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ツールと脳

ぜんぶ頭に入れるから:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

書こうとする文章が一定以上に長くなると、全体像を頭の中で組み立てることはできなくなる。

たとえば、この文章は、上記のコピペを貼り付けて、「さて」という感じで指をポキポキ鳴らした後(比喩だ)書き始めている。どのように書くか、何を書くかについてのアウトラインは、事前にはいっさい構成していない。もし、この後に続く文章に見出しが出てきたら、それは書きながら、あるいは書き上げた後につけられたものである。後付けの構造化。

事前には、構造はまったく存在しない。そして、書きながら、あるいは書き上げた後にそれを構造化できる。エディタ以外のツールを使うことなくそれができる。それは文章の全体像が頭に入れられるからこそ、できる行為だと言えるだろう。

どこに限界があるのか

一方、本を書くときには章立てを行う。第一章は〜〜について書き、第二章は▼▼について書き、というやつだ。それが5つか6つくらいであれば、これまた脳内で、脳内だけで組み立てることができる。しかしそこまでだ。それぞれの章に具体的にどう項目を立てるとなるとお手上げである。一つの章だけでも難しいが、それが3つも4つも集まったら悲劇的なことになる。

長さ自体よりも、要素間の関係が急速に複雑さを増すことが問題だ。

指摘されている通り、長さが問題なのではない。どれだけ長くても、それが単調で、線形に演算可能であればおそらく脳内だけでもやっていける。が、文章というのはそういうものではない。それが問題なのだ。

第一章第一項で書いたことは、第三章第四項で書いたことよりも「前」に位置している。そこには前後関係があり、文脈がある。説明の粒度があり、口調のテンポがあり、比喩のパターンがある。書く人はそれらをバラバラに書くのかもしれない。しかし、読み手はそれをリニアに摂取する。そのことを念頭に置いて、文章は構成されなければならない。

たとえば、この文章が上の段落から始まったらどうなるだろうか。不自然に決まっている。意味もわからない。そうであることが、私には脳内でわかる。だからこそ、これくらいの文章にはエディタ以外の他のツールは必要ない。しかし、文章量が増えるとこうはいかなくなる。要素同士の関連性が増え、制御しなければならない文脈は無数に増大する。

[問]
A、B、C、D、Eという5つの要素を、一列に並べる並べ方はいくつあるか。

これくらいなら頭の中で数えることができる。ではこれが、20や30であれば? そしてそのうちのたった一つを「これが良い順番だ」と決める場合は?

脳にはお手上げだろう。

ツールの効能とその違い

とりあえず書いてみて、はじめて何をどう書けばいいのがわかる。より正確にいうと、何をどう書けばいいのか考える素材を手に入れることができる。

アウトライナーやカードに書き出すと、二つのことが可能となる。

まず、頭の中の素材を一覧できるようになる。書こうとしていることがマジカルナンバー(7±2)以下ならば、脳内のメモリで処理できる。それ以上であれば、無理だ。外部化__物質への定着化__を行わなければいけない。

ただしそれだけであれば、カードと大きな一枚の紙、エディタとアウトライナーに大きな違いはない。違いを生むのは二つ目の要素、つまりそれぞれの要素の「断片化」であり、そこから導かれる「操作可能性」の付与である。

この要素は、認知的要素(アフォーダンス的要素)と、機能的要素の二つがある。

アウトライナーは、一行ごとに別の要素として扱われる。カードはどれだけ頑張っても書ける文字数は限られている。よって、ユーザーに「これは断片ですよ」という認知を促す。それは「文章」ではないのだ。だからこそ、組み換え・入れ替えようという気持ちが生まれる(あるいは刺激される)。

機能的要素は、たとえばアウトライナーならば下位の要素を隠すことあできるし、カードならひとまとまりのカードを山にまとめることができる。人間の脳にとって目に入る情報は、思考の道行きに大きな影響を与えるのだから、これはかなり実際的な影響を持つ。大きな紙やエディタはこれは不可能である。

前者の要素については、たとえば「紙には鉛筆で書く」(エディタブルにする)や、「エディタで一行ずつ改行していく」などの使い方で、ある程度その要素を似せることができるが、後者は根本的に無理である。物真似できるのは半分まで、ということだ。

さいごに

結局のところ、何が言えるのだろうか。簡単だ。

「ある種の行為に行き詰まったら、ツールを替えてみる」

特にある行為のおいて、脳の負荷の増大を感じるようであれば、何か別のツールを触ってみるのが良い。

マクルーハンは「メディアはマッサージである」と言った。それと同じで、ツールは私たちの脳の働きに影響を与える。いやむしろ、それは脳の働きを規定してしまうとすら言える。ツールは私たちにある種の能力を付与してくれるが、それはまた別の物の見方を制限するということでもある。だからこそ、軽やかにツールを移動するのだ。

逆に言うと、「このツールさえ使えば、すべてがうまくいく」という言説は、だいたいにおいて(それもかなり高い確率で)戯言である。世の中は__というか、私たちとツールの関係は__そんな風にはできていない。

「ツール」は重要ではあるが、個々のツールはそれほど重要ではない。

これは肝に銘じておきたいところである。ツール原理主義は、すぐに行き詰まってしまうだろうから。

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アウトラインはなぜ目次ではないのか

inspired by アウトラインと目次:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

「これから昔話をするね。桃太郎っていう一人の勇敢な男の子の物語なんだ。その物語には、鬼が登場して、犬やら猿やら雉が大活躍するんだ……」

これは概要だ。つまり、アウトラインである。

あなたは、このアウトラインを子どもに伝え、その後、実際に物語を語り始める。

「昔々あるところに、おじいさいんとおばあさんがいました」
「名前は? 名前はなんていうの?」
「おじいさんとおばあさんは、二人だけで生活していたから、名前は必要なかったんだ。互いに、おじいさん、おばあさんと呼んでいたんだ」
「そんなのおかしいよ。だって、おじいさんはおじいさんだからおじいさんなんでしょ」
「そうだね。おじいさんとおばあさんにはたしかに昔孫がいた。でも、その孫は流行病(はやりやまい)にかかってしまったんだ。それを治療するための薬は、遠くの島にしか存在しない。しかもその島はうわさによると鬼たちによって占拠されてしまっている。とても勇敢だったおじいさんの息子(おとうさんだね)は、意を決して薬をとりに島に向かった。でも、一ヶ月経っても、一年経っても帰ってはこなかった。孫も病に負けて死んでしまった。そのようにして、おじいさんとおばあさんは二人暮らしになったんだ。二人は、できるだけ昔のことを話さないようにしているんだけど、お互いの呼び方だけは変わらなかった。わかるかい?」
「かなしいね」
「そう、だから、あまり呼び方については触れないであげよう」
「わかった」

実際の執筆とは概ねこのようなものである。ツッコミをいれるのは、たいてい自分だが、やっていることはかわりない。

執筆を始める前は、「このようなことを書こう」というイメージはできている。配置すべき要素も、話の流れも固まっている__ように思える。しかし、実際に執筆を始めてみると次から次に書くこと、書くべきことが出てくる。それらは、概要を考えているときには、まったく想像もしなかったことばかりだ。私もまさか、おじいさんに息子と孫がいたとは露も知らなかった。

ここで二つの選択がある。こうしたツッコミを無視するか、受け入れるかだ。

無視すれば、話は概要通りに流れていく。受け入れたら、上記のように追加の説明が必要になってくる。タチの悪いことに、そうした説明をしていると、単なる肉付けだけに終わらず、最初に語った概要そのものに影響が出てくることもある。フィードバック・ループだ。

どちらが「正しい」のかをここで断じることはしない。しかし、「わたし」という人間の想像力が、一瞬のうちにすべて発揮されると想定できないのであれば、後者のやり方のほうが豊かな作品が生まれてきそうな気はする。想像力を時間的に積分するのだ。

上記の追加要素を語ったことで、

・おそらく桃太郎は、亡くなった孫と瓜二つの顔をしている
・→だから二人はその子どもを育てる気になった
・→その代わりおじいさんとおばあさんの間で一悶着はあっただろう
・桃太郎は鬼ヶ島で、おじいさんの息子と再会する
・→どうなるかはわからないが物語にとって重要なイベントになる
・おじいさんの娘、つまり息子の嫁はどうなったか。伏線である

という要素が生まれた。「このようなことを書こう」と瞬間的にイメージした話にはまったくなかった要素だ。

こうして思いついた要素をすべて切り捨ててしまってもいい。瞬間的なイメージに固執して、すべてをそれに従わせる手もあるだろう。あるいは、気ままな部下に翻弄される中間管理職のように、それぞれの要素に身を任せて、自分は脱線しすぎないように流れを整えるだけの立場に立つこともできる。

どちらでもいい。どちらが好みか、という話にすぎない。

アウトラインは、目次だ。
アウトラインは、目次ではない。

どちらも正しいことがある。所詮は、物事をどのように進めていくのかのスタンスの違いなのだ。

驚くべきなのは、一見「アウトライン=目次」派のためのツールに思えるアウトライナーが、実は「アウトライン≠目次」派にとっても有用だ、という点だ。この点は、しっかりと確認しておきたい。

ちなみに、私にとってアウトラインは目次とはほど遠い。きっと、お父さんの鬼ヶ島での活躍をスピンオフで書いてしまうくらいだから。

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アウトライナー・ライティングの型 〜その1 ドリッピング〜

アウトライナーを使う執筆方法を考察していきます。今回は第一回。

参考文献は『アウトライナー実践入門』ですので、そちらもよろしく。

ドリッピング実践

たとえば、次のような文章があったとしましょう。

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文章内の構造はゼロ。内容的にも未完成で、単に材料を並べただけの状態です。ここに手を加えていきます。

まず、冒頭にある文章のかたまりに注目します。そして、一連の文章は何を語っているのかを考えます。「これをひと言で言い表すならどうなうなるだろうか」。深く考える必要はありません。ただ、的確に捉えればよいだけです。ざっくりとしたものでも思いつけば、それを項目として新しく追加します。

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そして、その項目の下に「一連の文章」を配置します(複数行を選択してTabキーを押す)。ここでのポイントは「一連の文章」です。言い換えれば、どの行までが「一連の文章」となるかの判断が必要です。言わば、切れ目を作る作業です。

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ちなみに、この判断には「正解」がありません(少なくとも採点してくれる人は誰もいません)。ある文が半分ぐらいその項目に入って、もう半分は別の項目に入りうる、ということもありえます。後から考えてみたら、違う配置が適切だったということも十分ありえます。いささか悩ましいところですが、アウトライナーは簡単に再編集できますので、とりあえず心を決めて「えいや」と文章に切れ目を入れます。

あとは、それを繰り返していきます。

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仮見出しとその効用

このような作業を、ドリッピング(dripping)と呼ぶことにしましょう。

すでにある文章の素材から、それぞれのエッセンスをぽたぽたと抽出する作業です。

この作業は、『アウトライナー実践入門』のp.89で述べられている、「整理のための見出しつけ」に相当します。

打ち込みが終わったら、メモの断片ごとに内容を示す見出しを付けていきます。整理のためのものなので、深く考える必要はありません。内容のまとまりごとに、自分がわかるような見出しの下にくくればいいのです。

あるいは、p.126、p.127で紹介されている「流れをチェックするための仮見出し」や「編集用の仮見出し」に対応していると言ってもよいでしょう。ポイントは以下にあります。

仮見出しの使い方は、他にもいろいろ考えられます。共通しているのは、完成した文章には残らないということです。アウトラインは読者のためではなく書き手のための道しるべだということを一番わかりやすく示した使い方かもしれません。

ドリッピングで生み出した「見出し」にも同じことがいえます。

その「見出し」は、最終的な文章においても見出しとなるかもしれませんが、それが本来の目的ではありません。あくまで文章に切れ目を入れ、複数の「ひとかたまり」を作ることが目的です。そうすることで、大きく二つの効果が得られます。

  • 文章全体のエッセンスが捉えやすくなる
  • 文章をエッセンス単位で編集しやすくなる

たとえば文章全体が2000文字ぐらいで、300〜400文字でワンブロックができたとしたら、5〜6個の「見出し」__ハンドルと呼んでもいいでしょう__ができることになります。そのハンドル群を眺めれば、その文章がおおよそ何を言わんとしているのかはわかります。

奇妙な話に聞こえるかもしれません。文章を書いている当の本人が、「その文章がおおよそ何を言わんとしているのか」をわかろうと努めるというのは、なにやらねじくれています。

が、実際にその規模の文章を書いたことがある人ならば、くどくどした説明は不要でしょう。たいてい、頭から読んでいかないと自分が何を書こうとしているのかは捉えづらいものです。このドリッピングは、その把握をサポートしてくれます。

また、そうして生まれたハンドルを使えば、内容(ないしは構造)の整理はぐっと容易になります。たとえば、実際のハンドルをいくつか並べてみましょう。

「一人でいろいろできる人は限られている」
「そこで出てくるのが、複数人の力を合わせることです。」
「出版のはじまり出版社のはじまり」
「利益とコストの構造」

若干粒度がとっちらかっていますが、少なくともこうして並べてみれば話の流れ方が検証できますし、必要ならばドラッグ操作一発で順番を入れ替えることもできます。

たとえばいきなり「出版のはじまり出版社のはじまり」を持ってきて、歴史を振り返る話からスタートさせる展開もありうるでしょう。その他の文章パーツがその流れにぴたりとはまるならしめたものです。うまくいかないならば、現バージョンで進めることもできます。

こうした利便性・操作可能性が、ドリッピングを行うメリットです。

まとめ

このドリッピングは、KJ法における「概念づくり」に対応しています。単位化し、圧縮化する作業です。そうすることで、認知的な把握容易性が上がり、また情報操作容易性も上がります。

おさらいしておきましょう。

ドリッピングは、すでにある素材からそのエッセンスを(あるい概念を)抽出することです。あらかじめ立てておく「見出し」ではありません。その意味で、ボトムアップ的行為と言えるでしょう。

また、そのエッセンスはアウトライン上で構造を把握したり、操作するときに役立ちます。ハンドルとして使えるようになるのです。

そのようにして作成したハンドルは、最終的な文章に残す必要はありません。よって、ハンドルの内容は「自分がわかればよい」レベルで十分です。表現に細かく気を遣う必要はありません。ただ、的確であればよいのです。

少し長めの文章を書いていて、「あ〜も〜、よーわからん」となってきたら、このドリッピングを行ってみてください。ぐっと文章が操作しやすくなるはずです。

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『アウトライナー実践入門』考察 | アウトライナー概論 零章

「アウトライナーとは何か?」

ようやくこの問いに取り組めるようになった。足場となる書籍が発売されたからだ。

まずはこの『アウトライナー実践入門』を点検していこう。それによって、議論のアウトラインを描いてみたい。

アウトラインとは何か?

本書でいう「アウトライン」とは、ひと言でいうと「入れ子状になった箇条書き」のようなものです。

簡潔な説明だ。「入れ子状になった」は「階層構造を持つ」と言い換えてもいいだろう。

まずこの段階で、はるか彼方の「匂い」が感じられる。キーワードだけを目印代わりにおいておくと、べき乗則・自己組織化・フラクタル・臨界状態だ。地震の専門家であるクリストファー・ショルツの言葉「地震は、起こりはじめたときには、自分がどれほど大きくなっていくか知らない」も添えておいていいだろう。

ともあれアウトラインが「入れ子状になった箇条書き」であるならば、アウトライナーはそれを作成するためのツールだと言える。本書ではこう定義されている。

ここでは、アウトライナーを「アウトラインを利用し<文章を書き、考える>ためのソフト」だと定義しておきましょう。

おそらくこの定義__議論の出発点__が本書のコアである。

「アウトライナーを利用して、文章を書く」ならばイメージはたやすい。なぜなら、私たちは頻繁に「入れ子状になった箇条書き」を目にしているからだ。書籍の冒頭をパラパラめくってみるといい。ほぼ必ず「目次」があるはずだ。その本の構造が箇条書きで示されている目次は、まさに「アウトライン」であり、文章を書くときにそれが必要になることは誰でもわかる。

しかし本書はそこに「考える」をつけ加えている。それが本書の存在感と魅力の一部でもあろう。しかし、これは危うい賭けでもある。なぜなら「考える」という言葉自体が危ういからだ。これほど実体が見えない言葉もない。また、「考える」には必ず自己言及のトラップが伴う。哲学者なら指をポキポキならして戦闘態勢に入ることだろう。

しかし本書は「考える」とは何かを定義しない。むしろ、それをプロセスとして実際例を提示する。これには舌を巻くしかない。

著者は『アウトライン操作の5つの<型>』という形で、「思考」を「操作」に置き換えた。言葉通り<型>(あるいは形)を与えたのだ。さらに、章1つを使って、アウトラインが実際に操作されていく流れも明示している。「考える」を、「考え」させずに、「体験」させていると言ってよいだろう。この賭けは著者の勝ちのようだ。

ただし、『アウトライン操作の5つの<型>』はまだ検討の余地はあると思える。5つの型それぞれについての検討及び下位要素への分解、さらに他の型の検討。このあたりが課題になりそうだ。

ともかく、アウトライナーが「アウトラインを利用し<文章を書き、考える>ためのソフト」であり、「アウトラインを利用し<文章を書き、考える>こと」が、アウトライン・プロセッシングであると本書は置く。「アウトライン・プロセッシング」というのは、『思考のエンジン』で奥出直人氏も使っていた言葉だが、それほど異端な言葉ではない。

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ワープロは、ワードプロセッサーの略称である。そして、ワープロを使って、言い換えればワープロの機能に最大限最適化した形で文章を書く作業は「ワード・プロセッシング」と呼びうる。そこに新しい名前を与える必要があるくらいには、「原稿用紙に文章を書く」と「ワープロで文章を書く」行為は異なっている。その点は木村泉氏が『ワープロ作文技術』などで指摘している。

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「アウトライン・プロセッシング」も同様に考えてよいだろう。ただし、「アウトライン・プロセッシング」をどのように位置づけるかは検討できそうだ。それはまったく新しい何かなのか、「ワード・プロセッシング」と同じ階層に置かれるのか、それともその系譜(あるいは進化)として扱われるのか。これも一つの課題である。

この課題はそのまま「アウトライナー」というジャンルが、どのように位置づけられるのかの問題と呼応している。それは独自のツールなのか、機能特化のワープロなのか、それともまだ見ぬ「文章エディタ」の萌芽なのか。この問題は、私たちの生活において「考える」という行為が、どのように位置づけられるのかにも関わってくる。言い換えれば、誰のためのツールなのか、ということだ。

なかなか複雑で大きな問題である。

さいごに

思いつくままに書いていたら、p.15までで一原稿分になってしまった。まだまだ書くことは多いのだが、とりあえずはこれまでにしておこう。

私が考えたいのは、アウトライナーというツールの役割であり、位置づけである。それは、情報・思考・知識の操作を補助するツールではあるのだが、それだけでは何の説明にもなっていない。なぜそれが有用なのか、またどう使えばその有用性を発揮できるのかを検討したい。

また、アウトライナーの思想とWorkFlowyの思想は、慎重に切り分けて検討する必要もあるだろう。本来はそれぞれ別に議論されるべきだが、重複する要素が多いのでやっかいではある。むしろ、アウトライナー概論の一章に「WorkFlowyの思想」を割り当てるのが自然なアウトラインのような気もする。

というわけで、まだ始まったばかりである。

「アイデアは、起こりはじめたときには、自分がどれほど大きくなっていくか知らない」

ともかくはエネルギーを蓄えて、振動し続けるしかない。

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WorkFlowy企画:第八回:脳のオーガナイズ

WorkFlowy企画:第七回:かき混ぜることから生まれるもの

脳のオーガナイズ

これまでWorkFlowyの特徴を紹介してきた。簡単にまとめてみよう。

  • クラウドなので、「いつでも」使える
  • テキストのみだが、その分動作が軽快
  • 要素の組み替えが可能なので流動的なものを受け止められる
  • ズーム機能により「今何を考えているか」の縮尺を変更できる

こうした特徴により、WorkFlowyは脳のオーガナイズに用いることができる。

素晴らしいことなのだが、反面問題もある。それはわかりにくいことだ。明示的に「こう使えばいいですよ」と示すことができない。

それは流動的なものをテンプレートといった固定的な形式で表現することの限界でもあるし、そもそもあなたの脳について知っているのはあなた自身であるから、ということでもある。

有用な使い方の「例」はいくらでもあげられるが、それを使ったときにあなたの脳がフィット感を覚えるかどうかまではわからない。それはやってみるしかない。そして、違和感を感じるならば、よりそれが小さい形を自分で模索するしかない。

そういう前提を共有しておこう。

その上で、私が使っていて「うむ、これはなかなか良いものだ」と感じるのは、第一に本のアウトラインを考えているときだ。さすがにこの作業はEvernoteでは辛い。要素を書き出し、その配置を換えていきながら、適切な順番を見出すこと。そうした思考のプロセス(俗に言う「考える」という行為)を行うとき、WorkFlowyはフィットする。

第二に面白い発見だったのが、Evernoteの構造の「仮組み」をすることだ。

Evernoteも自分の使い方に合わせて構造を変えていける新時代の知的生産ツールではあるが、ノートブックを新しく作ったり、ノートを移動させることは、少なくともアウトライナーよりは手間がかかる。すると、プロトタイピング・プロセス(ためしに作って、徐々に改良)が進めにくい。

そこで、これからEvernoteで作ろうと思っている構造をまずWorkFlowy上で作り上げ、それを運用してみるのだ。もちろん、画像が使えないとか、外部から送信できるinboxが存在しないだとか、違いはいろいろある。しかし、「どういう情報」を「どのように振り分けれ」ば自分の中でしっくりくるのかの確認はできる。

使っているうちに、あたらしいカテゴリー(ノートブック)を思いつくかもしれないし、使ってみたら不必要だったことがわかるカテゴリーもある。そうやって、徐々にフィット感を高めていって、落ち着いたら「じゃあ、Evernoteでやってみましょう」とデプロイするわけである。

こういうやり方はなかなか面白く、あたらしい。

さいごに

今回の連載では、観念的なことを集中的に扱い、具体的な「使い方」についてはほとんど触れなかった。その辺りは、第二回の連載があれば展開していこう。

操作方法については、ブログ「単純作業に心を込めて」さんの、

「 WorkFlowy 」

をご覧になると良いだろう。かなり詳しい説明が繰り広げられている。

また、アウトライナーというツールのコンセプトについては度々登場しているが、以下の本が参考文献だ。

アウトライン・プロセッシング入門: アウトライナーで文章を書き、考える技術
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WorkFlowyは、面白いツールである。カテゴライズすればアウトライナーなわけだが、このツールが志向しているのは、実際の所それよりももう少し広いレイヤーである。使い込んでいけば、そのことは徐々に体に染み込んで理解されるだろう。

おそらくではあるが、WorkFlowyのAPIが公開されたら「使い方」のバリエーションはさらに広がる。IFTTTなんかに対応すると、もう手が付けられなくなるに違いない。そういう展開を待ち望んでいるところである。

では、また機会があれば第二回の連載で。

Make your List.

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WorkFlowy企画:第七回:かき混ぜることから生まれるもの

WorkFlowy企画:第六回:すべての根源たるもの

Shake!

WorkFlowyは何に使えるのか。

もちろん、リスト形式で扱えるものなら何にでも使える。買い物リスト、タスクリスト、アイデアメモ、原稿の下書き(箇条書き)、エトセトラ……。

ただ「書き終えた原稿の保管場所」としては、いまいちかもしれない。書き終えた原稿は消してしまうか、あるいはcompleteして見えなくするのが良いような気がする(もちろん、保管場所として使えないわけではない)。

二つの極を考えよう。

一つは現実世界の「もの」だ。アウトプットと言い換えても良い。それは単一である。もう一つの極は、私たちの頭の中(認識の状態)であり、それは混沌である。

私たちはその混沌から素材を切り分け、調理し、何かしらまとまりのあるアウトプットへとまとめていく。頭の中では、あれとこれとそれとが混ざり合っていたものを、「これは、あれです」と整えて、他人にわかる形で提出する。

WorkFlowyは、その中間あたり、あるいは少し頭よりのものを入れておくのに適している。そうしたものは、アウトプットのように固まりきってはいない。いつでも変化する可能性を秘めている。言い換えれば、うごめいている。じつに流動的な存在だ。

『アウトライン・プロセッシング入門』の中に、「シェイク」という概念が登場する。トップダウンとボトムアップの視点を交互に行き来するアプローチのことで、バーテンダーがシェイカーを上下に振る動作を何度も繰り返す、というイメージがあるのだろう。

「シェイク」は動詞であるが、日本語では名詞でもある。マクドナルドとかで買えるあれだ。ミルクセーキ。

そのシェイクは、飲み物なわけだが「液体よ!」という感じもしない。かといって、「固体ですたい!」という雰囲気でもない。中間的な存在だ。リキッドでもソリッドでもない。ある程度のかたまりはあるが、固まりきってはいない。シェイク。

WorkFlowyは、そうしたものをうまく受け止めてくれる。

ただし、それはWorkFlowyに保存しておけばOK、ということにはならない。シェイクというのは、やはり動詞なのだ。何もせず放置しておけば、それはいずれどちらかの極に偏りすぎてしまう。上に振り上げ、下に降り下げを繰り返すこと。それがシェイクであり、それがシェイクをつくる。

ちなみにこのイメージの面白いところは、単なる液体をどれだけ混ぜてもやっぱり液体だ、ということである。それを固体に向けて進めるためには、何かしら異質なものが必要なのだ。が、そのイメージの探求はここでは避けておく。

「頭の中がもやもやしていたら、それを書き出してみること」というアドバイスはよくある。私も賛成だ。そして、それをシェイクできると面白い。そこから何かが生まれてくるかもしれない。

脳のオーガナイズ

第八回に続く)

▼参考文献:

アウトライン・プロセッシング入門: アウトライナーで文章を書き、考える技術
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WorkFlowy企画:第六回:すべての根源たるもの

WorkFlowy企画:第五回:Make Lists, Not War.

名前の付けられない大きなもの

ファイルを作るときに、絶対に必要になるものはなんだろうか。

そう、名前だ。ファイルには名前を付けなければいけない。何も付けなければ、システムが自動的に割り当ててしまうぐらい名前は必須の存在だ。

WorkFlowyにはファイルがない。従って、それに名前を付ける必要もない。全ての要素は「   」に含まれているのだ。

名前は便利な存在である。コミュニケーションを促進してくれる。名前を与えることは、機能を定義することでもある。それが何であるか、何でないかを決める。

しかし、名前は束縛する。どれだけ大きく、豊かで、含みのあるものでも、名前を与えると一部分に限定されてしまう。大きなクッキー生地に金型を押し込むようなものだ。

たとえば、限りなく超越的な存在である『神』ですらそうだ。おそらく、そこに名前がなければ、つまり感覚の段階であれば、そこにはこの世界のすべてを、そしてそれ以上のものすべてが含まれているはずだ。

しかし、名前が付くことで、それは人間の認識に限定され、勘違いや誤解を生じさせる原因となる。ただありのままに受容すれば満ち足りていたものが、言い争いの材料になったりする。

「名前」という便利なツールに付随する副作用のようなものだ。

WorkFlowyは、一枚の大きなラインにすべての要素が配置される。そして、それらは交換可能であり、配置換え可能である。「これはあれ、あれはこれ」だ。そして、すべてがつながっている。どのような要素であっても、それは「   」に含まれた子でしかない。

皆が等しく、平等であるとは言えない。階層があり、自分の子の豊かさの違いはある。差はあるのだ。しかし、根源は同じである。辿っていけば、いずれ同じところにたどりつく。

私は京都府民である。だから、他の京都府民と同じ地平にいる。私は日本国民であるので、他の日本国民とも同じ地平にいる。これはいくらでも拡大していける。地球市民、宇宙市民、三次元市民……。そして、→∞で、根源にたどり着く。決して名前の付けられない、大きな根源へ。

こうした拡大には、すべてのものが含まれる。人類の同一性ばかりではない、その他の動物だって、道ばたに転がる石ころだって、→∞のどこかで同一性の中に飲み込まれていく。

これは、世界の在り様であり、私たちの認識の在り様でもある。

すべての要素は決して名前の付けられない大きな根源に属するし、またすべての要素は私の認識の下にある。私の横でニコニコ笑う妻も、目の前にあるMacBook Airも、そろそろ湯気が消えつつあるコーヒーとコーヒーカップも、(階層の違いはあるにせよ)「私が認識している」という点では、同一のラインに属している。我認識する、ゆえに世界あり。

どれほど美しくみえることでも、どれほど愚かしくみえることでも、「(私が)みえている」という点では同じだ。すべての要素は、私が認識の下に接続されている。そして、その根源には名前を与えることができない。名前を与えようと意識した段階で、それは認識の下に接続されることになるからだ。それは、ただそこにあるだけ。

世界の在り様と、私たちの認識はコインの裏表のようなもので、結局は同じことである。すべての根源は同一で、しかも名前を与えることはできない。

WorkFlowy(およびEvernorte)の設計思想は、ファイルを持たない。下に含まれるものはいろいろあっても、根源は「     」である。

そしてその構造は、私たちの認識が__つまりは脳のメカニズムが__そうなっている以上、脳にフィットするためには必須なスタイルなのかもしれない。両ツールの開発者がそれを意識してこうした構造を採用したのかどうかはわからない。しかし、利用者として感じるこれらのツールの「自然さ」は、ぬぐいがたい感覚である。

もちろん、普通に利用する上で「そうか、これは私たちの認識と世界の在り様のメタファーなんだ!」なんてことを考える必要はない(疲れるだけだ)。

ただ、最初は違和感を覚えるかもしれない「ファイルがない一つのものに、どんどん保存していく」が、やってみると存外にフィットすることは知っておく方がよいだろう。

Shake!

第七回に続く)

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WorkFlowy企画:第五回:Make Lists, Not War.

WorkFlowy企画:第四回:根源たる場所

Make Lists, Not War.

WorkFlowyの左下には、こんなフレーズが載っている。

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「Make Lists, Not War.」

ヒッピー文化の「Make Love, Not War.」のモジりなわけだが、この言葉には気の利いたジョーク以上のメッセージが込められている。どういうメッセージだろうか。

たとえば、次のような二つのリストを作ったとする。

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プロジェクトA、プロジェクトBにはそれぞれ3名が含まれていて、Aに含まれている人はBには含まれていないし、Bに含まれている人はAには含まれていない。排他的である。ファイル形式であれば、別のファイルとして作成された可能性もある。特に両者のプロジェクトに何の関係性もなければそうなるだろう。

しかし、WorkFlowyにはファイルがないので、上のような作り方をすることになる。何か一つの大きな項目の下部リストとして作るしかない。それは、WorkFlowyで作成する全てのリストについて同じことが言える。

すると、次のような二つの思想的視点が生まれてくる。

  • 全ての要素は交換可能である
  • 全ての要素は「名前の付けられない大きなもの」の一部である。

ずいぶん大げさな話になってきたが続けよう。

WorkFlowyは、どのようなリストも一番大きなリストの下に位置することになる。そして、これらの要素はドラッグで移動可能だ。プロジェクトAに配置された人を、すぐさまプロジェクトBに移動することができる。つまり、それらは流動的であり、プロジェクトA、Bというのは暫定的な仮置きの場所でしかない。

「あれは、これ」であり「これは、あれ」であるのだ。私はあなたであり、あなたは私でもありうるのだ。

だから日記を書きながら考えたことを報告書の文章に混ぜ込むことができる。全然違う文脈のアイデアを、ひょいと持ってくることができる。イマジナリーに引かれた境界線をやすやすと越えることができる。仕事とプライベートを飛び越え、遊びと思想を飛び越え、敵と味方を飛び越え、過去と未来と飛び越える。全ては交換可能・配置換え可能な要素であり、そしてつながっている。

プロジェクトごとにファイルを作り、それぞれを開かないと中身が閲覧・操作できないツールでは、このようなことは不可能である。

WorkFlowyはリストという境界線を引くが、その境界線は暫定的、流動的、仮説的なものでしかない。このツールが育む思想的視点は、いわゆる「レッテル貼り」とは真逆の方向性を持っている。固定ではないのだ。ある場所に置かれたものが、まったく別の場所に置かれうる可能性を提示する。

それがどれほど可能性に満ちているかを想像できるだろうか。そこにはアイデアの閃きがあり、慈愛があり、共感があり、同情がある。「あれは、これ」であり「これは、あれ」であるのだ。

イマジン。

名前の付けられない大きなもの

第六回に続く)

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WorkFlowy企画:第四回:根源たる場所

WorkFlowy企画:第三回:ファイルがないこと

根源たる場所

ファイル構造がなく、すべてを一枚のアウトラインに収める、というのは居心地が悪いよう思えるかもしれない。パソコンのファイル形式に慣れていれば、特にそう感じられるだろう。

また、意識の問題にしても同様だ。私たちの意識は__「言葉」によって創出され、維持される意識は__、「あれは、あれ」「これは、これ」という傾向を強く持っている。全てがごちゃまぜに、一つにまとまっているのは違和感が強い。

しかし、私たちはそれぞれが一人の人間であり、一つの脳を有している。記憶も思考も、すべてそこで行われる。同一の主体が行う行為なのだ。

瞬間瞬間の私たちは、あたかも別の存在であるかのように感じるときがある。仕事をしている自分と、恋人と一緒にいる自分は、思っていること、考えていること、口にする言葉が違う。だから、あたかも違う存在であるかのように「感じられる」。

が、脳は一つである。それはビリー・ミリガンだって同じだ。

私たちは日記をつづり、仕事の報告書を書く。

アウトプットとしてはまったく別物だ。もし、報告書.docに日記.txtの文章が混ざり込んでしまえば、怒られることは必至だろう。しかし、報告書の文章に、日記を書きながら考えた論考を混ぜ込むことはおかしくない。むしろ、意義あるアウトプットはそんなところから生まれてくる。

脳は、カテゴリーごとに記憶を切り分けたりはしない。ファイルを分けたりはしない。だから、「ベンゼン環」を思い出そうとして「ジェレミ・ベンサム」という単語が頭に浮かんでしまう。蜜柑を食べながら、未完の作品についてふと考えてしまう。全てがごちゃまぜに、一つにまとまっていて、そのときそのときに応じて「切り出されている」だけだ。

WorkFlowyも、同じ構造になっている。

保存し、操作し、引き出す場所は単一。「すべてはそこにある」という感覚があり、実際的にもWorkFlowyにアクセスすればすべてが手に入る。ファイルを一つ一つ探し回る必要はない。目視でも検索でも、必要なものは見付けられる。

また「切り出し方」にもさまざまな方法がある。タグによるカテゴライズであったり、ズームによるフォーカスであったりと多様だ。

使う前に感じていたWorkFlowyに対する違和感も、徐々に使い込んでいくうちに消えていく。むしろ、この方が自然な気がしてくる。実際に、その方が自然なのだ。「あれは、あれ」「これは、これ」は人間の意識(主に前面に出ているもの)が持ち出した流儀であり、実際の本質ではない。あくまで意識にとっての便宜というだけだ。

そして、この設計(ファイルなし方式)は、ツールの使いやすさ・自然さだけでなく、そこに一つの思想を垣間見ることもできる。

Make Lists, Not War.

第五回に続く)

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WorkFlowy企画:第三回:ファイルがないこと

WorkFlowy企画:第二回:WorkFlowyの三つの特徴

ファイルがないこと

WorkFlowyの最大の特徴は、「ファイル」が存在しないことだろう。一連のアウトライナーツール群で見ても異質だし、知的生産を補助するツールで見ても同様だ。

私が最初にWorkFlowyを触ったとき、違和感を感じたのもここだ。ブランクのページにいくつか項目を追加し、順番を入れ換える。ふむ、なかなか良い。じゃあ、別のファイルを作って……「ファイル」という項目が見つからない。「New Page」のボタンも見当たらない。

……。

わかった。これは私が無料ユーザーだからだろう。機能制限を受けているのだ。有料アカウントになれば、たとえば3つとか5つとかファイルが作れるに違いない。

違う。解説ページを読み漁っても、そんな記述は一切ない。

WorkFlowyには、ファイルという概念はもともと存在していないのだ。ユーザーに与えられるのはただ一枚の大きなアウトラインだけ。

パソコンに慣れたユーザーならば違和感の方が強いかもしれない。どうやってこれでドキュメントを管理するんだよ、と。その戸惑いは、おそらくEvernoteと最初に遭遇したときに感じる違和感に通じているだろう。これまでの常識が通用しない、そんな感触だ。

Evernoteも、ファイルを持っていない。いや、実際はパソコンの都合上ファイルはある。ただ、ユーザーはファイル構造を意識しなくてもよい。そこがポイントである。つまり、扱うプロジェクトが変わるたびに「新規書類の作成」を押さなくてもよいのだ。そこにはドキュメントごとの切り替えはない。Evernoteというツールの(あるいはウィンドウの)上に、すべての情報が乗っかっている。それはつまり、プラットフォームとして機能するということだ。

WorkFlowyも同じである。ユーザーはプロジェクトごとにファイルを切り替える必要はない。すべてがWorkFlowyの中にある。それも一枚のアウトラインの中にある。

この両者が似た構造を持っていること、そして共に「脳」に言及しているのは、もちろん偶然ではない。機能的に重要な意味があるのだ。

根源たる場所


Make Lists, Not War.

第四回に続く)

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