Posts tagged: ショートショート

ため息

 はあ。ため息をついた。一体何度目のため息だろうか。
 ため息をつくと幸せが逃げてしまうなんて言葉があるけど、あれは嘘だ。幸せが逃げているからため息が出てくるのだ。観測者の認識違いによって、因果関係の混乱が生じている。ばかばかしい。
 はあ。もう一度ため息をついた。ため息をついている自分の状況にため息が出てしまう。冷蔵庫は空っぽだけど、買い物に出かける気力はない。ピザの配達を受け取るのすらおっくうだ。缶ビールの空き缶が山脈を形成している。
 はあ。これまでで一番大きいため息をついた。すると、一緒に気持ちも口から出てきた。ひさびさに見た。漫画なんかでは、よくハートマークで描かれる気持ちだが、実際はあんなわかりやすい形をしていない。ドイツ職人が作ったみたいな綺麗な円形のときもあれば、子守歌を歌いたくなるほどのジグザグさを持つこともある。不定形なのだ。でも、そのときの気持ちはいやにはっきりした形をしていた。四角形で固定されている。それに、とても冷たい。
 私は口から出てきた気持ちをしげしげと眺めた。何年ぶりだろうか。大学生、いやもっと前だろう。社会人になってからは、一度も目にしたことがなかった。そんなことをしている暇もなかったし、大人がするようなことではないとも感じていた。でも、ひさびさに目にした気持ちは、どことなく再会を喜んでいる風でもあった。冷たくはあっても、それは私の中から出てきたものなのだ。
 恐れ。嗤われることへの恐れ。四角形の気持ちはそれで凝り固まっていた。なるほど、それでは形は変わりようはない。私はひとさし指で、パチンとその気持ちをはじいた。ポンと小さな音がした。それだけだった。形は変わらなかったし、消えてなくなることもなかった。
 私は口からその気持ちを飲み込んだ。置いておくわけにはいかないし、適切に捨てるゴミ箱もない。私の中だけが、私の気持ちの居場所なのだ。でも、今度ははっきりその存在が感じられるようになっていた。心臓の右下の方で、今もその気持ちは脈打っていた。消えてなくなることはない。でも、少しは柔らかさを取り戻したかもしれない。別の形になることだってあるだろう。
 気がつけば、ため息は消えていた。

Send to Kindle

Rashita’s Christmas Story 8

 視界の端の時刻表示が23:59から00:00に切り替わる。セカンダリースペースに置いておいた動画サイトから、サービス名を高らかと宣言するPR音声が溢れてくるが、今は気にしている場合ではない。イベントの始まりだ。

 僕はずっと待機していたイベント入場画面の「開始」ボタンが、暗い背景色から、赤みがかったクリックを促すような明るい色に変わった瞬間にそれをプッシュする。すぐさまローディング画面が視界いっぱいに表示された。予想通りサーバーは混雑しているようだ。

 僕は一時的にオフスクリーンにして、体を伸ばす。疑似フルダイブ型のVRは、体の動きが画面操作に直結してしまうので、予想外の動作を避けるためにはオフスクリーンにするのが基本だ。せっかくいの一番に乗り込んだイベントを「戻る」でキャンセルしてしまっては元も子もない。なにせこのイベントは、その内容も得られる報酬も、事前にはいっさい告知されていない。「惨劇のクリスマス」という不吉なイベント名と、開始時間だけが開示されただけだ。

 今どきのゲーム運営ではずいぶんと珍しいスタイルで、プレイヤーたちは大いに戸惑った。だからこそ、ゲーム攻略情報を公開している僕にとってはまっさきに乗り込む価値があると言える。きっと、僕のような引きこもりゲーマーが画面の向こうで今か今かとローディングが終わるのを待っているだろう。さっさとイベントをクリアし、その内容と適切な攻略方法を真っ先に提示できたサイトは、著しいPVをゲットできるだろう。通常のイベントでもバカにはならないが、今回は内容が不明瞭なイベントなのでいっそう期待できる。

「ゲーム運営会社からのクリスマスプレゼントみたいなもんか」

 僕は自分の冗談につい笑ってしまう。引きこもりのゲーマーにも振る舞われるクリスマスプレゼント。サンタさんも忙しい。

 now loading……の表示が消え、Ready? の文字がでかでかと表示された。

 僕は右手の親指と人差し指で輪を作り、少しだけそれを前に伸ばす。承諾のサインが受諾され、イベントが開始された。

※ ※ ※

「なんだ、あっけねぇ〜な」
 きっと、イベントに参加したプレイヤーは皆同じことを感じただろう。「惨劇のクリスマス」は、ソロプレイ固定イベントで、必要レベルも15〜だった。チュートリアルを終了して数日でもプレイすればたどり着けるレベルだ。また、ソロプレイ固定イベントは基本的に厄介な敵は出てこない。麻痺や石化は、単独戦闘だとそのまま死に直結するし、魔法しか効かない敵キャラは、武闘僧では絶対に歯が立たない。だからどうしても、誰がやっても問題なくクリアできる難易度設定になってしまう。

 攻略組にせよ、情報組にせよ、レベル100以上はザラザラいるので、このイベントは楽勝以外の何ものでもなかった。具体的な内容は、暴走したスノーマンを討伐すること。一応三段階の難易度が設定されており、街を徘徊するスノーマン、森に潜むスノーマン、ダンジョンを彷徨うスノーマンと徐々にレベルは高くなっているが、それでもレベル100のプレイヤーが苦戦するほどでもない。ダンジョンの奥に強力なボス__ビッグ・スノーマン__がいるかと思いきや、そういったものも一切登場しなかった。

 そもそもスノーマン自体、動きが遅く、攻撃力もほとんどない。低いボイスで威圧をかけてくるが、小学生低学年くらいでないとビビることはないだろう。どこまでいっても余裕の戦闘だった。

 それでも、スノーマンは後から後から湧いてきた。街が雪に覆われているのだから、それも当然だろう。ポップの限界はどうやらなさそうだった。

 僕は一体、また一体とスノーマンを屠っていった。イベント専用のウィンドウには、スノーマン・カウンターなるものがあり、その数字が徐々にカウントアップされていく。どうやら、どのマップでスノーマンを狩っても、カウントは同じように進むらしい。どのスノーマンでも困るレベルではないし、一応経験値もそれなりにもらえるが、イチイチ帰るのも面倒なので、僕は初期配置の街でスノーマンを狩ることにした。同じように考えているプレイヤーも多いようで、街には見知った顔が余裕の表情でスノーマンを狩っていた。

 珍しくイベント中にチャットが飛んでくる。普段は、生き馬の目を抜く__スノーマンを倒すよりもはるかに難しそうだ__戦いをしているもの同士、イベント中には一切情報のやりとりを行わないのだが、今回は「ハズれ」イベントの匂いが濃厚で、僕以外のプレイヤーも毒牙を抜かれているのかもしれない。僕も、半ば無意識でスノーマンを狩りながら、チャットのウィンドウを開く。情報組の古参プレイヤーからだった。
「おい、これいつまでやるんだ」
「とりあえず、100体を目指そうと思っている。カウントが3桁までしかないから、いっても999までだろう」
「なるほどね」
 無限にスノーマンが湧いてくる上、「この弱点を突かないと負ける」といった要素も皆無なので、攻略情報などどこにもない。ソロプレイ固定ゆえに効率的なパーティーの組み方も模索しようがない。ただひたすらにスノーマンを狩るだけ。それだけだ。あきれるほど退屈だが、不思議と撤退しているプレイヤーはほとんどいないようだった。まだ報酬が明らかにされていないからなのか、そうではないのか。

 次第に僕もスノーマン狩りに夢中になっていった。目の間に出てくる敵をただ倒す。そんな単調な作業は久しく忘れていた気がする。95、96,97、98、100。あっという間にスノーマンカウンターは100に辿り着いた。鈴鳴りのジングルと共に、大きなウィンドウが開く。
≪Congratulation! You get a present!≫
 提示された報酬は、ミステリーキューブ1つ。
 ……
 ショボい。実にショボい。ガチャすら回せない。まあ、イベント自体が簡単なものだったから、当然と言えば当然だけど、待機してまでイベントに一番乗りした期待は、思いっきり空振りしてしまった。
 ふとウィンドウのスクロールに気がつく。追加の説明があるらしい。
「おめでとうございます。あなたにはミステリーキューブ1つが送られます。あるいは、ミステリーキューブ1つをもらう代わりに、他の誰か二人にミステリーキューブ1つをプレゼントすることもできます。プレゼントしますか?」
 一瞬何が書いてあるのか理解できなかった。落ちているミステリーキューブ1は、ドラゴンの根城の前でも拾っておけ、がこのゲームの鉄則である。なのに、それをもらわないなんて選択があるだろうか。
 もう一度文章を読む。ゆっくりと氷が溶けるように、意味を吟味していく。僕がミステリーキューブ1つを放棄すれば、他の誰か二人が1つもらえる。つまり、全体のミステリーキューブが1つ増える、ということだ。
 僕は想像してちょっとゾッとしてしまった。貨幣でこんなことをやれば、一気にインフレになってしまうだろう。しかし、このゲームではシステム内でミステリーキューブが完結していて、直接トレードも金銭トレードも不可能になっている。完全に運営会社の管理下に置かれているのだ。だから、システム内でミステリーキューブがどれだけ増えても、新しいガチャなりなんなりを投下すれば問題は何も起きない。それにしても大胆な内容である。誰も反応しなければ、ただのショボいイベントで終わってしまうのだから。

 僕は考えた。普通に考えれば自分でキープしておくのが良いだろう。僕が誰かにミステリーキューブを送っても、誰かから僕にキューブが送られてくるとは限らない。どうやらプレゼント相手はランダムに選ばれるようなので、どれだけ有名プレイヤーと友達であっても意味は無い。でも逆に、ある程度のキューブがプレゼントされるならば、一定の確率で僕に返ってくることになる。というか、全員がプレゼントを選択すれば、確率上は期待値は2倍になるはずなのだ。
 しかし、100人中99人がプレゼントを選択し、ひとりだけが自分のポケットに入れてしまえば、そいつだけが少し得をすることになる。そして、誰もがそのひとりになろうとすれば、結局期待値は変わらない。
 どうやら運営会社は、ゲームのイベントを使って、別のゲームを僕たちにやらせたいらしい。

 周りを見渡すと、他のプレイヤーも虚空を見つめて止まっている。ウィンドウのメッセージを「読み取って」いるのだろう。僕はふと我に返り、思わず笑ってしまった。そもそもミステリーキューブ1つなんてそれほど価値のあるものではない。入手が困難だから貴重ではあるが、かといって少なくとも5つ集めないとノーマルガチャすら回せないのだ。でも、僕たちはついつい真剣にこのイベントの攻略方法を考えてしまっている。それがゲームというものなのだろう。

 僕が≪誰か二人にプレゼントする≫を選択すると、スノーマンカウンターはゼロに戻った。それを確認した後で、先ほど声を掛けてきたプレイヤーに僕の意図を開示する。すぐさま彼は同意してくれた。なんと言っても彼もゲーマーなのだ。いったんイベントからログアウトし、情報を待ち望んでいるあまたのプレイヤーに向けて僕はシンプルな記事を書いた。きっと彼も別のテイストで記事を書いてくれているところだろう。
「今すぐイベントに参加して、みんなにプレゼントを配ろう」
 タイトルをそうつけた記事のPVなど気にすることもなく、僕は即座にイベントに戻り、そのまま夜が明けるまでスノーマンを狩り続けた。時間が経つにつれ、プレイヤーは増え続け、スノーマンは惨劇に見舞われた。
 僕たちにはミステリーキューブが見舞われた。

 メリークリスマス!

Send to Kindle

断片作家の生涯

彼は断片作家だった。しかも超一流の断片作家だった。彼に並ぶものは誰もいなかったし、これから生まれることもない。なにせその呼び名は、彼に与えるためだけに生まれたのだ。孤高に作業を続ける彼に、世間が便宜的に付けた名前。それが断片作家だった。

30年以上、彼はそれを続けてきた。たった一人で断片を生み出し続けてきた。

彼は、あらゆるものを飲み込んだ。素材となるものならお構いなしだ。それを高性能のミキサーで切り刻んでから、断片としては吐き出す。ただひたすらにそれが繰り返された。吐き出されるものに、ジャンルと呼べるものはなかったし、カテゴライズ好きならば頭を抱え込んでいただろう。

そこには何の脈絡もなかった。何のつながりもなかった。それはセリフであり、書き出しであり、詩の一行であった。心理描写であり、情景描写であり、インスピレーションであった。

彼は自分が何を生み出しているのか、本当のところでは理解していなかったのかもしれない。ただただ押し出されるように、断片を紡いでいただけなのかもしれない。

彼にとって、それは花に水をやるような、太陽に手を掲げるような、風の音に耳を傾けるような、そんな行為だったのだ。彼は誰に誇るでもなく、誰に断るでもなく、誰に配慮するでもなく、ただ断片を生み出し続けた。

だから、これを読んでいる貴方は彼のことなど知りもしないだろう。全人口の99.9%も同様だ。彼のことを知っていたのは、唯一アーティストだけだ。オーサー、プロデューサー、プロダクター、クリエーター。なんと呼んでも構わない。何かを生み出そうとしている人間。何かを生み出すことの対価で、生計を立てている人間。そうした存在だけが彼のことを知っていた。いや、彼の生み出す断片を利用していた。

断片は、断片だ。それはアイデアとすら呼べない破片でしかない。だから、どんな法律もその生産者に権利を認めていなかった。だから、ありとあらゆるクリエーターがそれを利用した。

あるものは直接利用し、あるものはインスパイアを受け、あるものは切り貼りして使った。そして、大きな価値を生み出していった。彼らの財布は、彼らの欲望すら越えて膨張し続けた。

しかし、断片作家は何も言わなかった。そもそも、彼自身そんなものに権利があるとは考えていなかった。誰も恐れて訊くことはなかったが、もし問われていてもきっとこう答えただろう。好きにすればいいじゃないか。僕は断片を生み出す。誰かがそれを使う。そこには何の因果もない、と。

彼は何の対価も気にせず、何の名誉も気にせず、断片を生み出し続けた。そして、それを解放していった。気泡緩衝材を一つひとつ丁寧に潰していくみたいに。やがて、誰かが呼び始めた。彼のことを断片作家と。遅かれ早かれ、名前は付いただろう。実体があろうがなかろうが、認知された存在には名前が宿る。太陽が輝けば影が生まれるように、ごく自然なことだ。

不思議なことに、その瞬間から彼は作家になった。少なくとも、そう認知されるようになった。

断片作家と呼ばれるようになった男は首をかしげた。僕は何も生み出していない。何も作り上げていない。なのに作家なんて変じゃないか。当人のそんな思いは、あつらえた靴のようにぴったりフィットする名前の流通の前ではほとんど無に等しかった。彼は、断片作家になり、断片作家は彼になった。

後ろ前を逆に着てしまったTシャツのような居心地の悪さにも、やがては慣れていった。彼は呼称に自分のアイデンティティを馴染ませていった。一度馴染み始めると、むしろそうでなかった頃がうまく思い出せなくなるほどだった。それくらいその名前は彼に馴染んだ。

それでも彼は何も望むことはなかった。何も威張ることはなかった。信託を受けた巫女のように、畑を耕す農民のように、断片を生み出し続けていった。

本にすれば一体何ページになっただろうか。たとえ断片と言えども、積み重なれば膨れあがる。だが、彼はそんな仮説の計算すら拒絶しただろう。彼は構造を嫌った。統一を拒絶した。彼の中では、断片は断片であるときもっとも光り輝く。彼は、自分の何をも誇ることはなかったが、その輝きを自らの手で生み出していることには自負を持っていた。その自負こそが、作家という呼称を引きつけたのだろう。

あまたの断片が世に放たれ、その断片は彼の手から離れて構造へと取り込まれた。あるいは、統一を生み出す手がかりとなった。

不思議なことに、同じ断片を利用していても、それぞれのクリエーターが生み出す作品が重なることはなかった。それが、彼が超一流の断片作家と呼ばれた由縁だ。

彼の断片には、ほとんどすべての可能性とインスピレーションが詰まっていた。ダブルクリックする人によって、解凍されるものが異なる圧縮ファイルのようなものだ。光る目さえ持っていれば、どんな可能性でもその手に掴み取ることができた。人はそれを希望と呼ぶのかもしれない。彼はそれを断片と呼んだ。

老年にさしかかった直後、断片作家は病に冒された。質素な暮らしを送ってはいたが、健康に対する配慮は致命的に欠落していた。天涯孤独の身では、その変化に気がつくのも遅かった。ほとんど唯一とも呼べる友人が、顔色の悪さを指摘したときには、もう病院では手の施しようが無くなっていた。

床に伏せた彼に、その友人が尋ねた。死ぬのは怖くないかと。彼は笑って答えた。まったく怖くないと。

僕はもともと断片だ。それ以上でもそれ以下でもない。もちろん、生命体としての僕の体は巧妙に調整された統合システムだ。断片じゃない。でも、僕という意識はそうじゃないんだ。それはまごうことなく断片なんだ。知ってたかい。自己というのは幻想なんだよ。この不条理に満ちた世界で、理性が正常さを保つために生み出だした予防機能なんだ。その幻想があるからこそ、僕たちは前に進むことができる。でも、僕たちの本質は断片なんだよ。だから死ぬのは怖くはない。断片は決して消えないからね。位置する場所が変わるだけだ。

そう語る彼の口調は、安らかさを通り越して、ある種の荘厳さに満ちていた。

病は徐々に断片作家の体を蝕んでいった。しかし、彼はありうる限りの力で断片を生み出し続けた。それは試練のようでいて、返済のようでもあった。人によっては狂気にも見えただろう。それが彼という生き方だった。断片作家と呼ばれた男の生涯だった。

そうして彼は死んでいった。世界には、朽ち果てることのない断片が満ちあふれていた。

Send to Kindle

レシピブック

(先行者利益 + 累積的優位性 + 偶然的出来事) – ノウハウ = ?


「カレーがあるとするじゃない。すごく美味しいカレーが」
「いいね。食べたくなってきたよ」
「バカね、たとえよ、たとえ。で、そのカレーがすごく美味しかったから、レジでお金を払おうとしているときに、見つけちゃったわけよ」
「何を?」
「そのカレーのレトルトパックと、レシピブック」
「ふむ」
「そう、ふむでしょ。悩むよね。レトルトパックを買って帰れば、少々味は落ちるかもしれないけど、またあのカレーを楽しめる。でも、食べきったらおしまい。ゲームオーバー。でも、レシピブックなら」
「材料があるかぎり、何度でも作れる。オープン・エンドだ」
「そうなのよ。でも、レシピブックを買って帰ったからといってすぐに食べられるわけじゃないよね」
「そりゃそうだ。自分で作らないといけない」
「手間もあるんだけど、他にも問題があるのよ」
「たとえば?」
「そうね、まずキッチンよね。うちのキッチンってコンロが二つだし火力も弱いじゃない。だから、レシピに複雑な調理工程が含まれていたら、再現するのはちょっと難しいのよね」
「まあ、その辺はなんとかなるだろ」
「あと、食材。長野県産の無農薬農家から直接契約で手に入れたジャガイモを使っています、とか言われても、そもそも無理じゃない」
「その辺のスーパーのでいいだろ」
「だったらさ、それって普通のカレーにならない?」
「いやいや、そんなことはないだろう。そんなに美味しいカレーなんだから、食材が高級なだけだなんてあるはずがないよ」
「でも、食べてみないとわからないわよね」
「まあ、そうだけどさ」
「しかも、同じレシピで、違う食材を使って作って初めてわかるわよね。あっ、これって食材の力だけでレシピはあんまり関係なかったんだ、って」
「……」
「だから、いっそレトルトを買って帰った方がいいのかなって」
「いやいや、本当にそのレシピが力を持っているかもしれないじゃないか。その真偽はまだはっきりとしていないぜ。試してみないことには」
「たとえ損する可能性があっても?」
「その可能性は引き受けないといけないよ。なんだってそうさ」
「ふ〜ん」
「いいじゃないか。わかることが一つでも増えるんだから。それに宝物を見つけられる可能性もある」
「でもさ、なんでそのカレー屋さんは、そんなレシピ売ってるんだろう」
「そりゃ、一人でも多くの人にそのカレーの味を楽しんでもらいたいからじゃないのか」
「そうかもしれないけど、もし完璧にそのレシピで再現できるなら、誰もカレー屋さんに来なくなるんじゃない?」
「なんだかんだで、人は供されたいものだから、そんなことはないと思うけど」
「たんに売り上げを最大化したい、という可能性は?」
「ゼロではないだろうね。そういうのはちょっと見ただけでは判断つかないんじゃないかな。ともかくレシピブックを買わないことには」
「虎穴に入らずんば、ね」
「虎に喰われたくなければ、さっさと逃げることさ。平穏な日常が待ってるよ。それにスーパーの食材だって、君が作ったカレーなら美味しいよ」
「それはどうも」


ノウハウ = ○○ + △△

Send to Kindle

解毒剤

「博士、ついに完成しましたね」
「うむ。これで多発性認識偏向症を克服できる」
 さっそく博士と助手は、いくつかの試験を行い、効果と安全性を確認した上で、<解毒剤>として大々的に発売した。博士は研究一筋ではあったものの、研究にはお金がかかる。この<解毒剤>は、そうとうな売り上げが期待された。なにせ、いままで市場にはまったく存在しなかった薬なのだ。困っている患者は大勢いるにちがいない。博士は使えるだけのコネを使い、全国の薬局にその<解毒剤>を展開した。
 しかし、博士の読みは大きくはずれ、その<解毒剤>はまったく売れなかった。在庫は大きく積み上がるばかり。博士は困り果てていた。
「なぜこんなにも売れないのだ」
「ほんとうに不思議です」
 もしかしたら、症状を患っている人が思っているよりも少ないのかもしれない。そう思い、博士は路上でアンケートを採ることにした。立てられた仮説は、確かめるしかない。医療用に使われるチェックリストを持ち、博士は街に出た。
 当初予想していたとおり、症状を患っている人は少なからずいた。むしろ、想像よりも多かったくらいだ。しかし、現実には<解毒剤>はまったくと言っていいほど売れていない。
 博士は、いつもやるようにさまざまな手がかりを求めた。あたらしい仮説を立てる材料を探し回った。何か手がかりはないかと、大量に印刷して余っていたアンケートも自分でやってみることにした。
 50以上も続く質問に、一つ一つ回答を書き入れていく。取るに足らない質問ばかりだ。馬鹿馬鹿しい。最後の質問はこうだった。「あなたは、自分の認識が偏っていると思いますか?」
 博士は自信満々に「いいえ」に丸をし、その2秒後に全ての答えを悟った。
Send to Kindle

真・嘘発見器

「博士、ついに完成しましたね」
「うむ。まったく新しい嘘発見器だ。いや、嘘感知器と呼んだ方いいかもしれない」
さっそく助手が完成したばかりの装置を身につける。腕時計とヘヤーバンドのような二つ装置は、同じタイミングでほのかに緑色の光を明滅させている。
「何か、嘘をついてくれたまえ」
「1+1=4」
その瞬間、ランプが黄色に変わる。博士は満足そうに頷いた。「論理エラー。よし、次だ」
「私は女性です」
再びランプの色が切り替わる。今度は赤だ。
「心象エラ−。完璧だ」
博士が開発した真・嘘発見器(嘘感知器)は、発せられた言葉を構造解析し、それを発話者の心象風景と比較することで嘘を見つける。従来の発汗や心拍数を測定する装置とは一線を画したアプローチだ。嘘をつくときの動揺は、訓練すれば抑えられる。しかし、この装置に訓練は効かない。自分が考えていることと少しでもズレたことを言った瞬間に嘘を発見してしまう。
「テストを続けよう。何か、本当のことを言ってくれたまえ」
「1+1=2」
緑に戻っていたランプの色に変化はない。うむ、うむと博士は頷く。「次だ」
「私は○田○夫です」
ランプが赤色に変わる。博士の眉が上がる。助手も不思議そうに腕時計を見つめている。その姿を博士も見つめている。
「もう一度だ」
「私は○田○夫です」
やはりランプの色は赤。
「君は、ほんとうに○田○夫くんなのか」と博士は訝しげな視線を向ける。
「疑わないでください。別人などではありません。博士がご存じの通りです。長年一緒に研究を続けてきたではありませんか。私は、○田○夫です。間違いありません。くそっ、どうなってるんだ」
ランプは赤。装置は心象エラーを警告し続けている。
「ちょっと落ち着きたまえ。二つ質問をしよう。まず、今どんな気持ちだね」
助手がわずかに沈黙してから、言葉を吐き出す。
「とても悲しいですよ。そうでしょ、だって私が嘘をついていると疑われているんですから。それに何というか機械が故障しているんじゃないかとも疑っています。でも、その反面自分の研究の成果には絶対の自信があります。だから、一体どうなっているのかよくわからないんです。混乱しているかもしれません。あぁ、うまく言えないな」
ずっと赤く点滅していたランプが、最後の瞬間だけ緑に変わる。博士は頷き、助手はさらに混乱する。
「もう一つ聞こう。今まで生きてきて、君は自己について悩んだ経験があるかね。たとえば、自分は一体誰なんだろう、と自問したことは」
「そりゃ、一度や二度はありますよ。人間ですからね。博士はないんですか」
「私はないよ。それはそれとして、そのとき答えは得られたかね。確たる答えは」
「いえ……。でも、哲学的な悩みとはそういうものじゃないんですか」
「私にはうまく理解できない。そんなことで悩んだ経験がないんだ」
博士は、またたきほどの沈黙を挟んだ。
「しかし、そういうものかもしれないな。だったら、この装置はまったくの失敗作だ」

Send to Kindle

トンネル

長いトンネルを抜けると、そこはまた別のトンネルだった。

やれやれ、またトンネルか。さっきもトンネルだったし、その前もトンネルだった。ここしばらくトンネルしか見ていない気がする。たぶん、次もトンネルなんだろうし、その次もトンネルなんだろう。ハロー、トンネル。僕たちの住まう世界。トンネルからトンネルへと続く旅路。そういうのが僕の人生なのかもしれない。
「何を考えているの?」
「退屈で頭がおかしくなりそうなんだ。見てごらんよ、またトンネルだ。まったく代わり映えしない。もしかしたら、何かは変わっているのかもしれないけど、こうも真っ暗じゃ何もわからない。僕にとっては、何一つ変化のない状態が続いているんだよ。世界はトンネル化してしまったんだ。あるいは僕の人生がトンネル化したのかもしれない」
「ちょっと落ち着きなさい。世界はそんなに簡単にトンネル化したりはしないし、人生だって易々とトンネル化に屈することはないのよ」
「なんで君にそんなことがわかるんだい。だって、見てごらんよ。トンネル、トンネル、トンネル。どこにも逃げ場所はないんだ。このトンネルが僕たちを取り囲み、永遠に暗闇に閉じ込めたまま、どこかにつれていこうとしているんだ。もちろん、たどり着く場所もまたトンネルなんだろうけども」
「そんなことを確信したかのように語るのは傲慢だわ」
彼女は咎めるような目つきで僕を見つめる。僕にはわけがわからない。
「傲慢。これは驚いた。僕は絶望しているんだよ。このトンネル化した世界に」
「その絶望が傲慢だと言っているのよ。この世界について何も知らないくせに、勝手にトンネル化したと決めつけて放り出そうとしている。そういうのは無責任だし、無分別だし、工夫もアイデアも足りていないわ。それらをボールに集めて、パン生地のように練り上げたあと、私は傲慢というネームプレートをそこに付けたのよ」
「だったらどうすりゃいいのさ」僕は言った。
「信じることよ。この世界に光があるということを」
「そんなこといったって光を見たのは、もうずいぶんと昔のことだよ。うまく思い出せない」
「人間に想像力があるのは、そんな泣き言をいうためじゃないわ」彼女はきっぱりと切り捨てる。
想像力。僕は想像力について想像してみる。それは一体どんな姿形をしていたのだろうか。
「どうしても信じられないのなら、たった一つだけ心に留めておいて」彼女は言う。「あなたが見ている世界だけが、世界の全てじゃないわ。それさえ受け入れてくれるなら、きっと想像力も息を吹き返すでしょう」
そういって彼女もまた、トンネルが抱える暗闇の中へと消えていった。

Send to Kindle

炊飯器

「お前、これ使うか?」
段ボールに本を詰めていた僕に、先輩は小さな炊飯器を掲げてみせた。
僕は大量の本を、先輩はキッチン家電を、先輩の彼女は食器を段ボールに詰めていた。狭いアパートとは言え、3人で引っ越しの準備をするのは大変である。二人分の生活用品とは言え、年月と共に物は増えていく。まるで垢のようだ。月日が積み重ねていくものは、年齢だけではない。
「先輩たちは持っていかないんですか」
はっはっは、と先輩が笑い、隣の彼女が答える。
「うちのお父さんがね。炊飯器ぐらいは良いの使いなさいってもう買っちゃったみたいなの。新しいやつ」
「それがまたスゲーんだ。南部鉄器ってのを使ってるらしくってさ。かまどで炊いたより美味しいご飯ができるんだぜ」
誇らしげに胸を反らす先輩。でもきっと、先輩はかまどで炊いたご飯を食べたこともなけば、その高級炊飯器で炊いたご飯すら食べていないに違いない。クスクス笑う彼女さんが全てを物語っている。
「でも、信じられるか。炊飯器が10万以上もするんだぜ。それがあれば、一体どれだけの本が買えるか・・・」
「買っても、置く場所がないでしょ。新しい部屋だって、そんなに広いわけじゃないんだから。さあ、無駄口叩いてないで、さっさと箱詰めを終わらせましょう」
ほーい、と答える先輩は、僕の答えも聞かずにその炊飯器を箱の外に置いた。

僕の部屋にやってきた、新しい(そして古い)炊飯器は、その日から大活躍をはじめた。中古といっても、炊飯器なんてそうそう壊れるものじゃない。それに、きっと丁寧に使われていたのだろう。目立った汚れもなければ、潰れたボタンもない。それまでパスタが中心だった僕の食生活に、白ご飯という選択肢が生まれた。
学生アルバイトの身の上では、白米は少々値が張る。でも、一度作っておけば、冷凍することもできるし、使い勝手は広い。それに、炊きたての米粒を口に運んだときに感じる、あの独特の感覚はパスタでは決して得られない。DNAに何かが刻印されているのだろうか、と疑いたくもなってくる。一種の民族的記憶だ。
物にも記憶が宿るのだろうか。
在るべき所を移した炊飯器を見ながら、僕はそんなことを考えた。
新しい(そして古い)同居人は、もう違和感なく僕の部屋の風景に溶け込んでいる。でも、こいつは先輩たちの生活風景にも溶け込んでいたんだろう。毎日毎日白米に熱を加えながら、彼らが交わす言葉、流れる音楽、行き交う感情、どうしようもない沈黙を見つめ続けてきたのだ。クスクスと笑う彼女さんの姿が僕の頭に浮かぶ。先輩の顔は蒸気に覆われてぼんやりしている。
パーラリラー、パラリーラリー
炊飯完了のお知らせが鳴り響く。「なあ、お前、何を感傷的になってるんだよ。お前はお前、あいつはあいつじゃないか」炊飯器がそう語りかけてきた。その口調があまりにも先輩そっくりだったので、僕は思わず笑ってしまう。
「そうですよね。僕は僕だ。そして、炊飯器はここにある」
僕は炊飯器の蓋を開け、炊きたてのご飯をしゃもじで切り始めた。

▼こんなエントリーも:
【お題SS「炊飯器」】 私はちょっと疲れているらしい(なんかカラフルな生活)

【お題SS「炊飯器」】ふたりの食事(ものかき夢想)

【お題SS「炊飯器」】~炊飯器の憂鬱~【創作の本棚】(はれときどきくもりZ)

【お題SS】 炊飯器(るうマニア)

Send to Kindle

線の向こう側

線の向こう側にいる人々を眺めていた。ときに指さし、ときに憧れ、ときにあざ笑いながら。

こちら側は多勢。あちら側は少人数。何も問題ない。

ましてや壁は絶対だ。

それは真理のごとく僕の前に立ちふさがる。こちら側はこちら側であり、向こう側は向こう側だ。それはテレビの画面に入れないのと同じぐらい自明なことだった。

その両者は比較することすらできない。そもそも、同じ天秤に載せるという発想すら出てこない。認知の上に作られた、自明な線。

こちら側だって、そんなに心地は良くなかった。

でも、それが世界なのだから受け入れるしかない。一発の銃弾を込めて、こめかみに銃を突きつけるよりは遙かにマシである。

僕は、僕なりに少しでも居心地良い場所を求めた。それは結果的に、僕を集団から引き離すことになった。一歩ずつ、一歩ずつ、僕は集団から離れていった。仕方がない。僕にできるたった一つの冴えたやり方が、それだったのだ。カチリ。銃弾はまだ発射されない。

気がつくと、集団はずいぶんと向こうに見えるようになった。僕は僕なりに居心地の良い場所を見つけたのだ。そして、僕は、集団から指さされるようになった。

ちがう、そうじゃないんだよ。

あらん限りの大声で、僕は叫ぶ。

僕は君たちと同じ側にいるんだ。僕を指さすなんてどうかしている。僕たちは仲間じゃないかもしれないけれども、同じなんだ。同じ側にいるんだよ。

でも、僕の声は届かない。こちら側からは見えない壁によって遮られているらしい。カチリ。まだ銃弾は発射されない。

どうすればいいのか全然わからなかった。でも、僕が指さされるのは、何かがおかしい気がする。間違っている気がする。壁に掛けてある時計が、10度だけ右に傾いてしまっているようだ。時間はわかる。でも、違和感は決して消えない。

まわりの空気が薄くなってきた。僕を指さす彼らが、大量に酸素を消費しているのかもしれない。あるいは、どこかに穴が空いてしまったのかもしれない。その穴からヒューヒューと空気が漏れだしているのだ。

じわり、じわりと減ってゆく酸素ゲージを目にしながらも、僕は大声で叫ぶことを止めない。

ちがう、そうじゃないんだよ。

と。

しかし、大声を上げれば上げるほど、集団の姿は小さくなる。まるで、僕の声が聞こえているかのように。でも、線は線であり、壁は壁なのだ。

遙か彼方に見える集団は、もう黒い塊にしか見えない。

その塊から、一つの黒い点が離れていくのが目に入る。じわじわと、緩やかな速度ではあるが、決して減速することはない。彼にも線が見えているのだろうか。そんなことを考えながら、最後のトリガーを僕は引いた。

Send to Kindle

墨流しと写真

アランが久々に枯山水を眺めるために寺に足を踏み入れると、そこには先客がいた。青年だ。大学生ぐらいだろうか。日本人はカジュアルな格好をしていると年齢がよくわからない。

青年はひなたぼっこをする猫のように静かに胡座をかいていた。ぼーっと視線を庭に向けている。かなり長い時間この場所にいるのかもしれない。

ふと、アランはその青年の目が気になった。彼は目の前に広がるわびさびに感嘆しているという風ではない。しかし、座っていること自体に苦痛を感じている風でもない。彼の目には風景が映り込んでいるが、彼自身は何か違うものをみてるような気がした。奇妙な青年だ。

青年は、ポケットからごそごそとiPhoneを取り出した。何かを操作し、iPhoneを庭の方に向ける。カシャっ、という音が庭にたたずむ静寂に吸い込まれていく。再び何かを操作した彼は、iPhoneをポケットにしまい、今度は小さなノートを取り出した。そして、ペンでなにやら書き付け始める。

アランは、決してうるさくはないが、自分の存在を主張する程度の足音で彼に近づく。ノートから視線を外し、こちらの姿を確認した青年は、軽く会釈をする。
「スマートフォンと手帳の両方を使っているんだね」
話題の手探りに、アランは質問を投げかけた。どことなく、「わざわざ手帳なんか持ち歩いているんだね」というニュアンスがあったのは、アランが生粋のモバイルオタクであったからだろう。
そのニュアンスを感じ取ったのか、青年は軽く笑みを浮かべながら__なかなか素敵な笑みだ。きっと年上の女性に受けるに違いない__、「だって、手帳で写真はとれないでしょ」と混ぜっ返した。
アランも苦笑を浮かべる。
「確かにね。だったら、その手帳は何を”撮影”しているんだい」
アランが問いを重ねる。もはや修辞的要素は無い。青年は手にしたノートに目を落とし、もう一度微笑みながらアランに言った。
「”墨流し”はご存じですか?」
「いや、浅学にして存知あげない」
青年は一瞬きょとんとした。
「あぁ、せんがく、ですか。外国の方のわりには、変わった言葉遣いをされますね。一瞬漢字変換できませんでしたよ」
「日本の文士に興味があってね。語彙の多くはそこから学んだ。それに格好いいじゃないか」
「意味が通じれば、ですけどね」
「通じない言葉を使うほど、ありがたがる輩が多いとどこかで読んだ覚えがあるのだが」
「過去の遺物ですよ。そんな権威主義者はね」

青年は、手短に”墨流し”を説明してくれた。幅が広く底が浅い容器に水を満たし、染料のついた筆をその水につける。水面にはその色が広がっていく。そこで円の中心にあたる部分に、別の松ヤニがついた筆を付ける。すると、松ヤニが水をはじきながら同心円状に広がる。結果として、一番外側の染料が円を描く線のように残る。後はそれを繰り返したり、あるいは風を立てたりして、独自の模倣を描く。一度作った絵柄は、二度と再現できないらしい。ゆらぎの存在を考えれば、それもそうだろう。
「とても興味深い技法だね」
「それで終わりではありませんよ。模様を描いた後に、和紙をその水面にかぶせるんです。そうして紙の上に模様を写し取るわけです」
「なるほど、二度と再現できないものを、紙の上に保存するわけか」
「その通りです。もし、和紙に写し取るんじゃなく、仮にその容器を上からカメラで撮影したらどうなるでしょうか」
「より完璧に保存できるような気がするね。データは多ければ多いほどいい。再現性が高まる」
カメラだってそうだ。解像度が高いほど、よりクリアな、よりリアルな写真が撮れる。
「ええ、それはそうです。でも、僕からしたらそれは完璧すぎるんです。写真だと、模様だけでなく水や容器そのものも、あるいはそれを作っている人の手だって全てが残せます。でも、和紙だと模様しか残せない。しかも、水の上と和紙の上の模倣の映え方は微妙に違う。ある意味で、とても不完全なデータです。でも、時々、僕は思うんですよ。僕たちの心にとって、そのどちらが本当にリアルなのか、ってことを」
「リアル?リアルというのはいかに現実に近づけられるかってことじゃないのかい。たとえば、目の前に広がる枯山水の一つ一つのオブジェクトの配置、質量、色合いを数値化して、3Dデータとして再現する。これがリアルじゃないのかい」
「確かに、現実として僕たちの目の前にはたくさんの石や砂が存在しています。それは否定しようもありません。でも、その事実とは別に、僕が感じられるリアルというのは僕の心の中にしか存在しないんじゃないかって気がするんです」
「つまり、物理的現実と、心的リアルは別のものとして存在している、ということかね」
「むしろ、物理的現実なんて科学者のおもちゃでしかないのかもしれませんよ」
アランは首を横に振った。青年の主張がうまく飲み込めない。現実というのは、一つの共通舞台にさまざまな人間が登場し、そこで”世界”という演劇を演じていることではないのだろうか。彼の主張だと、演劇はその舞台の上ではなく、それを見る観客の中に存在することになる。はたしてそんなことがあり得るのだろうか。
アランが沈黙し、青年もそれに続いた。いくばくかの時が流れる。アランは時計を外してきたし、青年もiPhoneで時間を確認するようなことはしなかった。僕のリアルはどこにいってしまったのか、彼のリアルはどこにいこうとしているのか。アランは間違って設計された迷路の中に入り込んでしまったような感覚を覚え始めていた。
「そうそう。最初の質問ですが、僕の答えはこうです」彼はアランを現実に引き戻すかようにあの素敵な笑みをもう一度浮かべた。
「この手帳は何も”撮影”していません。むしろ、写し取っているんですよ。僕の心を」

Send to Kindle

WordPress Themes