私たちは、生命維持のために、毎日食事をし、水分を摂取する。
そして、不必要なものを排出する。
そのサイクルが滞ってしまえば、生命も滞ってしまう。また、過剰な栄養を摂取しすぎるのも問題だ。
たぶん、情報についても同じようなことが言える。
脳が喜ぶ文章
味付けが濃い文章、というものがある。外食的文体と表現してもいいだろう。表現がきつく、感情を強く煽り、もっと読むように私に訴えかけてくる文章だ。
年のせいなのか、私はそういう文体を徐々に受け付けなくなってきている。
脂質と糖質の組み合わせは、人の快感をくすぐる。それは脳に定められた宿命みたいなものだ。そして、言うまでもなく、それらは太りやすい。
嬉しい評価
ブログへの評価で嬉しいものはいくつかあるが、中でも「あの記事、5回読みました」
は飛び抜けている。
あるいは「毎日読んでいます」も相当なものだ。
脂ぎったラーメンを毎日食べることはできないし、一日3食それで済ますのも難しい。
海水の価値
海には水がある。しかし、塩分たっぷりだ。飲み水にすることはできないし、飲んでしまえば余計にのどが渇く。
蒸留。
蒸留が必要だ。時間をかけて、余計なものを飛ばすのだ。
さいごに
「何を読むのか?」「これでしょ!」と即答できるものがあるといいのだが、なかなか難しい。
しかし、時の試練を越えてきた古典作品は、やはりそれなりに価値がある。
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ソーシャル時代のハイブリッド読書術 |
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倉下 忠憲
シーアンドアール研究所 2013-03-26 |
1 thought on “情報摂取・外食的文体・記事への評価 あるいは読書について”