ゆっくりさをゆっくり取り戻す あるいは時間感覚の調律

自分の時間の感覚がちょっと変になってるんじゃないか、と思う出来事がありました。

成果や達成をはかる時間軸が歪んでいる気がするのです。そろそろ、ゆっくりを取り戻すタイミングなのかもしれません。

セルパブ本の流れ

2016年は、ブロガーさんの優れたセルフパブリッシング本が何冊も出版されました。喜ばしいかぎりです。私はこういう事例がどんどん増えてくれたらいいのにな、と思いながら『KDPではじめる セルフパブリッシング』という本を書きました。2013年12月のことです。

そこから2〜3年の歳月を経て、ようやくそのような状況が現実になりつつあります。まだ出版には至っていないけど、原稿を執筆中であったり、企画を考えている方もいらっしゃるようで__その状況に拙著がどれだけ影響を与えたかは別にして__、今後の動きには非常に期待が持てます。

でも、最初に引き算して年月を計算したとき、こう思ったのです。「2年もかかったのか」と。そしてすぐさま違和感が湧いてきました。その感覚自体がおかしいんじゃないか、と。

速度=正義

もっとはやく、もっとはやく、もっとはやく。

現代社会あるいはインターネットベース社会における基本的な要請です。より多くを、より短時間で成し遂げる。速度は正義なのです。

私もそれに最適化していました。毎月一冊電子書籍の新刊を発売するなんて、尋常なことではないでしょう。そしてセルフパブリッシングの電子書籍でなければまず達成できなかったことではあります。テクノロジーとメディアの力を最大限に発揮させたわけです。

そうして出版した本が、発売日に購入してもらえ、翌日には感想がもらえる。なんと素晴らしい。『Fate/Zero』のキャスター並に愉悦に浸りそうになります。

それはとても恵まれたことであり、ありがたいことであり、素晴らしいことではあります。でも、と注釈もつきます。

時間をかけなければ作れない価値はどうなったのだろう。
長い時間の評価軸でないと見出しにくい価値はどうなったんだろう。

速度に最適化した自分という存在は、そうしたものを生み出すことができるのだろうか。スキルが向上し徐々に近づいているのか、それとも道を踏み外しつつあるのか。

だんだんわからなくなってきます。そして、私の心の声がCV.石田彰でこうつぶやきます。

「君のやりたかったことって何だい?」

人の心に残る本。時代を超えて読まれる本。価値が時間によって欠損せず、むしろ増える本。そういう本を書くこと。

そういうものを生み出す力は向上しているだろうか。そのための準備は整っているのだろうか。私は時計の針を見ます。自分の残りの人生を示す時計の針を。そんなに長くはないでしょう。速度のみに汲汲としていたら、あっという間に終わってしまいそうです。

速度の速さが問題なのではありません。物事がスピーディーに進むことは、基本的には良いことです。ただ、それに過剰に最適化し、価値を計る物差しが歪んでしまうのが問題なのです。短期的な成果を上げないから、研究開発費を削除する方針を打ち出すCEOを私はあざ笑うでしょう。問題はそれと同じことを自分がやっていないのか、という点です。

2年という年月で達成したことを「時間がかかった」と評するような人間に、4〜5年かけないと生み出せない価値は到底手が届かないでしょう。でもって、私が求めているのはまさにそのような価値なのです。そこを忘却しては、最終的には生きることがつまらなくなることは間違いありません。

実際にやっていること

具体的な話をします。

2017年の「月刊くらした」計画は、三ヶ月に一冊のペースで出版することを予定しています(月刊でもなんでもなくなってますね)。ただ、その作業は3ヶ月ごとに一冊作るのではなく、2〜3ヶ月に一冊のペースで本を作りつつ、並行して一年かけて本作りを行おうとしています。

つまり、2017年の最後に発売されるはずの四冊目の本__おそらく『僕らの生存戦略』になりそうです__を、すでに今の時点から作り始めているのです。一日に投下している作業時間はそれほど多いものではありませんが、構成を考え、コンセプトを整え、素材集めを行い、といったことをじわじわと進めています。

これまで、それほど長い期間腰を据えて「一冊」に取り組んだことがありません。でも、私もそろそろ物書き6年目に入っているので、そうした仕事のスタイルを身につけていく必要があるでしょう。

それだけではありません。もう一つ、『断片からの創造』という本の構想を考えていて、これは2018年か2019年に出版することを予定しています。で、そのための材料を集めを、今の時点からスタートしています。毎日一枚情報カードを書く、という非常に小さい進捗ではありますが、それでも1〜2年続けたら素材は大いに集まるでしょう。そこからどんな料理の腕を振るう必要があるのか。それも楽しみの一つです。

さいごに

4〜5年かけて作る価値の話をしておきながら、実際やっていることはせいぜい1〜2年かける作業の話です。でも、仕方がありません。移行というのはゆっくり進め、徐々に体を慣らしていくしかないのです。でないと、途中で挫折してしまいます。それに、ゆっくりさを取り戻すのに性急さを用いることほど愚かしいことはありません。

現時点で二つ言えることがあります。

一つは、数年かかる作業であっても、結局「毎日少しずつ何かをする」に微分できること。「構想四年!」と耳にするといかにも壮大さを感じますが、実際やっていることは一日レベルではたいしたことがありません。ただ、それをひたすら長く繰り返すだけです。

もう一つは、Evernoteの価値です。記録する期間が短ければ、Evernoteは他のツールとたいした差を持ちません。一週間単位なら大学ノートと、一年単位なら手帳と同じくらいの重さしかないのです。しかし、数年という単位で単一の事柄に向かい合うのに、これほど適したツールはありません。長らくノートと手帳を使ってきた私でも、あるいはだからこそこのツールが引き受ける時間軸の長さと、そこから生まれ出るであろう価値の大きさには唖然とします。

もちろん、ちゃんとサービスが続いたら、という前提がつきますが。

ともかく、

「ゆっくり進めること」
「ちゃっかり進めること」

それが2017年からの、私の一つのスタイルです。

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解放装置としてのブログ、あるいは「自分のメディア」について

一昔前、ブログは解放装置だった。

社会にはさまざまなしがらみがあり、個人の個性的な活動はそこでは行えなかった。ブログはそこに扉を開いた。さまざまな発信を行い、ときにはもう一つのペルソナ(=アストラル・アバター)と共に、ウェブ上に一つの居を構えることができた。

平たく言えば、そこは(社会に比較すれば)自由だった。やりたいことが、やりたいようにできたのだ。

もちろん、いくつかの禁則はあっただろう。公共の福祉を害することは褒められる行為ではなかったし、誰かの人格を攻撃する人間は、多少面白がられたとしても、話題の先端に上がることはなかった。ひらたく言えば、無視された。そんなことよりも、面白いものが他にいくらでもあったのだ。

状況は、変わりつつある。

現在のブログには、さまざまな「してはいけない」が存在している。もっと言えば「した方がいい」「すべきだ」すらある。驚きだ。

一時期は解放装置であったものが、人を束縛する装置と化している。本来__というよりも、その出発地点では、「してはいけない」や「した方がいい」から一番遠い場所にあったものが、あっというまにそれに近接し、寄り添うようになってしまった。どこでこんなことになってしまったのだろうか。


ブログは、一つのパブリッシュ・メディアであり、ブロガーはその編集長である。彼は、自分のメディアに関して最大の裁量を持つし、それを発揮しなければいけない。

CanCamの編集長が、JJの編集長に、「どうやって雑誌作ったらいいですか?」と尋ねるだろうか。あるいは、Smartの編集長が、現代思想の編集長に編集方針をコピペさせてもらうだろうか。

雑誌は、それぞれに編集方針を持つ。それが異なるからこそ、読者は雑誌を選べるのだ。他の雑誌の編集方針をコピーしていたら、まったく同じような雑誌が生まれるだけで、読者は困惑するだろう。最終的には一番人気の雑誌が、さらに人気を集めるだけかもしれない。富は、富へと集中する。

わざわざ、「自分のメディア」を「他にあるメディア」に近接させたい、もっと言えば模倣したいと願う気持ちはどこからやってきたのだろうか。

奇しくも先ほど「ウェブ上に一つの居を構えることができた」と書いた。それは自分の位置づけであり、言い換えれば自分の居場所作りでもある。そこにトラップが潜んでいたのだろう。

社会にはいろいろなしがらみがあると書いた。そのしがらみは、当然「してはいけない」や「した方がいい」という暗黙の、ときに声高な要請として表出する。

ウェブ上の人口が少なかったとき、そこは広い草原のようなもので、人々は遊牧民でいることができた。共同体のルールはあるにせよ、その範囲と影響力は非常に限定的だった。しかし、人が集まり、狩猟から農耕に移行すると、村という固定的な共同体が生まれた。社会の誕生だ。

つまり、ブログはその人口の増加と共に、社会化してしまったのだ。社会化したものの先には、しがらみが待っている。ウェブ上に一つの居を構える効果があることを考慮すれば、これは当然の帰結だったと言えるだろう。

もちろん、上記はまったくの幻想である。言い換えれば、ある種の幻想がもたらす帰結、ということだ。ウェブ上に「人口密集地」なるものは存在しないのだから、当然だろう。

すでにあるクラスタ、すでにあるブログ群に飛び込もうとするとき、そこには社会化の力学が発生する。一昔前のブログが、社会からの離脱(離反)だったのに対して、今のブログは、一つの社会から飛び出て、別の社会に飛び込む行為となっている。あるいは、そうした幻想が主流になっている。

つまりそれは、「自分のメディア」を確立する動きではなく、むしろそれを「私たちのメディア」の下位階層に位置づけようとする試みなのだ。雑誌の比喩を再び用いれば、それは新しいメディアを作ることではなく、新しい「〜〜Walker」を作ることに似ている。そこでは「してはいけない」や「した方がいい」は統一されていた方が望ましいだろう。編集方針のコピペは有用である。


一つの視点として、「お金稼ぎを目的としているから、金太郎飴みたいになる」と見ることもできるだろうが、もしそれが本当ならば、MicrosoftとAppleは似たような会社になっていないといけない。どちらもお金稼ぎを目的(ないしは目標)とした企業である。しかし、どう考えても二つの企業は似ていない。

つまり、お金稼ぎが目的であるかどうかは差異を生むかどうかの主要な条件ではないことになる。そうではなく、「自分のメディア」をどのように位置づけているのかが、差異を発現させる鍵を握るのだろう。

▼こんな一冊も:

ブログを10年続けて、僕が考えたこと
倉下忠憲 (2015-05-28)
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11/9 〜 11/15 今週のまとめ

今週のまとめエントリーです。

  1. 断片の知識を付箋とノートで組織化する
  2. 自由についてのノート その1
  3. 自由についてのノート その2
  4. 自由についてのノート その3
  5. B6サイズの情報カードを持ち歩くソリューションをDIYで
  6. 毎日五分だけカードを読む

今週は「自由」について多く書きました。あるいは、大人にとっての勉強について書いたのかもしれません。

今日の一言

今日の一言はこちらでつぶやいております。

11月9日

玉石混淆と言いますが、玉ばかりでも押しつぶされてしまうのでしょう。

11月10日

その曖昧さは、無限性へと敷石ともなります。

11月11日

価値には、実体がありません。共同で幻想されるからこそ、価値は価値たり得るとも言えるでしょう。

11月12日

変化のトリガーは、問いです。良いのか、悪いのかは別にして。

11月13日

問いの質が変わるような情報の増え方が、変化を促します。

11月14日

メタですね。でも、それこそが「人間」の根源なのかもしれません。

今週のその他エントリー

Honkure

WRM 2017/01/09 第326号
『転位宇宙』(A・G・リドル)
『ポピュリズムとは何か』(水島治郎)
『昭和元禄落語心中(10)』(雲田はるこ)
『アイデアのヒント』(ジャック・フォスター)
『「超」発想法』(野口悠紀雄)

今週触った本

最近読んでいます。カーらしいピリっと毒が効いたテクノロジー批評の記事が集まっています。

明日のメルマガ告知

毎週月曜日に配信しているメルマガ。来週号の目次はこんな感じです。

○BizArts 3rd 「第五章 第一節 ロール」
○でんでんコンバーターで電子書籍を作る vol.4
○「本」を巡る冒険 「ブックガイドとしての口コミ」
○今週の一冊 『ポピュリズムとは何か』(水島 治郎)
○物書きエッセイ 「書き手にとっての価値、読み手にとっての価値」

頂いた感想など:

Weekly R-style Magazineは、毎週月曜日の朝7時に配信されているメルマガです。

Weeky R-style Magazine
Weekly R-style Magazine ~プロトタイプ・シンキング~(まぐまぐ)

ブログに書けないテーマ、長期的な連載、日々考えていることなどをお送りしています。

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毎日五分だけカードを読む

スタンバイ・プロジェクトなるものがあります。

今現在着手するわけではないけれども、次あるいはその次に実行することが確定しているプロジェクトです。私の場合であれば、「月くら」計画の今作っている本の次の本がスタンバイ・プロジェクトです。

そのようなプロジェクトについても、事前にある程度進めておけば、いざ本番になったときに役立つでしょう。かといって、あまり入れ込みすぎるとメイン・プロジェクトなんだか、スタンバイ・プロジェクトなんだかがわからなくなってしまいます。

だから、一日五分ぐらい作業するぐらいがちょうどよいでしょう。毎日一回、五分だけその作業を触っておく。そうすれば、いわゆる「現役効果」も期待できますし、着手し始めたときには細かい作業がもろもろ終わっている状況をセッティングできます。素晴らしい。

もちろん、机上の空論です。

一見、「一日五分くらいならできるだろう」とついつい思ってしまうわけですが__ダイエットマシンの宣伝文句でもありますね__、案外それが難しいのです。はじめのうちは簡単そうに思えますし、実際はじめのうちは簡単なのですが、時間が経つにつれ、難しさが出てきます。

理由1:メイン・プロジェクトに忙殺される

メイン・プロジェクトが佳境に入ってくると、五分という時間ですら惜しく感じられます。スタンバイしているプロジェクトにかまけている暇はありません。そこで、中断が発生し、中断は習慣化を阻害します。つまり、続きません。

理由2:何をやっていいかわからない

「五分だけ作業をやっておく」と言うのは簡単ですが、一体何をすればいいのでしょうか。最初の内はわかりやすい作業がいっぱいあります。パソコンの中にプロジェクト用のフォルダを作ったり、あるいは資料を集めて一カ所にまとめておく、といったことです。が、それが終わったらどうでしょうか。おそらくここでは、「次の作業を見出す」という作業が必要なのでしょうが、その作業が5分以上かかるのであれば袋小路です。つまり、続きません。

理由3:全体像が大きくなりすぎる

作業を積み重ねていくと、徐々に全体像が大きくなっていきます。構想が膨らみ、メモが増え、下書き原稿が長くなっていきます。すると、五分程度の時間では何もできない気がしてきます。まず全体像を思い出すのに時間もかかりますし、「以前の原稿を読み直そう」と思っても、それが数千字になってしまっているときもあります。やる気が起きません。つまり、続きません。

そこで、カードの出番です。

カードのメリット

スタンバイ・プロジェクトも毎日行います。つまりルーチンです。そのタスクを「五分だけカードを読む」と設定してみました。

最初に一枚カードを取り出し、そこに本の企画案を書き込んでおきます。ざっとしたアイデアを書き付けておいてもよいでしょう。そして、毎日一回、ジャバラカードフォルダから企画用のカードを取り出し、そのカードを読み返すことをタスクとするわけです。

必要ならば、新しいカードに思いついたこと__アイデアなり、作業メモなり、構想案なり__を書いても良いでしょう。ちょっとできる作業があるなら、それをやってみても構いません。ともかく、出発点はカードを読むことです。

こうしておくと、タスクが曖昧になることもありませんし、全体像が膨れあがっても、注意を向けるのは一枚のカードだけで済みます。たったそれだけのことですが、心理的な負担は減ってしまうものです。ただし、理由1に関しては完全にはフォローできません。忙しくなったら、まったくカードに目を向けない可能性は残ります。

ただし、このジャバラカードフォルダには他のカードも収納しているので、それらを取り出すときにたまたま目に触れる効果は期待でき、それが心理的な距離感を遠ざけない効果は期待できます。開かなくなったノートは、どんどん次に開く心理的負担が大きくなってしまいますが、カードならそれが多少軽減できるかもしれません。この辺りは、長期的に続けてみて、その効果を確認するしかないでしょう。

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とりあえず、しばらくはカード三昧な生活を送ることになりそうです。

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B6サイズの情報カードを持ち歩くソリューションをDIYで

最近、毎日一枚情報カードを書いています。『断片からの創造』という本に向けた素材集めのカードで、サイズはB6です。

書籍『断片からの創造』のための情報カード

これはこれで一つの新しい試みなのですが、人の習性とは不思議なもので、こうしてカードを書くことを日課にしていると、他のこともノートではなくカードで書きたくなってきます。で、そうしはじめました。

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こうなると、これらのカード束を持ち歩きたくなります。思索は、行動と共にあり、なんて言葉もありますからね(今勝手に作りました)。

しかし、カード束をそのままカバンに突っ込むとバラバラになりますし、クリップや輪ゴムで止めても型崩れが心配です。となると、ケースが欲しくなります。

単に未記入のカードを持ち運ぶだけならば、以下のようなノートカバーが活躍していました。

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片方に新品のカードを入れ、もう片方には記入し終えたカードを入れられます。なかなか便利ではありますが、そこそこまとまった量のカードを持ち運ぶには適していません。せいぜい「ドッグに移すまでの一時的な仮置き場」くらいなものです。

かといって、世の中を見渡しても、B6サイズのカードの束を持ち運ぶのにフィットしたアイテムはなかなかありません。他のサイズならともかく、B6は希少種なのです。

だったらそう、DIYですね。自作するのです。

なんとなくイメージしたのは、固いカバーで、ジャバラタイプのもの。ええ、モレスキンのアレですよ。あれと似たようなもののB6サイズがもっと安価に入手できれば……

といろいろ考えたあげく、百均ストアにいって、名刺やトレーディングカードを保管するためのプラスティックフォルダと、画用紙を購入。それらを切ったり貼ったりして、以下のようなものができあがりました。

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サイズ感。

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広げると、こんな感じ。

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カードをこのように収納できます。

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持ち運ぶときは、中身が溢れ出るのを防ぐためにゴムバンドを(これも百均で購入したヘアバンドです)。うまくひっかかるように真ん中に小さい切れ目を入れてあるのが、ちょっとしたポイント。

IMG_7204

日常遣いのひらくPCバッグの中央左ポケットにぴったりフィット。Feeling Goodです。

ちなみに作り方は、

  • カードフォルダのページをすべてはぎ取り
  • 画用紙を長方形に切ってジャバラ式に折り込み(二組作る)
  • そのジャバラをカードフォルダーのカバーに貼り付ける

という至極単純なもの。ジャバラの折り込みの適切回数はぜんぜんわからなかったので、至極適当にやりましたが(おおざっぱ)、今のところは良い感じに機能しています。もし、もう少し仕切りが欲しいなら作り直すこともできるでしょう。それがDIYのいいところです。

というわけで、情報カードの束を持ち歩くソリューションをお探しの方は、ぜひお試しを。

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自由についてのノート その3

前回:自由についてのノート その2


自由についての思索の歴史的な流れを俯瞰してみたわけだが、それでおしまいではやっぱりつまらない。ここから何を考えるのかが、スリリングなのだ。

まず、大きな疑問は、「自由とは何か?」だろう。しかし、これでは漠然としすぎていて、とっかかりがない。もう少し掘り下げが必要だろう。

ノートにまとめながら感じたのは、自由について語る場合、まず「何からの自由なのか?」を意識しなければいけない、という点だ。「自由」そのものは、「自らに由る」(≪由る≫≒≪依る≫)という意味で、一見内側で完璧に閉じた概念のような気もするが、むしろ、「自らに由ることを阻害する要素」との関係性の中で捉えていかなければならない。

それが悪心なのか、国民国家なのか、共同幻想なのか、大きな物語なのか、それとも別の何かなのか。

さらに哲学的な疑問として、「自らに由る」の「自ら」とは何を指すのかの考点も設けておきたい。それが自明でないことは、行動経済学や脳科学が警句を告げている。おそらくこのあたりの話は、青山拓央氏の『時間と自由意志:自由は存在するか』で上げられている、人称ごとの自由の違いが参照できるだろう。

私なりに解釈すると、「自由」の捉え方は人称ごとに以下のようになる。

一人称の「自由」……感じる自由
二人称の「自由」……信じる自由
三人称の「自由」……論じる自由

少しかっこをつければ、それぞれ「主体感覚としての自由」「想定人格としての自由」「純粋概念としての自由」となる。まあ、呼び方はどうでもいい。このように切り分けておけば、どこかの自由がアナーキーな方に針が振れても、残りの自由が欠損することはない。特に、一人称の自由と二人称の自由が欠損すると、私たちがごく普通に行っている「生きる」がややこしくなる可能性があるので、安全弁を設けておくことは有意義であろう。

まとめてみると、全体像はこうなるだろう。

「自由とは何か?」

  • 何からの自由か
  • 人間にとっての自由とは何か
  • 私たちは自由であるべきなのか

中心的に取り組みたいのは、「自由」の辞書的な定義ではなく、その作用である。言ってみれば、自由という感覚は私たちに何をもたらすのか、という視点だ。その功罪(プラスの効果と、マイナスの効果)にメスを入れてみたい。もちろん、その感覚そのものが何よってもたらされるのかも重要だろう。

そうして一周考えてみた後に、「私たちは自由であるべきなのか」を問えば、よりラディカルな意見が出てくるかもしれない。あるいは、結局よくある常識に落ち着くのかもしれない。

ゴールについては、現時点ではまったくわからないが、まったくわからないからこそスリリングなのである。


という風にして、本の骨子となるような疑問は生まれてくる。

もちろん、こういう本を書くと決めたわけではない。単に、知的周遊しているだけである。たまたま、それがどこかに辿り着くことはあるのかもしれないが。

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自由についてのノート その2

前回:自由についてのノート その1


国家は国民の自由意志に基づいて形成されつつも、その国民が国家に権利を委譲することで自然状態の混乱から脱せられる、という物語が出てくると、なんであれ、その「国民が持つ権利」が意識されてくる。国家について考えることは、国民について考えることに等しい。

片方ではそれは、フランス革命やアメリカ独立宣言へとつながり、もう片方では、アダム・スミスによる経済学へとつながっていった。前者は普遍的な人権の嚆矢となり、後者は市場の有用性の土台となった。

人々が「自由に」自らの欲求を満たすように行動すれば、なぜかその市場は最適で満たされる。見えざる手が働くのだ。ここでは、わかりやすく「自由」が尊重される。規制は少ない方がいい、あまり決めない方がいい、個人は自由に決定できる方が良い。その方が、全体がうまくいく。

その見えざる手は、だいたいのところはうまく機能するが、ブラックスワンにはまったく手が出なかった、ということは、これまでの金融危機が示しているわけだが、それはともかく、個人というものがあり、それらは自らの欲求を満たすために行動を最適化するので、そのままに放置しておくべきだ、という考え方が見受けられる。さらに言えば、その方が幸せである、という考え方も感じられる。

このあたりから、現代の「個人」に通じる主体が想定・構築されていったのだろう、という予感はある。特徴は、自然的な個人というよりも、国家に対峙される形で浮かび上がってくる個人だ。個人が集いシステムを形成するのではなく、システムがまず存在し、そこに定義される形で生成される個人だ。おそらくそれは、一般意志のリニューアルである国民国家という物語(むしろ、大きな物語)の機能でもあるのだろう。

ただし、その物語は試練にさらされた。二つの世界大戦だ。フロイトやニーチェが活躍した1900年代の初頭、人の心やそれが持つ意志についての思索が深まっていく。フロイトは、精神を多層的に捉え、その奥に暗闇を設定した。ニーチェはそれを克己せよ、と説いた。国家によって定義された国民にしてみれば、国家の存続が危ぶまれると、そのアイデンティティが揺れ動くことは想像に難くない。「我々は何なのか」という問いが、形而上学的というよりも、いっそ生に寄り添う実践において問われるようになる。神は死に、我々は解放され、やがて路頭に迷うことになった。

第二次世界大戦になると、集団心理というものの怖さ、悪の凡庸さ(それはつまり、悪の普遍性をも示す)が浮き彫りになってくる。もちろんそれは魔女を狩っていた時代から存在するわけだが、国家というものの力があまりにも強くなり、科学技術と結びつくことで、どえらいことになることが懸念されていたのだ。熱狂に身を浸し、道路を埋め尽くして看板を掲げるとき、その人は自由なのだろうか。それともそうではないのだろうか。

オーウェルも『1984年』で、その奇妙な「自由さ」を描いている。大喜びで、二分間憎悪に参加する人は、ありありと自由を感じているだろう。では、その人は幸せなのだろうか。それを、誰が、どう決めればいいのだろうか。その決定を、すべて国家に委譲するならば、オーウェルが描いた世界になるし、あるいはシビュラシステムとなるのだろう。

その委譲により、ほとんど大半の人が、そこそこに満足しているなら、功利主義者はこれを成功と呼ぶだろう。一人か二人、致命的に損なわれている人がいたところで、そんなものは「必要経費」なのだ。彼らは人間の苦悩が数字で表現でき、よりにもよってそれが社会に存在する幸福と相殺しうると考える。その結果がプラスなら、Game Win、というわけだ。おかしくてお腹がいたくなる。

彼らは他者が幸福であるからこそ、その苦悩がより増すといったことを考えない。動的なシステムとして見ていないのだ。憎悪は膨れあがり、苦悩は増し続ける。新聞の世界ニュース欄を見れば明らかだろう。幸福であるために、自由が制限されるのは受け入れる必要があるだろう。しかし、何が幸福であるのかを決める自由を制限されてもよいのだろうか。

よい、という立場もあり得るだろう。

行動経済学明らかにしているのは、第一に人間が自分で判断して決定していると思っているものも、その多くが環境に影響を受けている、という点だ。また短期の功利と長期の功利がうまく計算できず、短期的に得をするが、長期的には損をするといった選択をしがちである。もちろん、その決定は「自由に」なされている。

旧来経済学が想定してきた、人間はパーフェクトなエージェントであるという前提は、それほど正しくない。人間は不合理な決定をやらかす。もちろん、すべての決定が不合理ではない。それが顔を覗かせるのは限られているのだろう。でも、その僅かな不合理さが積み重なって、ブラックスワンは顔を覗かせる。人が絶対的に不合理なら、市場を止めてしまえばいい。でも、そうではないからこそ、ここには厄介な問題がある。

一方、脳神経学では、「人間には自由意志なんてない」なんてちゃぶだいをひっくり返すようなことも言っている。でもって、これは行動経済学の知見とも合致する点は多い。電位差によって行動が決定づけられるならば、人の意志は行動を決定していないことになる。ならば、人の自由意志による決定を基盤としたあらゆるものが、形骸化してしまう。そのがれきのあとには、やはりシビュラの信託が待ち受けているのだろう。

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自由についてのノート その1

前回:R-style » 断片の知識を付箋とノートで組織化する


ノートをまとめながら考えたことを記しておく。

まず、時代によって「自由」はさまざまな論じられ方をしてきた。そしてそれは、その時代の文化や出来事に強い影響を受けている。

古代ギリシャにおいてソクラテスは、いかに善く生きるのかについて考えた。いかに自由に生きるのかではなかった。もちろんその二つは重なるのかもしれないが、ソクラテスにおいて「自由」という概念がダイレクトに中心となることはなかったのではないだろうか。そもそもその時代に個人の自由の概念が検討されていたら、市内から奴隷の姿は一掃されていただろう。

人には与えられた役割や、あるべき姿があり、いかにすればそれに近づけるのが吟味されていた。そんな印象を受ける。プラトンの後期においては、「国家」が議論されるが、そこでも自由ではなく正義が中心的な課題だった。もちろん、自由と正義は異なる概念だ。


グッと時計の針を進めて、1600年代である。

デカルトは『方法序説』によって、「私が疑っていることそのものは疑えない」という出発点を発見した。もちろん、それは「個人」の出発点でもある。だからこそ、「個人の権利を侵害してくる国家ってなんなん?」という疑問は生じるだろう。おそらくこれは、ルターによる宗教組織が持つ権威への反抗が下地にあったのかもしれない。神の意向によって行われる国の統治なら、それは仕方がない。でも、そんなものがないのだったら、なぜ我々は法律を受け入れ、税金を支払っているのか?

いやいや、まてまて、人間っていうのは統治機構がないとえらいことになっちゃうんだよ、争いばかりで大変なんだよ、だから人間が自然的に何かしらの権利を持っているにしても、それは統治機構(=国家)に譲渡しておいた方がいいんだぜということをトマス・ホッブズが『リヴァイアサン』で言い始めて、神の代わりの絶対王政を主張したわけだが、さすがにそれは詭弁が過ぎるということで、ジョン・ロックなりジャン・ジャック・ルソーなりが、もうすこし現実的な着地点を探っていった。

でもって、このルソーの『社会契約論』あたりで、自由意志なるものがもやもやとその姿を現し始める。社会契約ってものが必要にしても、それは個人がその存在に合意しているからこそ正当性が認められるわけで、だったら個人の自由意志が欠損されるような社会契約はナシだぜ、というのはまあ飲み込めるにしても、ルソーは一般意志なるややこしい概念も合わせて提出してきた。

この一般意志なるものは「つねに正しく、つねに公の利益を目ざす」ものらしいので、おそらく『PSYCHO-PASS』のシビュラシステムのようなものなのだろう。ルソーは、人間ちゅーもんは、一般意志に従った方がいいぜよ、と説く。シビュラシステムを見ていると、おそらくそうなんだろう、とも思う。私たち個人と国家が見事に融和するとき、そこには安寧の楽園が約束されるのだろう。融和できない個人を疎外する形で。

ということで、昨今言われている「ポスト真実」って、むしろ「ポスト一般意志」な気がしないではない。「一般意志、知らんがな」という声が膨れあがってきていて、そこでは真実なんてものは下の下として扱われる。なぜなら真実は、「一般的」に認められる正しさだからだ。「一般」が解体されるとき、真実の価値も崩れ去る。

むしろ私たちが「ポスト真実」として見ている現象は、もっと大きな現象の些細な前触れなのかもしれない。

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断片の知識を付箋とノートで組織化する

正月にふと、「俺ってぜんぜんわかってねぇーな」と思い立ちました。そこでノートを使って知識を整理してみました。

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まずエーリッヒ・フロムの『自由からの逃亡』を付箋に書き出し、その他、「自由」に関して思いつく項目や人名も合わせて書き出していきました。第一付箋です。

次に、それらの付箋に書き出した項目をウィキペディアで調べます。必要なのは概要と年代。それを把握したところで、出版年と共にもう一度新しい付箋に清書します。第二付箋です。そうやってウィキペディアを読んでいると、関連する別の項目の名前も上がってくるので、それについても第二付箋を作ります。

付箋を増やしていく間に、出版物だけでなく、その時代で起きた大きな事件も関係しているかもな、と思いつきました。すべてを網羅するのは当然無理なので、誰にでも思いつく大きな事件だけを記しておくことにしました。

これで、大きな事件とその時代の思想が横に並べられます。年表のできあがりです。

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さいごに

こうしてできあがった年表は、これだけで一つのアウトプットではありますが、もちろんこれで終わりではありません。むしろ、より大きなアウトプットを促すためのものとして機能します。

この年表を文章で記述してもよいでしょうし、思想同士の関係や、時代背景の影響、あるいは「語られなかったこと」を考察しても面白いでしょう。どちらにせよ、知識を整理し、体系化して眺めてみないことには、こうした視座にはなかなか至れません。知識が断片のまま、あちらこちらに散らばっているだけだからです。

もちろん、書店に出かければ、こうしたことを「代わりにやってくれている」本は見つかるのかもしれません。それはそれで大きな時間の節約につながるでしょう。でも、私は別に受験勉強をしているわけではありません。単に、これが楽しいからやっているのです。大人の勉強なのです。

それはやっぱり、自分の手を動かしてナンボなのです。

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1/2〜 1/7 今週のまとめ

今週のまとめエントリーです。

  1. 着手を限定する3プロジェクト・マネジメント その1
  2. 着手を限定する3プロジェクト・マネジメント その2
  3. 目標に水を差す
  4. プロジェクトを1つ1つ1つ終わらせていく
  5. 「やることを減らす」というやること
  6. ルーチンのノロイ

今週は、タスク管理系の話ばかりをお送りしました。といっても、かなり切り口が異なっていたんで、それとはわかりにくかったかもしれません。基本的には、時間からスタートする、できることをする、できないことはできない、といったごくごく当たり前の話が大切です。

今日の一言

今日の一言はこちらでつぶやいております。

1月2日

科学と同じですね。

1月3日

「〜〜であるべき」は諸刃の剣です。

1月4日

片方だけは成立しないのでしょう。あるいはコインの両面なのかもしれません。

1月5日

社会を抜いて生きることは、基本的にはできません。だからこそ、私たちは社会について関心を払う必要があるのです。

1月6日

後者の力は、メタな視点が必要で、なかなか習得しにくいのでしょう。

1月7日

周りの人がバタバタしていると、ついつい自分もそうなってしまいがちです。

今週のその他エントリー

Honkure

WRM 2017/01/02 第325号
2016年のアニメを振り返って
『超短編アンソロジー なんなの』(根木珠 編)
『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ)
『タイムマシンを教えるために』(赤井五郎)
『ニワトリ 人類を変えた大いなる鳥』(アンドリュー・ロウラー)

今週触った本

時間と自由 (岩波文庫)
ベルクソン
岩波書店 ( 2001-05-16 )
ISBN: 9784003364598

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毎週月曜日に配信しているメルマガ。来週号の目次はこんな感じです。

○BizArts 3rd 「第四章 第四節 ログ保管時の注意点」
○でんでんコンバーターで電子書籍を作る vol.3
○ノンマーケーター・マーケティング 「ひらくPCバッグ その4」
○今週の一冊 『乱読のセレンディピティ』(外山 滋比古)
○物書きエッセイ 「本を書くときに必要なもの」
○アイデア・パターン 003 「ゴールからのステップ」

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