Posts tagged: 発見の力学

発見についての「一枚のノート」

今週は、ずっと「発見」について書いてきた。

発端となったのは、この記事だ。

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個人的感触のある記事ではあったのだが、それが徐々に膨らんできたのには驚いた。なので、できるだけいろいろ場所からそれを眺めることにした。

R-styleは基本的に記事を散らすように__同じテーマを連続させないように__書いているのだが、ときどきそれをねじ曲げる。今回の一連の「発見」の記事もそういう逸脱である。ああ、そうそう。逸脱は楽しいものだ。

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ブログ記事は基本的に「発散」傾向にあるし、上記の記事たちもそうである。でも、これまでとは少し違う気がする。あるいは、自分自身がどこかで変えようとしている気がする。

私は基本的に気ままで、飽きっぽく、思い付きで行動する。そういう人間には大きな思想は無縁な存在である。いや、中くらいの思想すら怪しい。なんというか、全体的に小粒なのだ。

でもって40歳も視野に入ってきた中で、はたしてそれでいいのだろうか、という思いが徐々に生まれつつある。なんというか、こう、どっしり構えて巨大な城を構築した方がいいのではないか、という気がする。

しかしながら、どうやってそれをすればいいかまったくわからない。これまで小粒な人生を送ってきたので、そのための姿勢もノウハウもまったくわからない。

だからまあ、手始めにブログ記事の書き方を変えてみたわけである。

でも、これだけならば基本的にこれまでと同じである。発散しかない。逆に言えば、収束が必要だ。簡単に言えば、上記の記事群で考えたことを(比喩的な意味で)「一枚のノート」にまとめる。そしてさらにそれをベースにして発散記事を書く。その結果をさらに「一枚のノート」に集約する。

そのようにして「一枚のノート」を少しずつ育てていくことが良いのではないか。そんな仮説を持っている。パラフレーズし、肉付けし、削り落とし、まとめ、構造化する。そういう作用を「一枚のノート」に与えること。それが思想の構築につながるのではないか。

というのは、もちろん単なる仮説なわけで、本当にそうなのか、そしてそんなことが実行できるのかもまだわからないわけだが、そこに何かしらの発見があると信じてやっていくしかない__みたいな悲壮感のある決意はぜんぜんなくて、単に「ちょっとやってみよう」というぐらいの気持ちである。やっぱり小粒なのだ。

発見すること。

発見するためには、「同じこと」をしていてはいけない。

同じ動作を繰り返してもいい。しかし、違う視線を持たなければならない。新しい物事を見つめる目を持たなければならない。「これは、こういうものだ」と眺める事物からは発見は生まれない。

その意味で「マニュアル追従主義」は、発見とは縁遠い。マニュアルだって一つの情報であり、そこには発見の余地がいくらでもあるはずだ。しかし、マニュアルに盲目的に従うこと、いや「こうすれば、こうなる」と信じ込んでそれをやることには、発見の余地はない。世界を見る目が、そのように固定されるからだ。

逆に言えば、「こうしても、どうなるかわかりませんよ」という態度で事象に臨むとき、そこには発見の可能性が溢れかえっている。そのとき世界は見つけられたがっている。当然、そこには失敗する可能性(うまくいかない可能性)が付きまとう。それを引き受けることこそが、発見のための姿勢でもある。

発見することの前段階には、考えることがある。自分の頭で考えること。

その思考は刹那のときもあれば、フルマラソンのときもあるだろう。どちらにせよ、考えることが必要だ。梅棹忠夫風に言えば、「自分の頭をはたらかせる」ことが必要だ。それがあって、はじめて「発見」がやってくる。逆に言えば、「自分の頭をはたらかせない」限り発見は生まれない。安易な気づきは発見ではないのだ。

梅棹忠夫は「発見の手帳」を「ウィルソンの霧箱」のようなものだと言った。その比喩は言い得て妙だが、実は少し違う。「ウィルソンの霧箱」は、私たち自身なのだ。脳の情報処理作用の過剰こそがウィルソンの霧箱で、それが世界に意味を与え、新しい発見を促す。

私たちは生まれ落ちたとき、周りに飛び交う音の流れから「言語」を発見する。その事実に私たちはもう一度立ち返るべきだろう。私たちは言語を脳にインストールするわけではない。言葉を発見するのだ。そしてそれが人間が学ぶということである。

発見は楽しい。脳は快を感じているはずだ。エウレカ! だから人は「発見」が埋まっている領域にじりじりと引きずり込まれる。学徒と呼ばれる人たちは皆そうだろう。実は、博徒と呼ばれる人も同じなのだ。後者は「自分なりの法則」を発見して楽しんでいる。違いは、「自分なり」かそうでないかの違いだけだ。

仕事でも趣味でも、飽きない対象には発見がある。あるいは発見があるからこそ、対象に飽きない。受け継がれる文学作品が豊かな文脈を持っているのは、そこに発見可能性が埋まっているからだ。言い換えれば、文脈の豊かさとは発見の可能性である。現代を見渡してみてもそうだ。人気のある商品は、それぞれの人が何かしらを「発見」できる素地を持っている。

生命を維持するための活動を除けば、「発見」ほど根源的な欲求はないのかもしれない。だからこそ、それに訴えかけるものは時代を超えて残っていく。ビジネスチャンスもある。

発見は、人生を豊かにし、人類も豊かにする。これを放置する手はないだろう。いや、そもそも手放したくても手放せないのかもしれないが。

発見とは世界との邂逅である。

そしてそれは、自分自身を映す鏡でもある。


さて、この「一枚のノート」はどのように育っていくだろうか。

とりあえず仮の見出しをつけて、各項目に肉付けすることから始めてみよう。

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発見の手帳と知的なもののコア

ここ最近「発見」についていろいろ書いてきた(※)のだが、そういえばとふと思い出した。
発見の力学

発見と言えば、「発見の手帳」である。『知的生産の技術』の序章を飾るこの知的生産ツールを忘れてはいけない。

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発見の手帳

「発見の手帳」とは、その名の通り「発見」を記すための手帳だ。

スケジュールや備忘録用のメモではない。自分の心の動きを書き留めるための装置である。

わたしたちが「手帳」にかいたのは、「発見」である。まいにちの経験のなかで、なにかの意味で、これはおもしろいとおもった現象を記述するのである。あるいは、自分の着想を記録するのである。(中略)たまってみると、それは、わたしの日常生活における知的活動の記録というようなものになった。

面白いと思った現象、あるいは着想を記録する。それが発見の手帳だ。引用中に「知的活動の記録」とあるから、なにやら高尚そうなものがそこに記されている気がするかもしれないが、実体はこんなものである。

そのかわりに、たとえば、犬にかまれたときに、傷あとの歯型が、どういう形にならんでいついたとか、「すもうとり人形」の構造だとか、その日のたべものの種類と味の記述だとか、ニンニクの学名についての考察だとか、子どもの湿布の仕方だとか、そのほかまったく、いわばがらくた的な経験ないし知識が、いっぱいかいてある。

何の役に立つかはまったくわからない。本人も、時間がたってみるとさっぱりだと書いている。しかし、重要なのはそこではない。

しかし、それはそれで、そのときには、あらたなる事実の「発見」として、なにほどかの感動をともなっていたことにはちがいないのである。

「発見」には、感動が伴う。たとえそれが微量であるとしても、心の動きが発生するのだ。

ここでは「発見の手帳」の知的生産的効用については検討しない。それよりもむしろ、もっと前段階の話をしたい。どれだけの情報や体験が目の前にあっても、そこにいかなる心の動きも発生しないのならば、発見の手帳には何も書くことがない。手帳を持っているからと言って、心の動きが発生するようなこともない。

発見こそが、エンジンなのだ。

知的なもののコア

「発見」というものは、たいていまったく突然にやってくるものである。まいにちみなれていた平凡な事物が、そのときには、ふいにあたらしい意味をもって、わたしたちのまえにあらわれてくるのである。

梅棹さんがこう書くと、いかにもすごいことを見出すかのように聞こえてしまう。が、しかしそうではないのだ。

はやくなるのがはやい:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

子「この電車、はやくなるのがはやいね」
母「はやくなるのがはやい?」
子「うん、はやくなるのがはやい」

この記事で紹介されている男の子も立派に発見している。たぶんそれを見つけた瞬間、彼の世界は少しばかり(あるいは大幅に)新しい姿を持ったことだろう。それこそが発見である。

そして、その「あたらしい意味」をもたらす作用こそが、「知的」であり、知的生産のコアとなる要素でもある。

その作用は、「まいにちみなれていた」風景に変化をもたらす。それこそが人間と哲学的ゾンビの違いでもある。

さいごに

「発見の手帳」ではないが、私のEvernoteのアイデアノートは、ほとんど奇妙とも言える記述で満ちあふれている。

screenshot

  • キュレーター・司書のAirbnb
  • ウィトゲンシュタインとWorkFlowy
  • アトム的事実
  • 「その面白さ、説明してください」
  • 代替案の確保は冗長性であり、コスト負担となる。
  • 書きたくても書けない。
  • ロジスティックの情報版
  • Webクリップと、魚
  • 書くことは検閲である。それも二段階の検閲である。
  • [T]Evernoteの新たなナレッジマネジメント
  • 本当は残酷な成功法則
  • 情報エネルギー過剰時代
  • 文章のチェック方法
  • サブカード・ループ
  • 「やりたいことをやらないと」幸せでない
  • 「そうだ、人間は直感的に生きればいいんだ」と直感的に理解する。非常に心地よい。

他の人からみたらさっぱりだろうし、私が説明したとしても「?」だろう。しかし、少なくとも私はそれを思いついた瞬間、ごくごく微量であっても「!」と思ったのだ。単に情報を摂取したのではなく、「私が見つけた」という感覚がそこにはあった。

どれだけちっぽけであろうとも、やはりそれは感動と呼んで差し支えないだろう。心が動いたのだ。そして、世界が新しい姿をまとったのだ。

発見する生活とは、次々と世界に新しい姿を与えていく生活のことだ。それは世界の可能性を信じることであり、同時に自分の傲慢さを却下することでもある。発見されるものが残っているなら、私はこの世界についてまだ十分には知っていない。新しい発見をしたら、世界はまた違った姿を見せてくれるかもしれない。

発見は感動でもあり、開拓でもある。あるいは世界の更新作業なのかもしれない。

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「私はなぜ、この仕事に飽きていないのか?」

「ライフハック@京都」に参加してきました。

テーマは「好きなことをして生きていくために必要なこと」だったかと思います。とはいえ、このテーマから連想できるような内容ではありませんでした。さすがです。

さて、次のようなスライドがありました。

screenshot

「好きなことをして生きるには好きなことをますます好きになり続ける必要がある」

いささか禅問答めいていますが、ふむと思い至ることもあります。視点を変えてみれば、こういう疑問になるでしょう。

「私はなぜ、この仕事に飽きていないのか?」

幸運な若人

ちょっと考えてみましょう。

ある若い人がいるとします。仮にAさんとしておきますね。そのAさんは、Bという対象が好きでした。なんでも構いません。野球でも、文芸でも、YouTubeでも適当なものを当てはめてみてください。たまたまの幸運に恵まれて、そのBが仕事になったとしましょう。言い換えれば、「好きなことをして生きる」ことができるようになったわけです。

しかしながら、人間は変わるものです。その性質が希望と絶望の源でもあります。ということは、AさんがBを好きでなくなることも十分あり得るわけです。その場合、Bをし続けるのは「好きなことをして生きていく」ことにはなりません。悲劇です。

自分のことを振り返ってみると、10年以上コンビニ業界にいましたが、基本的にその仕事は好きでした。365日24時間営業的苦労はあったものの、仕事的な面白さは常にあったように思います。

もちろん幸運だったのでしょう。アルバイトから社員となりその後店長となって、私の仕事環境は時間と共に変化していきました。仕事の性質が変わるとなかなか飽きは来にくいものです。一方私の方も、アルバイト時代から「月刊コンビニ」という業界紙を自腹で買って読んでいました。なんだかんだいって、自分から「情報」を求めていたのです。

でもそれは大層な動機付けによるものではなく、ゲーマーが「ファミ通」を毎週買っているのと同じようなものです。「うまくやる」ための情報がそこにあるなら、知りたいよね、ぐらいのものでしかありません。が、結果的にそれが私のランクアップ(とここでは呼んでおきましょう)に役立った面もあるでしょう。

知識が増えると、選択肢が増え、新しい行動が新しい知識を起こす。その積み重ねで大きく環境が変われば、また新しいステージでのサイクルがぐるぐると回り始め、それはずっとずっと長く続いていく。その中にいる間は、飽きることはない。そんなことがあるのかもしれません。

文章を書くことと発見

結城浩先生のメールマガジン『結城浩の「コミュニケーションの心がけ」』の2016年6月7日 Vol.219にこんな文章がありました。

書籍を作っていく途中では、
そのような《発見》がほぼ確実にあります。
そして、そのような《発見》があると、
作業はがぜん楽しくなりますね。

結城はよく「本を書くことは楽しい」といいます。
作業として、お仕事としては「楽」ではありませんが、
自分が書いている文章を通して自分が学び、
「なるほどなあ!」という《発見》に出会うとき、
それは「楽しい」としか表現のしようがないものになります。

とても強く共感します。

私はこれまでいくつかの(あるいはたくさんの)本を書いていますが、そのそれぞれがすべて「新しい本」です。一冊一冊にチャレンジがあり、それはつまり「こう書いておけば良いだろう」というようなジャッジメントを用いないということでもあります。

「こう書いておけば良いだろう」は楽ではありますが、楽しくはありません。そして発見もありません。おそらくそれが、飽きるためのたった一つの冴えたやり方でもあります。

本を書いていると、あるいは文章を書いていると、文章表現の奥深さに気づかされます。あるものを提示するための「うまいやりかた」は一つではなく、さまざまなバリエーションがあります。人の思考を沈黙させる文章の書き方もあれば、刺激するような文章の書き方もあります。いろいろ試しながら文章を書いていると、そういう「発見」があるわけです。

その「発見」を通過した目で、これまで読んできた本を読み返してみると、そうした本たちがいかにうまく書かれているのかを「発見」したりもします。ときどきそれで打ちのめされそうにもなるわけですが、自分なりに意欲を燃やすこともあります。ステージが変わった、ということなのでしょう。

そうです。やっぱり「発見」が鍵なのです。

さいごに

結局、今のところ仕事に飽きそうな要素はまったくありません。そしてまた、私自身も飽きが来ないように仕事をしているのでしょう。というか、楽しく仕事をしようとすれば、結果的にそうなる、ということです。

さらに言うと、これはサイクルでありグルグルと回って、より大きく、より広く、より深く、と拡大していきます。それは他者からみれば明らかに「過剰」な状態でしょう。「なにもそこまで……」と思われるはずです。

でも、それが「適切」なレベルで維持されるのなら、いずれはサイクルは止まってしまうわけです。こればかりはどうしようもありません。

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ノープロットと「既知の階段」

倉下さんの小説の書き方は私のブログとおんなじだった – のきばメモ

倉下さんが言うには、「小説やフィクションは、一行書いたら、必然的に導き出される次の一行があって、そうしているうちに結末にたどり着く」のだそうだ。

一言一句そのままではないのは、酒の席の記憶による引用だから当然で、補足があったら、R-Styleなどでしていただけるのではないだろうか。

ボールが飛んできたので、返してみよう。

「小説やフィクション」だけでなく、このブログすら「一行から一行」の形で書いている。この文章には事前の構成もないし、オチも見えていない。どんなことを書くのかは、書いた一行の連想によって規定される。

今、頭の中に、なんとなく立花隆さんの本を引用しようかという感触がある。でも、それも文章がしかるべきときにきてからだ。その間は、記憶に留めておくか、テキストのどこかにちょこっと書いておく。そういう予防的措置で時系列を歪曲させることはあっても、基本的には思いついたことを流れに沿って書いていく。それだけだ。

物語の場合は、それでまったく問題はない。誰かが部屋に入る。当然椅子に座る。コーヒーが飲みたくなるかもしれない。コーヒーを淹れに行くと窓の外にふと目が止まる。見たこともない黒い鳥が、大きな翼をひろげてこちらを威嚇し、やがて飛び去っていった。その鳥と同じ色をしたブラックコーヒーをカップに注ぎ、椅子に戻る。パソコンにはメールが届いてた。それを開くと……

こんな感じでストーリーラインは動いてく。よほど突飛な小説でない限り、ストーリーは前の行動と次の行動は接続している。自分はそれをただ眺めながら描写していけばいいだけだ。事前のプロットは、そこでは特には必要とされない。

もちろん、話がどう終わるかはまったくわからないのだから不安定ではある。でも、その不安定は「ハラハラ・ドキドキ」の源泉でもある。ようはスリリングなのだ。言い換えれば、書きながら自分自身が次の展開を楽しんでいる。それも物語を書くことの楽しみなのだ。

つまり、物語を書くことには発見がたくさんある。


私はまったくプロットを立てないのだが、プロットを立てる派の人の話を聞いていて想像したことがある。それは、「結局は同じなんだ」ということだ。私は頭の中に浮かぶ物語を、そのまま描写していく。情景描写もあるし、会話文もある。その記述は、物語のテンポと同じだ。

プロットを立てる人は、この作業を早回しでやっている気がする。必要な部分だけを抜き出し、まるでダイジェスト版のように進める。でも、基本的に物語の語り方は同じなのだ。違いは、最初に記述するものの濃淡だけ。ノープロット派は、そのすべてを記述し、プロット派は輪郭だけを書き留める。でも、どちらも基本的には脳内で物語を追いかけ、記述している。

プロット派の人の話を聞くまでは、私はプロットを立てるというのは、何かしら雛形ものをベースに「それらしいもの」を組み上げてから、そこに肉付けしていく作業のように感じていたのだが、たぶんそうではないのだろう。ミカンを食べるとき、一つひとつの小さな皮を取り切ってから食べるか、食べるところから皮を取るのかの違いのようなものだ。


しかしながら、私は実用書を書くときは、「目次案」なるものを事前に作る。基本的にはそれが外部から要請されるものだからであるが、要請されなくてもやっぱり自分で作る気もする。

小説ならば、情報の開示はラフな順番が許容される。ある登場人物がいて、その紹介がずっとずっと後半でもまったく問題ない。しかし、ある種の知識やノウハウを伝える場合は、そういうわけにはいかない。読者にとっての未知を伝えるためには、きちんと「既知の階段」を整える必要がある。

そのためには、「まず最初にこれを説明して、次にこれを説明して、最後にこれを説明する」という流れが必要だ。それなしだと、書いている方は楽だが、読んでる方はさっぱりということになってしまう。知識を伝達することが、その本の役目であるならば、それは機能不全と言えるだろう。

しかし、これも考え方の一つである。思いつくままにすべてを書ききった後、それらの順番を編集し、「既知の階段」を整えることは可能かもしれない。だいたい小説だって、このブログの文章だって、書き上げたあとにちょこちょこ順番を入れ替えて「それらしく」整えているのだ。だったら、ノウハウ本だって同じことは可能だろう。

ただし、その場合はMECEがちゃんと満たせているのかの検討が必要だろうし、それと共に「かなりの大手術」を覚悟することも必要だろう。もしかしたら、事前の「目次案」はこの大手術を緩和する意味合いがあるのかもしれない。全身にメスを入れてから手術箇所を探すのはあまり得策とはいえない。だから、面倒な検査をやまほどやるわけだ。でも、それを無駄と断じることはできないだろう。


なんとなく、「文章を書くこと」と「発見」について書くことになるのかと予想していたが、あまり大きなトピックにはならなかった。立花隆さんの本の引用も出てこなかった。こういうこともよくある。

それでも成立しうるのが、ブログの良いところだ。なにせ、タイトルは最後につければいいわけだから。

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気づきと発見

「気づき」という言葉がある。「気づく」や「気づかされる」からの名詞で、そうして気づくという行為、あるいはそうした行為で得たものを指すのだろう。

きづき【気付き】の意味 – goo国語辞書

それまで見落としていたことや問題点に気づくこと。「小さな―が大発見につながる」「日々の―が成長をもたらす」「生徒の―を促す」

気づきは、多くの場合「気づきを得られた」という使い方がなされる。もちろん、それ以外の用途もあるだろうが、日常的に(特にビジネス系の分野で)耳にする場合は「気づきを得られた」という表現が大半を占めている。

「○○講師さんのお話で、深い気づきを得られました」

概ねこんな感じだろうか。これが一体どういう意味なのかはわからない。ただ、気づきには浅深があることと、それが「得られる」ものであることはわかる。

不思議と上記の表現は、こんな風には口にされない。

「○○講師さんのお話で、大きな発見をしました」

たぶん、この二つの文は違う意味なのだろう。そして、それが一般的に使われる「発見」と「気づき」の違いにもつながってくるはずである。


まず確認しておくと、「発見」と「気づき」は重なっている。それが指す対象がまったく同じことがある。しかし、重なっていない部分もある。そして、こういう場面では発見と言わず、気づきと言った方がニュアンスがフィットするな、と感じるとき、言い換えれば気づきを発見でパラフレーズできない場合、そこには「気づき」の独自の意味が宿っていると考えてよいだろう。

上に引いた辞書では「それまで見落としていたことや問題点に気づくこと」とある。おそらくここがポイントであろう。

発見も気づきも、「これまで目に入っていなかったことが、目に入るようになる」点では同じだ。ただし、気づきの場合「それまで見落としていたこと」が対象なのだ。これはどういうことだろうか。

「それまで見落としていた」ということは、言い換えれば「そこにあったもの」ということになる。そこにあったのだけれども、自分の目がふさがれていて見えていなかった。その目隠しを取ったとき登場するもの。それが気づきである。

はっきり言えば、それはその人の内側にあったものだ。だから「浅い」と「深い」がある。心の奥底__それがどこなのかは知らないが__にあるものを「再発見」したとき、「深い気づき」が得られたという表現になるのだろう。

だから、気づきは、その気づいた当人の価値観の追認である。基本的には「やっぱりそうなんだ」というものになる。

もし地球が真っ平らで、その他の星々が地球の周りを回っているという世界観で生きている人が、いや地球は球で、しかも回っているのは地球の方だ、なんて事実に思い至ったら、それを「深い気づき」とは呼ばないだろう。大発見である。この対比でも、気づきが内側にベクトルを持っていることがわかる。それは「私」に関する話なのだ。


もう一度書くが、「発見」と「気づき」は重なっている。

気づきと呼んでいるものを発見と言い換えることもできるし、その逆もできる。が、どうしても発見に言い換えられない「気づき」というものもある。それは内側にベクトルを持っているものであり、自分の価値観の追認でもある。

で、それは発見ではない、ということだ。

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発見の価値

たまたまTwitterで流れてきた、以下の記事を読んだ。

『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』を読んで、僕が考えたこと | シゴタノ!

一年前の記事だ。一年前にも読んだ。それも何度も読んだ。記事にはこうある。

例えば、倉下さんは『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』の中で、以下のような「発見」について書いています。

どうやら私は「発見」について何か書いていたようだ。孫引いてみよう。

こうした記事を書いてみて、私は一つの発見をしました。

それまで、ノートや手帳の使い方を工夫することは私にとって「当たり前」のことでした。何か特別なことをしているつもりはなかったのです。

しかし、それをブログに書いてみると、面白がってもらえる。あるいは楽しんでもらえたり、誰かの役に立ったりする。そういうことが起こりうるのだ。そんな発見をしたわけです。

そうだ、たしかにそんな「発見」をした。ここで何かが頭に引っかかる。雛鳥がタマゴの殻を内側からやぶるような、そんな心象の前触れのようなものが起こる。触手がまるで接続相手を求めるように縦横無尽にのたうち回っているかのような感触が生まれる。

何かが、あったぞ。

そうだ、これだ。

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あるとき、気がついた。そこには「発見」があるのだ、と。

なんてことはない。「発見」が鍵だったのだ。

私がブログを続けてこられたのは、その過程に多くの発見があったからだろう。コンビニでもそうだし、物書きでもそうだ。仕事をしているうちに、そこに何かしらの発見がある。それが面白さを豊穣させ、新たな試行を呼び寄せる。その試行が、また新たなる発見へとつながる。擬似的永久機関の誕生だ。

より多くを知れば、またより多くを知りたくなる。I can’t stop fall in ○○○○.

もしそれが、「こうすれば、こうなって、こううまくいきますよ」型だったらどうだろうか。そこでは失敗の可能性が丁寧に潰されている代わりに、発見のチャンスもまた潰されている(※)。たんになぞっているだけなのだ。
※むろん可能性はゼロではない。が、小さい。

もしそれが、パソコンのブラウザの操作方法であるならば、まったく問題ない。むしろ失敗の可能性なんてない方がよいだろう。ツールは使い方を覚えてからナンボである。ツールを好きになる必要は(一般的には)ない。また、それを使い続ける必要も(一般的には)ない。

ではそれを、仕事にまで敷衍できるだろうか。あるいは、人生にまで。


あらためて言うまでもないが、この記事も発見によって書かれている。発見の価値を発見したのだ。こぢんまりとした発見ではあるが、発見には違いない。こうしてまた私の擬似的永久機関は回り続けていく。

ちなみに発見可能性と失敗可能性はおそらく相関の関係にある。100%だとは言えないが、かなり近いものを持っているだろう。まだこの辺はうまくまとまっていないが、それについてもなにか発見したいものである。

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どこから話を始めるのかちょっと難しいね。

昨今のウェブとも関係あるし、ある意味では生き方みたいなものとも関係している。薪割りみたいにすぱっと切り出せそうにはない。でも、あんまり肩肘張らずに始めてみよう。

「ふぁいんど・ざ・らいと」

記事

以下の記事を読んだ。

23-seconds blog: 懐古の海鮮和食定食

何と言いますか、どんなものでも、おいしそうなら、おいしそうで、全然構わないのです。自分で気づいて、自分で表現します。生きることのすべてです。

少しだけ誇張を許してもらえるなら、ピリピリ震えがくる記事だ。

記事には、いくつか別の記事が紹介されている。

シャープソーンのマリオ | gofujita notes

ぼくは、たとえば横浜のきどったお店で何だか知ったかぶりしたニイさんに、「今日、厚岸から入った牡蠣は、はっきり言ってオススメですよ。食べないと損ですよ」なんて言われると、絶対別のものを注文するくらいにはヒネクレている。けれど、なぜだかマリオの解説は、食べている料理への安心感を高めてくれたし、ジャージー牛を誇りをもって育てているキャベンディッシュさんの顔を浮かべながらその乳でつくったバターを味わうのは、やはり生きる活動の醍醐味というものだ。

はやくなるのがはやい:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

おそらくこの男の子は電車が好きで、ふだんから電車の走りに注意を向けているので、加速性能の差に気がつき、それを「はやくなるのがはやい」と表現したのだ。そう考えれば、語彙の範囲内で実に的確な表現をしていると思う。

もし、時間があるならこれらの記事も頭から読んでみたっていい。時間がないなら、そうだな。まあ、そもそもこの記事を読むのを後に回した方がいいかもしれない。それぐらい、ちょっと込み入った話になるんだ。

さて、準備はいいかい。話を続けよう。

もうちょっと別のブログの記事を紹介してみよう。

ほどほどの不自由がココロの自由 – 日々の食卓から

それなのに、あの頃よりも。
制服を着て、学校に通っていたころより。

もしかして、ワックスで髪をがちがちにかためて慇懃無礼に接客してた頃より。
 
いまの不自由な生活のほうが、ココロが自由だ。 

葛藤 – 仮庵

いままでとは何か違うな? と気づく前はなんとか食べさせない方向で説得してきたが「ストレスか?ストレス食いなのか? ふふふ。いいよ、食べな。1個ね。食べたら歯みがけよ」と言ったらニヤニヤして、ちゃんと歯も磨いて安心したように寝た。
そうしたらその日から、起きてこなくなった。
またあるかもしれないが、その時はその時だ。

「ぬか~つくるとこ~」(倉敷市)の自由に衝撃をうける: 鷹の爪団の吉田くんはなぜいつもおこったような顔をしているのか

自由をくちにするのはかんたんだけど、
「ぬか」ほどすきなことだけ すればいい場所を
わたしは はじめてみた。
すきなことをしていいよと、ほうりだすのではなく、
スタッフがこまかなところまで 目くばりをおこたらないからこそ、
ぬかびとたちは、すきで得意な活動に、安心して没頭できる。
スタッフがぬかびとたちのちからを じょうずにひきだしている。

まだまだあるけど、きりがないのでやめておこう。

これらの記事からは、共通するある種の要素を感じる。簡単に言えば好感触なのだけど、それではあまりに曖昧だ。それがいったい何なのかずっとずっと気になっていた。読書好きとか、そんな単純なことじゃない。もっともっと深く広く根を下ろした何かだ。で、その何かに僕の心は反応してしまう。引きつけられてしまう。

「ふぁいんど・ざ・らいと」

いんたーねっつ

インターネットの話をしよう。

「注目」の力学に支えられたインターネットは、刺激的な発信が増加する傾向を持つ。結構なことだ。なんたって人は刺激的なものが大好きなんだから。でも、それはコントラストを強めすぎた写真のような歪さも持ってしまう。良いものにせよ、悪いものにせよ、極端なものばかりが注目され、ほどほどのもの、ちょっとしたものは見過ごされていく。

不思議なことだ。

だって、僕たちの日常は「ほどほどのもの」や「ちょっとしたもの」で満たされているはずなのに。一体僕たちはほんとうのところ何を目にしているんだろうか。

そういう意味で、上記の記事たちは「ちょっとしたもの」に目を向けている。それが僕の心を引きつける「何か」なんだろうか。どうにも違う気がする。それだけではない気がする。

「ふぁいんど・ざ・らいと」

いい話

あるとき、気がついた。そこには「発見」があるのだ、と。

自分の目で人生を眺め、自分の頭で考える。そしてキラリと光る何かを発見する。どの記事にもその発見がきちんと息づいている。それらは、まあたしかに「ちょっとしたもの」でしかないし、世界を変えるような力は持ち合わせていないかもしれない。でも、人生に寄り添っているが故に決して空疎にはならない。思考実験はあるかもしれないが、実体が常に存在している。

だから奇っ怪なことにはならない。むしろ地に足がついた、そしてそこから暖かさが伝わってくるような感触がある。

たぶん、そういう記事には「ちょっとしたいい話」が含まれていることだろう。でも、それはバイラルメディアで流れてくるようなわかりやすい(そして真偽が怪しい)「イイ話」とは違う。そういう話は単に事実を伝達しているだけで、発見はどこにもない。その記事をいいね!してシェアしている人も共振材となっているだけで、何も自分では発見していない。

つまり、僕が言いたいのはこういうことだ。

「イイ話」をいくらストックしても、自分の人生が良くなったりはしない。むしろ、なんでもない日常に目を向け、そこから自分で何かを発見していくことが必要だ。キラリと光る何かを。

「ふぁいんど・ざ・らいと」

さいごに

日常に目を向けることも大切だが、それは土台の片一方でしかない。

大切なのは、考えることだ。発見するということは、考えるということなのだ。思うだけでなく、考える。それが鍵だ。

でもって、それを記事にしたため、ウェブの大海原に送り出すことは、ウェブ全体の情報流通にとってすごくすごく良いことじゃないかなって、僕は思う。少なくとも、僕はとても楽しい気分になれる。それにちょっとレジスタンスっぽい気分を味わえるしね。

まあ、そんなたいそうなものじゃないにせよ、誰かの日常をちょっと変えるだけの力はあるかもしれない。

「ふぁいんど・ざ・らいと」

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