色のない世界 #kdp60

 最初に世界から色が消えたのは、19歳のときだった。
 僕はその日、傘も差さずに大雨の中を歩いていた。青春真っ直中の青年にはよくあることだ。シャツからズボンまでびしょ濡れになった僕は、家に帰り着くとやすりで削るようにタオルで頭を拭き始めた。ごしごし、ごしごし。
 犬のように頭をふるわせた僕は、気がついたのだ。世界が色あせてしまっていることに。いや、色あせるどころではない。色というものが完全に消失していた。
 二次元に住む生物が存在するとしたら、こんな風に世界を知覚しているんだろう。僕はそんなことを考えながら色がなくなった世界を見つめていた。色がない世界には影もない。当然立体感もない。ただただのっぺりとした世界が広がっている。
 錬金術師が言った。
「君は色を取り戻したいかね」
 僕は、その問いについて真剣に考えてみた。でも、変数が一つ足りない多元方程式を解いているような気分がするだけで、答えはまったく出てこない。
「よくわからないんです。取り戻した方が良い気もするんですが、でも、切実にそれを求めているわけでもないんです」
「だったら、代価を支払うつもりもないわけだ」
「すいません。そうなります」
 僕の答えを聞くと、錬金術師は姿を消した。あるいは、はじめからそんな人物はいなかったのかもしれない。
 雨が降る音が聞こえる。不吉なカラスの鳴き声も聞こえる。雨が降る音が聞こえる。色がなくなった世界でも、音はきちんと機能していた。「あー、あー、マイクテスト、マイクテスト。本日は晴天ナリ」。自分の存在を確かめるために、僕は声を出してみた。その声は、カラスの鳴き声のように不吉であり、雨が降る音のように遠くに響いた。でも、その音はたしかに存在していた。
 僕は色のない世界で、味のない食事をとり、出口のない妄想を持って眠りについた。
 朝、目が覚めると、世界に色が戻っていた。「なんだったんだろう」
 不思議と僕は残念な気持ちがしていた。決して開けてはいけないといわれた箱を、どこかに置き忘れてしまったような気分だ。
 でも、それから夏の夕立のように、不意に世界から色が落ちることが増えてきた。まったく同じ状況が繰り返される。色がなくなり、音は生きている。世界は僕を飲み込もうとしながら、どこかでは圧倒的に拒絶していた。錬金術師はそのたびに口を開く。僕は答えが返せない。味のない食事があり、平坦な物語があり、無表情に月は踊っていた。
 僕は色のない世界と付き合い、色のない世界は僕と寄り添っていた。そんな日が何日も続いた。何週間も続いた。何年も続いた。実際には、どのぐらいだったのかわからない。色のない世界では、時間の長さも意味を失う。そこでは錬金術師だけがすべてを知っている。
 あるとき、一つの疑問が頭に浮かんだ。このままいけば、どこかの時点で僕は音も失うのかもしれない。色を失ったのだから、音だって安心ではいられない。その小さな疑問は、液体窒素のように僕の心を凍らせた。はじめて心の底から怖いと思った。僕は錬金術師に答えた。
「色のことはいいんです。でも、音は失いたくない。だって、この世界は音で回っているのだから」
「だったら、色を取り戻さなくては」静かに錬金術師は答える。「色を失えば、次は音を失う。それがルールだ。これは誰にも変えられない。この私にだって無理だ。君は代価を支払うかね」
「支払います。僕に支払えるものならば、なんだって目一杯に」
「よろしい」
 そう言って錬金術師は姿を消した。あるいは、はじめからそんな人物はいなかったのかもしれない。
 その日以来、僕の世界から色が失われたことはない。そして、僕の影の色は少しだけ濃くなった。

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