レインおじさん

「いつも…その恰好を?」
僕は男に尋ねてしまった。
なにせ彼はいつも同じ服装なのだ。365日彼の姿を確認したわけではないが、僕が目にするときはいつも同じ服装である。そこから演繹的に導かれる仮説を確認したくなっても不思議なことではないだろう。でも、僕は尋ねるべきではなかったのだ。炎天下の真夏日でも変わらずにレインコートを着てる男なんかに。

僕はコンビニのレジからその男を見ていた。深夜から早朝のシフトのちょうど終わり際、朝の6時半頃に男はコンビニの前を通る。時間はまったく同じ。足取りもまったく同じ。そして、服装もまったく同じ。少しサイズが大きい黄色のレインコート。
男は40代後半だろうか。50代と言われれば、そうにも見える。なにせレインコートを着て、フードをすっぽりとかぶった人間の年齢はわかりにくいのだ。
コンビニスタッフ内では、「レインおじさん」というあだ名が付いていた。まったくの新人でもすぐに覚えられる希有な存在だ。問題は、その男がうちのコンビニに立ち寄ることは一度として無かった、ということだろう。あの日を除けば。

勤務終わりの一服を駐車場で楽しんでいるときだった。一緒に入っていた大学生のアルバイトは、「講義があるんでお先に失礼します」と帰っていた。もちろん、彼がそのままパチンコにいくことに手持ちのカートンを掛けてもいい。といっても、オッズはとても低いだろうけれども。
煙を吹き上げ、タバコを灰皿にトントンと叩きつける。朝の日差しは、これから夏の一日が始まることを告げている。これから家に帰ってビールを飲んで寝る僕には関係のないことだが。そのとき、向こう側からレインおじさんが歩いてくるのが見えた。「そういえば、今日はまだ来てなかったな。珍しい」僕はひとりつぶやく。姿を見れば、その存在は強く印象に残るのに、目にしなければ不在感は生まれてこない。実に不思議である。
レインおじさんは、ゆっくりとこちらに向かっている。明らかにいつもより足取りは重い。でも姿は同じだ。まるで歩く傘のような黄色い物体がこちらに向かってくる。どうやら、右足を引きずっているようだ。怪我をしているのだろうか。男の表情はうかがいしれないが、ちっとも歩くペースが上がらないところをみると、異常事態が発生していることは間違いない。でも、彼は日常を続けようとしていた。
僕はタバコを灰皿に置き去りにし、その男に近づく。「あの、あそこにベンチがあるんで、少し休まれませんか。もし必要ならば救急車を呼びますよ」僕がそう言うと、男は静かに首を振った。「いや、いんだ。救急車は必要ない。でも、ちょっと休ませてもらおうかな」今にも消えそうな笑みを浮かべて、彼はベンチに座った。
「なあに、軽いねんざだよ」
そういう男の表情からは、それが嘘であることがはっきりわかった。それに、なぜねんざしているのに歩き回っているのかはまったくわからない。でも、そうですか、と僕はその嘘に合意した。それ以上はどこにも行けそうにはなかった。
そして、僕は男に尋ねたのだ。いつも…その恰好を?、と。

「妻がね、一年前に他界したんだ」男はそう言った。
「目の前が真っ暗になる、なんて表現があるけれども、その言葉通りのことが私に起きたんだ。それまで私の世界を支えていた柱みたいなものがボロボロと崩れ落ちていくのを感じたよ。不安定で立っていられないだけじゃない。世界に対して不信感を覚えるんだよ。なぜ、こんなものが存在しているのか、って。君はそんなこと考えたことはあるかい?」
「3万もつっこんで、一度も大当たりがでないパチンコ台に遭遇するとよく考えます」僕がそう言うと、男はかすかに笑みを浮かべた。
「そういう疑問はいい。とても健全だ。君は経済学者になれるかもしれないな。でも私の疑問はダメだった。どこにも行けない疑問だった。心がどこにも行けないようになると、やがて体もそれに付き添うようになる。心配した彼女の両親がセラピーを勧めてくれるまで、私はずっと家に閉じこもっていたよ」
私はね、と男は続ける。
「いっそ死んでしまおうかとも思ったんだ。でも、きっと彼女は天国にいるだろうし、私はそこにはいけそうもない。そういう人生を送ってきたんだ。だいたい最愛の妻がどれほど重要な存在だったのか、彼女を失うまで気がつかないような人間だ。その代わり、私は財産を築き上げ、社会的地位を固めた。でも、そんなものは代わりなんかじゃ全然なかったのさ。もはや悲劇を通り越して喜劇だよ。セラピストが会社に行くのが無理ならば、それと似たような行動__日常というルーチンワークをこなすといいと言ってくれたとき、私は喜劇を演じようと思ったんだ。それも、天国にいる彼女が笑ってくれるような喜劇をね」

じゃあ、そろそろ行くよ。そういって男はベンチから腰を上げた。相変わらず足を引きずっている。その引きずり方を見ていると、僕の足まで痛くなってくる。「一日ぐらい休んでもいいんじゃないですか」僕がそういうと、男は再び静かに首を振った。
「そんなことはできないんだよ。これは私のネジなんだ。それに、ダンスは踊り続けられなければならない。どうしたって人は死んでいくからね。消えゆく意識の中でも胸を張っていたければ、続けることが必要なんだ」
レインおじさんの姿が少しずつ小さくなっていく。僕はたばこに火を付け、空高く舞い上がるようにその煙を吐き出した。黄色いレインコートは、晴れ渡った空からよく見えているだろうか、などと考えながら。

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