Posts tagged: 今日の情報カード

隔絶された個と、ゆるやかなその連帯[今日の情報カードより]

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集団に違和感を感じる個は、その個を保つために集団から離脱する。そうしないと、集団に飲み込まれ、個が融解してしまうからだ。集団も異物を排するようにその離脱を受け入れ、結果両者は対峙する。離脱こそが、その個が個で在り続けられる手段なのだ。

類似の個が複数出現することもある。特に集団が大きければ大きいほどありえる。

しかしながら、それらの個同士が固く結びつくことはありえない。なぜなら、最初にあった違和感はそれぞれの個に属するからだ。離脱はその表明であった。固い結びつきは、その表明を弱めてしまう。それは個そのものを薄めることと変わりない。それが受け入れられなかったからこその離脱であった。

いくらかの共通性によってゆるやかな連帯が生じることはあるかもしれないが、原理的に考えればそれ以上にはなりえない。
※なるべきかどうかについては、また別の問題である。

ただし、これとはまったく違った形もある。つまり、集団Aから集団Bに移行することを初めから意図した離脱だ。

それは個に属した違和感に基づくのではなく、何かしらの価値基準による判断によって有利な集団を見定め、自分が不利な集団に属していることを理解した上で、その構造に変化を与えるものとして行われる。

その中で、一時的にこの主体が個としての振る舞いをみせることもあるが、最終的な目的地はまったく異なる。その個は、隔絶に耐えられないし、耐える意義もない。いずれにせよ、どこかの時点で別の集団に属するか、あるいは似た振る舞いを行う別の主体と固い結びつきを作る。

二つの振る舞いは、短期的なスパンでは似ているように見える。違いが見えてくるのは、時間が経ってからである。

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専門と一般のブリッジング[今日の情報カードより]

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上級者が初級者に教える場合は、段階を設定する必要はあるものの、最終的には同じレベルまでの引き上げが目的となる。一から十要素があるなら、一から十教えていけばよい。

対して、専門分野の知識(たとえば法律など)を、一般の人に伝える場合は同じようにはいかない。一般は専門を目指しているわけではないからだ。一から十を段階的に教えることなど不可能である。

かといって、時間つぶしのトリビアを伝授しても意味は無い。そんなことはわざわざ専門家がやるのは時間の無駄である。その分野の知識が、少なくとも一般的生活において「使える」ようになってこそ意味というものが出てくる。

そのためには、全体の中で何が知識として必要なのかを確定し、それをいかにすれば伝えられるのかを考えなければならないだろう。それは初級者へのレッスンとは__共通する部分はあるにせよ__違ったものになるだろう。

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人類の保存欲求[今日の情報カードより]

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人類は言葉を作り”意味”を保存した。文字を作り、その言葉を保存した。

たいまつで火を保存し、農耕で食物を保存した。貨幣によって労働価値を保存し、信用でそれに裏書きした。

巨大なコンピュータがさまざまなデータを保存し、その速度と容量は増え続けている。

もはや保存は一般的・日常的な行為だ。

この欲求は、おそらくとどまることはない。記憶・意識・人格といったものにまでその手は伸びるだろう。ただし、掴めるかどうかまではわからない。ただし、もし掴めたならば、これまでと同じようにそれで社会は大きく変わるだろう。

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ブログ百人一首[今日の情報カードより]

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ブログは、管理者の都合で(たとえば、死亡で)消えることがある。ブログサービスの終了もある。

また、ブログ記事はストックだが、ストックであるが故に見出されにくい。もっともアクセスを集めた、ツイートを集めた、はてなブックマークを集めた記事が一番良い記事とも限らない。

”読むに値する”優れたブログ記事を集めた「本」を作るのはどうか? 百個のブログから、それぞれ一つずつ記事をピックアップしていく。ゆるやかなテーマを設けてもいいし、設けなくてもよい。

著作権云々な話が当然でてくるから、著名なブロガーが存命中である方が話は進めやすいだろう。つまり、早いほうが良い、というわけだ。

それは一つの読み物としても優れたものになるだろうが、ある種のお手本(テキスト)としても機能するかもしれない。案外、今ないものだ。

この場合、百という数が適切なのかどうかはわからない。さすがにボリュームがありすぎる恐れもある。しかし、電子書籍であれば気にしなくても良い。ここの調整は選者のセンスに委ねられるだろう。

そもそも選者がいかにピックアップするのかも難しい問題だ。純粋に個人のセンスなのか、集合知による投票を用いるのか。あるいは、いろいろなパターンで作ってみて、その中で生き残ったものに託すという”生存戦略”もアリかもしれない。

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社会の変転と、成功の定義[今日の情報カードより]

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高度経済成長に一段落がつき、社会で生きる人の可能性・価値観は多様化してきた。むしろ、高度経済成長をなし遂げるために、(いささか無理矢理ぎみに)集中させてきた力が、ようやくほどけはじめた、ということかもしれない。

具体的には、働き方の変化がある。

高校から大学、新卒で入社、そして定年までといったルートはもはや幻想である。つまり、さまざまな職業が選べるだけでなく、働き方も変化してきている。キャリアを転々とする人もいれば、途中で休憩する人、フリーになってまた会社員になる人、同時に複数の仕事をする人、さまざまだ。それに関連して、結婚に関する考え方も昔とは随分違ってきている。

個人の可能性を活かせる、という意味では優れた変化と言えるだろう。

しかし、そうした変化の中で、従来機能していた「成功」の定義が、機能不全に陥りつつある。人生設計のデザイン空間が限られているのなら、「成功」は狭いものであっても構わない。むしろ、狭いものであったからこそ、日本のビジョンは支えられてきた。具体的には、いかに働き、いかに消費するのかのモデルを作っていた。企業にとってはやりやすい環境だっただろう。

しかし、今から・これからは違う。

それには良い面と悪い面がある。良い面は、誰かが勝手に決めた「成功」の型に自分を押し込めなくても良いことだ。仮に100人中99人がその型にすっぽりはまることができても、残りの一人はまったく嵌らない、なんてことがある。「成功」の機能不全は、そうしたアウトサイダーにしてみれば心地よい変化と言えるだろう。

しかし、もともとそこにあったものが失われるということは、何か別のものを持ってこなければいけない、ということだ。共同幻想が崩れた今、新しい幻想を個人で立ち上げなければならない。言わば、自分なりの「成功」を定義づけなければならない。そんな”重荷”を背負うのが現代の生き方の特徴である。

言い換えれば、それは生きるという行為にコミットメントするということでもある。

それを避けたければ、すでに機能不全になっている従来の「成功」を引っ張り続けるか、あるいは自分の代わりに誰かが与えてくれる「成功」にしがみつくしか無い。前者は、(うまくいかない)社会を憎むようになるだろうし、後者は壺を買わされることになる。どちらも、あまり心躍るものではない。

「世間から見れば、僕は成功者とはとても言えないけど、納得して生きています」

ということが(酸っぱいブドウではなく)、自然に言えるかどうか。自分なりの納得感をいかにして立ち上げていくか。その辺が鍵となるのだろう。

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知的生産の技術の三階層[今日の情報カードより]

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「知的生産の技術」と呼びうるものは、大きく3つの階層に分類できる。

仮にその階層を、大きい方から順にA、B、Cと名付けよう。イメージ的な比喩を用いるなら、Aが国民年金、Bが厚生年金、Cが厚生年金基金、といったもの。三階建ての建物が想像できたのなら、それで結構。

Aは、「知的生産」という行為に汎用的に適用できる技術。一般的な本の読み方、一般的な文の書き方、メモの取り方など。「知的生産」を行うものであるならば、最終的な成果物がなんであれ身につけておいて損はないもの。これは、高度情報化社会におけるリベラル・アーツにも位置づけられるだろう。

Bは、その人の職業・職種・業種・職場といったものに限定される技術。新聞記者のライティング技術や、取材の方法などがこれにあたる。求められているフォーマットがあり、それにフィックスされた技術がある。新聞記事を書く文体で、コラムはかけない。そういうもの。

Cは、その人特有・固有の技術。作家の文体はまちがいなくこれにあたる。あるいは本棚の作り方もこうしたものに入るかもしれない。属人的な要素。汎用性は限りなく低い。

この3つの組み合わせで、一人の人の「知的生産の技術」は成り立っている。

パブリックに議論されるべきは、もちろんAだろう。Bは、ある種のグループやクラスタで検討されるのがよい。Cの技術に関しては公開・共有されるのはかまわないが、基本的には直接的転用は効かないと考えておくのがよい。そこは一般的な__つまり、皆が等しく使える__知識にはなりえない。

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贈与論と時間[今日の情報カード]

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“贈与経済”の中では、「与える・与えられる(返ってくる)」の関係性に時差がある。つまり、時間がかかる。

しかし、物々交換、または貨幣経済の中では、その時差は消えている。与え・与えられという関係性は即座に終結してしまう。

それぞれの経済体制が本質的に同じものを有しているにしても、見えなくなった(消えてしまった)時間の影響はどこかしらに出てくるのではないか。それはマクルーハンの視点を借り、貨幣をメディアとして捉えればよりはっきりしてくるだろう。

さらに市場ー資本主義経済の中では、労働者は時給・月給という形で時間を企業に提供し、お金を得ている。ここでもまた登場するのは時間である。あるいは、贈与経済から資本主義経済に移行する中で消えてしまった時間が、別の形で立ち現れていると言えるのかもしれない。

少なくとも、贈与経済と最近の経済に何かしらの差異があるとするならば、この「時間に対する感じ方」や「扱い方」にあるのではないだろうか。今のところ強引さはあるが、そうした視点を持つことだけはできそうだ。

加えて、より先の社会、つまり情報化社会における、情報消費の上限もやはり時間的制約によって生じてしまう点も見逃せない論点となるだろう。

これらの要素をどのような視点で整理すればよいのかは、まだわからない。ただし、キーワードは時間になりそうだ。

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