業かもしれない。あるいは、深海に潜る作業なこともありうる。どちらにせよ、それは散歩ではない。着の身着のままではなく、何かしらの準備が必要なのだ。そしてその準備を含めて、「執筆作業」なのだとも言える。

これは、「書く前にあらかじめ内容を固めておこう」という話ではない。そういうことではなく、執筆という行為の工程は、そんなに単純なものではない、ということなのだ。トラブルの起きない山登りなどないだろう。つまりは、そういうことだ。だからこそ、あらかじめの準備は必要となる。でも、どこまで準備しても、最終的には現場の判断がものをいうこともまたたしかであろう。

というような簡単な話であれば、散歩の執筆で十分間に合う。これもまた文章を書く楽しさではあるのだ。

▼こんな一冊も:

かーそる 2016年11月号
かーそる 2016年11月号

posted with amazlet at 17.03.10
BCCKS Distribution (2016-11-14)
売り上げランキング: 63,194
Send to Kindle

のろいビジネス

特異なスキル、あるいは限定的な境遇に恵まれた人だけが成し遂げられることを、「誰でもできる」成功法として騒ぎ立てること。それは人の心に影を落とす。「誰でもできる」はずのことができない自分に、自尊心を持つ人などいるだろうか。そうして傷ついた自尊心は、さらなる出費を許容する。呪いビジネスだ。

呪いビジネスの収益源は、希望と絶望の相転移から生じるエネルギーだ。彼らはそのためにかりそめの力を与える。代償に口をつぐんで、限定的にしか機能しない力を与える。それだけで、人の心は希望に膨らむ。夢を見る。そして、現実を直視し、絶望へと堕ちる。

堕ちた人間は発言力を無くし、認識から疎外されるのだから、そこにできあがるのは成功者バイアスで溢れかえる世界だ。非常にビジネスしやすいだろう。そのようにして、呪いは循環していく。やがて、致命的なまでに誰かを蝕むまでは。

救いがあるようにみえるとき、希望がそこに灯るように思えるとき、それらが巨大であり、かつ簡単に手にできそうなものであればあるほど、そこに潜むのは欺瞞でしかない。そのような条理を覆すものをなんと呼ぶか。魔法である。そして、魔法には代償が必要なのだ。

銀の弾丸を求める気持ちは、経済的損失を呼び込むだけではない。この世界に銀の弾丸があり、しかも自分はそれを持っていないと感じる認識は、心に歪みを生じさせてしまう。ほんとうは、そんなものは存在していないのだ。誰も持っていない。ただ、たまたま突き刺さった銀の槍の破片を、誰かが「銀の弾丸だ」と騒ぎ立てているに過ぎない。それが呪いを呼ぶとも知らずに。

あるいは、知っていてやっているのかもしれない。

誰であっても、自分なりの努力を積み重ねることはできる。その範囲で手にできる成果もまたあるだろう。それは一つの真実と言える。

一方、人生に起こる出来事は、影響を与える変数が多すぎる。一ヶ月後の天気でさえ正確な予測は難しい。地震ならなおさらそうだ。だったら、地殻変動と人間の感情と、思惑と、経済と、その他あらゆることが関係する人生を予測し、なおかつ制御することは可能だろうか。魔法ならば、可能だろう。つまりは、そういうことである。

一方では、自分ができることがあり、それをやっていくしかない人生というものがある。もう一方では、どうしてもままならない人生というものがある。その両方は、もしかしたら難しいかもしれないが、なんとか折り合いがつけられるものである。あるいは、ままならないからこそ、自分ができることを自分なりに精一杯やるしかない、と前向きに止揚することもできる。

たぶんこれも、真ん中の歩き方ではあるのだろう。

▼こんな一冊も:

真ん中の歩き方 R-style Selection
R-style (2014-08-28)
売り上げランキング: 144,194
Send to Kindle

Scrapboxの基本操作

引き続きScrapboxについて。

Scrapboxの情報構造
Scrapboxの利用方法

今回は、ごくごく基本的な操作について。

新規作成

まず、画面上の「+」マークが新規ページ作成ボタン。ちなみに、細かいメニューは右上にあるので暇なときに触ってみるのがいいだろう。ヘルプにもそこからアクセスできる。

で、ページを作成すると、こんな感じとなる。

中央がエディタで、右のアイコンが作成者、その下のファイルマークが操作メニューである。ページの複製や削除が行える。「Pin at home」を指定すると、ホーム画面の冒頭に固定表示される。冒頭は他のページよりも大きいサイズで表示されるので目立つ。他の訪問者に最初に見てもらいたいページを指定する使い方などがあるだろう。

では、中身。

一行目が自動的にタイトルとなる。URLもそこで設定される。二行目以降が本文だ。

操作について覚えておくべきことは実はそれほど多くなく、[]がいろいろ多機能である、という点だけを踏まえれば何とかなるだろう。他のページへのリンクは[ページタイトル]で作成される。wikiをイメージしてもらえばいい。空のリンク__つまり、まだ存在していないページへのリンク__も作れるのがありがたい。そういうシチュエーションは山のようにある。

あとは、ハッシュタグ。#ハッシュタグ の記法でOKだ。

おおよそ、この二つを知っておけば、Scrabpoxの基本的なパワーは活かせるのではないか。その他太字処理やらなんやらはヘルプの「記法」をご覧頂ければ、すぐにわかる。あとは実際に書いていれば慣れてくるだろう。

使い方の指針

でもって、指針だが、やはり他のページへのリンクとハッシュタグをばしばし付けていく使い方がいいだろう。ハッシュタグはページのどこに書いてもいいので(もちろんタイトル以外だ)、思いついたその瞬間に書いておける。Evernoteの場合は、本文から一度タグ入力欄に移動しなければいけないのが、若干の手間なのだが、Scrapboxでは直接本文に書けるので、実にシームレスだ。これがなかなか良い。

リンクやハッシュタグを増やせば増やすほど、ページ間のつながりが動的に生まれてくる。そうすれば、後から見たときの利便性が上がる。

この点を考えても、本ツールはやはりメモ__使い捨ての情報を留めて置くツール__ではなく、ノート__後から何度も利用することが前提のツール__であると言って良いだろう。もちろんメモを書いていけないわけではないが、後からそれを整形し、利用可能な状態に持っていくことが望ましい(あるいは、メモというページを作ってしまうか、だ)。

あと問題になってくるのは情報の粒度である。細切れ情報は使いにくいとしても、せっかくリンクがあるのだから、あまりに大量の情報を詰め込むのは合理的ではない。やはりウィキペディアのような「一つの概念」に一ページを当てるのがよいだろう、という予測は付くが、雑多な情報をEvernoteに保存してきた私には、その粒度の設定が案外難しい。これは今後の使用における課題でもある。

さいごに

ともかく、後はまあ、使ってみるしかない。

今のところ、一枚のページを一枚の情報カードに見立てるのが良さそうな気はしているが、その正否もしばらくためしてみれば判明してくるだろう。

Send to Kindle

WordPress Themes