小泉氏の決断

小泉総理が「テロによってイラクの復興支援から退くことはない」と表明した。

なんだか、そのことにものすごい違和感を感じた。

なぜだろうか?
日本国民の多くはこの問題をどう捉えているのだろうか。
とりあえず、イラクへ自衛隊を派遣した。そのことの是非はいまはおいておく。政府としてはそのほうがメリットがあると判断したのだろう。

イラク国内の混乱、スペインでのテロという現状で、日本国民はそれでもまだ自衛隊のイラク国内での活動を望んでいるのだろうか?

消極的な反対意志を持っていても、もうとりあえずいっちゃてるから仕方ないと思っているのだろうか。
それとも、テロと断固戦う意志を持っているのだろうか。

おそらく、そんな意志はほとんど存在しないと思う。

ここ10年の日本の状態を考えれば、テロというのはほとんど身近なものではない。特殊な存在として捉えられていると思う。

とりあえず、アメリカの攻撃も支持したし、イラクにも自衛隊を送るというアピールも行った。少なくとも対面は保ったわけだ。

ここで、もう一度きちんと判断を行うべきだろう。

私自身は自衛隊が海外でなんらかの役割を果たしていることはすごく誇りに思う。

しかし、現状認識を改めた上で、国民に是非を問い直すべきではないだろうか?彼が総理大臣になったことはイコール彼の政策を国民が全て納得したということにはならない。

一度仕切りなおしてみるべきときが着ているのではないかと思う。


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Doblogについて

さて、今日はテンションを3くらい落としていきましょう。
頭の中で上手くまとまらないので、この「Doblog」システムについて考察して見たいと思います。

ちなみに、私は他に無料のブログを4つほどやってますが、それぞれの投稿システムや環境は似てる部分もありながら、それぞれが少しずつ違ってきています。

データ(日付)やタイトル周りはほとんど同じ。

コメント入力のところでも、イメージ入力はやりやすい部類に入ります。Seesaaなんかではいちいち画像を登録しないといけないのでなかなか面倒です。

太字、斜体、下線、URLもほぼ一般的。
News Handlerというシステムだと、アマゾンから本やCDのデータを引っ張ってこれるので、書評などをする場合は、そちらの方がやりやすいと思う。

もちろん、デジカメやケータイで本の画像をアップすることができるなら、別段手間がかかるわけではない。
たのブログでも基本的にはシステムは同じ。

しかし、ブログという形を追求していくなら、アマゾンなどと協力するというのはなかなか強力なサポートになってくると思う。

ジャンル入力も普通。なぜオプション項目に入っているのはわからない。あんまり重要視されていないのかもしれない。

オプション項目をひらくとたまに送信ボタンがどこにあるか見失うときがあるのがたまに傷w。
大抵の投稿システムはボタンが上にあることが多いので、どうしても目が上のほうを探してしまうだけなんですが・・・。


ただ単に文章+ちょっとした画像を投稿するのであれば、良く言って使いやすいかな~という気がする。

時間帯によって圧倒的に重たいというのは、ぜひ改善していただきたいところではある。

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台湾選挙の結果

陳水扁が勝利したのはもういろいろなメディアで報道されている。

選挙の一週間ほどまえまでは、どちらが勝つかというのはほとんど読めない状況だったが、直前の陳水扁氏の襲撃事件で、あっ、これは勝ったな、と思った。

実際にそうなった。

しかも、圧倒的大差ではなく、3万票ほどのわずかな差である。

あの時期あのタイミングで、襲撃が行われ、しかも本人が死亡しなかったら当選しないはずがない。

一瞬自作自演かと思ったほどだ。

が、まあそんなことはしないだろう。

もしかしたら、味方陣営のあずかり知らぬところで行われていたのかもしれない。
が、あんまり深く書くとえらいことになっても困るので、やめておく。

というか、個人的に陳水扁氏が当選したことをうれしく思っているのだ。台湾の人々が自らのアイデンティティーを重要視しているということなのだろう。

たとえば、小泉首相みたいな人間は台湾で総統に選ばれることはないであろう。彼は総理大臣向きな人間(もちろん冗談である)で大統領向きな人間ではない。

日本は台湾のように自国のアイデンティティーをしっかりと確保せよ、と声高に叫びたいわけではない。
それが、少しずつ、だがはっきりと失われ続けていることを認識しておけばいい。

こうやって日本を世界の中の視点から見て見ると本当に特異な国であると思う。

これほど歴史を徹底的に否定している国がほかにあるのだろうか。
戦前の日本、戦中の日本、戦後の日本。
どこかに決定的な過ちがあったのだろうか。

現状抱えている問題を、通過してきた歴史の中に求めて、その責任をうやむやにしているだけではないのだろうか。良いこともあったし、悪いこともあった、それが歴史の正当な認識のやり方ではないのだろうか。

戦争を行った日本も、現状の日本も、同じ「日本」であるという認識が欠落しているような気がする。

教育というものが、そういう方向性に向かっているのかもしれない。
教科書を変えれば済む、という問題でもないと思う。

しっかりした認識を大人が持つこと。それがとりあえずのスタートになるような気がする。私を含めて。

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政治と国民の関心

世界の国々を眺めてみたあとで、この日本を見てみると
すごく不思議な感じがする。
週刊誌や、TVの番組でも政治に関する番組は多い。
もちろん圧倒的というほどではないが、どの放送局でも番組が作られていることから考えて、視聴率はそれなりにとれているのだろう。

そういった意味では政治に対する関心は低くないように思われる。

しかしながら、国政選挙の投票率は低い。

一体なぜなのだろうか。

マスコミが問題をあおり、視聴者の関心を引きながらもそれを一票に投じられることがないのはなぜだろうか?

まず、マスコミは国民に投票を促すような意図はまったくないという風に感じられる。
だれだれの政治家が悪いことをしている、官僚はこんな奴らばっかりだ、という情報を流し、国民が抱えている不安を具体的な形に持っていきながら、それによってガス抜きにしている。

政治家の意図だろうか?

多分違うだろう。国民の少なからずの人々がシリアスな議論を避けたがっているせいなのではないか。

あと、長期政権ということにも問題があるのだろう。
投票しても結局のところ変わらないという意識があるのだと思う。
もしかしたら、そうかもしれない。
しかしながら、何もしなければ変化は望めない。

政治家のルールを作っているのは政治家なのだ。

そして、それに唯一口をはさめるのは有権者である。
それが形式的なものであれ、有権者は政治家にたいして発言権をもっている。それが投票である。

現在の政治のシステムというのは一般的な国民が携わりにくいようになっている。
立候補するにもお金がかかるし、選挙活動にもお金がかかる。もちろん政治家になってからもお金がかかり続ける。

当然、立候補するのは2世議員が多く、地盤を持たない人々はその人間がよほどのカリスマ的な人物でない限り、あるいは選挙の相手がよほどのミスを犯さない限り当選することは難しい。

政治家になってしまえば、任期の間は国民からとやかく言われても気にしない。

たとえミスを犯しても、「政治」でそのミスを挽回したいと思います、といって仕事を続けることができる。

政治というのは、なんであろうか?
金と権力をつかって、いかに票を集めるかということなのだろうか?ここで言う票というのは国民から投じられる票ではない。
それは党に所属する議員の数ということである。
過半数を確保すればとりあえずその党は自らの意見を押し通すことができる。

それが現在の民主主義の姿である。
それは効率的といえば効率的かもしれない。

民主主義の本来の姿から、現在の日本の政治にいたるまでになにかの間違った流れがあったことは確かだ。

そして、その原因は国民の関心の低さであることは間違いない。

戦後、経済的に復興してく中で、政治家がそして官僚が行ってきたことはあながち間違いではなかった。
そういう状況の中では、彼らのシステムはその機能をはたしていたのだ。

国民は政治について考える必要などなく、自分の生活を向上することに専念し、ただ働いていればよかったのだ。

が、それは今では通用しなくなってきている。

今では無能な人間が政治に携わっていたら、とんでもないことになる。それは政府に限らず、自治体であってもだ。
が、政府は「国債」という切り札がある。日銀という圧倒的な味方がいる。

少々の問題点はごまかし続けることができた。

が、問題は金銭だけではない。
というか、金銭は根本的な問題ではありえない。

もちろん、外貨は重要である。経済と金融は切り離せなく、借金があるよりもないほうがいいにきまっている。

が、日本という国が抱えている問題は国が圧倒的な借金を国民に背負っていることではない。

それはある意味で表層的なものだ。

根本的な問題は「日本」というシステムの形骸化である。実質的な機能がうまく動かなくなってきているということだ。そして、それに変わるシステムをだれも作り出せそうにないということだ。

特に、現状の国会議員にそれを明示的に示す人はいない。

システムとはもちろん憲法を含む。
が、憲法を変えるためにはビジョンが不可欠だ。
この国の方向性と言い換えてもいい。

それらが示されないまま、どうしようもない問題だけを小手先の処置だけで済ませてきたのが現在の日本である。

われわれは高度経済成長の中をひとつの列をなして歩いてきた。そこには先進国という目標があり、だれもがそれを目指して歩くことができた。すくなくともそれで安心感を得ることができた。

そして、われわれはそこにたどり着いた。
そこにたどり着いてしまった後でも、先導者は新たな目標を示すことができなかった。目標を探さなくてはいけないという意識すらなかったのだと思う。

だから、われわれはまだその列をなして歩くことを強制されてきた。しかし、目的地が見えない列がまっすぐ歩くことはできない。
はぐれる人も、立ち止まる人も、後退する人もでてくる。

それは、それで仕方のないことだと思う。

もう日本という国には全員が列をなして向かうべき目標などないように思える。
肝心なのは、それを先導者がはっきりと伝えることだ。

どこに向かうも個人の自由である。われわれははぐれた人をサポートすることしかしない、できない。とはっきり告げることだと思う。

たとえば、新幹線、高速道路の問題があがる。
多くの日本人が利用もしない線になぜ国の税金をつぎ込むのか理解できない。納得できない。

それが国を包みこむ目標がなくなったということだ。

地域に貢献することがあるならば、税金を投入して作るというのは「国」のひとつの機能であると思う。
もちろん経済的に余裕があればということだが。

肝心なのは、もう、誰もあっちへ行きなさいと教えてくれないという現状を認識することだ。

政治家は政治を行うだけの人間である。もちろん倫理観は問われるが、それ以上を求めても詮無いことである。

われわれ自身がはっきりと日本国のありように意見を持つべきなのだ、と思う。それには責任をともなう。
今まで日本人はその責任をほったらかしにしすぎていたのだろう。

個人主体に生きるということと、社会的な責任を持たないということはまったく別なことである。

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雇用の形態

景気が悪い。
アメリカ経済も以前ほどの活発さはなくなっている。
多くの日本企業もその経営方針の転換・改善を迫られている。

いわゆるリストラと呼ばれるものはただ単なる首切りとは違う。「リストラクチャリング」というのは再構築ということだ。構造の基本を見直し新たな、そして時代に合った形に変えていくということだ。

日本経済が高度経済成長を迎える以前から、日本の労働者というのは優遇されてきた。
あまりに優遇されていたためにスポイルされてしまったのではないかと思えるくらい。

有名な大学をでて「良い会社」に就職できれば、その人は勝ち組にまわり、その後の人生において、雇用に関して心配する必要もなくなり、給料は年々上がるものというのがひとつの「常識」として通用していた。

企業が毎年成長しているような経済構造の中では、その体制を維持していくことができたが、現状ではもうそれは不可能に近い。

たとえば、大学卒の新入社員は使い物にならない。
企業は仕事を教えながらも、給料は払い続けなければいけない。
しかし、そのコストはその人が長期的にあるいは終身的にその企業に勤めてくれるというリターンによって埋め合わせできていた。

今の多くの企業はそのような体力を持たない。ゼロから仕事を教えていく新入社員よりは、仕事ができる途中入社のほうを優先させる。
決してそれは間違ったことではない。利潤を追求する企業にとって経済的に合理的なことである。

利潤というのは売り上げから経費を引いたものである。
単純に利潤を高めるためには、売り上げを上げることもできるし、経費を下げることもできる。

商品の質を落とすことなく経費を削減するとなれば、一番先に目に付くのは人件費である。
物価の問題もあるが、日本の人件費は高い。
また、人件費の多くの部分をしめる厚生年金もある。

となると、「正社員」よりもパートやアルバイトが重宝されてくるのもの当然の流れだ。

われわれが理解しておかなければならないことがいくつかある。
まず、こういった流れはもうとまらないということ。
景気が上向きになったところで、こういう流れに歯止めがかかることはない。一部の企業が奇跡的な技術によって高い利潤を上げることに成功したとしても、社会全体がその利益を分配されるということはない。

従った、政府や企業は積極的にパートやアルバイトあるいは派遣社員といった雇用形態を推進していくだろう。
「正社員」の優遇が少なくなり、その他の雇用形態がもっと一般化していくだろう。

一番最初にも述べたが過去の日本の「正社員」というのは優遇されすぎていたと私は思う。
自分が与えられた仕事をただこなすだけの人間がそれによって生まれ続けていたと思う。

日本政府の経済状況が悪化し、企業も体力がなくなってくると、企業で働く人間はもちろん優遇されなくなる。
ただ与えられた仕事をこなすだけでなく、それ以上の何かが必要とされる。
その何かとは何であろうか。その形は個人、企業それぞれによって違う。一般化できるようなものでない。
だが、仕事をする上でのモチベーションというものは絶対に必要なものである。

常に自分を磨き続け、高いスキルを持つ人間はそれに見合った給与を得ることができ、そうでない人間との経済的格差は広がっていく。
政府をその格差を埋めることはもうできない。

それが、これから私達が迎えようとしている社会の姿である。

仕事をするというのはイコール企業に入社するというのではない。自ら会社を興すというのも、あるいはNPO、NGOに身をおくこともひとつの仕事でありえる。

現在の大人、老人にそういった認識を持つ人は少ない
そういう人のアドバイスは現状ではまったく意味をなさないものが多い。
必要なのは自分の頭で判断することである。
何かを判断するためには情報が必要だ。
それは文章かもしれないかもしれないし、Webサイトであるかもしれない、あるいは人脈かもしれない。

多くの有益な情報とつながりを持ち、自分の頭で判断しそして行動すること。
改めて考えると、シンプルなこういった行動基準がこれから必要となってくると思う。

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認識と「仮想現実」

「タイム・コマンド」という映画をみた。1995年の映画だ。人間をコンピュータにつないで、現実とかわりないバーチャルな世界を体感できるというゲームの中で実際の命をかけて戦うというようなストーリーだった。

なんとはなしに「マトリックス」を思い出させる。

コンピュータが性能を増してきて、仮想的な空間を作り出すことができるようになり、人間の感覚そのものにフィードバックできるようなシステムが作り上げられたならば、それはSFではなくなる。

「マトリックス」においては、その上に「ビック・ブラザー」的な要素も入っている。

脳というのは、感覚器官から入ってきた情報を処理する装置である。そしてその情報というのは一種の電気信号である。
もし、ある種の情報をつたえるのに、どういう電気信号が使われているかを明確に解析し、再構築できるならば、脳に線を直につないで、コンピュータを「感覚器官」とすることができる。

そういった世界では、現実という言葉の意味がひどく曖昧になってくる。

現代においてもその言葉の意味はだんだんと曖昧さを増してきていると思う。

現実という言葉と事実という言葉の意味は違う。
またそれぞれの個人によっても現実というものは違う。

現実というのは認識から生まれる。
何かを認識するというのは、それが現実であると認めることと言い換えてもいい。

科学が発達し、確認できることが増えてくると現実もそのありようを変化させる。

もし、科学が発達しなければ、地球の周りを太陽が回り、蝙蝠は意志伝達の手段を持たず、雷は神の怒りであるというのが「現実」でありうる。

科学の発達は「現実」の姿を変える、それは確かだ。
しかし、それを突き詰めていってしまうと、科学=現実になってしまう。それは唯物論である。
形而上的なものは一切認めないということになってしまう。

「現実」のありようは人それぞれだといった。唯物論的な「現実」のありようもそれはそれで正しいのかもしれない。
が、唯一われわれの「意識」という存在だけは否定しようがない。これは自分がとりあえず認識できる形而上てきなもののひとつである。

科学の世界でわれわれの「意識」を完全に分析することはできない。心理学は心理の動きを科学するもので、その成り立ちまでは説明できない。

認識が現実を作るという仮定からスタートする場合、その認識の発端は自分の意識からである。
自分が何かを信じているという、その心の動きそのものが認識の発端である。

そういう風に考えると、現実と「仮想現実」の線引きは難しくなってくる。
つまり「仮想現実」も現実の一部でありうるのだ。

「仮想現実」の世界は、オンラインゲームであろうと、バーチャルモールであろうと、実在はしない。
が、存在はしている。

今80歳くらいの人間にとってはそれらは現実ではないかもしれないが、20歳前後の人間にとってそれは手に触れられない現実として存在する。

それが、ごく当たり前に普及していくと思う。

それが、仮想的な世界であれ社会的に実在する世界であれ、個人が体験する時間というものは同じである。
「仮想現実」の世界で「3時間」使えば、現実の世界でも3時間使われているわけだ。もちろん時間の流れ方は違うだろう。
が、前にも述べたが時間なんてものは脳が作り出したものでしかない。尺度にほとんど意味はない。

そういう意味で時間というのは資源である。
結局のところ人間は目に見えないタイムリミットを背負って生きているのだから。それを買うことはできない。
誰かに貰うこともできない。

「仮想現実」の世界が薄っぺらく広がっていく世界の中で重要なのは意味を持つ時間の使い方だと思う。
結局のところ何をしてても、それが意味を持つかどうかということが、重要になってくる。

自分にプラスになること、ほかの誰かのプラスになること、そういうことは意味がある。意味がないことはその逆のことである。

極論、暴論になってしまうが、結局のところわれわれは脳というCPUが演算した「現実」の中に生きているのだ。
ゆえにこの「現実」は唯一固定的なものではない。
意識ひとつで、どのような方向にも動きうるものだ。

自戒を含めて、自分が何をしうるのかじっくりと考えて見たいと思う。

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「ブログ」と深み

現在日本のブログの数はものすごい数で増え続けている。総数もかなりのものだと思う。

そこにはいろいろな意見があり、情報があり、偏見があり、断定があり、仮定がある。

それら全てに触れることはできない。

ブログの質にもいろいろある。傾向にもいろいろある。

自分の得意とするジャンルをまとめて読むことができるし、自分のまったく知らない情報に触れることもできる。

一日一日情報が更新され、読者はそれを読み、考え、笑い、コメントし、時にはトラックバックする。

ブログの読者は自分でブログを持っていることがおおい。

では、自分で書くという視点から「ブログ」というものを見てみるとどうか。

ブログの特徴はやはり更新の頻度が高い、ということだろう。なるべくなら毎日なにかのエントリーを増やしていかないといけない。

情報を提供する方にとって、これはひとつの苦痛でもある。書くべきことがあるときは良い、がないときはどうするか。どうしても、空白を埋めるための文章を書いてしまう。
書くべきことがなければ更新しなければ良いのだが、毎日書くという習慣のなかで空白は受け入れにくい。
なんとなく更新してしまう。

それはそれで、ひとつの息抜きとして捉えることもできる。しかし、ある種の「質」 の低下ということになりかねない。

これは、毎日情報を発信することができない人間はブログ形式をとるべきではない、ということにつながってくるのかもしれない。

現在の流れが進んでいけば、個人サイトは凝ったHTMLベースのサイトと、ブログという二極化にむかっていくだろう。

日記的ブログが増えていけばいくほど、良質のブログにであうのは難しくなっていく。
現在のWebサイトでも「面白い」と思える個人サイトは、そのWebサイトの総数に比べると少ない。

結局のところ、情報につながる情報をもっている人が良いサイトにめぐり合うことができる。

自分が良質のブログを提供し続けていけるかどうか、と考えてみると、たぶん無理だろうと思う。
更新を続けていく中で一定レベルの質を維持していくというのは結構手間がかかるものだ。

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「孤独」の質を高める

いつのころからだろうか、「孤独」というのがマイナスのイメージで語られるようになったのは。
おそらく技術力の進歩で、携帯やインターネットが身近になってきてからなような気がする。
だが、基本的に人間というものは一人である。

一人であるからこそ「つながり」というものの価値がある。もし薄っぺらいつながりだけに四六時中浸っていたとしたら、「つながり」が持つ大切さを見失うかもしれない。

質の良い「つながり」を持つための条件は、自分の質を高める、ということだ。つながりたい何かがあるからこそ、ほかの誰かがつながりを求めてくれる。

人間が「孤独」である時間は、自らの質を高めるために使うべきものだと思う。

 
 人は何かの代償無しには、何も得ることができない。 何かを得るためにはそれと等価の代償が必要である 。

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今、日本という国が求められているもの。あるいは日本人の行く先

もし現在のように、日本政府が能のない政策を繰り返していくならば、根本的な変化がいづれおとずれるだろう。

もし、何らかの要因で景気が改善する方向に向かって言った場合、この国は少しずつ腐っていくのを待つだけだと思う。

たとえば、今日本の国に有能な人材を引きとどめておけるような魅力はない。そしてそのこと自体が問題にされていない。

当たり前の話だが、国は法律が作るものでなく、そこに住む国民が作るものだ。良い人間がたくさん集まって有益な働きを行えば「良い国」が出来上がるし、そうでなければよくもなく悪くもない国がどこかの誰かの食い物にされて生きながらえていくだけだ。

この国が目指すべき方向とはなんであろうか。
現状で求められる政府というのは、小さい政府であるはずだ。行うべき国の関与は最小限にとどめて、民間がその力をなるだけ発揮できるようにする、というのが求められているスタイルなはずだ。

経済界だけに限らず、個人的な社会生活でも、国の関与をなるだけはずしていくというのが「理想」の方向なはずである。

しかしながら、多くの日本人はいまだに国の保護を心の奥では欲しているような気がする。自らを縛っている鎖を解きたいと言いながらも、解くチャンスにまったく興味を示さない。そんな気がする。

単純に考えても政府は万能ではありえない。首相は絶対者ではない。もちろん天皇だって同じである。
情報が当たり前のように飛び交い、人口が増え、政府の手が全国民にまで回らなくなったとき、自分自身が自分の管理を行うというのはごく自然なことだ。

誰かが守ってくれるというのは、とっくの昔に意味をうしなった幻想に過ぎない。
しかし、現政府はなるべくその幻想を維持しようと躍起である。そして、国民もバカなふりをしてその幻想を信じようとしている。その幻想が信じられない人は現実から目をそむけることで、現状認識から意識的に距離を置いているような気がする。

政府は政府、個人は個人と割り切って考えることができる人がどれだけいるだろうか。
「お上」の幻想はいつまで行き続けていくのだろうか。

その幻想が消え去ったとき、それはつまり現政府が完全に「お手上げ」になったときだ。
国債が劇的に下がったときかもしれない。国内の株式がほとんど海外投資家に買われてしまったときかもしれない。
状況はどうあれ、政府が手を上げてしまってから、いきなり、君達は自分らでがんばってくれ、と言われれば国民は動揺し、怒りを覚えるだろう。
しかし、一番最初の仮定が正しければ、いづれ何か大きな変化が訪れると思う。少なくとも私はそういった変化を期待している。

津波が来てから避難経路を探すのではなく、平時から個人で生きていくためには何が必要か、という逃げ道をきちんと探しておくことが、必要なのではないかと思う。

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時、時間、現在。

時間という概念がある。

たとえば、今現代人は3次元を認識することができる。
そしてそれ以上の次元の存在も知ることができる。

幾人かの学者は4次元を構成する要素は、縦、横、高さ、そして時間だと主張する人間もいる。

人間のもつ感覚器官では時間というものを認識することはできない。
脳は時間を理解することができるが、「時間そのもの」を認識することはできない。

脳は常に「現在」だけを認識する。過去は記憶であり、未来は想像の産物である。
常に「現在」だけの概念というのは、そもそも時間ですらない。大きな流れを感じることができて、はじめて時というものを認識することができる。

「時間」というものは人間が作り上げたひとつの仮説である。
SFの世界では時間を逆流するというような話が良く出てくる。しかし、それは概念の上でだけ可能な話で、物理的には不可能な話だ。

それはタイムマシンなんて作れないという話ではない。それが現実世界で作られたとしたらその機能が時間の逆流でない、ということである。

時をひとつの流れとして捉えた場合、その流れを逆流することができるような気がしてくる。しかし、それはあくまでたとえである。

実際に時は流れてはいない。現在が次々とその形を変えているに過ぎない。それを人間が便器的に認識しやすい形にしたものが「時」である。

この概念は非常に便利であり、また力強い理論性を持つように思われる。

が、突き詰めていけば「時」というのは認識の問題にすぎないということに気がつく。

もちろん、「過去」や「未来」という概念が無意味であるといいたいのではない。人間が生きていくうえで、その概念は非常に有効に働く。極論してしまえば、それ無しでは人間らしく生きていくのはかなり難しいといってしまってもいいかもしれない。

現代では時というものがごく当たり前に使われているような気がする。それは一種の道具であり、普遍的に与えられているような錯覚をもっている。

その上で、時間の使い方がすごく薄っぺらくなってきているような気がする。昨日の一日、今日の一日、明日の一日、それらがどれも同じで可逆的な存在であるという認識。単調さを受け入れ、自ら単調さを作り出す行為。

しかし、よくよく考えてみれば、昨日という日も、明日という日も存在しない。それらは記憶であり想像である。

今日という日があり、また次の今日という日がやってくる。それらはまったく別のものでありながら、自分という軸でかろうじてつながりを持っている。

一年という区切りも、一日も一時間ですら人間が作り出したものだ。そこには機能はあるが、本来の意味は何一つない。しかし、人間はそれに縛られる。

人間は自ら作り出したものに縛られるのが好きなようだ。

そもそも「自分」という認識すら自分が作り出したものだ。これについては、また別記して考えてみたい。

話を戻す。時間というものは人間が作り出したものである。だから一日という時間の概念には何も意味がない。
意味を持たすことができるのは、各自の意識だけである。
意識もなく、一日を過ごした人は、その日をパスしたことになる。知らないうちにパスを繰り返している人が多くなってきているような気がする。
人生という山札は無限ではない。いつまでも次のカードを引き続けられるわけではない。終りが近づいたことを知ったときに、全てをひっくり返してくれるようなジョーカーは存在しない。
人間にできることは、淡々とカードを引いて、なんとか手札に良いカードを残す努力だけである。

 祇園精舎の鐘の声
 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色
 盛者必衰の理をあらわす
 おごれる人も久しからず
 ただ春の世の夢のごとし
 たけき者も遂には滅びぬ
 偏に風の前の塵に同じ

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