ある日、体調が芳しくないなと思いながらも、コーヒーを啜りながら
「まあ、コーヒー飲めば元気が出るから、まだ大丈夫だろ」
なんて考えた直後、これって危ない思考だな、と感じました。
私の経験上、コーヒーを飲んでも元気が出ないときは、だいたいもう手遅れな状態になっています。手遅れな状態とは、しっかりとした休養が必要な状態です。機械も不具合が蓄積すると、「故障」となって修理センター送りになるように、人間の疲労もそれを越えると簡単には回復しないラインというのがあるのです。
結局その日は通常通りに作業を進めて、その次の日から3日間ぐらいダウンしていました。寝込んでいたというわけではありませんが、作業がまったく手に付きません。脳のどこかがショートしたCPUみたいにう〜んとうなり声を上げてシャットダウンしてしまったかのようです。
うん、全然大丈夫じゃなかったよ。
そこにある「言い訳」
私は、「コーヒーを飲んだら元気が出る」を大丈夫なサインとして捉えていました。確かに、その状態はラインのこちら側にあります。しかし、「コーヒーを飲んでも元気が出ない」状態は、すでにラインの向こう側です。つまり、この指標は危険度を測るものとしては、当てにはなりません。自分以外の人間が解錠したときではなく、中のお金が使い込まれてから警報がなる金庫のようなものです。手遅れ感一杯ですね。
「まあ、コーヒー飲めば元気が出るから、まだ大丈夫だろ」
というのは、危険度の判断ではなく、単にある種の行動を正当化するための「言い訳」のようなものでしかありません。
実際、冷静に観察すれば
「コーヒー飲めば元気がでる。だから今は大丈夫。でも、この先が大丈夫かはわからない」
が本当のところでしょう。で、そもそも「体調が芳しくない」と感じていたのですから、実は結構危ないところに近寄っている実感はあったのです。金庫室に誰かが忍び込んでいる気配はしたのです。しかし、
「仕事をしなければならない」
という使命感(責任感でも可)から、その感覚を却下して、「まだ大丈夫」と思える理由をどこかしらから引っ張ってきたことになります。うん、コーヒー飲めば元気が出るから、まだ大丈夫だろ。と
後付けの「無理」
ある種の行為が「無理している」のかどうかを事前に判断することは、難しいのかもしれません。会社経営でも、設備投資なり新規事業への着手にはリスクが伴います。うまく行けば大きな利益、失敗すれば手痛い赤字。時に赤字が大きすぎて会社そのものをたたまなければいけない事態が起きることもあります。
でも、歴史にIFはありません。うまくいくか、うまくいかないかの二つです。うまくいけば、うまくいかなかった歴史は存在しませんし、その逆もまた然りです。
結果的に、会社が倒産する事態に直面して「あの投資は無理筋だった」ということがわかります。というか、そこで「無理」が確定するのです。逆に、高いリスクでも薄い確率の壁さえ飛び越えられれば「果敢な投資」として周りの経営者なりビジネス雑誌から褒め称えられるでしょう。それがたまたまのことであっても、うまく行きさえすれば、無理ではなくなるのです。
しかしながら、会社は倒産させても、意欲さえあれば再び舞台に戻ることができます。アメリカでは珍しくない話でしょう。
が、人間の体はそうはいきません。致命的に損なわれれば、それはやはり致命的なのです。
さいごに
「大丈夫、自分は無理してない」きっと、若い人だけのセリフではないでしょう。むしろ、若い人はそういう感覚すら湧いてこないのかもしれません。最初の違和感を感じなければ、言い訳を引っ張り出してくる必要すらありません。
こういうセリフが脳の中ににじみ出してきたら、立ち止まって考えたほうがよいのかもしれません。
自分が無理をしているという基準はなんでしょうか。どこからが無理で、どこまでが無理ではないのでしょうか。
「無理」を引き当てるまで、くじを引き続けているだけではありませんか。