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帝国とその曖昧な境界線

先日紹介した『レイヤー化する世界』では、「帝国」について、長めの解説が行われている。

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ここで言う「帝国」は、19世紀以降にヨーロッパの国々が行った植民地政策を指し示す「帝国主義」ではなく、ローマ帝国、イスラム帝国、モンゴル帝国など、もっと幅広いものを対象としている。先の本から定義を引けば、

「複数の民族やエリアをひとつに治めている国が帝国」

となる。

この「帝国」は、「国民国家」と対比的に位置づけられている。軸となるのは「境界」の在り方だ。

私たちがいま一般的に国と呼ぶ「国民国家」は、民族によって明確な線を引く。その線ははっきりしていればいるほど強力であり、どこにどんな線を引くのかが、時に死活問題になったりもする。

それは求心力であるのと同時に、ウチとソトを分ける「境界」にもなっています。日本という国の内側は日本人の領域であり、外側は非日本人の領域。

このウチとソトの感覚は、日本人にとっては非常になじみ深いものだろう。なじみ深すぎて__まるで空気のように__存在していてもまったく気がつかないかもしれない。日常風景だ。

しかし、帝国の在り方は、必ずしも国民国家のそれと重なるものではない。

ローマ帝国はことばによって、イスラム帝国は宗教によってウチとソトを分けていた、と本書では解説されている。この二つは、民族ほど明確な区切りとはならない。日常的に話す言葉を変えれば、簡単にウチとソトを飛び越えることができるのだ。また、モンゴル帝国に至っては、境界そのものがなかった、とも書かれている。

国民国家に比べれば、帝国の境界は曖昧なのである。

曖昧さが生む寛容さ

境界が曖昧であるということは、どういうことだろうか。

そこに、寛容さが生まれる、ということだ。

境界が曖昧であるということは、ウチとソトがいくらでも変わりうるということだ。ソトがウチに、ウチがソトになり得る。今日ソトであったものが、明日はウチになるかもしれない。自分がウチにいても、急にソトに放り出されるかもしれない。

そこに存在する人が、そのことを共通了解しているのならば、他者(ソトにいる人)に対して寛容にならざるを得ない。言葉通り、さまざまな事柄が「明日は我が身」なのだ。自は他であり、他は自である。境界が曖昧というのはそういうことだ。

こういう在り方は、ちょっと負荷が高いかもしれない。

それよりも、はっきり線を引いて、俺らはウチ、あいつらはソト。もう入ってくんな。とやってしまったほうが認知的には楽だろう。曖昧な状態というのは、精神的な余裕がないと受け入れられないのだ。冗長性のあるデータは容量が大きい。

しかし、その線引きがいかに残酷で、冷酷で、非情で、非人間的であるかは想像に難くない。そして、それは効率的ですらあるのだ。

人は、誰かを「敵」と認識すれば、__すなわち線を引き、ソトに放り出してしまえば__銃のトリガーを引くことすら許容してしまう。むしろ、それを褒め称えたりもする。

そこまで実際的で決定的な行動でなくても、ウチとソトを線引きして、ソトを攻撃し、ウチの利益を守る(あるいは増やす)ことは日常的に見られる。

それは楽で効率的であり、何かを損なってしまっている。

さいごに

境界が曖昧、ということは、変化の可能性を常にはらんでいるということでもある。

・自分がソトに放り出されること
・ウチに誰かが入ってくること

それを受け入れるだけの想像力があるだろうか。それを想像した上で、何かを発言したり、決定したりするほどの認知リソースを持っているだろうか。

それとも、稚拙な線引きで認知的リソースを省エネしているだけだろうか。

帝国の「あいまい戦略」は、これから必要になってくるかもしれない。

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