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自由についてのノート その3

前回:自由についてのノート その2


自由についての思索の歴史的な流れを俯瞰してみたわけだが、それでおしまいではやっぱりつまらない。ここから何を考えるのかが、スリリングなのだ。

まず、大きな疑問は、「自由とは何か?」だろう。しかし、これでは漠然としすぎていて、とっかかりがない。もう少し掘り下げが必要だろう。

ノートにまとめながら感じたのは、自由について語る場合、まず「何からの自由なのか?」を意識しなければいけない、という点だ。「自由」そのものは、「自らに由る」(≪由る≫≒≪依る≫)という意味で、一見内側で完璧に閉じた概念のような気もするが、むしろ、「自らに由ることを阻害する要素」との関係性の中で捉えていかなければならない。

それが悪心なのか、国民国家なのか、共同幻想なのか、大きな物語なのか、それとも別の何かなのか。

さらに哲学的な疑問として、「自らに由る」の「自ら」とは何を指すのかの考点も設けておきたい。それが自明でないことは、行動経済学や脳科学が警句を告げている。おそらくこのあたりの話は、青山拓央氏の『時間と自由意志:自由は存在するか』で上げられている、人称ごとの自由の違いが参照できるだろう。

私なりに解釈すると、「自由」の捉え方は人称ごとに以下のようになる。

一人称の「自由」……感じる自由
二人称の「自由」……信じる自由
三人称の「自由」……論じる自由

少しかっこをつければ、それぞれ「主体感覚としての自由」「想定人格としての自由」「純粋概念としての自由」となる。まあ、呼び方はどうでもいい。このように切り分けておけば、どこかの自由がアナーキーな方に針が振れても、残りの自由が欠損することはない。特に、一人称の自由と二人称の自由が欠損すると、私たちがごく普通に行っている「生きる」がややこしくなる可能性があるので、安全弁を設けておくことは有意義であろう。

まとめてみると、全体像はこうなるだろう。

「自由とは何か?」

  • 何からの自由か
  • 人間にとっての自由とは何か
  • 私たちは自由であるべきなのか

中心的に取り組みたいのは、「自由」の辞書的な定義ではなく、その作用である。言ってみれば、自由という感覚は私たちに何をもたらすのか、という視点だ。その功罪(プラスの効果と、マイナスの効果)にメスを入れてみたい。もちろん、その感覚そのものが何よってもたらされるのかも重要だろう。

そうして一周考えてみた後に、「私たちは自由であるべきなのか」を問えば、よりラディカルな意見が出てくるかもしれない。あるいは、結局よくある常識に落ち着くのかもしれない。

ゴールについては、現時点ではまったくわからないが、まったくわからないからこそスリリングなのである。


という風にして、本の骨子となるような疑問は生まれてくる。

もちろん、こういう本を書くと決めたわけではない。単に、知的周遊しているだけである。たまたま、それがどこかに辿り着くことはあるのかもしれないが。

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自由についてのノート その2

前回:自由についてのノート その1


国家は国民の自由意志に基づいて形成されつつも、その国民が国家に権利を委譲することで自然状態の混乱から脱せられる、という物語が出てくると、なんであれ、その「国民が持つ権利」が意識されてくる。国家について考えることは、国民について考えることに等しい。

片方ではそれは、フランス革命やアメリカ独立宣言へとつながり、もう片方では、アダム・スミスによる経済学へとつながっていった。前者は普遍的な人権の嚆矢となり、後者は市場の有用性の土台となった。

人々が「自由に」自らの欲求を満たすように行動すれば、なぜかその市場は最適で満たされる。見えざる手が働くのだ。ここでは、わかりやすく「自由」が尊重される。規制は少ない方がいい、あまり決めない方がいい、個人は自由に決定できる方が良い。その方が、全体がうまくいく。

その見えざる手は、だいたいのところはうまく機能するが、ブラックスワンにはまったく手が出なかった、ということは、これまでの金融危機が示しているわけだが、それはともかく、個人というものがあり、それらは自らの欲求を満たすために行動を最適化するので、そのままに放置しておくべきだ、という考え方が見受けられる。さらに言えば、その方が幸せである、という考え方も感じられる。

このあたりから、現代の「個人」に通じる主体が想定・構築されていったのだろう、という予感はある。特徴は、自然的な個人というよりも、国家に対峙される形で浮かび上がってくる個人だ。個人が集いシステムを形成するのではなく、システムがまず存在し、そこに定義される形で生成される個人だ。おそらくそれは、一般意志のリニューアルである国民国家という物語(むしろ、大きな物語)の機能でもあるのだろう。

ただし、その物語は試練にさらされた。二つの世界大戦だ。フロイトやニーチェが活躍した1900年代の初頭、人の心やそれが持つ意志についての思索が深まっていく。フロイトは、精神を多層的に捉え、その奥に暗闇を設定した。ニーチェはそれを克己せよ、と説いた。国家によって定義された国民にしてみれば、国家の存続が危ぶまれると、そのアイデンティティが揺れ動くことは想像に難くない。「我々は何なのか」という問いが、形而上学的というよりも、いっそ生に寄り添う実践において問われるようになる。神は死に、我々は解放され、やがて路頭に迷うことになった。

第二次世界大戦になると、集団心理というものの怖さ、悪の凡庸さ(それはつまり、悪の普遍性をも示す)が浮き彫りになってくる。もちろんそれは魔女を狩っていた時代から存在するわけだが、国家というものの力があまりにも強くなり、科学技術と結びつくことで、どえらいことになることが懸念されていたのだ。熱狂に身を浸し、道路を埋め尽くして看板を掲げるとき、その人は自由なのだろうか。それともそうではないのだろうか。

オーウェルも『1984年』で、その奇妙な「自由さ」を描いている。大喜びで、二分間憎悪に参加する人は、ありありと自由を感じているだろう。では、その人は幸せなのだろうか。それを、誰が、どう決めればいいのだろうか。その決定を、すべて国家に委譲するならば、オーウェルが描いた世界になるし、あるいはシビュラシステムとなるのだろう。

その委譲により、ほとんど大半の人が、そこそこに満足しているなら、功利主義者はこれを成功と呼ぶだろう。一人か二人、致命的に損なわれている人がいたところで、そんなものは「必要経費」なのだ。彼らは人間の苦悩が数字で表現でき、よりにもよってそれが社会に存在する幸福と相殺しうると考える。その結果がプラスなら、Game Win、というわけだ。おかしくてお腹がいたくなる。

彼らは他者が幸福であるからこそ、その苦悩がより増すといったことを考えない。動的なシステムとして見ていないのだ。憎悪は膨れあがり、苦悩は増し続ける。新聞の世界ニュース欄を見れば明らかだろう。幸福であるために、自由が制限されるのは受け入れる必要があるだろう。しかし、何が幸福であるのかを決める自由を制限されてもよいのだろうか。

よい、という立場もあり得るだろう。

行動経済学明らかにしているのは、第一に人間が自分で判断して決定していると思っているものも、その多くが環境に影響を受けている、という点だ。また短期の功利と長期の功利がうまく計算できず、短期的に得をするが、長期的には損をするといった選択をしがちである。もちろん、その決定は「自由に」なされている。

旧来経済学が想定してきた、人間はパーフェクトなエージェントであるという前提は、それほど正しくない。人間は不合理な決定をやらかす。もちろん、すべての決定が不合理ではない。それが顔を覗かせるのは限られているのだろう。でも、その僅かな不合理さが積み重なって、ブラックスワンは顔を覗かせる。人が絶対的に不合理なら、市場を止めてしまえばいい。でも、そうではないからこそ、ここには厄介な問題がある。

一方、脳神経学では、「人間には自由意志なんてない」なんてちゃぶだいをひっくり返すようなことも言っている。でもって、これは行動経済学の知見とも合致する点は多い。電位差によって行動が決定づけられるならば、人の意志は行動を決定していないことになる。ならば、人の自由意志による決定を基盤としたあらゆるものが、形骸化してしまう。そのがれきのあとには、やはりシビュラの信託が待ち受けているのだろう。

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自由についてのノート その1

前回:R-style » 断片の知識を付箋とノートで組織化する


ノートをまとめながら考えたことを記しておく。

まず、時代によって「自由」はさまざまな論じられ方をしてきた。そしてそれは、その時代の文化や出来事に強い影響を受けている。

古代ギリシャにおいてソクラテスは、いかに善く生きるのかについて考えた。いかに自由に生きるのかではなかった。もちろんその二つは重なるのかもしれないが、ソクラテスにおいて「自由」という概念がダイレクトに中心となることはなかったのではないだろうか。そもそもその時代に個人の自由の概念が検討されていたら、市内から奴隷の姿は一掃されていただろう。

人には与えられた役割や、あるべき姿があり、いかにすればそれに近づけるのが吟味されていた。そんな印象を受ける。プラトンの後期においては、「国家」が議論されるが、そこでも自由ではなく正義が中心的な課題だった。もちろん、自由と正義は異なる概念だ。


グッと時計の針を進めて、1600年代である。

デカルトは『方法序説』によって、「私が疑っていることそのものは疑えない」という出発点を発見した。もちろん、それは「個人」の出発点でもある。だからこそ、「個人の権利を侵害してくる国家ってなんなん?」という疑問は生じるだろう。おそらくこれは、ルターによる宗教組織が持つ権威への反抗が下地にあったのかもしれない。神の意向によって行われる国の統治なら、それは仕方がない。でも、そんなものがないのだったら、なぜ我々は法律を受け入れ、税金を支払っているのか?

いやいや、まてまて、人間っていうのは統治機構がないとえらいことになっちゃうんだよ、争いばかりで大変なんだよ、だから人間が自然的に何かしらの権利を持っているにしても、それは統治機構(=国家)に譲渡しておいた方がいいんだぜということをトマス・ホッブズが『リヴァイアサン』で言い始めて、神の代わりの絶対王政を主張したわけだが、さすがにそれは詭弁が過ぎるということで、ジョン・ロックなりジャン・ジャック・ルソーなりが、もうすこし現実的な着地点を探っていった。

でもって、このルソーの『社会契約論』あたりで、自由意志なるものがもやもやとその姿を現し始める。社会契約ってものが必要にしても、それは個人がその存在に合意しているからこそ正当性が認められるわけで、だったら個人の自由意志が欠損されるような社会契約はナシだぜ、というのはまあ飲み込めるにしても、ルソーは一般意志なるややこしい概念も合わせて提出してきた。

この一般意志なるものは「つねに正しく、つねに公の利益を目ざす」ものらしいので、おそらく『PSYCHO-PASS』のシビュラシステムのようなものなのだろう。ルソーは、人間ちゅーもんは、一般意志に従った方がいいぜよ、と説く。シビュラシステムを見ていると、おそらくそうなんだろう、とも思う。私たち個人と国家が見事に融和するとき、そこには安寧の楽園が約束されるのだろう。融和できない個人を疎外する形で。

ということで、昨今言われている「ポスト真実」って、むしろ「ポスト一般意志」な気がしないではない。「一般意志、知らんがな」という声が膨れあがってきていて、そこでは真実なんてものは下の下として扱われる。なぜなら真実は、「一般的」に認められる正しさだからだ。「一般」が解体されるとき、真実の価値も崩れ去る。

むしろ私たちが「ポスト真実」として見ている現象は、もっと大きな現象の些細な前触れなのかもしれない。

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