自明な(自明でない)価値

デジタルネイティヴの読書は紙の本より電子書籍(WIRED.jp)

つまり、電子書籍が伝統的な紙の本を追い越し始めたのだ。ただし調査によると、この状況がもたらす結果は、文化的観点からは必ずしも健全ではない。コンテンツ利用の実態は、子どもたちの読書のレヴェルを損なっているようだ。デヴァイスを通してのみ読書をする子どもは、紙に印刷された本との良好な関係を日々欠かさない子どもと比べて、しっかりした読書家になる確率が低いというのだ。

こうした記事を見るたびに、思います。

「しっかりした読書家になることって、そんなに大切なことなのだろうか?」

と。

その良さは自明なのか

言うまでもありませんが、私は読書が好きです。でも、読書が好きであるが故に、「読書は良いものだ」という自分の考え方に、一種のバイアスがかかってないかどうかが心配になるわけです。

読書というのは、自明に良い行為なのでしょうか。

もし、良い行為だとしたら、なぜそうなのでしょうか。

それは、その他のメディアでは得られない何かを提供してくれるのでしょうか。

そうしたことをまったく考えずに、なんとなく本を読むことは良いことだから本を読もう、と他人に(しかも、これからの社会を背負う若い人に)言ってしまうのは、どうにもイカサマ臭が漂ってきます。

ましてや、現代では情報を摂取できる媒体は、本だけに限りません。本はメディアとして、とうの昔に相対化されています。そんな世界に生きる人に、「とにかく本を読めばいいんだ」と言ってしまうのは、少々乱暴ではないでしょうか。すくなくとも、説得力はあまりなさそうです。

たぶん、すでに読書家の人は、いちいちそんな説明など必要としないでしょう。その人にとって、その価値は自明です。しかし、現代にタイムスリップしてきた過去の人が、一万円札を鼻紙がわりに使うように、説明しないと理解されない価値というのは、あります。

そういうことを念頭に置きながら、以下の本を書きました。

ソーシャル時代のハイブリッド読書術
ソーシャル時代のハイブリッド読書術 倉下 忠憲

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さいごに

ぐるっと一周回ってみて、できるだけバイアスを相殺した上で、やっぱり読書は大切だ、と言えそうな気がします。それは情報を仕入れるためでもありますが、むしろ、その情報を咀嚼するための基本的な顎力(あごりょく)を鍛えるためでもあります。

それは、この高度情報化社会を生きていくためには、なんだかんだで必要になってくるのではないでしょうか。

もちろん、読む本と、読み方によって、それが鍛えられたり、そうでなかったりはするわけですが。

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