発見の手帳と知的なもののコア

ここ最近「発見」についていろいろ書いてきた(※)のだが、そういえばとふと思い出した。
発見の力学

発見と言えば、「発見の手帳」である。『知的生産の技術』の序章を飾るこの知的生産ツールを忘れてはいけない。

知的生産の技術 (岩波新書)
梅棹 忠夫
岩波書店
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発見の手帳

「発見の手帳」とは、その名の通り「発見」を記すための手帳だ。

スケジュールや備忘録用のメモではない。自分の心の動きを書き留めるための装置である。

わたしたちが「手帳」にかいたのは、「発見」である。まいにちの経験のなかで、なにかの意味で、これはおもしろいとおもった現象を記述するのである。あるいは、自分の着想を記録するのである。(中略)たまってみると、それは、わたしの日常生活における知的活動の記録というようなものになった。

面白いと思った現象、あるいは着想を記録する。それが発見の手帳だ。引用中に「知的活動の記録」とあるから、なにやら高尚そうなものがそこに記されている気がするかもしれないが、実体はこんなものである。

そのかわりに、たとえば、犬にかまれたときに、傷あとの歯型が、どういう形にならんでいついたとか、「すもうとり人形」の構造だとか、その日のたべものの種類と味の記述だとか、ニンニクの学名についての考察だとか、子どもの湿布の仕方だとか、そのほかまったく、いわばがらくた的な経験ないし知識が、いっぱいかいてある。

何の役に立つかはまったくわからない。本人も、時間がたってみるとさっぱりだと書いている。しかし、重要なのはそこではない。

しかし、それはそれで、そのときには、あらたなる事実の「発見」として、なにほどかの感動をともなっていたことにはちがいないのである。

「発見」には、感動が伴う。たとえそれが微量であるとしても、心の動きが発生するのだ。

ここでは「発見の手帳」の知的生産的効用については検討しない。それよりもむしろ、もっと前段階の話をしたい。どれだけの情報や体験が目の前にあっても、そこにいかなる心の動きも発生しないのならば、発見の手帳には何も書くことがない。手帳を持っているからと言って、心の動きが発生するようなこともない。

発見こそが、エンジンなのだ。

知的なもののコア

「発見」というものは、たいていまったく突然にやってくるものである。まいにちみなれていた平凡な事物が、そのときには、ふいにあたらしい意味をもって、わたしたちのまえにあらわれてくるのである。

梅棹さんがこう書くと、いかにもすごいことを見出すかのように聞こえてしまう。が、しかしそうではないのだ。

はやくなるのがはやい:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

子「この電車、はやくなるのがはやいね」
母「はやくなるのがはやい?」
子「うん、はやくなるのがはやい」

この記事で紹介されている男の子も立派に発見している。たぶんそれを見つけた瞬間、彼の世界は少しばかり(あるいは大幅に)新しい姿を持ったことだろう。それこそが発見である。

そして、その「あたらしい意味」をもたらす作用こそが、「知的」であり、知的生産のコアとなる要素でもある。

その作用は、「まいにちみなれていた」風景に変化をもたらす。それこそが人間と哲学的ゾンビの違いでもある。

さいごに

「発見の手帳」ではないが、私のEvernoteのアイデアノートは、ほとんど奇妙とも言える記述で満ちあふれている。

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  • キュレーター・司書のAirbnb
  • ウィトゲンシュタインとWorkFlowy
  • アトム的事実
  • 「その面白さ、説明してください」
  • 代替案の確保は冗長性であり、コスト負担となる。
  • 書きたくても書けない。
  • ロジスティックの情報版
  • Webクリップと、魚
  • 書くことは検閲である。それも二段階の検閲である。
  • [T]Evernoteの新たなナレッジマネジメント
  • 本当は残酷な成功法則
  • 情報エネルギー過剰時代
  • 文章のチェック方法
  • サブカード・ループ
  • 「やりたいことをやらないと」幸せでない
  • 「そうだ、人間は直感的に生きればいいんだ」と直感的に理解する。非常に心地よい。

他の人からみたらさっぱりだろうし、私が説明したとしても「?」だろう。しかし、少なくとも私はそれを思いついた瞬間、ごくごく微量であっても「!」と思ったのだ。単に情報を摂取したのではなく、「私が見つけた」という感覚がそこにはあった。

どれだけちっぽけであろうとも、やはりそれは感動と呼んで差し支えないだろう。心が動いたのだ。そして、世界が新しい姿をまとったのだ。

発見する生活とは、次々と世界に新しい姿を与えていく生活のことだ。それは世界の可能性を信じることであり、同時に自分の傲慢さを却下することでもある。発見されるものが残っているなら、私はこの世界についてまだ十分には知っていない。新しい発見をしたら、世界はまた違った姿を見せてくれるかもしれない。

発見は感動でもあり、開拓でもある。あるいは世界の更新作業なのかもしれない。

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「私はなぜ、この仕事に飽きていないのか?」

「ライフハック@京都」に参加してきました。

テーマは「好きなことをして生きていくために必要なこと」だったかと思います。とはいえ、このテーマから連想できるような内容ではありませんでした。さすがです。

さて、次のようなスライドがありました。

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「好きなことをして生きるには好きなことをますます好きになり続ける必要がある」

いささか禅問答めいていますが、ふむと思い至ることもあります。視点を変えてみれば、こういう疑問になるでしょう。

「私はなぜ、この仕事に飽きていないのか?」

幸運な若人

ちょっと考えてみましょう。

ある若い人がいるとします。仮にAさんとしておきますね。そのAさんは、Bという対象が好きでした。なんでも構いません。野球でも、文芸でも、YouTubeでも適当なものを当てはめてみてください。たまたまの幸運に恵まれて、そのBが仕事になったとしましょう。言い換えれば、「好きなことをして生きる」ことができるようになったわけです。

しかしながら、人間は変わるものです。その性質が希望と絶望の源でもあります。ということは、AさんがBを好きでなくなることも十分あり得るわけです。その場合、Bをし続けるのは「好きなことをして生きていく」ことにはなりません。悲劇です。

自分のことを振り返ってみると、10年以上コンビニ業界にいましたが、基本的にその仕事は好きでした。365日24時間営業的苦労はあったものの、仕事的な面白さは常にあったように思います。

もちろん幸運だったのでしょう。アルバイトから社員となりその後店長となって、私の仕事環境は時間と共に変化していきました。仕事の性質が変わるとなかなか飽きは来にくいものです。一方私の方も、アルバイト時代から「月刊コンビニ」という業界紙を自腹で買って読んでいました。なんだかんだいって、自分から「情報」を求めていたのです。

でもそれは大層な動機付けによるものではなく、ゲーマーが「ファミ通」を毎週買っているのと同じようなものです。「うまくやる」ための情報がそこにあるなら、知りたいよね、ぐらいのものでしかありません。が、結果的にそれが私のランクアップ(とここでは呼んでおきましょう)に役立った面もあるでしょう。

知識が増えると、選択肢が増え、新しい行動が新しい知識を起こす。その積み重ねで大きく環境が変われば、また新しいステージでのサイクルがぐるぐると回り始め、それはずっとずっと長く続いていく。その中にいる間は、飽きることはない。そんなことがあるのかもしれません。

文章を書くことと発見

結城浩先生のメールマガジン『結城浩の「コミュニケーションの心がけ」』の2016年6月7日 Vol.219にこんな文章がありました。

書籍を作っていく途中では、
そのような《発見》がほぼ確実にあります。
そして、そのような《発見》があると、
作業はがぜん楽しくなりますね。

結城はよく「本を書くことは楽しい」といいます。
作業として、お仕事としては「楽」ではありませんが、
自分が書いている文章を通して自分が学び、
「なるほどなあ!」という《発見》に出会うとき、
それは「楽しい」としか表現のしようがないものになります。

とても強く共感します。

私はこれまでいくつかの(あるいはたくさんの)本を書いていますが、そのそれぞれがすべて「新しい本」です。一冊一冊にチャレンジがあり、それはつまり「こう書いておけば良いだろう」というようなジャッジメントを用いないということでもあります。

「こう書いておけば良いだろう」は楽ではありますが、楽しくはありません。そして発見もありません。おそらくそれが、飽きるためのたった一つの冴えたやり方でもあります。

本を書いていると、あるいは文章を書いていると、文章表現の奥深さに気づかされます。あるものを提示するための「うまいやりかた」は一つではなく、さまざまなバリエーションがあります。人の思考を沈黙させる文章の書き方もあれば、刺激するような文章の書き方もあります。いろいろ試しながら文章を書いていると、そういう「発見」があるわけです。

その「発見」を通過した目で、これまで読んできた本を読み返してみると、そうした本たちがいかにうまく書かれているのかを「発見」したりもします。ときどきそれで打ちのめされそうにもなるわけですが、自分なりに意欲を燃やすこともあります。ステージが変わった、ということなのでしょう。

そうです。やっぱり「発見」が鍵なのです。

さいごに

結局、今のところ仕事に飽きそうな要素はまったくありません。そしてまた、私自身も飽きが来ないように仕事をしているのでしょう。というか、楽しく仕事をしようとすれば、結果的にそうなる、ということです。

さらに言うと、これはサイクルでありグルグルと回って、より大きく、より広く、より深く、と拡大していきます。それは他者からみれば明らかに「過剰」な状態でしょう。「なにもそこまで……」と思われるはずです。

でも、それが「適切」なレベルで維持されるのなら、いずれはサイクルは止まってしまうわけです。こればかりはどうしようもありません。

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ノープロットと「既知の階段」

倉下さんの小説の書き方は私のブログとおんなじだった – のきばメモ

倉下さんが言うには、「小説やフィクションは、一行書いたら、必然的に導き出される次の一行があって、そうしているうちに結末にたどり着く」のだそうだ。

一言一句そのままではないのは、酒の席の記憶による引用だから当然で、補足があったら、R-Styleなどでしていただけるのではないだろうか。

ボールが飛んできたので、返してみよう。

「小説やフィクション」だけでなく、このブログすら「一行から一行」の形で書いている。この文章には事前の構成もないし、オチも見えていない。どんなことを書くのかは、書いた一行の連想によって規定される。

今、頭の中に、なんとなく立花隆さんの本を引用しようかという感触がある。でも、それも文章がしかるべきときにきてからだ。その間は、記憶に留めておくか、テキストのどこかにちょこっと書いておく。そういう予防的措置で時系列を歪曲させることはあっても、基本的には思いついたことを流れに沿って書いていく。それだけだ。

物語の場合は、それでまったく問題はない。誰かが部屋に入る。当然椅子に座る。コーヒーが飲みたくなるかもしれない。コーヒーを淹れに行くと窓の外にふと目が止まる。見たこともない黒い鳥が、大きな翼をひろげてこちらを威嚇し、やがて飛び去っていった。その鳥と同じ色をしたブラックコーヒーをカップに注ぎ、椅子に戻る。パソコンにはメールが届いてた。それを開くと……

こんな感じでストーリーラインは動いてく。よほど突飛な小説でない限り、ストーリーは前の行動と次の行動は接続している。自分はそれをただ眺めながら描写していけばいいだけだ。事前のプロットは、そこでは特には必要とされない。

もちろん、話がどう終わるかはまったくわからないのだから不安定ではある。でも、その不安定は「ハラハラ・ドキドキ」の源泉でもある。ようはスリリングなのだ。言い換えれば、書きながら自分自身が次の展開を楽しんでいる。それも物語を書くことの楽しみなのだ。

つまり、物語を書くことには発見がたくさんある。


私はまったくプロットを立てないのだが、プロットを立てる派の人の話を聞いていて想像したことがある。それは、「結局は同じなんだ」ということだ。私は頭の中に浮かぶ物語を、そのまま描写していく。情景描写もあるし、会話文もある。その記述は、物語のテンポと同じだ。

プロットを立てる人は、この作業を早回しでやっている気がする。必要な部分だけを抜き出し、まるでダイジェスト版のように進める。でも、基本的に物語の語り方は同じなのだ。違いは、最初に記述するものの濃淡だけ。ノープロット派は、そのすべてを記述し、プロット派は輪郭だけを書き留める。でも、どちらも基本的には脳内で物語を追いかけ、記述している。

プロット派の人の話を聞くまでは、私はプロットを立てるというのは、何かしら雛形ものをベースに「それらしいもの」を組み上げてから、そこに肉付けしていく作業のように感じていたのだが、たぶんそうではないのだろう。ミカンを食べるとき、一つひとつの小さな皮を取り切ってから食べるか、食べるところから皮を取るのかの違いのようなものだ。


しかしながら、私は実用書を書くときは、「目次案」なるものを事前に作る。基本的にはそれが外部から要請されるものだからであるが、要請されなくてもやっぱり自分で作る気もする。

小説ならば、情報の開示はラフな順番が許容される。ある登場人物がいて、その紹介がずっとずっと後半でもまったく問題ない。しかし、ある種の知識やノウハウを伝える場合は、そういうわけにはいかない。読者にとっての未知を伝えるためには、きちんと「既知の階段」を整える必要がある。

そのためには、「まず最初にこれを説明して、次にこれを説明して、最後にこれを説明する」という流れが必要だ。それなしだと、書いている方は楽だが、読んでる方はさっぱりということになってしまう。知識を伝達することが、その本の役目であるならば、それは機能不全と言えるだろう。

しかし、これも考え方の一つである。思いつくままにすべてを書ききった後、それらの順番を編集し、「既知の階段」を整えることは可能かもしれない。だいたい小説だって、このブログの文章だって、書き上げたあとにちょこちょこ順番を入れ替えて「それらしく」整えているのだ。だったら、ノウハウ本だって同じことは可能だろう。

ただし、その場合はMECEがちゃんと満たせているのかの検討が必要だろうし、それと共に「かなりの大手術」を覚悟することも必要だろう。もしかしたら、事前の「目次案」はこの大手術を緩和する意味合いがあるのかもしれない。全身にメスを入れてから手術箇所を探すのはあまり得策とはいえない。だから、面倒な検査をやまほどやるわけだ。でも、それを無駄と断じることはできないだろう。


なんとなく、「文章を書くこと」と「発見」について書くことになるのかと予想していたが、あまり大きなトピックにはならなかった。立花隆さんの本の引用も出てこなかった。こういうこともよくある。

それでも成立しうるのが、ブログの良いところだ。なにせ、タイトルは最後につければいいわけだから。

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気づきと発見

「気づき」という言葉がある。「気づく」や「気づかされる」からの名詞で、そうして気づくという行為、あるいはそうした行為で得たものを指すのだろう。

きづき【気付き】の意味 – goo国語辞書

それまで見落としていたことや問題点に気づくこと。「小さな―が大発見につながる」「日々の―が成長をもたらす」「生徒の―を促す」

気づきは、多くの場合「気づきを得られた」という使い方がなされる。もちろん、それ以外の用途もあるだろうが、日常的に(特にビジネス系の分野で)耳にする場合は「気づきを得られた」という表現が大半を占めている。

「○○講師さんのお話で、深い気づきを得られました」

概ねこんな感じだろうか。これが一体どういう意味なのかはわからない。ただ、気づきには浅深があることと、それが「得られる」ものであることはわかる。

不思議と上記の表現は、こんな風には口にされない。

「○○講師さんのお話で、大きな発見をしました」

たぶん、この二つの文は違う意味なのだろう。そして、それが一般的に使われる「発見」と「気づき」の違いにもつながってくるはずである。


まず確認しておくと、「発見」と「気づき」は重なっている。それが指す対象がまったく同じことがある。しかし、重なっていない部分もある。そして、こういう場面では発見と言わず、気づきと言った方がニュアンスがフィットするな、と感じるとき、言い換えれば気づきを発見でパラフレーズできない場合、そこには「気づき」の独自の意味が宿っていると考えてよいだろう。

上に引いた辞書では「それまで見落としていたことや問題点に気づくこと」とある。おそらくここがポイントであろう。

発見も気づきも、「これまで目に入っていなかったことが、目に入るようになる」点では同じだ。ただし、気づきの場合「それまで見落としていたこと」が対象なのだ。これはどういうことだろうか。

「それまで見落としていた」ということは、言い換えれば「そこにあったもの」ということになる。そこにあったのだけれども、自分の目がふさがれていて見えていなかった。その目隠しを取ったとき登場するもの。それが気づきである。

はっきり言えば、それはその人の内側にあったものだ。だから「浅い」と「深い」がある。心の奥底__それがどこなのかは知らないが__にあるものを「再発見」したとき、「深い気づき」が得られたという表現になるのだろう。

だから、気づきは、その気づいた当人の価値観の追認である。基本的には「やっぱりそうなんだ」というものになる。

もし地球が真っ平らで、その他の星々が地球の周りを回っているという世界観で生きている人が、いや地球は球で、しかも回っているのは地球の方だ、なんて事実に思い至ったら、それを「深い気づき」とは呼ばないだろう。大発見である。この対比でも、気づきが内側にベクトルを持っていることがわかる。それは「私」に関する話なのだ。


もう一度書くが、「発見」と「気づき」は重なっている。

気づきと呼んでいるものを発見と言い換えることもできるし、その逆もできる。が、どうしても発見に言い換えられない「気づき」というものもある。それは内側にベクトルを持っているものであり、自分の価値観の追認でもある。

で、それは発見ではない、ということだ。

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R-style » 発見の価値

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発見の価値

たまたまTwitterで流れてきた、以下の記事を読んだ。

『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』を読んで、僕が考えたこと | シゴタノ!

一年前の記事だ。一年前にも読んだ。それも何度も読んだ。記事にはこうある。

例えば、倉下さんは『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』の中で、以下のような「発見」について書いています。

どうやら私は「発見」について何か書いていたようだ。孫引いてみよう。

こうした記事を書いてみて、私は一つの発見をしました。

それまで、ノートや手帳の使い方を工夫することは私にとって「当たり前」のことでした。何か特別なことをしているつもりはなかったのです。

しかし、それをブログに書いてみると、面白がってもらえる。あるいは楽しんでもらえたり、誰かの役に立ったりする。そういうことが起こりうるのだ。そんな発見をしたわけです。

そうだ、たしかにそんな「発見」をした。ここで何かが頭に引っかかる。雛鳥がタマゴの殻を内側からやぶるような、そんな心象の前触れのようなものが起こる。触手がまるで接続相手を求めるように縦横無尽にのたうち回っているかのような感触が生まれる。

何かが、あったぞ。

そうだ、これだ。

R-style » find the lightのススメ

あるとき、気がついた。そこには「発見」があるのだ、と。

なんてことはない。「発見」が鍵だったのだ。

私がブログを続けてこられたのは、その過程に多くの発見があったからだろう。コンビニでもそうだし、物書きでもそうだ。仕事をしているうちに、そこに何かしらの発見がある。それが面白さを豊穣させ、新たな試行を呼び寄せる。その試行が、また新たなる発見へとつながる。擬似的永久機関の誕生だ。

より多くを知れば、またより多くを知りたくなる。I can’t stop fall in ○○○○.

もしそれが、「こうすれば、こうなって、こううまくいきますよ」型だったらどうだろうか。そこでは失敗の可能性が丁寧に潰されている代わりに、発見のチャンスもまた潰されている(※)。たんになぞっているだけなのだ。
※むろん可能性はゼロではない。が、小さい。

もしそれが、パソコンのブラウザの操作方法であるならば、まったく問題ない。むしろ失敗の可能性なんてない方がよいだろう。ツールは使い方を覚えてからナンボである。ツールを好きになる必要は(一般的には)ない。また、それを使い続ける必要も(一般的には)ない。

ではそれを、仕事にまで敷衍できるだろうか。あるいは、人生にまで。


あらためて言うまでもないが、この記事も発見によって書かれている。発見の価値を発見したのだ。こぢんまりとした発見ではあるが、発見には違いない。こうしてまた私の擬似的永久機関は回り続けていく。

ちなみに発見可能性と失敗可能性はおそらく相関の関係にある。100%だとは言えないが、かなり近いものを持っているだろう。まだこの辺はうまくまとまっていないが、それについてもなにか発見したいものである。

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5/30 〜 6/4 今週のまとめ

今週のまとめエントリーです。

  1. 前にしか進まない歯車
  2. Medium Publicationで「Evernote Life」をスタート
  3. 「システム2は、サボりたがってるんだ」
  4. ソリッドステート・カレッジ
  5. 【書評】クール 脳はなぜ「かっこいい」を買ってしまうのか (スティーヴン・クウォーツ、アネット・アスプ)
  6. アソシエーターとしてのMedium あるいは潮目の発生

今週もいろいろ書きました(主にジャンル)。ソリッドステート・カレッジは、フルメタル・ジャケットのノリで情報系の話を展開したらどうなるか的思い付きだけで書いてみました。結果、意味の分からない世界ができあがりました。ちょっとラノベっぽいですかね。

今日の一言

今日の一言はこちらでつぶやいております。

5月30日

だから、時間の使い方は指針を持った方がいいですね。

6月1日

どんな人なのか、どういう価値観を持っているのか。それを他者に伝えてしまいます。

6月2日

もちろん静かではない人もいるんですが、そういう人ばかりに注目してしまうと、多くの人を見逃すことになってしまいます。

6月4日

自分なりの楽しみ方ができます。

今週のその他エントリー

Honkure

WRM 2016/05/30 第294号
碇をあげよ
映画『サロゲート』
コンテンツのコンテナリゼーション
言葉というテクノロジー
月刊群雛2016年06月号
『脳は何かと言い訳する』(池谷裕二)
Lifehacking Newsletter 2016 #22 より 〜薄口の文章〜
借りられなくなったとしても

今週触った本

たまたま名前を見かけたので、勢いで(主にAmazonポイントが結構あったので)ざっくり買いました。まだ読んでません。

デジタル・ジャーナリズムは稼げるか
ジェフ ジャービス, 茂木 崇
東洋経済新報社 ( 2016-05-27 )
ISBN: 9784492762257

ちょうど『パブリック』という本を積んでいたところだったので、その縁で購入。少しずつ読み進めています。

月刊群雛 (GunSu) 2016年 06月号 ~ インディーズ作家と読者を繋げるマガジン ~
まつもとあつし, 神楽坂らせん, 黒桃将太郎, かわせひろし, 青海玻洞瑠鯉, にぽっくめいきんぐ, 浅野佑暉, 蒼真怜
NPO法人日本独立作家同盟 ( 2016-05-30 )

毎度おなじみ月刊群雛。らせんさんのお話が好みでした。

明日のメルマガ告知

毎週月曜日に配信しているメルマガ。来週号の目次はこんな感じです。

○BizArts 3rd「外部者の設定」
 セルフマネジメントを掘り下げていく企画。

○SSS 「タイトル未定」
 連載型ショートショート。情報社会的SFものです。

○新しい知的生産の技術 「知識を得る」
 週替わり連載。今週は新しい時代の知的生産の技術について考えます。

○Rashitaの本棚 『行為と妄想』(梅棹忠夫)
 Rashitaの本棚から一冊紹介するコーナー。新刊あり古本あり。

○物書きエッセイ 「達成感の条件」
 物を書くことや考えることについてのエッセイです。

→メルマガの過去分エッセイは「Facebookページ」にて読めます。

頂いた感想など:

Weekly R-style Magazineは、毎週月曜日の朝7時に配信されているメルマガです。

Weeky R-style Magazine
Weekly R-style Magazine ~プロトタイプ・シンキング~(まぐまぐ)

ブログに書けないテーマ、長期的な連載、日々考えていることなどをお送りしています。

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アソシエーターとしてのMedium あるいは潮目の発生

以下の放送を聞いてちょっと考えたこと。

ライフハックLiveshow #187「Writer / Blogger」はライターとブロガーの違いについてのあまり聞けない話 | Lifehacking.jp

まず、率直に書きましょう。私はいくつかMediumに記事を投下していましたが、そんなに楽しくありませんでした。

いや、「楽しくない」というと語弊がありそうなので、もう少し詳しく書いてみます。


ほとんど同じくらいから取り組んでいたHonkureという「本」の紹介メディアがあります。そのメディアの運営は非常に楽しいのです。体感的に言えば、一つ記事を投下するたびに「メディアが育っていく」ような感覚があります。それが大げさに聞こえるなら、砂場で大きな山を作っていたり、レゴブロックで彦根城を組み立てているような、そんな感覚に置き換えてもらってもよいでしょう。

ともかく、「自分の場所」が少しずつ大きくなっているような感覚がそこにはありました。

それと比較すると、Mediumにいくら記事を投下しても、そのような感覚はほとんど生まれてきません。簡単に言えば、「ここは自分の場所ではない」という気持ちがぬぐえないのです。

私の中では、「自分のブログを持つ」というのは、ウェブに自分の場所を作ることです。その場所は、人によっては「庭」のようなものになるかもしれませんし、「会議室」のようになるかもしれませんし、「ショップ」になるのかもしれません。ともかく、そこには「場所」の感覚が強くリンクするのです。

その視点で見れば、Mediumというのはフリーマーケットに出店しているようなものです。たしかにそこには自分のスペースがあるのですが、やはり借り物です。もちろん、それ以外の場所だって、ある意味では借り物です(地球の所有権を誰が主張できるでしょうか)。が、ここではそうした定義的な話ではなく、あくまで「どう感じるのか」の感覚の話に絞っています。

ブログは、「俺の話を聞け〜」を大声で叫んでも良い場所なのです。それが絶対的に肯定される場所なのです。そして、それを自分で(デザインやファンクションを含めて)作り上げる場所なのです。

私という隠れ家ブロガーの心意気をブロガー一般にまで敷衍するのはだいたいにして無理がありますが、それでも似たような感覚を覚えているブロガーさんはちらほらいるのではないでしょうか(おそらく古いブロガーさんでしょう)。そういう人は「自分の場所」から出ることに、あまり良い気持ちを覚えません。PVが分散するとかではなく、場所の感覚的に違和感があるからです。


という話と共に、動画ではライターさんが自分のメディアを持つことにあまり積極的ではないというお話が紹介されていました。

もう、びっくりするくらい(私のような)ブロガーとは逆です。ですので、基本的にこの二つのタイプは交わることがありません。理念というより嗜好がまるで違うからです。

でも、と私は思いました。Mediumがその交差点になるのではないか、と。

ライターさんからすれば、(いろいろな意味で)面倒なブログを立ち上げる必要がありません。更新頻度を気にする必要はありませんし、Mediumには「書くことに必要なもの」がだいたい揃っています。アクセス→テキストを打つ→写真を添える→公開。これだけです。ややこしい操作は少なく、だいたい見たとおりに記事を書けます。ブログのデザインなりプラグインを考慮する必要もありません。ただ書けばいいのです(もちろん、良い記事を)。

ブロガー的な「ここは俺の場所なんだよ」といったことを意識しなくても記事をウェブに向けて放出できます。これはメリットでしょう。

では、ブロガーはどうでしょうか。

私はMediumのimportに魅力を感じています。自分のブログで書いた記事を、そのまま取り込むことができる機能です。URLを指定すれば、本文と画像を取得してMediumのエディタに反映してくれるのです(画像はたまに失敗しますが)。あとは微調整して、PublishすればOK。非常に簡単です。

このimportと、記事本文をコピペして貼り付けるのと何が違うのかと言えば、記事末にその記事が転記されたものであるということが自動的に記入されることです。これは小さいながらも大きなことで、Mediumが「ここを本拠地にしなくたって構わないんですよ」とアピールしていることとイコールなのです。

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※importすると、こうした表記が追加される。

どういうことかと言えば、ブロガーは別に自分の場所から立ち去る必要がないのです。単に記事を「出張」させれば済むのです。自分のブログは自分のブログで運営して、必要に応じてMediumに記事をimportさせればMediumというフリーマーケットに出店できます。


そう考えると、Mediumという場所は、潮目になりうる可能性を秘めています。

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(場所にこだわる)ブロガーと、(場所にあまりこだわりたくない)ライターが接する海域です。もしかしたら、そこは新しいコンテンツの好漁場となるかもしれません。

だいたいにしてタコツボ化に進みがちなウェブにおいて、潮目を発生させる場(プラットフォーム)は、新しいものを生み出す可能性を秘めている、はずです。Publicationはそれを加速させるでしょうが、その話はまた別の機会にでも。

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【書評】クール 脳はなぜ「かっこいい」を買ってしまうのか (スティーヴン・クウォーツ、アネット・アスプ)

蒸気機関の発明後、産業革命が一気に進み、我々の生産は大幅な進歩を遂げた。完全とは言えないが、物質的豊かさは世界中に広がっている。

そうやって生産が大幅に進化していったのだとしたら、対となる消費はどうなのだろうか。消費は進化したのだろうか。

クール 脳はなぜ「かっこいい」を買ってしまうのか
スティーヴン・クウォーツ アネット・アスプ
日本経済新聞出版社
売り上げランキング: 2,872

本書は、消費主義(コンシューマリズム)への批判に対する批判である。消費を「人を不幸にするもの」とは見ずに、むしろその社会的な力の良い側面に光を当てている。

消費を巡るあれこれ

著者らは、消費は本能に根ざしていて、しかも社会的な問題を解決していると説く。

もし、消費が本能に根ざしていないのだとしたら、私たちが生命活動を最低限維持するために買うもの以外は、すべて不合理な買い物となる。メーカーと広告代理店が結託して、私たちに「無用なもの」を買わせている、というやつだ。広告に煽られた消費者が、ヴェブレンが言う「誇示的消費」にお金をつぎ込んでしまう。それはいけない。やっぱり消費は悪者だ__というのは本当なのだろうか、と著者らは疑問を投げかける。

むしろ消費は、私たちの社会的な欲求に則していて、ごく普通に必要としているものではないか。そして、そうした傾向は、倫理面でも良い結果をもたらすことがあるのではないか。そのように本書は消費に新しい光を当てる。

物の選好と人

簡単に言えば、消費は私たちの社会的アイデンティティに影響を与える。それは一種のシグナルでもある。私たちは自らが何者なのかを物を使って相手に伝え、また相手が何者なのかを物を使って知ろうとする。

「本棚を見れば、その人がどういう人であるのかがわかる」といった言説があるが、そもそも部屋に大きな本棚があり、そこに大量の本棚が並んでいるだけで、その人がどういう人であるかのシグナルを発している。本だって、一つの商品であり、私たちはそれを買っているわけだ。他の物にだって、似たようなシグナルの機能はある。

「いや、人を持っているもので判断してはいけないよ」

と出木杉君みたいな発言をしてもいいのだが、そうは言っても私たちはスタバでコーヒーを飲んでいる人、片手にMacBookAirを抱えている人、イタリアブランドのスーツを着こなしている人、プリウスに乗っている人を見かけると、そうしたシグナルをどうしても感じ取ってしまう。それこそ本能的に。

だとすれば、皆が人民服を着て、人民パソコンを持ち、人民コーヒーを飲めばいいのかというと、これはもうSFを越えてホラーである。

物の選好と人のつながり

ポイントは、私たちはどうしようもなく物にシグナルを感じ取ってしまう、ということだ。もう少し言うと、物の選択にシグナルを感じ取る。

5人のママ友がいたとしよう。そのうち4人が同一メーカーのAndroid携帯を使っていたとする。残りの一人が初めてスマートフォンに機種変更するとき、iPhoneを選択すれば、もうそれは一つのシグナルを発してしまう。そんなものは、まったく合理的ではないことはたしかだ。くだらないとすら言えるかもしれない。でも、やっぱり残りの4人は、それなりに「ふ〜ん」と思うのではないか。

おそらく、学問の道に入り学者になろうとする人は、上記のような反応をくだらないと切り捨てるだろう。いや、あるべきでないとすら思うかもしれない。だから、これまで見過ごされてきた可能性がある。でも、なんだかんだ言って、私たちは他人の物の選択でその人の社会的なアイデンティティを確認しているし、逆に自分でもそれを意識して(あるいは無意識で)物を選んでいる。

そのような私たちの反応は、社会的なつながりをつくる。それは消費の良い側面でもある。

消費の進化

その良い側面は、本書が指摘する1950年代の「反逆者のクール」、1990年代の「ドットコム・クール」を経てより拡大してきている。著者らは指摘していないが、私はこれを「消費の進化」と捉える。受動的消費から、創造的消費への進化だ。

この進化のバックボーンは二つあり、一つは物質的な豊かさで、もう一つが情報化である。物が少なければ、そもそも選択ができない。この状態では受動的に消費するしかない。産業革命以降の爆発的な生産の拡大は、一つの商品のボリュームを増大させただけでなく、バラエティーの数も飛躍的に増加させた。選択が可能になったのだ。もちろん、自由市場がそれを支えていたことは言うまでもない。

さらに、そこにインターネットが加わる。インターネットは個人の情報発信を容易にし、消費者同士がメーカーを介することなく交流する素地を生んだ。結果的に、商品に社会的な意味づけを付与する行為が、誰にでもできるようになり、さらにそれが不特定多数に向けて発信できるようになった。

そうした消費の進化が、本書が言う「地位のジレンマ」を解消しつつある。

ゼロサムからの脱出

ピラミッド型の序列をイメージしてみよう。上に行くほどポジションの数は減る。もし、人がそのような序列に位置づけられてしまった場合、上に行くためには他の誰かを蹴落とさなければならない。この場合、誰かの幸福が上がれば、別の誰かの幸福が下がる。つまりゼロサムゲームだ。

この構造の場合、競争は過激になる。ポルシェに乗れば、ベンツに乗っている人よりも上に行ける。だったら、ベンツに乗っていた人はフェラーリに乗る? そうしてどんどん人は不必要なものを買ってしまう。これが「誇示的消費」で、実際そういう形の消費もあるのだろうが、プリウスを選択することはどうだろうか。

プリウスを選択することは、もちろん環境に配慮しているというシグナルを送っている。では、hi-プリウス、ex-プリウスというものが発売され、それらがより強く環境に配慮しているから、シグナルを強めるために高い車を買い争うような競争が起きているだろうか。どうにも、そんな風にはなっていない。

ピラミッド型の序列で激しい競争が起きるのは、人がそこで地位を求めるとき「上」にのぼるしかないからだ。では、そうではない地位(ステータス)の求め方が生まれたとしたら? それが本書が指摘する多元的なライフスタイルの登場である。そこでは消費は「誇示的消費」とはまったく別の意味合いを持つ。むしろ、好ましい意味合いを持つのだ。

さいごに

消費、あるいは消費を促進させるような行為には、たしかに望ましくないようなものもあるだろう。でも、そればかりではないし、消費こそが促進する倫理的な活動もある、というのが本書の面白い視点である。

その他関連書籍を上げておくと、「消費主義批判についての批判」については、『反逆の神話』も面白いだろう。多元的なライフスタイルの登場は、『権力の消滅』が参考になるかもしれない。

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか
ジョセフ・ヒース アンドルー・ポター
エヌティティ出版
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権力の終焉
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では、Good Reading!

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ソリッドステート・カレッジ

 午後特有のエネルギーと少々の眠気。教室はいつものように騒がしかった。
 ガラッ、と扉が開く。
「おい、軍曹だぞ」
 入り口近くの学生が、短くつぶやく。一瞬で教室は静まりかえった。
 ほとんど熊みたいな男が扉から顔を覗かせたと思ったとたん、すでにその男は教室の中にいた。見かけによらず俊敏なのだ。
 軍曹と呼ばれたその男はそのまま教室をぐるっと一瞥する。そして、だらしなくシャツを出している男子学生をギロリと見つめる。学生はビクッと震えた。
 軍曹が一歩だけその学生に近づく。その分、他の学生たちは一歩後ろに下がった。軍曹と学生を中心に環が生まれる。
「おい、貴様。デジタルツールのメリットを挙げてみろ」
「え、えっと本日はご機嫌も麗しく……」
「耳は正常か。デジタルツールのメリットを挙げろと言っている」
 学生は逃げられないことを悟ったネズミのように必死に頭を働かせた。言うべきことをまとめようとするが、うまく頭が動かない。これ以上の失言は危うい。そればかりが頭をぐるぐる回る。
「どうやら貴様はこの場にいる資格はないようだ」
「ちょっ、ちょっと待ってください。答えます。今答えます」
「求めたらチャンスをもらえると考えているなら、まずその考えを矯正する必要がありそうだな」
 軍曹ににらまれたままその学生は黙り込んでしまった。
「よし、ここは共に学ぶ場でもある。貴様らにこいつを助けるチャンスをやろう。誰かいるか?」
 再び軍曹が教室を見回す。人の壁の後ろから、一本だけ手が上がった。若い学生らしいすらりと伸びた腕だ。軍曹は、ニヤリと微笑んだ。「よし、貴様。前に出ろ」
 モーセの祈りのように人の壁が少しだけ割れ、手を挙げた学生の前に道ができる。学生はそのまま平然と歩き出した。誰かがゴクリと唾を飲み込む。ぎゅっと自らの手を握りしめる。ほとんど祈りに近いなにかを捧げる。
 ほう、と軍曹は言った。「女学生か。珍しい」
「関係、ありません」
 その女学生は、ポツリと言った。ほとんど拒絶の言葉に近かった。誰もが3秒後に顔を真っ赤にして怒り出す軍曹の顔を思い浮かべたが、軍曹は少し眉を上げただけだった。「たしかにそうだ。関係ない。ここで重要なのは、貴様が答えられるかどうかだ。そうだな」
 コクリと女学生は頷く。
「当然、答えられなかったどうなるかは十分わかっているんだろうな」
 軍曹は、嗜虐的な視線でその女学生を頭からつま先まで見つめる。「一晩中かけてたっぷりと、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を朗読してもらうぞ。しかも、あのろくでもない翻訳版をだ」
 学生たちは状況を想像して身震いした。その女学生だけが凛と立って、軍曹の視線を跳ね返していた。そんなことは、たいしたことではないと宣言するかのように。注意深く観察していたら気がついただろう。彼女の足がかすかに震えていたことを。
「では、デジタルツールのメリットを挙げてみろ」
 軍曹が促す。
 女学生は、黒縁の眼鏡を少しだけ上げると、そのまままっすぐと黒板へと向かっていった。チョークを手に取り、大きく1と記す。
「デジタルツールの最大のメリットは、その検索性にあります。その他のデータ軽量性や編集可能性、それに送信容易性といったものも情報環境戦略的に重要な意味を持ちますが、それらはあくまで付随的な要素と考えていいでしょう。検索性こそが、デジタルツールのメリットです」
「貴様が、他の要素を無視してまで検索性を重要視する根拠はなんだ」
「無視はしていません。さほど重要ではないと述べています」
「細かいことはどうでもいい。なぜ検索性がそれほど重要なのかを言ってみろ」
「簡単なことです。それが我々と情報の関係性に変容を迫るからです。非常に根本的なレベルで」
「では、その変容は何によって要請されるのだ。その具体的な因子について……」
 軍曹の言葉を遮るように、ベルの音が教室中に響き渡る。軍曹は顔をしかめたが、すぐに表情を変えた。
「十分とは言えんが、落第とも言えん。今回のところは、ひとまず合格としておこう」
 そう言って軍曹は、あっという間にいなくなってしまった。見かけによらず俊敏なのだ。
 学生たちは、いっせいに安堵のため息をついた。次はどうなるかはわからないが、今回はともかく切り抜けた。皆が賞賛の眼差しをその女学生に向けるが、彼女はむしろ面倒そうに長い髪をなびかせて、教室の隅に戻っていった。そして席につき、何かよくわからない表紙の本を読み始めた。
 それをトリガーにして、少しずつ教室にも騒がしさが戻り始めた。彼女の足はもう震えてはいなかった。

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「システム2は、サボりたがってるんだ」

のきばトーク04を収録しました。

今回はダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』が主要なテーマ。

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ファスト&スロー (下)
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ちなみに、放送内でも言ってますが、『ファスト&スロー』は「これはちょっと読んでおいた方がいいかもよブックリスト100」に入る一冊です(実際は二冊ですけども)。上下巻合わせても文庫で2000円ほどですし、Kindle版ならもうちょっとお買い得ですね。で、余裕でおつりがきます。(出版された時点の)行動経済学の総まとめみたいな内容ですし、たいへん丁寧に書かれているので、読み込みやすいかと。

行動経済学の本であれば、ダン・アリエリー教授の本がこれ以前にいくつか出ていますし、これまた面白い(fun的な面白さも多い)のでオススメで、さらには、チップ・ハース、ダン・ハースコンビの『スイッチ!』なんかも似たようなテーマを扱っているんですが、『ファスト&スロー』は、やはりシステム1、システム2の対比が実にすばらしいのです。

『スイッチ!』では、この二つを象と象使いで対比していて、それはそれでファストな思考の強さをうまく表現しているのですが、微妙に足りない部分もあります。それがシステム1とシステム2の相互作用です。共犯関係と言ってもよいでしょう。

カーネマンは次のように書きます。

システム2を決定づける特徴は、働かせるのに努力を要することである。ところがシステム2は怠け者という性格を備えており、どうしても必要な努力以上のことはやりたがらない。そこで、システム2が自分で選んだと信じている考えや行動も、じつはシステム1の提案そのままだったということが、往々にして起きる。

システム1は直感的な思考で、たとえば大きく顔を歪めた人の写真を目にしたときに、その人が恐怖しているとぱっとわかってしまうような機能を担当しています。そこには意識の介在はなく、「考えている」というような感覚もありません。「1+1は?」と聞かれたときも、計算せずにぱっと「2」が頭に思い浮かびます。

逆に、「45×15は?」と聞かれたときは、同じようにはいきません。少なくとも、ぱっと浮かんでくるのは「けっこう大きい数だろうな」くらいの感覚でしょう。この式の答えに辿り着くためには注意の制御が必要で、それを担当するのがシステム2です。

で、だいたいにおいて私たちが「自分だ」と感じているのは、システム2の領域なのですが、こいつが怠け癖があるのが大問題なのです。生物学的には、システム2はおそらくエネルギーを大量に使うことと、また周りに外敵がうようよいるときに考え込みすぎていると生存に適さないというような理由があるのかもしれません。

が、そういう話はまるっと置いておいて、システム2は怠け癖がある、ということだけを覚えておけばよいでしょう。そして、こいつは非常に巧妙です。要領の良い課長みたいにうまく仕事をサボります。それはもう舌を巻くぐらい見事に圧倒的です。

ちまたのビジネス書コーナーなりなんなりを覗いてみてください。システム2は仕事をしなくていいんだよ、と語りかけてくる本がやまほど発売されていますし、そのうちいくつかはよく売れているようです。システム2がサボってもいいことを、システム2がうまく納得できるような言説が溢れかえっているのです。複雑な注文とキックバックで利益を循環させ、売上げをかさ上げている企業の構図のようではありませんか。実に見事です。

でもって、セルフ・マネジメントの根源は、このシステム2の怠け癖との戦いだと思っておいて間違いはありません。というか、わざわざセルフ・マネジメントなるものが必要になるのは、システム2が怠け癖があるからなのです。

カーネマンもこれははっきり書いています。

システム2の仕事の一つは、システム1の衝動を抑えることである。言い換えれば、システム2はセルフコントロールを任務にしている。

そんなやつが怠け癖を持っているのです。つまりセルフマネジメントは、「嗚呼、弱きもの。汝の名は、人間」というスタンスから始めなければいけないのです。そこを勘違いしてはいけません。

人間というのは、根本的に結構ダメなやつなのです。だから、ダメダメな行動をしていても「俺はダメな人間だ……」なんて落ち込む必要はいっさいありません。「そもそも人間というものはダメな性質を持っているんだ」ぐらいの強気に出てもいいでしょう。その上で、「じゃあ、どうしたらそのダメさ加減を中和できるのか」と考えられれば前向きです。

が、しかし。

システム2は怠け癖があるので、「そもそも人間というものはダメな性質を持っているんだ」を怠ける理由にきっと使います。もうその姿が未来視のようにはっきり見えてきます。どうですか。実に巧妙でしょう。それくらいやっかいな構造と向き合うのがセルフ・マネジメントです。

ともかく、

「システム2は、サボりたがってるんだ」

ということだけは念頭に置いておきましょう。

ちなみにシステム1は直感的であり、それは環境に強く反応するものなので、本書を読めば「ありのままの自分」なるものがいかに脆いかがわかります。システム2を沈黙させている限り、素直さとは周りに影響されまくっている、というだけのことでしかありません。逆にシステム2をきちんと通した上での素直さは、いわゆる「自分らしさ」みたいなものにつながるかもしれません。

それにしても、システム2さえ黙らせてしまえば、「これは必要だ」と思い込ませるたびに財布の紐を緩められるのですから、物を売る方としたらこれほど楽な商売はありませんね。いやはや。

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